強張らない大きな手
氷菓子を食べ終えて、また少し眠っていたらしい。
まだ軋む体と熱い吐息、脈打つような頭痛に苛まれていたルウィエラはふと目が覚める。目の前には先程の姿と同じ姿勢でセルがいた。そして紙を捲る音はしない。
少し見上げて時計を見ると、日付が変わり夜中を回っていた。そしてもう一度セルを見ると腕を組んだまま動いていない。
(まさか――――その体勢で眠っているの?)
ルウィエラは体調が思わしくないとはいえ、横にならせてもらっているのに対し、ここの主は何も掛けずに座らせたままの状態という事実にルウィエラは目が冴えた。
思わず直ぐ側にあるセルのシャツを少しだけ引っ張ると、少し下を向いていたセルの首がゆっくり上がり目が開く。
(――――っ)
開いた暗黒色のような紫色を放つその瞳は、凍えるように冷たく酷薄で、あまりに無機質な眼差しで何を考え―――、いや何も考えていないような空恐ろしいものに感じ、ルウィエラは息を呑む。でもそれ以上に――――――
(なんて――――――――なんてやるせなくて、昏い眼差しをするの……?)
その眼差しを見て一瞬手を放しかけたシャツをルウィエラは意を決してもう少しくいと引っ張る。
それに僅かに反応して見下された視線のなんて美しく鋭くて恐ろしいものか。
「セルさん―――私は、大丈夫なので、お部屋で休んで、下さい。」
掠れた声だが、なるべく息を整えてから話すと、セルは掴んでいる手の位置から視線を動かしてルウィエラの目に標準を合わせた。
そして一度瞬きをしたその瞳は、先程の無機質な眼差しではなくなっていた。そして何の躊躇もなくルウィエラの頭をさりさりと撫でる。
「どうした?まだ熱いし目元が潤んでいる。」
「――でもセルさんがずっと…そのままの、状態、なのは…」
「構わん。」
「私、が気になっ、てしまいます。」
セルの手が一瞬止まる。が、すぐ再開して頭を撫でた手は背中をぽんぽんとしてくれながら、「元より数日寝なくても問題ない」というのだ。
昔読んだ本にも人外者は人間と違って、毎日睡眠を絶対に必要とはしないようなことは書いてあったような気がしなくもない。でも目を瞑って動いていなかったなら多少なりとも休息を必要としているのではないだろうか。
何より起きた時のあの眼差しは、意識が一度リセットされているような気がしたからだ。
かといって、はいそうですかと眠りにつく程厚顔にはなれないし、眠れる状態ならば少しでも眠った方がいいと思うルウィエラの考えは人外者からしたら間違っているのかもしれない。
せめて何とかそれだけでも伝えられるだろうかとルウィエラはふうふうする息を再度整えて説得を試みる。
「ですが、目を瞑って、動かなかったと、いう、ことは多少なりとも…疲れてい、るのかも、しれません。―――なのに、そのままの状態は―――私が気になって眠れなく、なってしまうので、お部屋に戻って、ゆっくり寝て下さい。」
「一人にはできん。」
即座にそう返されて、それならばと回らない頭を駆使して妥協案を出してみる。
「それなら、人間、と人外者も…?お作法…に反するのかも、しれませんが、私が奥に、ずれる、ので体を横に、して、休めて下さい。―――私は端っこ、にしか居られ、ないので、真ん中に、くることはありませんから。」
そう言ってなんとか体を後ろにずりずり動かそうとすると、背中に触れていた手に阻まれる。
見上げると、先程の無機質な視線ではなくなった紫と漆黒の美しく煌めく瞳が何か思案するようにルウィエラを見据える。
「―――俺が横にならないと、エルは気になって眠れなくなるか?」
「…気付いて、しまいましたので」
「そうか。」
セルは一度立ち上がり、ルウィエラが居る場所を超えて反対のベッドの真ん中より端寄りに移動してごろんと両手を頭の後ろに組んで仰向けになった。
「お前は何時もそちら向きで寝ていたのだろう。これなら構わないか。」
「―――――はい。…でも掛ける布と――」
「要らん。魔術で調整できるし元より大して寒くない。寝ろ。」
その言葉と同時に、セルは目を閉じた。艷やかな紫がかったシルバーブロンドが真っ白シーツに広がり、さらさらと彩る。
ルウィエラは同じ寝台で寝るという無作法を提案したことで、てっきりセルは部屋を出ていくと思っていたので一緒に寝るという選択をとったことに驚いていた。
(私は――――抵抗、はなさそう―――、セルさんは大丈夫なのかな)
先程より薄暗くなっている室内の灯りに今更ながら気付く。本当にこのまま眠るのだろうかときょろきょろとしていると、寝ろともう一度言われ、既に目を瞑っているセルを見てから、ふかふかの枕に頭を落とした。
後ろの位置に誰かがいることで、逆に眠れなくなるのではと懸念していたルウィエラだが、セルが横になったということに安心したのかすとんと眠りに落ちたのであった。
――――される…
―――――苦しくて血の気が引く…
意識が微かに浮上していき、もうこんなことは無いのだと、終わったのだと頭は理解しているのだが、ぞわぞわと湧き上がりそうな悍ましさに、体が不調とはいえ嫌な夢が多過ぎると文句を言いたくなる。
辛い…もう――――治まって―――
―――――――吸収をもう…―――もう止めて……!!
