青薔薇の憂鬱
...とりあえず、状況を整理したい。
昨日、私は確かに家に帰ってから洗濯物をしまい、晩御飯を作って食べ、風呂に入って髪を乾かして寝た。
そして、今日もいつも通りの時間に時計を止めた。それまでは良かった。
目の前で勉強机の椅子に座って、まだまともに体を起こせてない私を見下ろす『私』の姿さえ目にしてなければ。
『私の姿をした誰か』は机に肘を付き、睨むような目付きで私を見ていた。
一瞬、「よくできた人形だな」と思ってしまったが、瞬きもしているし、僅かに肩が上下しているように見えるので、多分人形ではない。
とすると、ドッペルゲンガー?っていうんだっけ、自分そっくりで、会ったら殺されるって言う...。
あれ、それってかなりマズくない?
さっきからものすごく射殺さんばかりに睨み付けてくるし、なんか脇腹の辺りにガンホルダー?っぽいものが見えるし。
あ、これ私死ぬかも。
なんとなく最期を察し、ヤバいヤバいと朝から汗だくになっていると、『私のドッペルゲンガーらしき人』はおもむろに口を開いた。
「お前が平井優羽香、か?」
「...え?」
「私こんな低い声出るんだ」ってくらい声色の違う『ドッペルゲンガー』さんの、意外にも普通な質問に、答えをすぐ返せなかった。
というか、この人私の名前を的確に当てた。学校でもなかなか呼ばれないのに。
不思議がって彼女をまじまじと眺めていると、待ちきれなくなったのか、もう一度問いかけた。
「おい、聞いているのか。お前は平井優羽香であっているのか?」
ちょっと怒ったように眉をひそめるので、慌てて答えた。
「ああ、はい!私が優羽香です!ええっと...はじめまして?」
「それを私に聞かれてもな...。まあ、はじめまして、なんだろう」
なんか怖そうに見えて、結構普通の人だ。
でも、私何でドッペルゲンガーと挨拶してるんだろう。これから殺されるかもしれないっていうのに。
もしかしたら、「ドッペルゲンガーに会ったら殺される」っていうの、ガセネタなのかも。噂には尾ひれがついていくっていうし。
うん、きっとそうだ。私のよくわからない質問(とも言えるかさえわからない)にもちゃんと答えてくれた人が、私を殺すはずない。きっとガセネタなんだ。
などと一人でよくわからない納得をしてから、改めてしっかり起き上がり、ベッドの上で正座に座り直した。
見れば見るほど同じ姿をしているが、つり目気味だったり、口元をしっかり結んでいたりと、違う点は数個あった。
何より違うのは、目の色だった。
つい昨日ちょっと非難した夕焼けのように真っ赤で、吸い込まれてしまいそうなのに、向こうから拒否するような恐ろしさをはらんでいる。
目の色の原因を聞きたかったが、先に彼女が話し出したので口をつぐんだ。
「私は、お前の望みを叶えに来た」
「望み、ですか?」
「ああ。お前が望んだこと。確か、友達が欲しい、だったか」
「え、あ、はい...そうです」
いや、間違いではないんだけど、そんな幼稚な感じでまとめられたら恥ずかしくなってくる。だが、ここで話を止める訳にもいかないので、頷いておく。
「それを私が叶えるため、ここに来た。お前が聞きたいのはこれか?」
「え?」
「だから、ずっと不思議そうな顔をしていたから、聞かれる前に答えた。他にあるか?」
つまり、私が質問する前に、質問内容を予想して答えたのか。けっこうハイスペックな人だな。
「私がこの姿な理由は知りたいか」
「あ、はい。教えてください」
「私はもともと、精神体だけの存在なのだ。お前たちのような実体を持つ生き物からでは、ただの黒い靄のようにしか見えないだろうから、こうしてお前の体を写しとって私の実体にしている。以上だ。わかったか」
「はい、よくわかりません」
私の素直な回答にでさえ「つまりだな」とわかりやすく説明しようとしてくれる。やっぱりいい人だ。
「要は『ヒョーイ』みたいなものだと思えばいい」
「ヒョーイ?」
「憑依だ。お前ら人間の言う、幽霊とかが人間に取り憑くということだ」
なるほど、幽霊のようなものか。とすると...
「...あなた、幽霊なんですか?」
この質問には、流石の彼女もはぁーっと大きなため息をついた。
いやだって、今の話の流れだとそういうことじゃん。私の体に憑いてるってことなんでしょ?じゃあこの、今話してる人はつまり、そういった類いのもので...
