紅い鳥とその主
ルウィエラは紅い鳥と対峙中である。
古往今来、目を逸らしたら負けという観念は人間の中に未だに根強くあるのではないだろうか。
二人の一騎打ちに待ったを掛ける声は確かに聞こえたが、振り向くのは今ではない。逸らしたら間違いなく正面にいる鳥はもう片方の脚を振りかざしてルウィエラの華奢な膝に否応なく乗せることだろう。それもまた敗北を意味している。
声をかけてくる人物は紅い鳥に関わる者か定かではないが、現時点では気配に敵意は感じられないので今は捨て置き、紅い鳥との真剣勝負に意識を戻し集中する。
尚、見たくないもの、見るんじゃなかったというものをそっと目を逸らして記憶操作するのは有りかなとルウィエラは思っている。その辺りは上手く流し無かったことにするのも人生においては必要な時もあるのだ。
「掴んでない脚を繰り出さないなら、脚を離すから。」
「グキャッ」
「ついでに翼も閉じて。始めは綺麗だなと思っていたけど音と巻き起こる風が段々煩わしくなってきた。」
「ギャッ」
「なら私もこのままだよ。ついでに爪も丸くできるよ?綺麗に整えちゃっていいの?」
「ギャキャッ!」
「なら脚を攻撃態勢から解除して。そして何度も言っているけど、もうさっきのはないの。おしまいなの。」
「ギャギャ!」
「―――――ねー、鳥が言ってることがわかるのか?」
「いえ、全然。」
またもや油断させる為か、集中を欠くようなのんびり口調で話しかけられ、ぞんざいに返し、ルウィエラは鳥との取っ組み合いに戻る。それでも変わらず膝に脚を掛けようとし続け、流石に手が疲れてきたので仕方なく奥義を繰り出すことにする。
掴まれていない脚を上げた隙にルウィエラはぱっと紅い鳥の背後に移動した。脚が急に解放されたことに驚いたのか翼を閉じて両脚で立った瞬間に、両足を使いこちらを振り向くより早く後ろから挟むように抑え、両手で首を回すように掴み嘴の位置に気をつけながら頬や顎、首元を対ごんさんで培った手練手管でわしわしもしょもしょと揉み込む。
紅い鳥は始めこそ後ろを取られたと暴れようとしたが、しっかり足で挟んで翼が広がらないように抑えていたので、動けずにルウィエラの撫で揉み攻撃をほぼ無抵抗に受け続けることとなる。
ギャキャーと喚いていたがその度に頬から顎、後ろ首に時折頭頂部とさりさりと刺激され、あえなく数分後に屈した。
(撫で揉み攻撃は大きな鳥にも有用な時もあるのね…)
日々のごんさん対応が思いがけないところで役に立ち、いつ何時でも臨機応変に対応するには、やはり本だけでは足りないと痛感する。
実際色々体験して、それを糧にしていくことが大事なのだなとルウィエラは一つ頷き、動かなくなり羽がふわっとなる紅い鳥の顔周りを丁寧にもふもふしてあげていく。
紅い鳥は段々と伏せ状態になり後ろ首なのか後頭部なのか、そこを伸ばしてここをやれ的な状態だ。もう大丈夫かなとゆっくり両足をどかしてから後頭部あたりを中心に触ってやりながら綺麗な深紅のグラデーションの翼をゆっくりと撫でてあげる。
(勇ましいのにこんな姿に…この子はあの時の紅い鳥ではないのかな。それか覚えていないのかも知れない。)
今は閉じているオッドアイを考えると、同じ鳥なのではと思うのだが、井戸で会った時はたまたま静かで、元はこのように獰猛なのかもしれない。
「また何処かで会えた時に持っていたらあげるね。」
「キュル…」
「さて、そろそろ帰るね。」
ふさふさ撫でてあげて、帰ろうかと思っていると、先程より近くから声が聞こえた。
「忘れてる?俺のことー」
紅い鳥との奮闘でほぼ忘れかけていたことを思い出し、声のした方に初めて顔を向ける。
(―――なんてこの場に似合わない――)
第一印象がそれだった。
片手を腰にあてながらこちらを面白がるように見ていた男性は少し癖のある深紅の髪に黒に深紅の刺繍の入った長いケープを片方の肩に掛けている。
漆黒のスリーピーススーツにジレ、髪と同じ色のシャツ、首元は昏い煌めきのある赤色だが光によって色の深さ具合が変わる宝石が装飾されているタイで、黒赤色の皮の手袋をしている。鈍い金色の細工に深紅の宝石が飾られた長い耳飾りが、よりこの男性の色香を際立たせているようにみえる。
瞳は淡い銀色が主だが異なった銀色が混ざる多色にも見え、右側にモノクルを掛けているのだが、そちら側も同じ銀色なのだが、何故か左目とは色彩が同等でないように感じる。
片眉を上げながら口角を上げる表情はモノクルで理知的にも見え、その超越した美貌はあまりに整い過ぎていて、どう見ても安全な人物には思えず、第二印象は不穏、だった。
(気配は攻撃的ではないけど、今は、なのかもしれない。)
さてどうしようかと何事もなく穏便に済ませる方法を思案しようとした矢先、発せられた言葉にその意欲がぽきっと折られることになる。
