三人目
試合終了のブザーが鳴る。
数拍をおいて館内にどよめきが広がって行く様子を感じ取り、浮暮波は恐る恐る目を開けた。まず視界に捉えたのは、直前で寸止めした右足を高く上げ、片足立ちのまま静止する木場の姿だ。
およそ自身には再現できない体勢に場違いな関心を寄せたところで、攻撃を受ける側だった男の姿も探す。木場が蹴りを止めているのだから、タタミの上に頽れている可能性はなさそうだ。
視線を木場の後ろ、丁度浮暮波たちからは死角になる位置に向けたところで、お目当ての姿を見つけることができた。
「黒部さん……ご無事だったのですね……!」
距離があるので詳細は伺えないが、大きなダメージを負っているようには見えない。五分間の立ち回りで息こそ上がっているが、その両足はしっかりと畳を踏みしめていた。
「紀久淑さん、黒部さんが勝ちました……っ。木場さんを前に、大きな怪我もなく!」
「いえ、これは……どうなるのでしょう」
浮暮波が感極まって紀久淑に抱き着きながら、珍しく声を張る。紀久淑もそれを優しく受け入れはするものの、表情は芳しくない。
彼女が煮え切らない顔をしているのは、肝心なところで目を瞑っていた浮暮波とは違い、一連のやり取りを観測していたからだ。同様に事の顛末を眺めていた門下生達も、何とも言えない微妙な顔をしている。
「どういうつもりだい?」
「ん? いや、とっさの判断だから意味なんてねえよ」
「それにしたって、もっとやり方もあっただろうに」
「選ぶ余裕がなかったんだよ。こっちの手札なんてたかが知れてる」
「ボクシングの名が泣いてるじゃないか」
「持ってる手札って意味じゃ一緒さ。それを使って戦うのは悪いことじゃねえだろ?」
一同の思いを代弁してか、木場が黒部を睨みつける。これを受けた当人はというと、なんてことない風に飄々と屁理屈を並べ立てた。
「あの……どういうことなのでしょうか?お恥ずかしいことに、目を逸らしていたもので、顛末を理解できていないのです」
「結論だけを述べますと、黒部さんの回避が有効か否か、ですわ」
「はあ……?」
今の二人の立ち位置を見れば、なるほど蹴りの射程を掻い潜らなければ、黒部がそこに立っていることなどありえない。であれば、彼が何らかの手段を用いて木場の蹴りを避けたのだろうと、浮暮波にも理解できた。しかし、それが有効か否かとは何を言っているのだろうか。
新たな疑問が生まれた浮暮波だが、これに答えたのは木場だった。
「立ってりゃ勝ちってルールだから、逃げ回るのはいい、まだ許せる……ただ、転がり回るのは流石にナシじゃないかい?」
「そういわれてもなあ……」
「……はい?」
「そういうことですわ」
つまり、黒部は蹴りを避けたのではなく、潜ったのだ。木場が足を振りかぶるタイミングに合わせて、ひょいと両手をついてしゃがむ。そのままごろんと前転し、文字通り潜り抜けたというのが、浮暮波が目を閉じている間に行われた流れである。
咄嗟にしゃがみ込むのはまだわかる。浮暮波辺りもそうしただろう。何ゆえそこから一動作を増やしたのか。むしろ両腕を上げてガードした方が動作的には楽だろう。
これには木場も目を点にした。こんな間抜けな方法で必殺の一撃を躱されたから、ではない。勝負の判定にグレーゾーンが生まれてしまったからだ。
「アタシが転がった時点で負けだって屁理屈こねたらどうすんだい」
「それな。どうしたら良いと思う?」
「それをアタシに聞いちまうのか……」
呆れ調子に木場は聞くが、黒部はニヤリと笑う。まるでその言葉を待っていたかのように。
「だから、勝ち負けはそっちが決めて良い。こっちはそれに従うさ。色々と気を回してもらったことだしな」
素知らぬ風を装っていた表情を一変、黒部はにやりと人の悪そうな笑みを浮かべる。相手の意図が読めずにいた木場だが、最後に付け加えた意味深な発言を耳にすることで合点がいったようだ。
少しの間をおいて、ものすごく嫌そうな顔をして呟いた。