「...お前な、幽霊が人間の体を複製して意のままに操れると思うか?というか、そんな話聞いたことあるのか?」
「な、ないです...」
「だろう?私は幽霊じゃない。そもそも、そんなのは人間が勝手に作って勝手に怯えている、ただの妄想だ。死んだらそこで終わり。天国も地獄も冥界もない。そんなのがあったら、とっくに証明されているだろ」
「そ、そうですけど...夢がないですよ、そんなの」
「どうかな。なんにせよ、私は幽霊ではない。ただの精神体だ。それだけは覚えとけ」
なんか、自分の小さい頭のせいで無駄な労力を消費させてしまった。
まあ、でも正直仕方ない、なんてったって私の通知表はちょっと人にお見せできないレベルの数字を記録しているのだから。絶対に誰にも言えないくらいの数字を...
「はぁ...お前、こんなんだから成績は2から一向に上がらないんだ。そんなファンタジーな考えこそ、忘れるべきじゃないのか?」
......え?
「ぎゃあああああああああ!!!!なな、何で知ってるんですか!?」
バッとベッドの上で立ち上がり、椅子に座った彼女を見下ろす体制になった。
それから高速で私のちっぽけな頭は処理を始めた。
いや、おかしいおかしい、確実におかしい!通知表はまだ学校にあるはずだ。今日会ったばかりの彼女が知るはずがないのになぜ!?
「ん?いやすまん。そういう体質なんだ」
人の成績を見破る体質!?そんなデリカシーの欠片もない...!
あるいは人の秘密を暴く体質なのか?なんにせよ、これ以上知られる訳にはいかない...!
「落ち着け、悪かったから。そんな悲鳴をあげる程だと思っていなくてな。そんなに気にしているのか、数学2」
最後の方はボソッと呟くように言ったが、傷心の女の子に呟きは効かない。けっこう拾いやすくなるのだ。
思わず「ううぅぅ~...」と不気味な唸り声が漏れる。
もう最悪。もし友達できても、絶対成績を公開しないようにしようと決めていたのに。なんて人だ、侮れない(侮ったことないけど)...!
「...にしても、本当に何でわかったんですか?どっかに書いてはないはずですけど...」
一旦冷静になって考え直してみる。
どう考えても『そういう体質』では説明できない。
私の成績を、数字どころか教科まで正確に当てたのだ。エスパーとか、非現実的なものではないと納得いかない。
彼女は少し考えてから、「口外しないと約束できるか」と聞いた。
私はすぐ頷いた。
「...信じられないかもしれないが、私は物事を見たり聞いたりするだけで、それの詳細が全てわかる。お前を見た時も、さっき当てた成績や、身長体重、SNSのアカウント名からつぶやきまで知った。とはいえ、流石に過去や未来はわからないがな」
本当に非現実的なものだった。
この人は、誰かを一目見ただけで、その情報の全てを把握してしまうと言っているのだ。
物においてもそうなのだという。
要するに、本当に全知全能ってやつなのだ。
少し前に、この人のことをハイスペックだと思ったが、まさにその通りだったというわけだ。
思わず「いいなぁ」と本音が漏れる。
だって、そんな力があれば、テストだって100点取り放題だし。苦手な数学も、2とか絶望的な数字を記録しないで済む。それどころか、オール5も夢じゃないのだ。
人並み以下の馬鹿にとっては喉から手が出るほど欲しい力になる。
だが、そんなことを呟いた私は、鋭い視線を返された。
初めて会ったときと同じ目付きで睨み付けられ、思わず身をすくませる。
「...本当に馬鹿だな。こんな力、あったところで得にならない。」
「そ、そうですか?すごいと思いますけど」
「...そう思うか?知りたくもない情報で頭が埋め尽くされて、いらない記憶を捨てることもできず、ただ波に呑まれるだけのような日々を強いられる。どうして知能に溺れなくてはいけないのか...『奴ら』の考えが理解できん...」
だんだん言葉が萎んでいくのを感じながら、彼女の言いたいことについて考えた。
情報、記憶、知能...
彼女を構成するものの名前。
彼女はきっと、溢れてしまいそうな程のこれらの中で毎日を過ごしてきたのだろう。
それがどれ程の量になるのか、私には想像できない。
だが、これだけはわかった。
彼女は情報を送り込んでくる、この力が大嫌いだ。
私にとっては羨ましいが、実際それを手に入れてしまったら、彼女のように情報を嫌いになってしまうのだろうか。
『わからないことが全てわかってしまう』のは、いいことなのだろうか。
それって、人生が面白くなくなっていくのかな。
今でも面白くないクセに?
