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風琴亭 1

風琴とは、オルガンのことです。


それにしても、私のヒロイン「ラ行」が多いなぁ。

「ラ行」以外あるかな?


「来たか、リオネ」

 静かに扉の開く気配に男は顔を上げた。

 落ちついたしつらいの書斎には、上品な調度が具合よく置かれている。

 大きな執務机には書類が無造作に並べられていたが、男は今しがたそれに署名をしたようで、インクが擦れないよう横へ紙を滑らせた。

「お呼びでしょうか」

 リオネと呼ばれた召使いの女は、型どおりに小腰を屈めた。

「ふん……今日、伯父上に呼び出されてな。今更と言うべきか、性懲りもなくと言うべきか、ともかく俺の婚約が整ったらしい」

 サーヴェルが面倒くさそうに告げるのを、リオネは静かに受け止めていた。

 少なくとも水のような(おもて)には、何の感情の波も現れてはいない。

 よく躾けられた召使の控えめな柔かさ。気持ちの揺れを隠す事は、日常だった。しかし、心の中まで凪いでいる訳ではない。

 リオネは主に伝わらぬように、絨毯に織られた模様を見つめて瞬きをした。

 いつか、こう言う日が来るのは、わかっていた。

 身寄りのないの召使い女が、このようなお屋敷勤めができるだけでも、身に余る栄誉なのに、この一年余りもったいなくも、当主の情けをかけてもらえたのだ。

 例え、退屈しのぎの気まぐれだと分かっていても、自分の様な卑しいつまらぬ女に、それは名誉な事だと、リオネは心から思っている。

 これ以上を望むのは分不相応だし、元より望んだ事も無かった。

「おめでとうございます。旦那様」

 震えもしない自分の声が、他人のものように聞こえた。

 教えられた通り、優雅な所作で礼をするのも忘れない。

「ああ。……そう言う事で、お前には悪いが、この屋敷から暇を出す事になる。婚約者はまだ会わぬが、この家に相応しい家柄の令嬢だそうだ。来週が初顔合わせとなる。まぁ茶番劇だな」

「……」

「だが、鉄道会社総帥たる叔父に後継と指名された俺に、この話を断る理由はない。婚儀は二月後だが、令嬢には当家のしきたりに馴染んでもらうため、一月後に監督官と供に、こちらにやって来る事になっている」

「はい」

「つまり、お前がいては何かと都合が悪い。花嫁と情婦が同じ家にいるのは、さすがに拙いだろうからな。次の奉公先は用意しておく。無論紹介状もだ。これまで良く勤めてくれた。世話になったと言っておこう」

 そう言ってサーヴェルは、執務机の中から重そうな緞子(しゅす)の袋を取り出し、リオネに差し出した。

「報酬だ」

「……」

「何をしている。受け取れ。さぁ」

「……は、はい」

 暫く躊躇(ちゅうちょ)していたリオネだったが、再度命じられておずおずと両手を差し出した。

 命ぜられる事には慣れている。

 小さな手に乗せられたきれいな小袋はずっしりと重い。中身はおそらく金貨だろう。

 一枚あれば、大人がほぼ一年は暮らせる。

「正直、お前とは肌の相性がいいから手放すのは惜しいが、それも止むを得ん。今月一杯をめどに荷物をまとめるように。」

「……承知致しました。お心遣い感謝いたします」

 リオネは重い小袋を捧げ持ったまま主に応じ、これで用向きは終わりだろうとゆっくりと下がろうとした。

 が、不意に呼びとめらる。

「待て」

 お仕着せの下の、薄い肩がぎくりと強張る。

「……何でございましょう?」

 恐る恐る振り返ったリオネは、珍しく眉を歪めた主人を見た。

「……まさかとは思うが、その胎に俺の子が宿っていたりはすまいな? もしそうならば言うがいい……子の事は考えてやる」

「そのような事はございません」

 僅かに不安を滲ませた問いにきっぱりと答える事で、リオネはサーヴェルの疑念を払拭する。

「そ……うか。ならば良い」

「御配慮、ありがとうございます。では、下がらせていただきます」

 リオネは再び丁寧に頭を下げた。

「……おい」

「はい、旦那様」

 まだ何かあるのだろうか?