「……見透かしたようなことを言うね」
「とぼけないんだな」
「とぼけてんのはどっちだ。まったく、ずっとアンタの掌の上だったってわけかい」
「それこそまさか。でも、あえてそっちの言い分に合わせるとすれば、木場さんをモノにする為の点数稼ぎとでも受け取ってくれ」
「はっ、とんだ女たらしもいたもんだ」
「よく言われる。そんなつもりはねえんだけどな」
こういう言葉同士の掛け合いが性に合っているのか、丁々発止と受け答えを繰り返す両者はどことなく楽しそうに見える。どことなく演者じみた言葉のチョイスなどは、紀久淑や浮暮波の琴線にも触れまくっている。
ぜひともパーティに加わって欲しいところではあるが、黒部の発言により選択権は彼女に委ねられることとなった。一行が注目する中、木場が悩まし気に口を開いた。
「……一日考えさせてほしい」
「あれ? 明日学校あんの?」
「明日は登校日ですわ」
「やっべ、休みだと思ってた」
「実は、私もです」
進学校ゆえか、公立校にもかかわらず本国川高校は隔週土曜日に登校日が設定されている。これが思いのほか紛らわしく、現に週休二日組などは休みを満喫する気満々だったようだ。危うく明日を一人寂しく送るところだった紀久淑、辛くもこれを回避である。
話が妙な方向に脱線しかけたが、代表して黒部が話を本筋に戻す。
「オッケー。ただ、一個だけアドバイスしとく」
「なんだい?」
「今後こういう条件を出すときは、ルールはしっかりと決めた方がいいぜ。悪い奴はいくらでもいるんだからよ」
突発的な賭け事という点を差し引いても、木場の提案には穴が多かった。
ただ立っていられれば勝ちならば、何も試合形式にこだわる必要はない。タタミの枠から逃げても、周りの門下生を盾にし続けても勝ちにはなるのだ。黒部は後の関係を思って使おうとしなかったが、それこそやり様はいくらでもある。
こんなことを繰り返していたら、いつか木場は手痛いしっぺ返しを食らうことになろう。選手生命的な意味か、はたまた薄い本的な意味かは分からないが。というより、空手の有段者が一般人と組手をしようとするな。
果たして黒部のお節介が効いたのか、木場も苦笑いを浮かべて答える。
「……もうしないよ、こんなこと」
「そりゃよかった。んじゃ、また明日学校で」
お互い礼を返し、黒部はタタミを後にするのだった。
三人並んでの帰り道。今日はノアにログインする暇はなさそうだということで、散歩がてらゆっくり歩くことにした一行は、先の試合のフィードバックを行いながら駅を目指していた。
会話の中心となるのは当事者である黒部であり、他二人の質問に彼が答える形式を取っている。いくつかの振り返りを経たところで、紀久淑が最も気になっていた話題を上げた。
「黒部さんは、ボクシングの経験がおありなのですわね」
「下手の横好きってやつだけどな。意外だったか?」
浮暮波も隣で頷いているし、やはり触れるのはそこだろう。アバターの動きや引き締まった身体から、黒部が何かしらの競技を嗜んでいることにはあたりを付けていた紀久淑。とはいえ、まさか目の前の弱メンタルが格闘技を習っているとは夢にも思っていなかったのだ。
何故黒服の調査から漏れていたのかは不明だが、ひとまずは謎が解けたので気にしないことにした。
「ええ、てっきり黒部さんは野球経験者だと思っておりましたので」
「なんで?」
「攻撃時の構え方ですわね。それと、その際におあげになる掛け声などから勝手にイメージしておりましたわ」
「あんなシャウト入れる高校球児なんていねえって」
「言われてみれば仰る通りですわね」
それこそ漫画の世界の出来事だ。現実では長々と口上を述べているうちに、ボールはキャッチャーミットに収まってしまう。こういった時事に少々疎い紀久淑であるが、流石に違和感は感じ取れたらしい。
彼の癖が若干誤解を生んでしまったようなので、これについても軽く補足を入れる。
「たまに知り合いとバッティングセンターへ行くから、そのせいだな」
