風琴亭 3(結び)
その店は、港町から少し丘を登った所にあった。
街からは少し離れてはいるが、大通りから続く坂道にはちゃんと赤い石が敷かれていて、その両側には間を空けながらも、こじんまりとした家が並んでいる。
街へ行くのも、丘の上の別荘地に行くにも丁度いい立地だ。
近隣の農家から届く野菜や果物、そして港から上がった新鮮な魚介などを扱う商店の中で、少しだけ目立つ青い屋根の小さな店。
それが風琴亭。
この街唯一の喫茶室だった。
女主人はまだ若い女で、一年ほど前にふらりと街にやってきた。
この街が気に入ったらしく、宿に泊まってあちこちうろうろしていたが、やがて空き家を手に入れ、自分で改装を始めた。
華奢な癖に力仕事も厭わず、せっせと板を切ったり、ペンキを塗る姿が珍しく、何をするつもりなのかと足を止めて尋ねた近所の人たちに、愛想よく喫茶室を始めたいと答える。
喫茶室とは何かと目を丸くする人々に、彼女は、自分の淹れた茶や菓子等を振舞い、仕事の休憩や休日等に気の置けない友人や家族と、お茶を飲んで話をする場所だと女は答えた。
どうやら、その様子からして彼女は都からやって来たらしい。
都とは珍しいものが一杯ある所だから。
普通なら怪しまれるところだが、女はいつもよく働き、老人や子ども達にも優しかったため、ぼちぼちと大工仕事の手伝いをする者が出始め、女がやってきて約一月でこの街初めての喫茶室は出来上がった。
女が掲げた手作りの看板には「風琴亭」と、素朴な文字で書かれている。
その名の通り、ホールの隅には古ぼけた風琴が置かれていた。
これも、ほとんどの者が初めて目にするものである。
何々と好奇心を見せる子ども達に、女はよく知られた曲を弾いて聴かせたので、みんな喜び、ますます人々が集まった。
給されるのは幾種類かのお茶と、卵とバターをたっぷり使った美味しい手作りの菓子やパン。
そして女主人のはにかんだ笑顔だった。
街からも、別荘地からも歩いて行けると言う立地もあり、風琴亭は少しずつ人々が集まる場所になっていった。
その朝は夜半に降った雨がきれいに上がり、海風が丘を駆け昇るさわやかな朝だった。
晩春の雨の季節も、どうやら終わったと思わせる澄み切った空気。
青い空の下に更に青い海がきらきらと輝いている。
港町から延びる白い道を一人の男が歩いていた。
いや、歩いていたと言うよりはほとんど駆けていると言ってもいい。
もうずいぶんと駆けどおしらしく、息は切れ、汗が首を伝い落ちていた。上品な身なりの割に、随分な有様だったが、男は構わずに坂道を登ってゆく。
もうすぐだ、もうすぐ──。
サーヴェルは流れる汗を拭いもせずに、急な道を急いだ。
夜行列車でこの街に着いたのは昨夜遅く。ホテルに荷物を預けただけで、まんじりともせずに夜が明けるのを待った。
貸し馬車屋が開くのすら待てずに、聞いて来た高台への一本道へ向かう。
あまりに呆気なく、彼の元を去って行った小鳥。
歌いもせず、囀さえずる事すらしないゆえにその価値を知らずにいた。
彼女はいつも静かに彼を見て、その望みに応えてくれていたのに。
甘えきっていることに気がつかなかった。
感情を殺した静かな顔を、僅かでも揺らがせるのは自分だけだと自惚れて。
初めて抱いた夜こそ、涙を流していたが、その後はゆっくり彼の腕の中で女になっていった。
激しい行為に堪えかね、唇を噛み、愉悦を逃がすように細い首を振る。刹那の行為に夢中になったのは、果たしてどちらだったのか。
そして餌を与える様に優しく抱いた後は、わざと冷たくあしらい、唇の端が歪むのを見ては愉しんだ。
妻を娶る事ををわざわざ伝えたのも、打ちひしがれる姿を見たかったからだ。それがどんなに惨めなプライドだとも知らずに。
なのに彼女は鮮やかに身を引いた。
そしてやっとサーヴェルは気がついたのだ。
捨てられたのは、自分の方だと言う事に。
二年の月日は長いとは言えない。
だが、馬鹿な男を忘れ去るには十分な年月だ。
どうか間に合え!
リオネ、お前の心に他の男を住まわさないでいてくれ……!