目がカッと見開き、がばっと体が反応して起き上がる。
真っ直ぐに保てない体がぐらぐらと揺れるのを構わずにベッドから足を下ろしてすぐに体を動かせるようにと必死になる。
その時、するっと後ろから何かが伸びてきて、腰に回り寄せられる。
びくっと反応して本能的に逃げようと体を捻ろうとした時、すぐ後ろから眠そうで掠れた低い声が耳朶に届く。
「問題ない。ここは安全だ。」
そしてそのままぽすんと横にさせられて頭を撫でられ、また布団を巻き込んだ腰に戻した。
ルウィエラは現状を思い出すまで時間を要し、漸く先程のやり取りの記憶が戻ってきた。
久しぶりの不調だからなのか理由は分からないが、今夜はこんな夢が随分と多いとうんざりしながらもふと触れた腰に回る手を見つめる。
ルウィエラの倍近くありそうな大きさで関節が太くて長い指をしている男性の手。
その手が持ち上げられ額と目元を覆う。
「まだ熱い。安心して寝ろ。」
ぶっきらぼうな言い方だが宥める声色はとても優しい。
こんな声を出すなんて思わなかった。
そしてふわっと後ろから漂ってくる匂いが心地良い。
すぐ後ろセルの気配がある。体同士がくっついているわけではないが、すぐ傍にいる。すぐ近くに誰かがいる気配と触れている部分に自分が体が強張っていないことに今更気付く。
腰に回されていた手も。
額を覆ってくれている手も。
すぐ後ろにいるセル自身も。
思えばセルが手を伸ばしたどれもが、体が無意識に反応して強張ったりしていなかった。
何故だろう。
もう―――――魔絆砕きをして――――あの心地良い魔力の織は感じられないのに。
そしてどうして。
(この人は…私から魔絆砕きを受けたのに、このように接してくれるのだろう。)
相手側にも否はあったとしてもルウィエラの身勝手な行動に、二度と関わりたくないと思っても不思議ではないし、人外者からしたら冒涜に等しいものだ。
それでも何度か会った中で種族的な行き違いはあっても、セル個人としての不快なものはなかった。更に言うならば、どちらかと言うとルウィエラに寄り添う形で歩み寄ってくれたことすらあったのだ。
(何故だろう。もう―――――魔絆は戻らないのに)
疑念はできるだけ早く解決しておかないと、後々凝り固まって手に負えなくなるもんだと教えてくれたのはキックリだ。
あれこれ考えていると頭がくらくらずきずきしてきたので、回復してから聞いてみようと思い、うとうとし始める。
後ろから一定間隔の呼吸が聞こえてきたのでセルも眠ったのだろう。
そう思うと、相手が寝ていることに安心したルウィエラはなんだか心がゆるゆるとなりいつの間にか意識が遠のいていった。
ふわりと意識が浮き上がっていく。
手は温もりに包まれている。それに触れてみるとじわっと温かくなり、ルウィエラは微かに口角が動く気配を感じ動いた口元に驚いて触れ、目を開けるとそこはいつもの部屋でなく、そうだと思い出す。
カーテンから微かに日差しが差し込んでいるので朝になったようだ。倦怠感は変わらないが頭痛は少し治まっていた。
先程から無意識に触っている手元を目で追いぴしっと固まる。
そこにはルウィエラの手より一回り大きな手がルウィエラの手と重なっていたのだ。
(あれから―――セルさんも眠ってしまったのかな)
そう思いながら顔だけ向きを変えると、思った以上近くに綺麗な紫がかったシルバーブロンドが目に入ってきた。そして頭上から規則的な呼吸が聞こえてくるので、上を向くとルウィエラの頭から然程離れていない場所にセルの顔が見えた。
(――――わっ……)
目の前には壮絶な色香を放った凄絶な美貌のセルが口を微かに開けながらまだ眠っていた。男性らしい喉仏とすっとした顎が見え高いすらっとした鼻と長い睫毛をまじまじと見つめてしまう。
(寝ている所なんて想像もしたことなかったから、ちょっと綺麗過ぎて吃驚だ…)
人外者は魔力が高ければ高いほど顔の造形が比例すると言われているが、目の前にある大地を司る王はその筆頭なのだろう。
人間には有り得ない端正な美しさだけでなく、全ての部位がこれでもかという見事な配置で完璧に収まっているのだ。
思わずじっと見てしまっていると、遠くで気配を感じてルウィエラは扉の方に目を向ける。そしてコンコンとノックがして開く直前に自分の今の状態に、あ、と思った時には遅かったのである。
「おはようございます。―――――――おや、」