「……寧ろ、バッティングセンターではあの有様なのですね」
「ああ、でも、割と叫びながらバット振ってる人多いぞ」
「怖いもの見たさで赴いてみたいですわね」
「そのうちみんなで行くか」
「私は、バットを構えられるか否かの戦いですね……」
「バッティングセンターじゃなくてもできるね、それ」
若干一名お嬢様よりもお嬢様じみた発言をしているが、もう少し浮暮波の基礎体力が向上したらそれもいいなと思う黒部だった。
そのままの流れで、今度は浮暮波が黒部に疑問を呈する。
「木場さんの意思を尊重する、という結果に落着した点について異論はございません。ですが、降参をせず最後まで試合を継続した点については、何か理由がおありなのですか?」
「うーん……伝わるかわかんないけど、降参したら多分木場さんが仲間になってくれる可能性はゼロなんだよ。でも、最後までやり切ったうえで自由意思を尊重したら、ワンチャンあるんじゃねえかなって」
試合後に木場と交わしたやり取りを思い出すと、まさかこれといった理由もなく最後まで戦っていたわけではあるまい。なにがしかの深謀遠慮があるのだろうと踏んでいた浮暮波だったのだが、返ってきたのは何ともふわっとした回答であった。
それでも優れた洞察力でなんとなく意図は察したようだ。その裏に隠れている、無自覚に放たれたえげつないテクニックも。
「……言わんとするところは朧気ながら理解はできますが、似たような心理学の手法を何かで読んだ覚えがありますね」
「え?」
言いながら若干引いている。詐欺師かナンパ師を見るような眼だ。
これには黒部も慌てふためき、咄嗟に自己弁護を始める。
「ち、違う! そんなん意識してないって! どっちかっていうと、紀久淑さんをリスペクトした結果だから!!」
「あら、わたくしは相手の心を利用するような計算高い女だと、黒部さんにはそう見られていたのですね」
「黒部さん、見損ないました……」
「違う!! って、めっちゃニヤニヤしてんじゃねえか、おうコラ、流石に騙されねえぞ」
およよと泣き真似する紀久淑を庇うように抱きながら、浮暮波がキッと黒部を睨む。しかし、二人とも口元のにやつきを隠せていない。ややあって、ちょっとした戯言ですわと笑う紀久淑が改めて問い直した。
「わたくしを参考にと仰いましたが、詳しくお伺いしてもよろしくて?」
「あれだよ、拳で語り合ったら強敵と書いてともと読むってやつ」
「なるほど、それですか」
黒部の見立てでは、木場も大きな括りでは紀久淑と変わらないタイプだと踏んでいた。どちらかと言えば少年誌のような展開を好む性格だという点において、このお嬢様とは通ずるものがあるだろうと。
だからこそ、一度受けた挑戦から逃げるような真似はできなかった。最後まで立っていたという、クリア要件を満たしたうえで彼女に選択を委ねたとしたら、相手に一行の余地を与えられるのではないかと思ったのだ。
「当初の予定じゃ、もうちょいカッコよく立ち回れると思ってたんだけどな」
「木場さんの実力が一枚上手でしたのね」
「それでも、怪我がなく終えられたのはとても喜ばしいです」
「ああ、それは心配してなかったわ。木場さん、真面目に組手する気なかったし」
「はい?」
またしてもわけのわからないセリフが飛び出してきたと、二人が首をかしげる。
端々の会話から推測することはできるかもしれないが、こればかりはあの場に立っていなければ理解できないかもしれない。格闘技経験者特有の、空気から感じ取れる勘とでも言っておこうか。
「最後の上段、寸止めだっただろ? 本当に倒す気なら止める理由ってねえんだわ」
「それは、試合終了のブザーが鳴ったからではないのですか?」
「漫画と違って、攻撃って止めようとして止まるもんじゃない。蹴りなら猶更じゃねえかな」
「なるほど。では、先の正拳同様、あの蹴りもまた予め寸止めを行う前提で放たれた蹴りだったのですね」
