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最弱の魔王  作者: よーき屋支部
第二章 機械人形と円舞曲を
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 根負け?

週明けの月曜日。


 金曜日の昼休みに受けたダメージをほどよく回復させた黒部が学校に来ると、クラスの雰囲気がどことなく寂しげだった。


 すわ何事かと考えを巡らせるも、クラスの事情に疎い黒部が答えを知るはずもない。


 そんな日もあるのだろうと納得しかけたところで、クラスメイトの、とりわけ男子の視線が向かう先を見て納得する。


 今日から、正確には金曜日の午後から、一年C組のアイドル峯村聖が学校を休んでいるのだ。凹んでいたのでそれどころではなかったが、今思えば、金曜日の午後も心なしか静かだった気がする。


 女生徒一人の休みでこうも空気が重くなるものかと驚いた黒部であったが、峯村聖ファン倶楽部なる非公認団体が滞りなく結成された彼女の影響力を思えば納得もできる。


 だからといって、黒部に何ができるわけでもない。ここで自分がクラスの憂鬱を打破せんと立ち上がろうものならば、全ての鬱憤が己に降りかかるだろう。これまで無視や嘲笑で済んでいた仕打ちが、いじめという具体的な事象となる可能性もある。


 これ以上自身の立場を危うくする必要もない。そう結論付けながら、ホームルーム前の時間を寝たふりをしてやり過ごすことにした。





 ホームルームも無事に終わり、各々が一限の準備を始める中、数日ぶりに味わう感覚が黒部を襲っていた。


 入学式の翌日から無遠慮に向けられていた、自分を観察する誰かの視線だ。


 黒豚無料鑑賞会も一過性の話題に過ぎず、近頃はブームが去った動物園の檻よろしく落ち着いていた。だからこそ、これまでならば複数の視線に埋もれて気づかなかったであろうそれを感じ取れたのだ。


 また自分が何かしたのだろうかと、若干疑心暗鬼になりつつ辺りを見回す。教室の扉を確認するまでもなく、視線の送り主は特定できた。


「じーっ」


 お嬢様だ。


 黒部に熱い視線を向けていた人物は、先日彼がちょっと気持ち悪い感じになりながら勧誘を行った紀久淑であった。


 席順の都合上、紀久淑は黒部の斜め前に座っている。


 その位置から黒部を盗み見るように覗いていた。斜め後ろを、肩越しに振り返りながらだ。


 小さな両手は机の上に立てられた現国の教科書を掴んでいる。その陣形は、自分が別のことをやっていても教師から隠せるという古から受け継がれた絶対防御。


 因みに、まだ授業は始まっていない。次の授業は現国でもない。


 どうやらこのお嬢様は、間違った庶民文化をお勉強なさっていらっしゃるようだ。


 彼女が英語のジョージ先生に怒られる前に教えてあげるべきかと黒部は悩む。その布陣は早弁を行う時の絶対防御なので、お弁当も出して食べ始めなければ完成しないのだ、と。


 我ながらうまいこと言ったんじゃないかとドヤ顔で目を合わせると、慌てた調子で前に向き直ってしまった。際しては持っていた教科書を放してしまい、背表紙と机が織りなすカーンという音が教室に響き渡った。


 その音はまるで、青春映画の始まりを告げるカチンコが鳴ったようだと黒部は思った。


 今のはイマイチだったなと気持ちしょんぼりしながら授業の支度を始める。顔を赤く染めながらおぶおぶするお嬢様の姿を見て、教室の雰囲気がほっこりしたのは言うまでもない。





