月光と湖の狭間
「待て!」
エデュアルトは、湖の手前でようやく走り去る影を捉えた。
夜はまだ浅いが、木立に囲まれた森の道はすっかり暗く、古木の梢を縫って下生えを照らす月光だけが帯のように明るい。
空気は冷たく、昼過ぎに降った雨の湿り気が、大気の中に細かい粒子となって漂っている。
そして森の向こうの丘の上には醜悪な影を晒しながら、古い邸宅が闇を背景に蟠っていた。
「どういうつもりだ!」
怒りに任せてエデュアルトは、捕まえた少女の肩を力任せに掴むと、強引に自分へと向き直らせた。
華奢な体で抗えるはずもなく、少女の体は操り人形のように彼の言いなりになってしまう。
「ユーリエ! 答えろ!」
「……」
ユーリエと呼ばれた娘の真上から透明な光の帯が射しかかり、ただでさえ色みのない体が一層白く浮き上がった。
我知らず、エデュアルトは怯んでいる。
「……なぜ逃げ出したりた? 皆驚いていた……ぞ」
男の語尾は急に弱くなったが、少女は応えない。
薄い色の瞳が大きく見開かれ、彼を見つめるだけである。
真に空虚な凝視は、時として人を竦ませるものである。
それが人ならぬ美貌の主から放たれる物だとすれば、なおさら。
「……ユーリエ?」
「いらない」
たっぷりした沈黙の後、少女は漸くぽつりと漏らした。
漏らすと同時に細い眉が険しくしかめられ、涙の粒が滲んだ。
「何?」
「いらない……わたし、おかね……いらない」
ユーリエは手首を掴まれたまま、いやいやをするように首を振った。
弾かれた涙が月光を吸って散る。
「提示された額では不足だというのか?」
エデュアルトの声が再び厳しくなった。
「だから、皆の前で書類を破り捨てたのか。あんなみっともないまねをして……お前の評判がどれほど悪いか、知らない訳はないだろう? それとも、そのくらいの常識もないのか」
「いらない。いらない」
ユーリエは頑なに繰り返すばかりである。
これほど美しい娘でありながら、纏っているのは男物のシャツと下衣。
どちらも彼女が好む白で、飾り気のないラインが、薄い色素しか持たぬ娘を際立たせている。
「いらない? 死んだ大ラザルスはお前の実の父親なのだぞ! 長いこと、世間から隠されてきたお前に信託財産として、不相応なほどの遺産が残された。委託者は俺ではないがな!」
苦々しくエデュアルトは怒鳴った。
半年前、突然現れた法律上の妹は、いつも彼に困惑させてばかりだ。
「……おかね……いらない。あげる。ぜんぶエデュアルトにあげる」
「何だって? 何を言っている! 俺は施しなど受けるつもりはない! 俺にだってお前の身柄を引き受けると言う条件で、委託されたものもある。それに、俺はただの養子に過ぎん。お前がラザルスの実子である事は、DNA検査でも証明されているんだ。欲の塊の遠縁どもに構わず、当然の権利として貰っておけばいい。お前が働いて身を養えるとはとても思えんし」
エデュアルトは人形のような少女を苦々しく見つめた。
変わり者で業突く張りで有名だった富豪のラザルスは、生涯独身を貫いた偏屈もので、奇行の持ち主としても有名だった。
彼は、十五年前、旅行先で拾ってきた十四歳のエデュアルトを養子にし、世間を驚かせた。
ラザルスは、どうしようもない不良であったエデュアルドを気にいり、彼独特のやり方で商売や取引の方法、更にはもっと後ろ暗い知識を教え込んだ。
そして半年前に突然死んだ。
不可解な遺言状を残して。
彼は専任の弁護士とエデュアルドに、死後の一切を託し、彼自身は財産については一言も言及しなかった。
そして、彼の書状の指示通り動いたエデュアルドが、十七歳になるユーリエを発見したのは、僅かに三月前。
ラザルスの財産分与を当てにし、屋敷に居座っていたしていた親戚たちは上を下への大騒ぎになった。
おまけに屋敷に連れてこられた娘、ユーリエはまったく不可思議な娘であった。
妖精のような美貌もそうだが、何を話しかけても殆ど答えず、表情すらめったに動かないので、初めは知能に遅れがあるのではないかと思われたくらいだ。
中には公然と白痴美だ! と言い捨てるものさえいた。
無論死んだ富豪の実子かどうかを疑う物も多く、彼女の後見人の弁護士の許可を得て、遺伝子の検査を行ったくらいなのだ。
ともかく余りにも突拍子もない話であったので、エデュアルト自身も書類上は妹となるこの娘にどう接したらいいのか、実のところ今でも非常に戸惑っている。
弁護士によると、彼女は世間から秘匿され、特殊な環境で育てられたと言う。
しかし、対人関係に問題はあるものの知的な障害はなく、専門家によると、むしろ知能は人よりも高いのでは? と言う話であった。
しかし今、頑なに財産分与を拒否するその様子は、どこか危なっかしく、そして大変奇妙だ。
