温かい時間
どれくらいそうしていたのだろうか。
外はもう夕日が落ちて辺りは薄暗くなり始めてきていた。
「こんなに感情が動いて沢山泣いたことなんてなかっただろう。そのままにしておくと、間違いなく目が腫れてしまうよ。」
ようやく止まった涙だが、目とその周りがほんのり熱を持ち、ふやけたような感覚で、目を閉じると瞼の裏側がじんと染みるようだ。「一旦離れるよ」と言いキックリは頭を優しくぽんぽんと叩き洗面所へ消えた。
ルウィエラは離れでタチアナに頭を髪ごと掴まれて引っ張られたことはあるが、あんな風に優しく触ってもらったことはない。またもや心がもぞもぞしながら頭に自分の手で触れ、頬が涙でひんやり濡れていることに気づいて手で擦って拭う。
「ほらほら、擦るんじゃないよ。温めたタオルを持ってきたから目元を覆いな。状態保存魔術かけているから温かいままだ。暫くしたら今度は冷えたタオルに変えるよ。これで少しはましになるだろう。」
そう言いながら、ルウィエラの目元にほかほかした濡れタオルを置いた。擦った目尻は少し染みたが、じわじわと程良いタオルの熱が目元の周りを温めていく。思わずほうっと溜め息をついていた。
「今夜の食事は軽めにしとくかね。もう暫くそのままでいな。」
キックリはそう言いながらキッチンの方へ戻っていったようだ。
タオルで目元を覆っているのと、魔力を酷使した後に初めてのお風呂というものを経験したルウィエラは、消耗していた心身を椅子の背もたれに体重を預け少し上を向いた状態で、いつの間にか少し眠ってしまっていたようだ。
キッチンの方から「器用な格好で寝ているねぇ。」とキックリの声がぼんやり聞こえたかと思うと温かいタオルが外され、閉じた瞼の裏から灯りを認識できた直後にひんやりした冷たいタオルに差し替えられた。ピクと反応はしたがルウィエラはそのままの状態で微睡んでいた。
―――胃を刺激する優しい匂いが漂っていることに霞む意識が向き微かに首を動かす。食に関しての欲が全く感じない環境にいたルウィエラでも、食欲をそそる匂いにお腹がくぅと小さく鳴る。
「ん?起きたのかい?そろそろ出来上がるから一旦目を覚ましな。胃が吃驚しないように、今夜は消化の良い粥にしたよ。」
粥……本で読んだことあったかな、とぼんやり記憶を辿りながらタオルを外す。
タオルで覆っていた目は、家の灯りで眩しくなかなか開けられない。
離れには灯りもなかったので、こんな明るくて便利なものなのかと目しぱしぱさせながら慣らしていく。
「かゆ……確か本で…シダレ国?の主食のママイという穀物を煮込む…?」
「へぇ、良く知っているね。そうだよ、ママイという粒状の穀物をそのまま使用した食べ物だ。それを今日は魚と鶏を併せた出汁と溶いた卵を混ぜてから塩で味を整えた簡単且つ胃に優しい食べ物だ。これも熱いからね、冷ましながら食べるんだよ。」
少し深めの器に盛られたママイという穀物と卵を混ぜた粥をじっとみる。湯気がほわほわと上がっており、魚と鶏の出汁が効いた白と薄黄色の優しい色の組み合わせに、またお腹がくぅるると小さく鳴る。
「……いただきま、す。」
「ああ、食べな。」
食事のマナーなんてものを実行したことはただの一度もなかったが、本だけの知識はあったので、これはスプーンだけなので使う順番はないなと思いながら、ルウィエラは食事の挨拶をしてからスプーンを持つ。
ゆっくりと粥を掬いふぅふぅ冷ましながら口に入れる。
(……美味しい!なんて優しい味なの……)
安定の無表情だが、目が僅かに見開く。魚と鶏の出汁というものはこんなにコクが出ていて味が滲み出ているものなのだろうか。それに塩加減が絶妙で卵入っていることで更に食欲をそそる。