「そこにいる鳥は俺の眷属なー」
ちょっと意識して無害な人間ですと主張しようとしていた思いは一瞬で砕けてしまい、ルウィエラは遠い目をする。眷属と言われた鳥とつい先程まで取っ組み合い状態だったのだ。どう言い繕っても無駄だと早々に諦めた。
その眷属なる紅い鳥はふにゃんとして現在進行系でルウィエラの手管に屈しているのだ。そして野生でないのならばと思っていたことを言う。
「ご飯はお腹いっぱいが一番です。」
「ん?」
「獲物を私に奪われたとはいえ、私へのくれくれ猛攻があまりにがっつき過ぎだったので食べさせて貰ってないのかなと。」
「んー?」
「あれ。でもあれだけ見事な狩猟体勢なら普段から外で食べ…――痛いよ、自分の嘴の凶悪さを把握して。甘噛みでも普通に痛いから。」
手元が疎かになったことで、紅い鳥はなんだちゃんとやれと甘噛みをしてきたが、己の嘴の鋭さを是非に自覚して欲しい。
紅い鳥は、ここだほら、みたいに自分から場所をしてくる。その姿を見たのと、男性から聞く眷属との情報を得て、ルウィエラは少し心配になる。
「この子、眷属なんですよね?この体たらくで良いのでしょうか。」
「んー初めて見たな。不思議だねぇ。」
そう言って、ルウィエラを見て目を細めて微笑む。艶のない金色モノクルがとても似合うその顔も果てしなく艶やかで美しいのだが、やっぱり不穏で安全ではない。背筋がぞぞっとする感覚だ。
「怖くないのかー?」
「怖いですよ。これだけ鋭い嘴や爪でどかすかやられて翼ばっさばっさ威嚇されれば。なので制圧するしかなかったんです…」
「いやーそうじゃなくて。」
「え?」
「まーいいよ。―――ティリ。」
甘めの低い声が囁くように言うと、ティリと呼ばれた紅い鳥はふにゃん状態からしゅばっと体を起こし翼を広げてその男性の方に飛んでいった。
(ティリって名前なんだ。あの時の鳥と一緒の子なのだろうか。)
紅い鳥ことティリは男性のケープ側の肩に止まってこちらを見据えている。異なる色の瞳は先程のふにゃ具合を感じさせない無機質な視線で、男性の呼びかけにより元に戻ったという感じだろうか。
ともあれ、ようやくルウィエラから離れてくれたので、帰り支度を始めようと動き始める。
(ツブラアナゴの防壁は大丈夫そうだな。袋も全部収納に入れたし、忘れ物はない―――)
突如、先程とは比べ物にならないぞくっと肌が粟立つような不穏で悪意的な気配がルウィエラに向けて発せられ、反射的に自分に防壁と同時に反撃の魔術も構築して展開した。
「――おっと…」
じゅわっとルウィエラのすぐ手前で禍々しい魔力の織が弾かれ相手に跳ね返る。直ぐ様、指を動かして戻っていく魔力のうちほんの微量を千切り取って、こちらに引き寄せる前に自分の魔力で無力化して、小さく丸める。
「あれ…凄いねぇ。瞬時に極少量奪って、ばれないように取って自分の魔力で覆ったのか。」
「即座にばれていますけど。」
「それは俺だから分かっただけで、普通気付かないんじゃないかなー。」
「転んでもただで起き上がるなとの教えなので。」
「へぇ、逞しいな。」
男性は先程と何も変わらない体勢でこちらを見下ろしていて、手を動かした節も見られなかった。ルウィエラは性質上淡々と返しているが、心臓はばくばく鳴っている。
(手も動かさず無詠唱であれだけの魔術を出したのだ。なんだろう…侵食というか、絡みつくような…)
少なくともこちらに害の無い魔術でなかったことは確かだ。恐らく軽めなのだろうが悍ましい程の魔力の強さと濃さと重さだった。
(本当に日々のお婆とのやり取りが役に立っている。お婆はこういう経験を沢山してきたのかな)
毎日どこかしらで抜き打ちのように繰り出されるキックリからの有事の対応という名の小さな攻防は本でしか知らなかった様々なものを現実化してくれていた。
そして今日初めましての目の前にいる男性が何故攻撃してきたかの理由が一つしか思い当たらないルウィエラは声を掛けた。
「眷属の鳥さんに勝手に錠菓をあげて、取っ組み合いしたことは申し訳ないと思わないでもないのですが、強いて言わせてもらうならご飯はお腹いっぱいあげて下さい。」
「ん?そこが大事なのか。理由ではそれじゃないよーなんとなくだな。」
「なんとなく」
「そーだね」
「そうですか。」
なんとなく魔術で攻撃してみたということなのか。
人間離れした容貌と無詠唱からの重い魔術を考えると間違いなく人外者なのだろう。
そして彼等は人間の自分と違って思考も倫理観も色々と異なる者なのだ。
なんとなくそこに眷属と絡んでいる小さな人間に何かやってみようとしたという、例えばそこに蟻がいたから踏み潰してみよう的な感覚だろうか。