自分の心の呼び掛けに驚き、思考の世界から一気に引き戻された。
微かに鼓動の音が聞こえ、思わず深呼吸を繰り返した。
「おい、どうした。気分が悪いのか?」
彼女は私を心配そうな顔で覗き込んできた。
ああ、やっぱりいい人だ。初対面なのに気遣ってくれる、優しい人。
でも、やめてほしい。甘えてしまいたくない。
「いえ、大丈夫です。心配させてすみません」
できるだけ笑顔を作り、心配させないように努めた。
突然、いつかの笑顔がふっと頭をよぎった。
ずっと忘れなかった顔。少し悲しくなったが、忘れようとせず、そっと頭の片隅に戻した。
「すみません、それで...ええっと、望みを叶えるって具体的にどういうことなんですか?」
とにかく話を戻し、いろいろ聞かなくては。
「ああ、それはいいんだが...今日は何曜日か知っているか」
「はい?今日は金曜日、ですね.........あ」
何が言いたいのかわかってしまった。
おそるおそる目覚まし時計を見る。
「......めちゃくちゃヤバい...」
実感してからの準備の速さは、それはもう速かった。
流石に朝ご飯はヨーグルト1つだけにした。今日は授業中お腹が鳴らないかが心配だ。
出かける直前、自分の部屋を振り返った。
「あの、ご飯はパンとかしかないですけど、好きなもの食べてください。それから、申し訳ないですけど、洗濯機が止まったら干しといてもらえますか?あと、その...」
「名前、なんていうんですか?」
「...エル」
「...わかりました。これからよろしくお願いします、エルさん」
自分ができる限りの笑顔を部屋に向けて、階段を下りた。
◇◆◇
今日学校であった不思議なことをいくつか挙げてみよう。
・1日中青山さんに話しかけられなかった
・普段はゴミ箱に突っ込まれている上履きが下駄箱にいた
・気味悪がるみんなの視線が気にならなかった
・いつもはまともに目もあわせてくれない先生に授業で指された(その時驚いて変な声で返事をしてしまった)
・帰り際ドア近くの生徒に会釈された ...など
ざっと挙げてみただけでこんなに奇妙なことがあった。
一体何があったのだろう。いや、いいことなんだけど、こうも急に態度が変わると不安にもなってしまう。
頭を捻ってみるも、原因は一つしか思い浮かばなかった。
エルと名乗ったあの子。
私の望みを叶えると言っていた。もしかして、いじめをなくすってことなのかな。
それは嬉しいんだけれども、一言くらい言ってくれればいいのに。
あ、いや、今朝は大体私のせいで忙しかったのだった。そりゃあ声もかけられないや。
とりあえず、帰ったら聞いてみよう。
やけに大きな豪邸みたいな家の前を過ぎ、いつものように一人で家へ歩を進めた。
ちなみに、学校はギリギリ遅刻しないで済んだが、来たときには疲れきって足がパンパンである。今だってちょっと歩くのも辛い。
「ただいま~」
疲労困憊を全面に押し出した声で家の中へ呼び掛けた。
...返事はなかった。期待してなかったけど。
エルさんが来たからといって、生活リズムを変えるわけにはいかない。
最初に着替えようと二階へ階段を上った。
自分の部屋に入ったところで異質なものに気がついた。
「え、なにこれ」
ドアを開けると、机とベッドと逆側の壁の間に変な隙間みたいなものが浮かんでいた。
黒くて細長く、やたらデカイひじきみたいに見える。
ひじきは何かをするでもなく、ただそこに在るだけだった。
僅かにうねうねと波打つそれに、好奇心と不審を感じて近づいた。
近づくにつれひじきはどんどん大きく広がっているように見え、より一層興味が掻き立てられた。
人を一人飲み込めそうなくらい大きくなった隙間に触れようとした時、
「待て、こっちに来るな」
ぴたりと手が止まる。
「今の声は...?」
「私だ。今そっちの世界に行くから動くなよ」
違う。私が聞きたかったのは『今の声は誰か』ではなく『今の声はどこから聞こえたのか』だ。
部屋には私と巨大なひじきくらいしかないし、透明化でもしてるのかな。
...いや、そもそも『そっちの世界』って何?
突然、黒いものの縁が大きくうねる。
ヒィッと小さく悲鳴が漏れた。
ぐぐぐ...と奇妙な音がした、と思ったらふっと何かが黒い隙間の中で影を現した。
影はどんどん近づいて来る。
思わず後さじって恐怖で体がガタガタ震えたが、目を離すことができなかった。
やがて影は姿を現す。
その先を凝視して、私は驚愕した。




