花ぬすびと
「ここでお待ちを」
その言葉を清涼殿の軒で四半時(十五分)に一度は聞いて、三回目。やっと治天の君にお見通し願えたと思えば、急に横入りした公卿のせいであっという間に会見が終わった。それも頷き声が御簾の先から聞こえるだけで、東宮の文は蔵人越しに手渡しとなる。なんと無礼な! 東宮に対してあまりにも無礼ではないか。憤る暇もなく、治天の君付きの蔵人に軽くあしらわれる。
「東宮の蔵人は自由にできてうらやましいことですわ」
あしらわれついでに嫌味まで言われた。
腹立たしかったのでわざとゆっくり帰ることにして、漢の水軍のふすまを見に行った……つもりだったが、奇っ怪な手足の人が描かれたふすまを見た。時の簡(時計)があり、東宮から離れて半時(一時間)は経ったらしい。これは時間を空けすぎた。できるだけ早足で戻る。東宮は先ほど歌会があった場所に居た。
「資朝! どこまで行ってたんだ」
「すいません、東宮さま」
資朝は南庭への階段を降り、敷き詰められた玉砂利の庭に足を下ろす。東宮より高い場所に居るのは蔵人としてよろしくないことだ。その意を示そうと玉砂利の上に膝をつこうとしたが、止められる。
「いや良い。それよりもこれを見ろ」
中腰で天を仰ぐ。東宮の光る顔の横に桜があった。
「美しゅうございますが……?」
「そうだろうが、そうではない! これだ、これ」
しれっと自分の美男子ぶりをお認めになさった東宮は桜の枝を指さした。
こうして近くで見ると桜の芯が赤みを帯び始めているのがわかる。紫宸殿の南庭は暖かいからこの桜は京で最も早く咲く。だから最も早く散るのだ。だが、それがどうしたというのだろうか。
「申し訳ありませんが、東宮さまが人を散らして、またその上で騒ぎ立てるようなほどのものが分かりません」
「どうした、宮中一の賢才が聞いてあきれる」
「それは人々の勝手な噂。しかし、それでも分かりませんよ」
「ほら、ここを見ろ。枝の半ばだ。筋のように皮が剥けており、誰かが手折ったのが分からないか?」
言われてみればたしかに、桜の枝がそこで折られているようだ。資朝は枝をつまんで、ひねって裏表を確かめると、折られたところから幹の方に向かって皮が小指の長さほどめくられているのが見えた。
「桜の樹皮は硬いですからね。手で折ろうとすればこうもなるでしょう」
「そうだ。これは一大事だぞ。お主、何か知恵を貸せ」
東宮はわざと資朝の隣に詰め寄った。資朝より二つ年上の東宮は資朝よりやや背が高い。こうやって話していると兄弟に似た距離感も覚えるほど。
しかし、それは気持ちが通じ合っているならの話で、今の資朝には東宮の心中がてんで察することができなかった。桜の枝をつまんだままじっと見つめても何が分かるわけでもない。
「失礼ながら、何が一大事なのでしょうか?」
「知らんのか? この桜の枝を折ったら大罪だぞ」
「え」
資朝は素早く桜の枝から手を離した。
大罪だとは聞いたことがない。何なら先ほどこの桜の下で、桜を一枝持った者を見かけたくらいだ。
「俺としちゃ、あまり大事にはしたくない。帝に知れればタダでは済まぬ」
「はぁ」
「腑抜けた返事をすな。お主には盗人を探してもらうのだからな」
「それなら近くの検非違使(警察)に伝えて参りましょう」
「いいやだめだ。言ったろ、大事にはしたくないと。検非違使など使えば余計に騒ぎになる」
それを東宮がおっしゃいますか、とは資朝は言えなかった。代わりに周囲をわざとらしく見回すと、東宮の様子に気もそぞろな大覚寺統の公卿たちはバツが悪そうに目を伏せた。気になるけど関わりたくない魂胆が丸見えだ。
「わかりました」
他にも蔵人は居る。資朝は返事をしながらもそちらへ目をやるが、やはり目を合わせない。
「宴から帰る者を監視してそれらしい者を引き止めておけ」
「はい。ですが、私では止められぬ者も出るかと」
蔵人の中でも上との繋がりが深い家に生まれた者がいる。そういう人物の方が適任者だ。京は生まれが物を言うのだから。
「いや、資朝がやれ。お主は仕事ができる。それに、従わない者には中務卿の命と言えば良い」
たしかに、それで引き止められぬ者は宮中では帝か上皇くらいのものだ。