 一限の英語が恙なく終了し、生徒が思い思いの時間を過ごす十分休み。再び例の視線が黒部を襲った。


 犯人は分かっていたのでゆっくりとそちらを見る。


「じーっ」


 お嬢様だ。


 先のホームルーム終了時と同様、肩越しから後ろを覗き込むようにこちらを見ていた。


 振り向く姿勢も一緒ならば教科書を持つ両手まで一緒だ。立てかけられた教科書も、一限で使用された英語ではなく現国。


 お嬢様が現国の教科書へ向ける絶対的な信頼はどこから来るのだろうか。


 因みに、今日は現国の授業がない。従って教科書も必要ない。


 お嬢様が何をしたいのかは不明だが、ひょっとすると彼女はこれをしたいがために現国の教科書も持ってきたのだろうか。


 それと、口で言ってしまっているあの擬音は一体どういったアピールだろうか。そもそも何がしかのアピールで合っているのだろうか。ちょっと可愛いから困ってしまう。


 目をあわせるとプイっと顔を背けるお嬢様。今度は教科書を落とさなかったようだ。ただし、強く掴み過ぎて皺になってしまっている。


 黒部が顔を逸らすと、またチラチラとこちらを見てくる。



 ここにきて、彼女が奇行を行う原因は自分にあるのだろうと気づく黒部。流石に無視はできないと考えを巡らせた。


 暫くして、先日のパーティ勧誘に原因があるのではないかと思い至った。きっと彼女は、落ち込んでいた黒部に辛辣な態度で接したことを気にしているのではないかと考えたのだ。


 黒部へのお断りが示すように、彼女は高圧的な態度で相手に接する場合が多い。後になってその時の対応を思い出して、死体蹴りに近い罪悪感を感じてしまったのかもしれない。断るにしても、もっと違う言い方もあっただろうと。


 そんな良心の呵責から、面倒ながらも気にかけてくれているのではなかろうか。 


 だとすれば、黒部がやるべきことは決まっている。自分から紀久淑さんに声をかけるべきだろう。悪いのは急に声をかけた自分で、彼女は悪くないのだから。


 昨日の無礼を謝って、もう気にしていないと伝えなければ、心優しい彼女はずっと無意味な行動を繰り返してしまう。


 意を決して、黒部は立ち上がる。逆上して襲いかかってきたと思われないよう、相手を怖がらせないようにゆっくりと彼女の席へと向かう。


 一方、これに気づいたお嬢様はというと、わたわたとしながらあっちを見て、そっちを見て、手に持った現国の教科書を広げて顔を隠した。端からちらりと覗く顔は、何故かドヤ顔だ。


 お嬢様の前に辿り着いた黒部もまた、警戒させないように笑顔を浮かべる。ちょっと待て、本当に笑顔なのかそれ。上目遣いで顎しゃくってるようにしか見えねえぞ。


 まずは朝の挨拶から。そう思い口を開く。


「あの」


「あら黒部さん。ごきげんよう。ところで、こうして貴方から話しかけてくるということは、どうやらわたくしとパーティを組むのを諦めていないのですわね。先日もお話しした通り、わたくしに並び立つ仲間は並大抵の御仁では務まりませんの。ご理解いただけまして?それでは、わたくしは失礼させていただきますわ。行くところがございますので」


 黒部の言葉に被せるよう、早口で捲し立てるお嬢様。黒部が割り込む隙を与えぬまま、言いたいことだけ言って足早に立ち去ってしまった。


 何を言いたかったのかも、何を言う間もなかったのも黒部にはどうでも良かった。彼の疑問はただ一つ。


「もう授業始まるんだけど、どこに行くつもりなんだろうか」


 授業の始まりを告げるチャイムが同時に鳴り響いた。



 その後、黒部は紀久淑と話す機会を得られないまま一日を終えることになる。


 チャイムが鳴り終わるのと同時に戻ってきたお嬢様は、顔どころか首まで真っ赤に染めながらプルプルと震えていた。どれだけ恥ずかしかったのだろうか。


 以降は避けられているようで一向に捕まらず、休み時間ごとに向けられる紀久淑の視線にクラスメイトからの冷たい視線まで加わり、お陰で黒部は肩身の狭い思いをしたのだった。




 

 そして次の日。


 昨日の反省を活かした黒部は、紀久淑に声をかけるのを諦めた。紀久淑に言われた言葉を信じるならば、これ以上の接触は相手を不快にさせるだけだ。


 であれば、黒部にできることは何もない。


「じーっ」


 視線を感じるし、例の擬音もまた健在ではあるが、これ以上は藪蛇だと思いスルー。正直気になって仕方なかったが、表面上は何もないよう取り繕うのだった。


 以下、二人の攻防をダイジェストで。


 きくすみ の みつめる!


 くろべ には こうかがないようだ……。


 くろべ は ようすをうかがっている。


 きくすみ の にらみつける!


 くろべ は とまどっている!


 くろべ の スルー!


 きくすみ は うろたえている!