 主に二度も呼び戻されるなど、初めての事だ。扉の前でリオネが顔を上げると、奇妙な表情のサーヴェルと目が合った。

「それだけか?」

「は?」

「俺はそれなりに、お前を可愛がってやったように思っていたが。それにしては随分あっさりした態度だな」

「……申し訳ありませぬ。今まで一方ならぬお世話になり、旦那さまには心から感謝を致しております。このご恩は一生忘れませぬ。どうか奥方様とお幸せになってくださいませ」

 ほんの少しだけ慌てた様子を取り繕ってリオネは詫びた。

 言葉遣いはおっとりと、儀礼以上の揺らぎの見せない態度も、この屋敷に来てから習い覚えた。

 よくしつけられた召使なら、誰でもそうするものだ。リオネは出来るだけ(かしこ)まって見えるように深礼をする。

 ひっ詰めた黒い髷までも主に見えるように。

「ふん……どこまでも可愛げのない女だ、お前は」

 頭の上に、うんざりしたような声が投げつけられた。

「申し訳ございません。では、失礼致します、旦那様」

 リオネは静かに扉を閉ざした。

 部屋に戻ったリオネは、閉めた扉に寄り掛かってやっと立っていた。

 みすぼらしい部屋をぼんやりと眺める。

 古い床は(ゆが)んで、でこぼこだ。

 この屋敷に来て三年経ったが、彼女の持ち物は殆ど増えていない。

 身の回りの品々と、僅かな私物の入った行李(こうり)。私服など、今来ているお仕着せの仕事着の方が立派な程だ。

 後は本が数冊。それが彼女の持ち物の全てだった。

 今日の仕事はもういいと言ってもらったから、リオネはゆっくりお仕着せを脱いで畳んだ。

 髪を解くと、屋敷に来てから切った事の無いそれは、結い癖を残しながらさらりと背中に流れる。

 これでいいのだ。

 拾われてこの屋敷に来てから、少なくとも食べる所と寝る所に困る事は、なくなった。寒い夜に手風琴を抱えながら街頭に立つことも。

 使用人達は彼女より年上の者が多かったから、苛められる事はなかったし、礼儀作法や立ち居振る舞いを教えて貰えた。

 皆いい人ばかりだった。

 だから親しいと言える人間関係が築けなかったのは、ひとえに自分が悪かったからなのだ。

 壁に掛けられたひびの入った鏡に向かうと、青白い顔の痩せた陰気な女が映る。

 目も髪も真っ黒で、その所為で血色の悪さがやけに目立つ。

 小さい顔の中の大きすぎる目は何時も不安に揺れて、人と視線がぶつかるのを避けていた。

 確かにつまらない女だ。

 あの美しい主がよくこんな女を自室に招いたものだ。無論気まぐれで、だからこそさっさと捨てられるのであるが。

 最初は恐ろしくて堪らなかった閨の行為だったが、熱く逞しい腕に抱きしめられる内に、いつしか喜びへと変わっていくのをリオネは自覚していた。

 主に呼ばれた時は、決まって湯を使い、洗いたての寝巻にショールを羽織って、夜の廊下をひっそりと歩いた。

 急かすように寝台に引き入れられると、直ぐに着物が剥がれる。

 そして耳元で自分の名を(ささ)かれながら、大きくて熱い掌が肌をなぞってゆく。

 そうされるのが嬉しかった。

 温もりを感じられるのはその時だけだったから。大事にされているという錯覚すら抱いた程に。

 普段のサーヴェルは冷ややかで、用を言いつける以外は、ほとんど話しかけたりはしない。

 彼にとって、彼女はいないも同然だった。

 茶の支度をさせておいて、その横で女性客と(たわむ)れ出した事も幾度かある。

 そんな風に扱われてはいても、リオネにとって主は感謝と憧憬の的であり、そして、雛鳥が親鳥を慕うように目が離せなかった。

 彼がこちらを向いていない時だけの、切ない後追い。

 だが、その気持ちを表に出した事は一度もない。彼女は命じられて従うだけの立場だったから。

 一生隠し通せると思っていたが、奥方を迎えることが決まった以上、ここにいる事はよくないのだ。

 リオネにはサーヴェルの言った事を完全に理解できた。

 戯れに情けを掛けた女が、女主のいる屋敷をうろついていては気分が悪いだろう。

 おしまいなのよ、お馬鹿さんのリオネ。

 あの方はご自分に相応しい女の方と幸せにならなければならない。

 わかっていた事でしょう?

 なのに──。

 ああ、なぜ?


 大きな瞳から涙が盛り上がって零れた。

 なぜ泣くの?

 泣いてはダメ、あの方に分かってしまう。

 今までだって泣かないでいられたじゃないの。

 ぽろぽろぽろと幾粒かの透明な雫が頬を伝って流れた後、リオネは顎をあげて自分を覗きこんだ。

 ……ああ、旦那様。

 好きでした。大好きでした。ここに居られて私は幸せでございました。

 そっと鏡に手を伸ばし、映った自分の頬に触れてみる。こんな風に自分からサーヴェルに触れてみたかった。

「サーヴェル様」

 決して呼ぶ事のなかった主の名をリオネは声に出して呟いた。

 それで心が決まる。

 さぁ、やり直しよ。

 泣いてる場合じゃないわ、リオネ。

 これからは一人で歩いてゆくの。


 リオネは零れきれなかった涙の残る瞳で、鏡の中の自分に向かって微笑んだ。




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