サーヴェルは、やがて遠くに見えてきた青い屋根に向かって強く願った。
リオネの朝は早い。
井戸水を組んで、昨夜の内に作っておいたパン種を色々な形にする事から一日が始まる。
普通は丸いパンが定番だが、ミルクを練り込んだものは女性に大変好評だ。
子ども達のために動物をかたどったものは、仕上げに砂糖衣と干した果物で飾る事にしている。
後ろで緩く編んだ髪は手布で覆い、捲り上げた白いシャツの袖から伸びた腕は、既に粉だらけだ。慣れた仕事に楽しそうに生地を分けてゆく。
開け放した窓からは風が入ってきた。
厨房の窓は斜面に面しているので、海は右手の奥に見える。
潮の香りは、どうかするとこんな丘の中腹にまで流れてきて、リオネを少しだけ悲しくさせた。
晴れた海の青。明るくて深くてどこまでも澄んで。
あの──あの方の……。
あの港からやって来てもう、一年と半年になろうとしている。
リオネは頭を振った。
何をぼんやりしてるの?
今日もいい天気になりそうだから、早いところ片づけてしまわなくっちゃ!
一通りパンが仕上がると、午前の分を竈に入れた。
焼き立てを食べにくる別荘の客も最近増えている。次はパンケーキである。これは種を作っておくだけで、注文がきてから焼き上げるのだ。
後は午後に作る予定の菓子の材料を確認する。
しぼりたてのミルクはもうすぐ届く筈だし、お茶も全種類が揃っていた。
朝の仕事に満足して、リオネは一人で微笑んだ。
人づき合いの下手な自分だったが、今では何とか街の人とうまくやれている。
別荘からのお客は上流の人達が多かったが、以前の屋敷勤めで教えられた作法が役に立ち、穏やかに応対する事が出来ている。
いろんな事があったが、やはり過去あっての自分なのだ。今ではそう思えるリオネである。
「……今日は卵もつけてみようかな?」
そうリオネが一人ごちた時、カランとベルが鳴り、扉が開いた。
奥の厨房からでも人が来た事がわかるように、牛に使うベルを取り付けてあるのだ。
ハイネルさんがもうミルクを持って来て下さったのかしら?
だが、それにしては荷馬車の音がしなかった。
近隣の者なら開店時間を知っている筈だから、こんな時間には来ない。
てっきり上の別荘の客だろう。
リオネは粉だらけの両手をさっと払うと、髪を包んでいた布を取って店に顔を出した。
「すみませんお客さん、もう少し待って貰えま……」
明るい店内の真ん中に、不釣り合いな黒い服を纏った長身の男が立っていた。
やつれた額は汗にまみれ、肩で息をしながら絹のクラバットを乱して。
その瞬間、明るい喫茶室の中の空気がぴたりと凪いだ。
「旦那様……」
リオネの体が後ろに傾ぐ。
「リオネ」
サーヴェルトは掠れた声で呟くと、二歩で彼女の傍までやってきた。
「……リオネ」
無意識に下がろうとする体が強い力で引き戻された。
リオネには何が起きたのかわからない。何もしていないのに体が前に倒れて、動けなくなった。
おまけに視界までも塞がれている。
「リオネ……リオネ……」
耳元で紡がれる名は確かに自分のものだ。この声にも覚えはある。
だが、こんな事はあり得ない。これは夢なのだ。
潮の香りが誘うほんの刹那の夢。
だが、次第に苦しくなる胸が意識を現実に引き戻す。
あまりに強く拘束されているために、却ってこれが夢ではないとわかってきた。
「旦那様……」
「許してくれ……俺を救ってくれ……リオネ」
記憶にあるより、ずっと弱々しい声が彼女の名を繰り返す。
「あ……の?」
「何でもする。だから、俺の元へ帰って……」
ようやく身を引き剥がした男は、未だに言語能力を回復できないリオネの頬を包み込んで言った。
息が唇に掛かるほど顔が近い。
「……」
「リオネ」
声は囁くように低くなった。
「……ですが、奥……」
サーヴェルには妻がいる筈だった。
三年前に娶った妻が。自分がいては迷惑が掛かってしまうのではないのか。
だからリオネは屋敷を出たのに。しかし、サ―ヴェルは彼女の心の内を悟ったかのように言葉を奪ってしまった。
「二月と保たなかった」
「え?」
言葉が省略されすぎて理解が追いつかない。