 一連の攻防は、昼休みを迎えることで一旦の収束を迎える。決まり手は紀久淑のお腹から響くなきごえだった。





 午後の授業は平和に過ぎていった。昼休み明けの五限目は体育で男女が別。続く休み時間は着替えに費やされ、紀久淑が黒部をにらみつける余裕がなかったのだ。


 偏にこれは、授業中によそ見をするなど淑女として許されない行為だと思っていた彼女が、黒部の観察を休み時間限定で行っていたことに起因する。


 そうでなければ、今日の攻防はもっと早くに決着を見せていたかもしれない。互いの消耗具合を見れば一目瞭然であろう。


 黒部もまた、これまでのやり取り時を受けて疲弊していた。明日以降もこれが続くのかと考えるだけでげんなりである。


 お嬢様からの視線は、時が経つ毎にじーっからじろじろに。じろじろからギロリに変わっていった。明日の開幕がギロリだった日には、とりあえず土下座でもしてみようかと割と本気で考えている。


 お嬢様の眼力マジやべえ。全く必要のない経験をしたところで、とっとと帰ろうとした。


 したのだが、彼に声をかける者があった。


「お待ちなさいなっ」


 お嬢様だ。


 これには黒部もびっくり。


 昨日からの奇行にどのような意図があったのかはわからないが、少なくとも接触を望んではいないと思っていたからだ。


 いったいこのお嬢様は、何がしたいのだろう。俺に何をしてもらいたいのだろう。


「わたくしの勧誘は諦めたのですか?」


 諦めたも何も、ばっさり切り捨てたのは彼女の方ではないか。


 いよいよもって訳が分からなくなってきた黒部だったが、向こうから話しかけてきてくれたのはありがたかった。とりあえず、昨日言えなかった謝罪をこの場を借りてやっておこうと口を開く。


「ああ、それだけど」


「わたくし、あれから考えましたの。あれだけ情熱的な言葉を受けて、貴方の想いを蔑ろにするのは申し訳ないと。ですので一回、そう一回だけ!貴方のためにお試しでパーティを組んで差し上げますわ」


 彼女のポジティブな思考と慣れないぼっち生活が融合を果たした結果、飛躍した思考回路は伸身の新月面を描いて面白い着地点へ収まった。


 紀久淑の中の黒部とは、金曜日、昨日と自分に熱烈なアプローチを続け、けんもほろろな結果に打ちひしがる哀れな持たざる者であり。今日の自分は、度重なる不幸に茫然自失となっている彼へ、優しく声をかけた持てるものという風に解釈されていたのだ。


 要するに、ぼっち慣れしていないお嬢様が寂しくなってこじつけを作ってかまちょしているだけだ。他にも人はいただろうに黒部を選んだ理由は、声をかけてくれた彼に対する彼女なりの感謝の気持ちである。