「金はお前を助けるものだ。あって邪魔になるものではないだろう」
「いらない、いらない!」
ユーリエは泣きながら激しく首を振った。
知的障害を疑われるほど普段虚ろな娘の激高は、痛々しさもさることながら、不思議な色気が匂い立つ。それは、エデュアルトを酷く戸惑わせた。
「泣くんじゃない!」
自分の中に湧き上がる奇妙な感情を振り払うように、エデュアルドはユーリエの両腕を乱暴に掴んだ。
驚いて目を見張るガラス玉の瞳から、新たな涙が溢れて白い頬を伝い落ち、ミルクを入れすぎた紅茶のような髪が闇の中に白くうねった。
「では聞くが、お前は何が望みなんだ!」
「……」
透明な膜を張ったような瞳に自分が映っている。
「言え! 何でも聞いてやる」
吸いこまれそうな錯覚を振り切るため、エデュアルドは声を荒げた。
「……あなたのそばにいたい」
「な……に?」
「すき」
そういうと、ユーリエは目を開け、エデュアルドをひたと見据えた。
「すき」
「馬鹿な……」
「あなたがすき」
ユーリエは、その言葉しか知らない愚か者のように、好きと繰り返した。
そしてゆっくりと濡れた睫毛を閉じ、爪先立ちになると、腕を伸ばしてエデュアルトの頬を両手で包んだ。少し開いた唇から吐息が漏れる。
その瞬間、エデュアルトの頭から厳しかった養父のことも、有能で美しい婚約者のことも頭から消えた。
──だめだ……囚われてしまう……この妖精に……ああ。
気がついたときには激しく唇を奪っていた。
柔らかなそれを思う存分吸い上げると、ぐいと割って侵入する。折れそうな背中に腕を回し、後頭を抱え込むと、荒々しく熱く濡れた中を蹂躙した。
「あ……」
僅かに浮かせた唇の間を銀の糸が繋ぐ。
再び覆い被せると、堪えかねたように少女の膝が崩れそうになる。
それを無理に立たせ傍の古木に押しつけ、幹と自分の体で挟んだ。
唇を貪りつつ己の欲を擦りつける。それだけでどうにかなりそうな感覚が彼を飲み込んだ。じっとしていると体に火がついて燃え上がっててしまいそうだ。
三十年生きてきて、女など知り尽くしていると言うのに、こんな感覚は初めてだった。
「君が誘ったんだ」
それがどんなに卑怯な言葉か、充分承知しながらエデュアルドは言った。
震える体を素早く抱え上げる。
森の奥に横たわる湖。
鏡のような湖面に、変人のラザルスが建てた、魚釣り用のコテージが大きく張り出している。
水面は月光をひたとも揺らさずに凪いでいた。
僅かの距離ももどかしく、エデュアルトはユーリエを抱いたまま、細い桟橋を渡った。
鍵の場所は知っている。
三番目の羽目板の下が隠し場所。暗闇の中で探るとすぐに指に冷たく当たる感触があった。
一旦ユーリエを下ろしたが、鍵を開ける間も惜しんで腕の中に閉じ込めている。
カチリと音がして鍵が開いた。カーテンを引いたコテージの中の方が暗い。
だが、構わなかった。
すぐに抱きしめて口づける。ユーリエは少しも逆らわなかった。
もつれ合いながら二人して粗末な寝台に倒れこむと、その後はお互いの肌を重ね合わせることしか考えられなかった。
少女の体を組み敷き、揺さぶる男の影。
帳の隙間から忍び込んだ光が、汗で濡れる背中を照らす。
「すまない……」
嵐のようなひと時の後、少女に服を着せかけながらエデュアルトはつぶやいた。
ボタンがいくつか引きちぎられている。こんなユーリエを他の者に晒す訳にはいかない。
誰にも見せたくはない。
「歩けないだろう。おぶって行こう。皆も帰ってこない俺たちを探しているかもしれない」
「あなた一人で帰ればいい。わたしはここにいる。明日の朝戻る」
ユーリエは俯いたまま言った。
全て自分一人で背負いこもうと言うのだろう。彼を責める言葉も態度もない。
「ユーリエ……」
エデュアルトは、先ほど容赦なく責め立てた体を起こしてやる。
しかし、もう夢のような時は過ぎていた。
狂おしい時が過ぎ去ると、後悔が波のように押し寄せる。自分勝手な愉悦の後の重苦しい現実。
それは厳しい頸木となって、エデュアルトを苦しめた。
「俺は……」
「わたしはだいじょうぶ。そばにいられるだけでいい……お兄さま」
見えているのか、いないのかと思っていた、薄すぎる瞳の色。
しかし今、そこには初めてと言ってもいい、ユーリエの確かな意思が秘められていた。
「すき……」
心を抉る甘い言葉。
しかし未来を語る応えを、その時のエデュアルトは持たなかった。
これはこれで終わりなのです。
珍しく切ない中途半端な終わり方で、申し訳ありません。
きっとエデュアルドは、なんとか世間を誤魔化して、ユーリエを囲うと思います。
ハッピーエンド詐欺と言わないで!




