魔力残滓
翌朝、下の階から香るお腹を唸らせる良い匂いで目が覚めた。
枕から顔だけを上げて、まだ覚醒していない眼差しで周りをみてから、自分の置かれた状況を確認して再度ふかふかの枕に頭をぽすんと落とす。
敷布団も柔らかくて毛布もふわふわだ。
朝から心がもぞもぞして、このまま丸まって二度寝したいところだが、窓を見ると日が昇り始めていたので体を起こす。
キックリが用意してくれた踵のある部屋履きを履いて一階に降りていく。
キッチンではキックリが小ぶりな鍋にレードルを入れてかき混ぜていた。
「おや、早いね。まだ日が昇ったばかりだよ。」
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。洗面所の横にある棚にタオルが入っているから顔洗っておいで。」
「はい。」
洗面所へ向かい顔を洗う。井戸水ほど冷たくはないが、起き抜けの感覚がサッと取り除かれたような爽快な気分になる。棚からタオルを取り出して拭いてからルウィエラは自分が移った顔を見た。
離れを出るまでは擬態をしていたが、魔力器の下部への拡大により、漆黒に紫が交ざった髪と所々白金が薄く交ざった漆黒の瞳の色は元に戻していた。髪は前に切られたまま、今では腰近くまで伸び、ルウィエラは長さはちぐはぐの髪に触る。
(長さがバラバラ。頼んだら切ってくれるかな。)
あとで聞いてみようとリビングに戻ると、テーブルには湯気を出したカップが置かれていた。
「とりあえず数日は消化の良い食べ物からだね。座ってミルクティーでも飲んで待っていな。パン粥と昨日のママイの粥の残りがあるよ。」
「ママイのお粥が食べたいです。」
「はは、気に入ったのかい?あとはとうもろこしのスープを作ったからね。」
そう言いながら小鍋の火を弱めて、流しの隣にある大きな保冷庫から、同じような小鍋を取り出して火にかけていく。
ルウィエラは温かいミルクティーの熱を冷ましながらちょびちょび飲みつつ、キッチンで作業しているキックリを見ながら、そこでの動きを覚える。
「ルウィエラという名前は真名だろう?真名は家族と大事な相手以外には教えたらいけないよ。人外者は勿論だが、魔術師始め魔力の多い人間も名前を魔術的に取られると色々面倒なことになる場合があるんだ。」
「そうなんですね。アグランド家の全ての人達には記憶忘却の魔術を施しました。母様の名前も一緒に。」
「なら安心なんだが……その魔術はそう簡単にできるものでもないんだけどねぇ。真名に纏わる魔術は上級魔術師でようやく修得できるレベルだよ……今後の為に他のあんたが覚えたっていう魔術を聞かせてくれるかい?これ以上目ん玉飛び出るような独創的な魔術を聞いても驚かないようにね。」
「え、眼球を戻す治療魔術はまだ未修得です。どの分類の書物に…」
「物の例えってやつだよ!本当に飛び出たら大惨事だろうが。」
「物の例え……」
そういう言葉選びがあるのだと、ルウィエラは首を傾けながら学ぶことはまだまだ沢山あるのだなと頷く。そしてキックリに聞かれた魔術の詳細を記憶の中から引っ張り出して指を折りながら答えていく。
片手では足りないのでもう片方も使うがやはり足りないので折った指を戻してまた折っていく。それを何回か繰り返していたらキックリが「わかった、わかったもういい。もう十分だ。」と遮った。
「今聞いたものだけでも舌を巻く数と内容なんだがね……。まあ、そのうちにでもまた聞かせておくれ…、おっと、今のも物の例えだよ。舌を仕舞いな、冷める前に食事にするよ。」
ルウィエラが舌を巻こうとする様子に颯爽とツッコミを入れ、キックリは粥ともう少し小さな深めの器にとうもろこしのスープを入れ差し出した。
「いただきます。」
「ああ、食べれるだけ食べな。」
昨夜も食べたママイの粥は素朴で優しい味だ。とうもろこしのスープは潰したとうもろこしとみじん切りした玉ねぎにベーコンという肉の加工品が賽の目にカットされミルクをベースにして、とろみが少しついていて円やかさとコクがあってお腹に溜まるこちらも胃に優しい美味しいスープだった。
きっとキックリの味付けも良いのだろう。これもとても好きになりそうな味だった。そんな彼女はパン粥にとうもろこしのスープを豪快な口調に似合わない上品な所作で食べている。
「そうだ。通り名のようなものを決めておいた方がいい。自分でも解らなくならないように名前から抜粋するのが一般的だ。どうするかい?」
「そうですね…………ではエルで。」
「わかった、エルだね。」
「あの、キックリっていう名前は……」
「ああ、私のも通り名だ。好きに読んでくれていいよ、キックリ様でもキックリ師匠でも…」
「キックリお婆で」
「お前もかい!レウィナも何だか知らんが、それ以外に呼ぶ気がしないとか訳わからないことを延々と言っていたよ、何でかねぇ。」
「何となくなんですが…現在の仮の姿と喋り方と仕草を諸々併せると、その呼び名がピッタリと収まって。寧ろそれ以外で呼んではならない強制的な感じが…」