ルウィエラは攻撃されない限りはそう思うことはなさそうだが、価値観はそれぞれであるとキックリから常日頃言われている。ならばそう思ったから行動したということなのだろう。
そう返して先程捻りとった魔力の織を首元を触った瞬間にこそっと取り出しておいた小指程の細長い瓶に入れた。
目の前に翳してみると、ほぼ透明なのだが、目の前にいる男性のどす黒さが滲むような暗色が僅かに混ざっているので、これはキックリと折半して調べるのも面白そうだ。
「何だか嬉しそうだねぇ。」
「放ったのはそちらなので返しませんよ。」
「それは構わないが、何に使うのー?」
「私は錠菓ですね。」
「―――――え」
まさか自分の魔力がお菓子にされるとは想定していなかったらしく、その男性はぽかんと口を開いている。
「え、それで人を簡単に呪い殺せるのに?」
「呪い殺せるなら呪いを受けない予防の錠菓でしょうか。」
「お菓子なのかよ…」
その男性は呆然としているが、ルウィエラは魔術師ではないので、そのあたりは興味がないのだ。
「かりぽり歯応え良しのお菓子で尚且つお薬の効果もある一粒で二度美味しいものですね。」
「お菓子かよ……」
最早その名称しか言わなくなった男性に対し、もういいかなとルウィエラは立ち上がり、その隙にささっと瓶を収納に仕舞った。
眷属とやり合いはしたが、攻撃もされているので差し引きゼロであると、挨拶は省いてさよならの意味を込めてぺこりと頭だけ下げて踵を返す。
今夜の夕食は温かい優しい食べ物が良いなと考えながら、てくてく歩いていると、ふと隣にいつの間にか同じ歩幅で歩いている深紅の髪の男性が居るではないか。
「何でしょうか、知らない人にはついて行くなとの教えで。」
「いや、ついて行っているのは俺なー」
言葉のやり取りが段々面倒になってきたルウィエラはこれ見よがしに溜息を付き、とりあえずグエタの森までは挨拶はこのまま歩こうと決める。
何故かついて来ている男性は「嫌そうだなおいー」と言いながらも愉しそうな声色なのが、密やかに癪に障る。
深紅の髪とケープを靡かせながらのんびり歩いている男性だが、ルウィエラとは明らかに足の長さが違うのでゆっくり歩いているように見えるのが上乗せで癪に障る。ティリは正面を見据えたままだ。
「そして何故ついてくるのでしょうか。」
「興味があるからー」
「…錠菓に?」
「君にー」
何だかよくわからないが、興味を持たれたらしい。首を捻りながらどうしようかなと思っていると隣を歩いていた男性が穏やかな微笑みなのに不穏さ満載の表情でこちらを覗いてきた。
「リテリ。俺の名前ー」
「…上から読んでも下から読んでも?」
「くくっ、だなー。」
ルウィエラの返答が可笑しかったのか片側の口端を持ち上げたリテリが目を細めて答える。完全に信用してはならない艶麗な笑み感満載だ。口調はゆったりで語尾を伸ばす甘い低い声なのにその質は安全とは到底思えない。
「君の名前も教えてー」
「さて、どうしましょう」
「あれ、俺の教えたろー」
「頼んでませんね」
そうこう話しているうちにグエタの森に入りルウィエラは少しだけほっとする。リテリが弾き出されずにまだ一緒に歩いているので、現時点では悪さをするつもりはないのだろう。でもこのまま薬屋まで行ってしまっていいものか悩んでいると、
「久々にキックリにでも会って行くかなー」
と言うので、知り合いなのかと思ったが、キックリからリテリの名前が出たことはなかったので、自分の事情を話すのは思い留まる。
「知り合いですか?」
「まあなー親しくはないけどな。」
「顔見知り程度だよ。」
その時、話に割り込むように、そこには居ないはずの声が聞こえた。
声のする方をみると、そこには転移してきたであろうキックリが立っていた。
「リテリ、久しいね。こんなとこまで来るなんて珍しいじゃないか。」
「久しぶりー。森に入った時点で来るなとは思っていたけどな。」
「ならその前に去ればいいだろうに。あんたの資質的にすぐにここから弾き出されるよ。」
「そうなんだけどな。この子が名前教えてくれなくてさー俺は教えたのに」
「頼んでませんしね。」
「ほら、こんなにつれない返しなんだよなー」
「攻撃されてますしね。」
「おやおや」
「軽め軽めー」
そう言いながらキックリの側に行き、ルウィエラは安堵した。先程の禍々しい魔力はほんの僅かだっただろうし、こちらを少し驚かす程度だったのだろうが、それでも重苦しいものだった。
あれが、少し本気で放たれていたら、ルウィエラなどあっというまに大怪我した可能性があったかもしれない。
まだそこまで色々上達もしていないし経験も乏しいのだ。キックリ直伝の虚勢張りが上手くいったようだ。キックリはあんたの地だよと頑なに否定していたがそんな筈はないのである。