「つまり……妻にした女を、俺は抱けなかったんだ。美貌と家柄だけが取り柄のつまらぬ女で、耳障りな声で四六時中喋っていた。最後には俺の部屋に入られる事さえ煩わしかった。そこはお前がいた場所だったから。適当にあしらっている内に彼女は怒って屋敷を出ていった。結婚して二月後の事だ。あたりまえだ。俺はひどい夫で、クズな男だった」
「……」
「お陰で伯父上の不興を買い、皇太子殿下にもお咎めの言葉を頂いた。笑ってくれ。お前といた頃は散々浮名を流していた俺が、お前が姿を消した瞬間、女に興味を持てなくなった。仕事にも以前ほど身が入らなくなった。……お前が出て行ってしまってから俺は空っぽになってしまった」
「旦那様……」
「身勝手な俺はあの日、もしお前が縋ってくれたら、外に囲ってもいいとさえ思っていた。なのにお前は、理不尽な仕打ちをあっさり受け入れ、行き先も告げずに屋敷からいなくなった。俺が馬鹿だったから捨てられた」
サーヴェルの目に苦渋の色が濃い。
リオネが店の瓦の色に選んだのと同じ青い色が、暗く色を落としている。
「いなくなって初めて自分の気持ちに気がついた。お前がかけがえのない存在だった事に」
「私は……」
「この二年間、お前を探して探して探し続けて、王宮勤めも辞めた。この先の別荘に保養に来ていた知り合いから見せられた写真に、お前が映っていなければ、今も探し続けていただろう」
そう言ってサーヴェルは、上着の内から一枚の写真を取りだした。
そこには風琴亭の店の前で人、の良さそうな中年夫婦と笑う自分の姿が映っていた。
「この方達は、一月ほど前にお出でになった……」
別荘に滞在中、足繁くこの店に通い、リオネの差し出すお茶と菓子をいたく気に入ってくれた人たちだった。是非にと頼まれて、写真屋まで連れて来たものだから、断り切れずに一緒に撮ってもらったものだ。
「知り合いとも言えぬ知合いなのだがな。友人の家で偶然目にしたんだ……あの時の驚きは生涯忘れない」
「旦那様……」
「リオネ、さぞ俺を怨んでいるだろうが、どうか許してはくれまいか」
「そんな……旦那様を怨んだ事等、ありません」
余りに顔の距離が近い事に戸惑って、リオネは何とか体を離そうと腕を突っぱねながら言った。
正直な気持ちだった。
「もう誰かいるのか。それならそうと言ってくれ。俺はすぐに帰る。顔を見て詫びられたことだけに満足する」
絞り出すような声だった。
「……」
「いないのか?」
「いません」
以前の整った美貌、今はやつれて切羽詰まった顔が、安堵で歪む
「卑劣な俺は、情けないがお前の優しさに縋るしかない……俺の傍に来てほしい……」
サーヴェルはずるずると床に膝をつきながら、リオネの両手に顔を埋めた。
「どうか……頼む」
「……」
主が自分に縋りついている。
未だかつて想像した事も無い金色のつむじを、自分が見下ろしているのだ。脳が沸いても不思議ではない。
「お前でなければダメなんだ……」
取り縋る男は、彼女の知る自信に満ちた怜悧な男ではなかった。
骨格だけがそのままに、あの頃よりかなり痩せて、リオネが見蕩れた金髪も艶を無くしている。
「だ、旦那様……いけません。私のようなものにっ!」
リオネは膝を床に落とし、何とかサーヴェルの視線を上げようと試みた。こんな事は間違っている。
あの誇り高い主が自分に跪くなど。
「リオネ……お前は何も恥じる事は無い。俺が下司なんだ。だが、もう間違わない。家督も捨てていい……だから」
サーヴェルは顔を上げた。
「愛している。リオネ、どうか共に生きてください」
美しい青い目。
この店の屋根に決めた色、そして窓から見える海の色。
この二年間リオネが忘れた事の無いその輝きが今、自分にだけ向けられている。
「俺を生かして……」
ああ、青が溢れてくる。
リオネは腕を伸ばし、薄く粉の残る指先でそれを受け止めた。
潮風が風琴亭を吹き抜けてゆく。
色々すっ飛ばし。
修正しながらちょっとこいつクソすぎるわ、と思いました。袖にされても文句はいえん。
リオネにはこの2年で言いよる男がいっぱいいたと思われ。
昔の文章はこれでもかと言うほど長く、読点がありません。
直しましたが、読みにくい箇所があればご指摘ください。