「温かくて…とても美味しいです。」
「そりゃ良かった。この辺じゃ粥、というかママイはあまり流通してないんだが、私はこれが好きでね。シダレ国に出向いた際には必ず購入してくるんだよ。」
そんな話を聞きながら、ルウィエラもこのママイがとても好きになりそうだと思った。シンプルなママイそのものの優しい味に出汁と卵が主張し過ぎずママイの旨味を最大限に引き立てている。
スプーンを休ませることなく適度に冷ましながら口に運んでいく。食べ終わると生まれて初めて不思議な充足感を得た。もっと食べたい気分だが残念ながらルウィエラの胃はとても小さい。
「もっと食べたい気持ちはあるのですが…お腹が一杯で。」
「その辺にしておきな。少しずつ慣らせばもっと食べられるようになるだろうよ。」
「ごちそうさま…でした。」
「ああ、今日はもう休みな。明日また今後の話をしようかね。」
「はい。」
キックリは「器は流し台に置いておきな。あんたの寝床はこっちだよ。」と言いながら二階に上がって行く。ルウィエラも流し台に器を置いて二階に上がる階段を一段一段ゆっくり上がって行った。途中で右に折れる階段を上り切ると廊下には二つの扉があった。
「奥は私の部屋だ。手前がルウィエラの部屋になる、といっても前にレウィナが使っていた部屋なんだ。引っ越してからそのままにしてある。風通しはしているからね。寝具は新しいものにしてあるから、そのまま使えるよ。」
「ありがとうございます。」
そう言うとキックリは手前の茶色の扉を開ける。中は思った以上に広くて奥の中央にベッドがあり、寝具は全体が先程飲んだミルクたっぷりのミルクティーのような淡い薄茶色だ。
すぐ隣にはルウィエラが丸々映り込む程の大きい鏡の付いた鏡台、そしてベッドを挟んだ向かい側の少し離れた所には小さめだがセンスの良いシンプルな机があり、アンティーク調の卓上ランプが備えられている。
「他に足りないものは追々揃えていこうかね。」
「あの、私お金を全く持っ…」
「あんたねぇ、さっきも言ったがレウィナへの罪滅ぼしさせてくれと言っただろう。それにレウィナのことを教えてくれた礼もあるし、そんなレウィナの娘であるあんたを私が放って置く訳がないだろう。あんたは…大事な弟子の娘。だから私の孫のようなもんだ。」
「…ありがとうございます。」
孫。ルウィエラは心のなかで反芻して、またしても心がもぞもぞして瞬きをぱちぱちした。
「私は下に居るから何かあったら声掛けな。じゃあおやすみ。」
「はい、おやす…みなさい。」
慣れない初めての言葉の数々にもごもご言うルウィエラを見てキックリはニヤッと笑ってから下に降りていった。食事前に少しウトウトはしたが、実はかなり体は限界に近づいていた。
ベッドに入る前に部屋を見渡す。
(母様が使っていた部屋…入った時に気付いたけど、本当に僅かだけど…母様の魔力の残滓が微かに残っている。)
ルウィエラは手をポケットに入れて小さな瓶に触れる。
これらも残せるだろうか…。
明日試してみようと決めてルウィエラは頭に巻いていたタオルをとり、殆ど乾いた髪を軽く解してベッドに体を滑り込ませた。
(ふかふか……下が硬くないし真ん中が凹んでないから、どこの位置でも寝られそう。)
そう思いながら既に意識が半分落ちていたルウィエラはもぞもぞしながらも、いつもの癖で端っこで体を丸く縮こませてあっという間に睡魔に意識を持っていかれた。
温かいふかふかの布団と、お腹が満たされ心ももぞもぞしながら、ルウィエラは物心付いてから初めての穏やかな眠りについた。




