紫宸殿へ随行す
花見、当日。紫宸殿は内裏の正殿だ。と言っても、火災が相次ぎ現在の内裏は紫宸殿と清涼殿しか残っていない。それでも花見はやる。もちろん治天の君があらせられるからだ。この花見は公卿たちにとって互いの力関係を推し量る場でもあった。
「そういえばお主、昇殿は?」
「いえ、実は一度も」
昇殿とは治天の君がおわす清涼殿に上がることだ。一年前に従五位下に叙爵したから昇殿できる位を得たが、在位の君に付き従って清涼殿へ赴く機会を得られなかった。
「ならちょうど良い。これをアチラへ届けてくれないか?」
文を受け取り、『アチラ』を見やる。上流貴族がわんさかと居る広間の奥で人だかりが出来ていた。位が高い人のところに人は集まる。だが、持明院統と大覚寺統の二つの皇家が顔を突き合わせることはない。間を行き来するのは資朝たち蔵人や付き人だ。資朝も人の合間を縫って歩く。すれ違いざまに声をかけられるが、どれも似た内容。
「おや、これは日野蔵人殿。アチラで蔵人になって右衛門督と話す機会が増えたとか」
意訳すると「大覚寺統に務めることで、代々持明院統に務める父上と揉めているそうだな」である。余計なお世話だ。それにどこでそんな噂が流れているのか。だが、人の噂こそ人の世だ。人は容易く噂に弄ばれ、悪行を働く。
「東宮の文を届けねばなりませんので、これにて」
ゆえに語らぬがよろしい。その場を足早に去る。
「アチラの『東宮』でしょうに」
背中からそんな声が聞こえたが、聞こえないフリをする。
現在、治天の君は持明院統だ。治天の君がおわす清涼殿へ行くため、南側の縁側を通ることにした。しかし、外に出るや否や満開の桜が目に入り、さすがの資朝も足を止める。資朝の周りには同じく足を止めた公卿や中流貴族たちが、口を開けて桜と青空を仰いでいた。桜の周りではちょっとした歌会も始まっているほど。
「くるとあくと 君につかふる 九重や やへさくはなの かげをしぞ思ふ」
そんな歌を詠んだ男の片手には桜が一枝。周りの者も上機嫌で酒を飲んでいる様子だ。しかし、のんびりもしていられない。どやどやと公卿の集まりが近寄ってきた。
「ああ、やはり! 前相国さまが配流にした者ですよ」
前相国の名には聞き覚えがあった。歴代天皇に琵琶の秘曲を伝える西園寺家の大御所だ。何やらひと悶着ありそうな気配を感じ取り、いそいそと抜け出して清涼殿へと向かう。紫宸殿と清涼殿の北はかつて後宮だったが、今は焼け焦げたままだ。そこに咲き始めの桜があり、なんぞ風流だと思えた。資朝は父上のように自分にも歌の才があればと唇を小さく噛みつつ、清涼殿へ入る。