入ってきたのは白磁のような盥を持ったジラントルで、ルウィエラに目を留め、その奥に居る人物の状態に目を見開く。
が、すぐに我に返り、動こうとするルウィエラを片手で制す。
「そのままで結構ですよ。」
「おはよ、うございま、す。夜中に私が…起きたままの状態を、気にしてしまい、横に、なってもらった、んです…」
「それはそれは。私も見るのは初めてですので些か驚きました。」
「始めて?」
「ええ。我が主がベッドに横になり眠っている姿を見たことはございません。」
「え」
それは普段座って眠るのか、横になれないくらい忙しいのか。
本当に長い時間眠らずにいるのだろうかと、起きぬけと倦怠感で定まらない思考でいたのが分かったのか、ジラントルは微笑むように目を少し細めて答える。
「睡眠は摂られていますよ。ただ、こうやって部屋を訪れても気付かずに眠られていることはありません。」
そう聞いてルウィエラは安堵して少し上げていた顔を下ろした。そしてジラントルがじっと視線を向けている先を追ってみると、そこには腰に手を回すセルの手を握ったままのルウィエラの手だ。反射的にぱっと放してしまう。
「―――!わ、私が、飛び起きて、落ちないよう、に……」
「―――飛び起きる?」
「…はい。夢見があまり―――」
「……もしかして、それも癖ですか?」
「は、い…そう―」
「それもとはどの癖だ?」
頭の上から心臓がどきっとするほどの掠れ気味の低い声が重なる。
そっと上を見ると、少し解いた髪が乱れているセルの顔が目に入りルウィエラは直近で垣間見る美貌であわあわして顔を戻す。腰から手が離れ、後ろで起き上がる気配がした。
「ご自身でも驚きなのでは?」
「―――――ああ。」
何が驚いたのかなとルウィエラは体を後ろに向けてセルを見ると、髪を掻き上げながら一点を見つめながら黙っている。自分が何かしでかしてしまったのだろうかとセルとジラントルの顔を交互に見ていると、ジラントルが片眉を上げる。
「お二方良く眠れたようで何よりです。顔を洗う湯をお持ちしました。」
「―――ジラントル。お前の知ってる癖とは何だ。」
「おや、他の癖をご存知で?」
その言葉にセルは憮然とした表情をしながらも「後で報告しろ」と言いながらすっとルウィエラの額に手を当てた。
「まだ熱いな。」
セルの手も温かいのかもしれないが、如何せんルウィエラがまだ熱があるので、少しひやっと感じる。
「…熱と倦怠感は、あまり、変わりませんが、頭痛は…昨日より、楽になりました。」
「そうか。」
そう言ってセルはジラントルに「濡らしたタオルを貸せ」と言うが、ジラントルは目を丸くしたままこちらを凝視している。
「おい、ジラントル。」
「!―――失礼致しました。」
はっと我に返り、盥にタオルを浸して絞ってセルに渡した。それを解してからルウィエラの顔に被せようとするので、慌てて押し留めようとする。
「あ、あの。自分で、やります、から!」
「手が上がっていないだろうが。」
「今、今上げます、から!」
人にもしゃもしゃ拭いて貰うのは、変形してしまう顔が丸見えで恥ずかしいはないか。
ルウィエラは上がりきらない手と何故か同時に作動した足をしゃかしゃか動かしながら顔を拭かれないように応戦する。
「顔が、顔がぐにゃって、変わる、のはちょっと…!」
「問題ない。」
「私が、大いに問題、ですから!」
必死に手足を動かしながらそう言っていると、セルは目を丸くしてタオルを持っていない手で口を押さえて顔を逸らす。何とか勝利できたと満足しながらジラントルの方を見ると、何故か彼も体を半分逸捻って扉側を見ている。
そして全身で抵抗していたことで、はふはふとあっという間に息切れしてしまい、横向けにころんとなってしまった。
ぽさっと目元に温かいものが乗せられる。
「落ち着いたら拭け。」
「は、い。ありがとう、ございます。」
無事にルウィエラ本人に拭かせてもらえるらしい。無い体力で気張った甲斐はあったようだ。
疲労した手足がまた動くようになってくると、そっと目元のタオルを持ち上げて額から順に拭いていく。
程よく温まったタオルで拭いていくと、拭き終わった部分がすっと冷えて今のルウィエラにはそれがより気持ち良い。時間をかけて顔だけでなく手の届く範囲の腕なども拭いていった。
「ありがとう、ございました。さっぱり、しました。」
「何か飲まれますか?キックリ殿の林檎水か、何かお持ちしましょうか。」