 一方、これを見かけたクラスメイトは穏やかではない。二人の話を聞きながらもひそひそと話し始める。


「マジかよ、相手黒豚だぜおい」


「お嬢様って、何かズレてんのかね」


「いい加減一人は嫌だったんじゃね?」


「きっとそうだよ。紀久淑さん可哀相じゃない?」


「寂しいんだよきっと。誰か誘ってあげればいいのに」


「お前ちょっと行って来いよ。このままじゃ黒豚が調子に乗んぞ」


「え、お前行けよ」


 とはいえ、遠巻きに眺めるばかりで何もしてこない。


 それもそのはず。黒部と紀久淑の二名は、理由は違えどクラスでも持て余し気味だった二人組である。そんな二人がどうなろうが割とどうでも良いのだ。


 一部の生徒、特に男子は惜しいことをしたという顔をしているが、強くは言わない。


 何故ならば、クラスでも発言力の強い女子グループがそれとなく放置する流れを作っていたためだ。


 見目麗しい紀久淑に黒い嘲笑を浮かべる女子達の一体感は凄まじい。口では同情しつつも、自分達はこの件に関して何もしないと雰囲気が語っていた。


 彼女らを敵に回して紀久淑の擁護に回ろうものならば、次に村八分を受けるのは自分の方。始まったばかりの高校生活を棒に振れる男子生徒は存在しなかった。


 おかげで何の妨害も受けずに話を進められた黒部は、嬉々としてこの提案を受けることにした。


 何といっても、仲間と共に受ける初めてのクエストだ。たかが一日。されど一日。


 彼は今日という日を一生の思い出にする心持ちで、万感の思いを込めて返事を返した。相変わらず重いなコイツ。


「ありがとう。よろしくお願いします」


「勘違いしないで下さいまし。一回だけですからね!」





 放課後。


 とっておきの場所があると紀久淑に案内されたのは、体育館横にある部活棟だった。


 せっかくの初クエストなので、静かで落ちつける喫茶店にでも行こうかと誘った黒部だが、丁重にお断りを入れられた。


 喫茶店やファミレスで駄弁りながらのプレイに憧れていた黒部は少し食い下がろうとしたが、誘われた立場にある以上強くは言えない。


 渋々要求を受け入れる形にはなったが、部室棟を見渡して考えを改める。


 校舎とは違い赤茶色に塗られた鉄筋コンクリート四階建ての建物は、築年数を経たアパートのようにも見える。ひょっとしたら、黒部の住む木造アパートよりも上等な造りをしているかもしれない。


 生まれてこのかた部活に所属した経験などない黒部には、彼には縁遠いこの空間はとても新鮮なものに映った。


 その建物の三階。最も奥まった扉の前で止まると、お嬢様は鞄の中から鍵を取り出す。


 造りもさることながら、部屋の鍵もマンションやアパートに使われていそうな形をしており、なじみのない紀久淑は慣れない手つきで鍵を差し込み、きしむ扉の先へ黒部を招き入れる。


「どうぞ。床板にはお履き物を脱いであがってくださいな」


「お、お邪魔します?」


 シチュエーションも相まって、まるで女性の一人暮らしにお邪魔するような気持ちになる黒部。自ずと湧き上がる緊張感を紛らわせようと部室を観察する。


 扉をくぐった先に玄関はなく、外履きでも歩けるように打ちっぱなしのコンクリートがまっすぐ続いている。


 床面積の二割ほどを占めるそれの右側に、一段分高く作られたフローリングの床が広がる。綺麗にワックスがけされた床はピカピカに磨かれており、気を付けて歩かないとよく滑りそうだ。


 フローリングの隅、室内唯一の窓辺には折り畳みの長机とパイプ椅子がいくつか置いてある。その隣に設置された六枚扉のロッカーが、生活感溢れる空間の中で唯一部室という雰囲気を作り出していた。


 コンクリートを挟んだ反対側にはもう一つ扉があり、シャワールームのプレートが張られている。


「余裕で住めるぞ、ここ」


 自身の生活環境を鑑みて敗北感を覚える。彼の呟きが耳に入ったのだろう、室内を見回してお嬢様から返答が。


「流石にそれは……そもそもキッチンがありませんわ」


「ああ、そっか。でも、俺料理あんましないからなあ」


 目分量による家庭料理のような何かしか作れない典型的な男子高校生だ。事実、彼の弁当は大体が茶色いおかずと冷凍食品で埋め尽くされている。


「わたくしもさっぱりですわ。お菓子であれば多少の心得はありますが」


「そっちの方がすごいと思うけどな。目分量がきかないんだろ?」


「慣れと正確さですわ。もっとも、褒めてもお菓子しか出てきませんわよ。本日は持ってきておりませんが」


「そりゃ残念」


 端に寄せられていた長机を真ん中に移しながらとりとめのない話をする。高校生活初めての四方山話だからか、どちらも自然と笑顔を浮かべる。特に黒部など、先の無様な様子が嘘のように自然体だ。さしあたっては、紀久淑を気遣って机を運んであげる余裕すら見受けられる。誰だよコイツ。


 机の位置を整えながら、ふと、何も置かれていないシンプルな部室を眺めて疑問を覚える。 


「そういえば、ここって何部なの?他の部員は?」


 そう、今の時間は放課後だ。紀久淑さんが何の部活に所属しているのかはわからないが、あまり黒豚が長居してもいい顔をされないだろう。自分はともかく、これを連れてノアを行っていた紀久淑さんが非難を受けるのはよろしくない。