「何をさも私が呼ばせているような流れになっているのさ……ん?現在?」
「多分……その姿って敢えてその風貌にしているのかなと。」
そう言うとキックリはニヤリと片方の口角を上げた。
「へえ、良く気付いたね。他には?」
「皺があって歳を重ねていても凛としていて綺麗に見えるので実際はとても美しいのだと思うのですが、歴戦を生き抜いてきた女傑のような荒めの口調が折角の美ぼ…」
「よし、お黙り。」
問答無用で〆られてしまい、ルウィエラはまだ感想を言いたかったと首を傾けるが食事中なので、ほこほこ湯気を立てている粥に意識を戻しスプーンを持ち直して再開する。
今朝は粥を少量だけお代わりして食べた。スープとミルクティーも飲んでいるので水分が多めだがお腹が膨れるということがルウィエラの心も一杯にした。
「キックリお婆、この髪の長さがバラバラなので切りたいのですが…。」
「呼び方はもう確定なのかい……揃える程度でいいなら私が切ってやるよ。髪にも魔力が宿っているからね。その辺に捨て置いておくと悪事に使われるよ。」
「いつもどうやって対処するんですか?」
「私なら自分で魔素材を抽出してから、錬金術で身に付けるものに精製できるが、出来ない者はそういう専門の店があってね。そこで依頼して何か創ってもらうんだよ。エルなら精製できそうだが…」
「なるほど。雑草でも僅かですが抽出できたので、できるかもしれません。」
「…雑草から抽出できること自体が特異なんだけどね…もうそこはあんただからということにして納得しないときりがなさそうだ。それと、髪だけでなく見た目だがね。レウィナは伴侶がいたからそのままだったが、美しさは比例するんだ。人外者程ではないけどね、人間独特の魅力は特に人外者を引き寄せかねない。今のあんたはやせ細ってはいるが黒髪に交ざった紫といい、黒眼に白金といいその辺の人間よりかなり容貌は特殊なんだ。周りの諸々が安定するまでは擬態魔術はかけ続けておきな。」
そう言ってキックリは、大まかに髪と瞳の色に対する関連性を説明してくれた。土台の色に他色がかっていたり、交ざっていたりすると高魔力保持者であるらしく、知られない為に特に人間は擬態することが多いのだそうだ。
食事を終えて残ったミルクティーを飲んでいたルウィエラは、素材の抽出の話で思い出して、ワンピースのポケットから空ではない小瓶を取り出した。
「あの、この瓶、なんですが。」
「ん?あんたが持っていたやつだね……何が入って……これは」
「はい、母様の魔力残滓がこの中に。あの離れに僅かに残っていたものを全部ここに詰めてきました。あそこに……母様が記していたように、何一つ残して行きたくなかったので。」
空になった魔力回復薬の小瓶とは別に、更に小さめの小瓶にはレウィナの魔力の残滓が三分の一程入っている。より精密に細やかに魔力操作をできるようになってから、離れにはほんの僅かだったがレウィナの魔力が残っていることをルウィエラは感知できた。本当に微々たるものだが、それを家中隈なく探し全てこの瓶に入れたのだ。
「なんだいこれは…エルの魔力操作は一体どうなってるんだろうね…レウィナが消えてしまってから10年以上経っているから残っていたとしても本当に微々たるものだっただろう。それをここまで精密に抽出して混ざりもんがない状態で保存しておくなんて…。」
「今はできるだけ母様の居た場所から僅かでも残滓をこの瓶に残せたらと。母様が使わせてもらっていた部屋からも微かに残っていたので抽出させてもらってもいいですか?」
「ああ、構わないよ。その様子を見せてもらってもいいかい?」
「はい、勿論です。」
そして食事後に片付けなどの一通りの流れを教えてもらい、二階へ上がって行った。
キックリが主に使っている箇所は残念ながら残滓は残っていなかったが、元レウィナの部屋は部屋の換気はしていたが、人の出入りは殆どなかったので僅かに残っていたのだ。
ルウィエラはキックリの了承を得て、部屋の周りを見渡す。所々に残る微々たる魔力の残滓を再確認して左手の親指から始まる三本の指に魔力を纏わせて擦り合わせる。三本の指を匠に操作して残滓を少しずつ削り取っていく。
途中で引き千切れそうな時は自分の魔力を纏わせて周りをカバーしながらゆっくり剥がして瓶に手繰り寄せる。僅かな数本の線のような細い魔力がするすると瓶に入っていき蓋をして少し振って中をみる。全部で半分に近い量になった。
「…エルのその独自な方法の魔力操作は面白いものだねぇ。それはあんたがどんな環境に居ても生き抜いて努力して得たものだ。大事にしな。」
「はい。常に共に居てくれるものだと分かってからは、とても身近に感じるようになりました。まるで家族のようです。」
「そうかい。それだけ心を向けているからこそ可能になったことなのかもしれないね。」
そんな会話をしながら掲げた瓶を眺めているとほのかに淡く光って温かみを感じたような気がした。




