前編 王太子と真実の愛
セレニカが王太子と親しくなったのは、振り返れば特別なきっかけはなかったのかもしれない。けれどセレニカにとってのその日々は、いつだって特別に輝くものだった。
底辺貴族と呼ばれる末爵家の一人娘だった彼女は、幼い頃に母親を亡くし、父娘で助け合い支え合いながら真面目に懸命に生きてきた。
それが変化し始めたのは、通っていたスクールから特別枠としてアカデミーに推薦されたのが始まりだっただろう。
「わたしがアカデミーに……!?」
教師からの申し出に、セレニカは驚きのあまり一瞬呼吸を忘れた。スクールに通って一年が経過しようかという時期だった。
「ヤーガさんなら大丈夫だろうと、教師陣で意見が一致しました。立場の違いから苦労もあるでしょうが、あなたには〝聖なる力〟もあることですし」
その言葉に戸惑いながらも頷く。
「聖なる力とはいっても、その特徴があらわれているだけですけど……」
「それすらも本来はなかなかないものですよ」
自信を持ちなさい、とでも言うように教師は力強く言い切る。セレニカは苦笑しつつ頷いて、受け入れることを示した。
この国においてスクールとは、平民も一般貴族も学ぶ意思さえあれば広く門戸を開いている施設だ。アカデミーはそれとは異なり、基本的に王家と公爵家、または〝聖なる力〟のある人間が通う機関である。学費も自費で高額、普通なら貴族とは名ばかりのほとんど平民と変わらない娘が通えるはずもない。
しかしスクールの教師たちは、優等生のセレニカを上級機関で学ばせるのはこの国の未来のためになるに違いないと考えた。特別枠となればスクールから援助がなされ、学費は一部負担で済むというのだから、母親を亡くし男手ひとつで育ててくれた父親の助けになりたいセレニカに、断るという選択肢はなかった。
例え、王族に連なる者が持つ〝聖なる力〟の能力ではなく、その特徴である紫がかった瞳だけがあらわれているのだとしても。
「レニィ、ここにいたのか」
アカデミーの図書館で自主勉強をしていたセレニカに声をかけたのは、先輩にあたる人物だった。
「ヴァディム殿下」
「今日もともに昼食をと考えていたんだがな、君が来ないから」
「あっ、申し訳ありません! てっきり昨日だけの特別な待遇かと」
椅子から立ち上がって頭を下げれば、彼は鷹揚に頷く。
「いや、きちんと約束をしていたわけではないからな。言葉にしなかったのは俺だ、レニィのせいではない」
窓から差し込む光に輝く銀に近い金色の髪と、そしてセレニカのような青みの強い色ではなく紛うことなき紫の瞳をした彼は、ヴァディム・ディメイズ、この国の現国王の長子であり、王太子であった。
アカデミーに入学して一ヶ月、上位貴族ばかりの周囲から浮いた存在であるセレニカに友人と呼べる人間など出来るはずもなく、すっかり当たり前になっていた一人で過ごす時間。
偶然から話すようになったとはいえ、まさか王太子から親しい友人に対するような扱いを受けることになるとは考えもしなかった。
「これからは特別な理由のない限り俺と昼食をともにしよう、レニィ」
はっきりとした誘いの言葉は宣言のようで、セレニカは驚くばかりだった。
セレニカの戸惑いをよそに、その日からヴァディムは当然のように彼女をそばに置くようになった。
昼食だけではない。学年が違うために授業は異なるものの、その他の時間は彼の友人たちに混ざり行動をともにする。彼らはセレニカの自分たちとは違う言動、考え方を面白がり、ことあるごとに意見を聞きたがった。
しかし、学内では身元不確か同然の存在である娘が王太子に侍る、その状態に不満を持つ者も多かった。
「あなた、ご自分の立場をご自覚なさいませ」
令嬢たちから呼び出しを受けることは数え切れないほど。
「殿下には婚約者がいらっしゃること、底辺貴族だとご存知ないのかしら」
「エカテリーナ様はお優しいうえに器が大きなお方ですから、あなたのことを見逃しておられますけれど」
直接的な危害を加えられることはなかったが、繰り返し呼び出されては小言を並べられる。孤立した状況に、精神は日に日に削られていった。
そもそもが自分から始めたことではない。自分から近寄ったわけではなく媚びているつもりもないのに、奇異の目を向けられ、陰口を叩かれ、必要があって話しかけても無視をされる。
「俺がレニィと仲良くなりたがったせいだ」
ヴァディムはセレニカの置かれた状況に憤った。
「わたしも上手く立ち回れなくてごめんなさい、他のみなさんと一緒でお友達なんだって言いはしたんですけど……」
友人たちの中には女子生徒もいないではなかった。だからセレニカ一人増えたところで問題はないと仲間内では話していた。だが彼女たちも高位貴族であり、男子生徒同様に王太子の側近候補たちであった。セレニカとは立場が違う。
「やっぱりわたしが殿下に親しくしていただくなんていうのは、」
「離れようなどとは言ってくれるな。俺はレニィにそばにいてほしい」