 スタンバイ完了直前で気づく辺り遅すぎるわけだが、初のクエストに浮かれていた黒部を責めてはいけない。


 彼の心配を知ってか知らずか、そもそもそんな心配は無用とばかり、質問を受けた紀久淑は何でもないように答えた。


「ああ、ご安心ください。この部室はわたくしのためにあてがわれたものですので、何部のものでもありませんわ。当然、他に誰かがいらっしゃる心配もございません」


「……ん?」


「ですから、わたくしが学校内でノアをプレイする際、他に気を取られないようにと部室の鍵をいただいたのですわ」


「……マジ?」


「校長先生からのご厚意ですもの、至ってマジですわ」


 しれっと返された。公立高校に入学したお嬢様の影響力パねえ。


 これ以上この話題に触れるのはやめようと思い、買ってきたコンビニ袋を広げる。ペットボトルのジュース、お茶、紙コップ、ポテトチップス、きのこ、たけのこ、エトセトラが所狭しと並ぶ。


「レジでも言ったけど、買ったなあこれ」


「少々はしゃぎ過ぎましたわ」


 鼻歌交じりに買い物カゴを持っていたお嬢様が、テンションの赴くまま買ってきた戦利品がこのお菓子の山である。最終的には頑なにカゴを譲らないお嬢様からコレを奪い取ってのレジ行きだ。重いカゴを持ち上げられずにプルプルしている様はなかなか庇護欲を誘われたが、頑な過ぎて駄々っ子のようになっていた。


 ちなみに割り勘である。当初はお礼の意味もかねて奢るつもりだった黒部だが、会計を見て顔を青くした。流石に一日で五日分の生活費は使えなかった。顔色一つ変えず、むしろ当然だと言ってくれた紀久淑が女神に見えてしまった黒部。げに恐ろしきはマッチポンプである。


「では、さっそく始めましょう」


 コンビニに向かう時点でウキウキワクワクが止まらなかったお嬢様が、目の前に広がる光景に瞳をキラキラさせている。


 彼女のテンションが高いのも無理はない。欲してやまなかったシチュエーションが、今ここに揃っているのだから。


 紀久淑茉奈は、クラスメイトと放課後の学校で、スナック菓子を片手に談笑しながらクエストへ赴くシチュエーションに憧れているタイプのお嬢様だった。


 欲を言えば大勢でこの部屋を使いたかったと思わないでもないが、最初から多くを望んではいられない。


 急いてはことを仕損じる、ですわと気を取り直し、鞄からモノクリエイターを取り出した。


「では、待ち合わせは中央区の冒険者ギルドの前で構いませんわね?」


「あ、ああ。うん、オッケー」


 一方、彼女の切り替えについていけなかった黒部は慌ててモノクリエイターを取り出した。


 その姿を確認して、紀久淑はモノクリエイターを左耳に取りつける。


 携帯端末のアプリケーションを起動させてから、接続時の混乱を避けるために瞳を閉じ、アクセスワードを口にした。


「セカンドサイド、スタートアップ」


 起動と共に流れてくる情報の奔流を心地よく感じていると、脳の一部に浮遊感を覚える。


 思考に割いていた二つ目の意思が、新たな気配を、音を、匂いを認識していくにつれて分割されていく感覚。


 狭い空間に閉じ込められていた思考回路が、処理に併せて新たな空間へと移されていく。うまく言いあらわすことができない快感を覚えながらも、神経が、感覚が接続されて、もう一つの肉体へと反映される。


 産み出された肉体が違和感なく馴染むのに併せて、足裏が地面を踏む感覚が浮遊感を奪っていく。〝もう一人の自分(セカンド・サイド)〟への接続が完了した。 


 閉じていた瞼を開けると、広がる世界はファンタジー。


 正体不明の四足獣が荷車を引き、石造りの建物が立ち並び、石畳の道を多様な種族が雑多に歩く。


 ノアの世界にいくつか存在する、初心者が集まる所謂はじまりのまちの一つ。〝エスタ・キャピタル〟。


 その街並みを見渡す紀久淑の目は、普段以上にキラキラしている。


 何度も訪れたその風景が、今日の紀久淑にはいつも以上に楽しげに映った。


 きっと今日この世界は、忘れられないほどのドキドキとワクワクをわたくしに齎して下さるのでしょう、と。


 現実世界の自分で、目の前にいる男性を眺める。


 接続中なのだろう、目を瞑ったまま背筋を伸ばす黒部の顔も、ワクワクを隠し切れないようなにやけ面だ。


 目の前にいる殿方も、わたくしと同じような気持になっておられるのでしょうか。


 そうであれば嬉しいなと、ノアの自分に意識を向ける。


 自ずと鼻歌などを口ずさみながら、待ち合わせ場所に先んじようと駆けだした。


 さあ、冒険の始まりだ。

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