「林檎…水をいただきます。…その、前に、このお部屋には、洗面台は、ありますか?昨晩はそのまま寝てしまったので、出来れば…歯磨きと、…お手洗いに、行きたいのです…」
相手は人外者とはいえ、性別は男性なので多少恥ずかしかったが、生理的欲求には勝てないので、頑張って告げる。
「それは直ぐに声を掛けずに申し訳ありません。右奥の扉にございますよ。起き上がれますか?」
「はい。」
そう言って両手を使ってふるふるさせながら、ゆっくりと起き上がる。
倦怠感と多少ふらつきはするが、昨日よりはだいぶましで、慎重に足をベッドの下に下ろし立ち上がる。
キックリが昨夜着せてくれたのは、上からすとんと被れる七分袖のパフスリーブで襟元がスクエアカットの薄手のラベンダー色の足首まであるワンピースタイプとショートパンツセットの寝間着だ。
足に力は入るが、体幹がまだ安定しない。
とはいえ、そろそろ生理的に限界に近づきそうなので一歩歩き出そうとすると、両脇から手が伸びて、ふわっと体が浮いた。
「ぅ、わ…!」
「運んでやる。」
そう言っていとも簡単に子供抱っこの如く片腕にルウィエラを乗せたセルは「まだ揺れているだろうが」と、手を肩に添えるか体を倒せと言うので恐縮だがちょこんと手を添えるとちゃんと掴まれと怒られたのできゅっと持つ。
ジラントルからは「本当に小柄で小さいですね」と二重に言われ、どうせちっこいですよと若干不貞腐れながら運ばれる。
セルが右奥の扉を開けると、シンプルな白と灰色の配色の壁に広範囲に広がる鏡と洗面用具類が置かれている洗面台があり、その奥にはバスルームらしき曇りガラスの扉と、手洗らしき扉があった。
そのまま曇りガラスではない扉を開けて、ゆっくりとルウィエラを下ろす。
「終わったら声をかけろ」と言い残して離れて行き、ルウィエラは扉を閉めた。
生理的欲求が解消され、心配されないように壁を伝って慎重に出る。洗面台の前には一通りのアメニティが用意されており、ルウィエラは有り難く使わせてもらい歯磨きをし終えてから、鏡の中の自分を見る。
昨夜は例外だったが、寝る前にはいつも元に戻している定着してきた灰色の髪と濃灰色の瞳が映る。痩けた頬もだいぶふっくらしてきて、体も少しずつだが女性らしくなってきたように感じなくもない。でも―――
(背丈はもう少し高くなればいいのにな…)
そう思いながら洗面台に手を付いて背伸びをしてみる。そうすればふらついても支えられるからだ。背が高くなった自分をいまいち想像できず首を傾けながら何度か背伸びをしてみたが、途中で疲れてしまった。
(あ、そういえば)
今朝少し口角が無意識に上がったことを思い出したが、何故そうなったのかは思い出せなかった。未だに無表情が定型のルウィエラだが、最近は色々なものを見て感じて思うことが増えたので、そのうち少しずつでも動くのではないかなと思っていた矢先の出来事だったのだ。
そしてこの後行動は、そんな自分の無意識の出来事を解明したいと切に願った思いと、恐らく間違いなく絶対的に熱と倦怠感による普段とは違う状態であったことが、ちょっと奇っ怪な行動を招いてしまったものなのだとルウィエラは真撃に語るだろう。
弱った体を洗面台に少し凭れさせながら口角の両端を指で上げてみる。鏡に写った己の顔面はとてもではないが、見れたものではなく、眉を僅かに下げる。
では、と目元を細めて笑ってみようと思ってやってみたが、ただの目が細い人間になっただけで、微笑む細い目には到底届かずがっかりする。
ならばと目尻を上げたり下げたりしてどうにか笑顔のコツが掴めないものかと試行錯誤していると、後方からふっと思わず吹き出してしまっただろう声が漏れ聞こえ、ルウィエラは目元に手を添えたまま、かちんと固まった。
鏡を通して見えた扉には、そこに凭れ掛かって腕を組んでいるセルが映っていた。明らかにこちらをしっかり見て観察しているように見える。
得てして人間とは見たくなくてもついつい見てしまう生き物だ。
そして聞きたくないのについつい聞かずにはいられないのも人間である。
「――――何時、からそこに……」
「歯磨きを終えた後あたりだな。」
ぽさっと手が落ち、手に当たった歯ブラシがカツン――カラカラ――と床に空しく響き渡った。
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