「ですが誤解とはいえエカテリーナ様にも申し訳ないですし……!」
令嬢たちは言い方や態度こそ大仰で毒々しいものの、セレニカ自身注意を受けるのももっともだとは理解していた。他意はないと主張したところで、婚約者の令嬢からしてみれば相手と親密に見える女が現れたなら面白いはずがない。
エカテリーナは公爵令嬢であり気品と知性を兼ね備えた美しい女性で、そんな彼女を慕う令嬢も多いのだ、見咎めた友人たちが彼女のためにと動くのも当然と思えた。
いつものガゼボに設えられたベンチに腰掛け、あえて笑って距離を置くことを伝えるセレニカに、しかしヴァディムは頷かない。眉間に皺を寄せ、行かせまいとするように手を握り締める。
「俺はレニィがいい」
ぎゅ、と力のこもる彼の手に、セレニカは息が詰まる。
「エカテリーナは婚約者とはいっても政略のために決められた関係というだけで、実際には幼なじみでしかない」
引き寄せられ一人分は離れていた空間がなくなったセレニカを、淡紫の瞳が見つめた。強くまっすぐな眼差しに心が揺り動かされる。離れよう、離れなければと考えていた決意が揺らぐ。
確かにエカテリーナ本人からは何も言われていなかった。そういうことなのだろうか。二人の間にあるのは政治的なもので、だから彼にどんな感情を抱いても彼女を傷つけることはないのだと。
「俺はレニィを、セレニカを愛している」
ヴァディムの瞳に映る自分がどうしようもなく動揺していることが、見て取れた。
伸ばされた手のひらが頬に触れる。親指に下唇をなぞられ、ゆっくり近づく吐息に自然と目を伏せた。
そうして恋仲となった二人を、友人たちは「これこそが真実の愛だ」と祝福した。婚約者のいる身の上では許されるものではなく心底から喜べるものではなかったが、どうにかしてみせると請け負うヴァディムは力強く、セレニカは恋人を信じ笑って頷いた。
もちろんあからさまになった言動に嫌がらせは激化したが、ヴァディムの計らいで常に誰かがそばにいてくれたことで、身の危険を感じるようなことはなかった。その分、王太子の取り巻きをも誑かすなどといった誹謗中傷は増したが、そんな事実があるはずもなく、愛する彼と思い合うための試練であるかのように受け止めていた。
周囲から非難されても、ヴァディムに王太子妃になってほしいと請われ分不相応だと不安になっても、彼が「愛している」と囁いてくれさえすれば乗り越えられた。これから先もそうであると、セレニカは信じていた。
本来の予定では、王太子であるヴァディムと同じ年齢であるエカテリーナ両名のアカデミー卒業を待ち、婚姻が結ばれることになっていた。
だからそれまでに婚約を破棄してみせると言って彼は奔走していた。立場が立場のため簡単にはいかない様子ではあったけれど、同じ未来を見ていることが幸せで、愛を深めながらいつか来る日を待ち遠しく思っていた。
「皆も知っての通り、ヴァディム・ディメイズとエカテリーナ・ヴェレスは婚礼を挙げる!」
一学年上のヴァディムが迎えた卒業式の会場で代表として壇上に立った彼が張り上げた声に、その言葉に、セレニカは耳を疑った。
「時期は半年後だ、無論この場の皆を招待しよう。盛大に祝ってくれ!」
隣に並んだエカテリーナと手を取り合い、視線を交わすヴァディム。
生徒も教師も全員が全員「王太子殿下万歳! 妃殿下万歳!」と王太子と婚約者を褒め称える声を上げている。
何が起きているのか、セレニカにはわからなかった。その背後には友人たちが控え、二人を祝いにこやかに拍手を送っている。目の前で展開する現実に、理解が追いつかない。
ヴァディムはセレニカを選んだはずで、いつだって優しくて、愛していると囁いて、……そう、それこそ昨日だって愛を交わしたところだというのに。
混乱から目眩を起こし、傾ぐ身体を支えるため会場の端に寄る。わあわあと騒がしい音に耳を塞いで、その場に小さくなって目を閉じた。
「セレニカ・ヤーガ」
どれくらい経ったのか、肩に置かれた手に意識を引き戻されて目を開けると、そこにはヴァディムの顔があった。いつもと変わらない凛々しい彼に、セレニカはそっと息を吐く。
ああなんだ、悪い夢を見ていた。白昼夢だなんて疲れているのかもしれない。
「夢から覚めたか」
白昼夢を見ていたことまでお見通しなのね。身体を起こして微笑みかけるセレニカに、しかしヴァディムは手を差し出すことはなく、眼差しは冷たく、まるで知らない人物のよう。
彼の名前を呼びかけようとして、しかしどうしてか声にならない。
「底辺貴族では子を産ませるわけにもいかないし、側妃にすらなれない。ここで終わりだ」
座り込んだままのセレニカに、見下ろして向けられる淡紫の瞳が、光を受けてかほのかにきらめく。
もうざわめきは何も聞こえない。
震えだした身体を、自身の両腕で抱き締めるしか出来ない。
「今まで幸せだったろう」
彼の声だけが、低く甘く、セレニカの中に響いた。




