私が文でございます
あまりにもゆっくりと歩んだため、資朝の足音はほとんどしなかった。代わりに聞こえてきたのは二人の女君の会話だ。
「ミクちゃん、東宮さまはいつ来られるの? もう一月も顔を合わせてない」
「御匣殿(侍従のこと)です。ミクちゃんと呼ぶのはおやめください。北の方」
「貴女こそ。月影さまとお呼び。だってあの人が呼んでくれているように聞こえるのだもの」
聞き耳を立てるのも良くないと思いつつ、かと言って急に足音を立てるなどして驚かせるのも得策ではない。如何ともし難い状況になった。
「もうすぐ会えますよ。だからあたしを東宮さまの代わりにしないでください」
「でもでも~!」
「おやめください、月影さま。もう何歳なんですか、あなた」
キャッキャッとかしましい話だ。女君というのは男が見ていないところではじゃれあっているのか。
資朝が和んだ瞬間、床がギッと音を立てた。
「あっ」
挙げ句、声まで上げてしまう資朝。表情一つ変えていないが、半端な姿勢のまま廊下で地蔵と化している。
その姿を十二歳ほどの女が奥の間から身を乗り出して盗み見た。というか、目が合った。
「うげ」
その少女は見るからに面倒くさそうに口を半開きにした。目がくりっとして可愛らしいが、いや、あれが月影の君ではないだろう。きっと一緒に話していたミクちゃんという人物だ。
「ミクちゃん、ミクちゃん! 誰だった?」
中からウキウキした声がする。
ここで変な奴だと報告されては後が面倒だ。資朝は腰帯に手をぎゅっと掛けて、えいやっと奥の間へ飛んだ。その勢いのまま頭を垂れる。
「日野蔵人資朝でございます。此度は一つお伝えしたいお話があって参りました」
沈黙。
さらに、沈黙。
息が詰まりそうになった頃合いで、傍らに立った少女が板の間に腰を下ろした。
「日野さまと申しましたか。お噂はかねがね。宮廷一の賢才が北の方へどのようなお話を?」
資朝は面を上げた。ミクちゃんと呼ばれた少女は肩上げのない着物(つまり成人女性である)を召していた。
「北の方はとても頭が切れるとか。ぜひ知恵をお貸し頂きたい」
彼女は背後を気にした。かなり目の細かい御簾がある。ここに月影の君がいる。顔は見えない。だが、西日で輪郭がふっと見える。美しい黒い髪だが、ぼんやりと顔の肌色が分かった。少し身を乗り出してこちらの様子を伺っているらしく、御簾が揺れた。
だが、少女の甲高い声がピシャリと資朝の視線を引き戻す。
「なりません! であれば東宮さまにお伝えなされば良いではありませんか。なにゆえ日野さまが」
その通りだ。資朝だってこんな伝言役は出来れば御免被りたい。しかし、東宮の心配事を減らすのも蔵人の務めなのだった。
「それは……、私には推し量られぬ深い理由があるのでございます」
言葉を濁す。正直に申したところで呆れられる。
「ですが、北の方は身重。不吉な事は障ります」
そうなればそうくるのは資朝も分かっていた。
「もちろん北の方の体に障るような話は避けてお伝えします」
「ならば文(手紙のこと)で良いではございませんか?」
その通りだ。しかし、資朝は下がらない。
あの東宮の顔色を輝かせるお人と話してみたかったからだ。
「……私がその文でございます!」
あまりに苦し紛れすぎるか。
チラリと御匣殿へ目をやると、目が潤み始めているのが見えた。
「で、ですが北の方はこれから夕餉ですし」
気圧されながら、すんでのところで御匣殿は食い下がる。
裳着(いわゆる成人の儀のこと)したかしてないかの女君に迫るのはかわいそうだ。さすがに下がるべきか。資朝は押し黙った。桜の枝の謎はたぶん一人では解けないし、東宮にがっかりされては出世にも響きかねない。
どうしたもんかと資朝は仏頂面をさらに無愛想にしていると、その声は意外なところから聞こえた。