「そういうことだ。んで、一連の寸止めにはどんな意図があったと思う?」
浮暮波の疑問にひとしきり答えた黒部が、今度は質問を返す。これに即答したのは、一連の説明で木場の意図を察した紀久淑であった。
「脅し、ですわね。これまでの会話を含め、木場さんの行動は一貫していたと」
「まあ、普通あんなん見せられたらビビッて逃げるわ。俺でも怖かったし」
「ですが、黒部さんは一度木場さんの蹴りにさらされておりますわよね?」
「ああ、あれな。格闘技やってると若干麻痺してくるんだけど、ガードの上からはノーカンみたいな感覚ってのがあるんだよ。その証拠に、しっかりガードが間に合うタイミングで当ててきたし」
「ええ……」
未経験者には到底理解できない価値観に、先ほどとは違う意味で引いてしまう女子二名。少なくとも、その価値観を一般人に適用するのはまずいんじゃなかろうか。
ともあれ、これで二人も木場の意図が理解できた。いきなり空手道場に連れていかれ、道着を渡され、組手で勝負と言われて、首を縦に振るやつもそういないだろう。現に一回目の挑戦者は棄権している。
ところが、二人目の挑戦者はそこで引かなかったのである。これには木場も内心慌てたことだろう。余裕たっぷりの立ち振る舞いの裏でずっとおぶおぶしていたのだろうと思うと、ちょっと愛おしく感じてしまうから不思議である。
二人目で黒部を引いたのは、木場としては幸か不幸か。ただ一つ言える事は、全て彼女の自業自得である。彼女が実家の道場から破門を言い渡されないことを祈ろう。
「だから、向こうも引っ込みがつかなくなっちまったんだと思う。それで一発入れたものの、実は相手も経験者だから堪えなかった」
「つまり、黒部さんが賭けにお乗りになられた時点で、木場さんの勝利条件は無きに等しいものでしたのね」
「あえて述べるとするならば、黒部さんを亡き者にするくらいでしょうか」
「亡き者にするな。まあ、フルボッコにするしかねえわな。でもそれをしなかった、俺を気遣ってな」
こんな穴だらけの条件を咄嗟に口走るほどなのだから、木場は本当にノアに興味がないのだろう。結果はその条件が自身の首を絞める形になるのだが、それでも彼女は自信を曲げなかった。
きっと、黒部が普通に試合を終わらせていれば、木場はパーティに加わってくれただろう。内心嫌々だろうと、共に過ごす時間を共有はできた。
だが、黒部はそれを選ばなかった。あわよくばという考えこそ捨てきれないが、むしろその為に小賢しい手を使いもしたが、それでも最初は彼女の意思で、ノアの世界へ足を踏み入れてもらいたいと思ったのだ。
そして、もしもその願いが届いたのならば。彼女の時間を無駄にしないよう、彼女がノアを好きになってくれるよう、最高の時間を届けようと誓う黒部であった。
「こんだけこっちに有利な条件を出してもらっちまったんだ、せめて強制はしたくねえって思っちまったんだ」
「もったいぶらずに始めから構えを取っていただければ、わたくし達の憂いも軽いものとなったのですがね」
「その気はなくても構えちまったら、それは試合と変わんねえだろ? それに、ステップからのジャブって割と身体に染みついてんだよな。万一ジャブを打っちまって、しかもそれが当たってみろ。死にたくなる」
「見ているこちらは気が気ではありませんでしたわ」
「ゴメン。お詫びになんか甘いもんでも奢るわ」
「あら、わたくしに甲斐性を見せても、何も出てきませんわよ」
「そういうお話であれば、駅前に美味しいケーキのお店があります」
「……一人二個までにしてください」
女子のご機嫌取りには甘いもの。先人の知恵も役に立つもんだと感心する一方で、黒部は今一度財布の中身を確認した。みみっちさの裏に若干の見栄がブレンドされているあたりが、なんとも男子高校生らしい。なお、専門店の相場など知らない彼は、この後地獄を見ることになる。
そんなことはつゆ知らず、残存兵力を確認し終えた黒部がぼそりと愚痴を漏らした。思い出すのは、野良試合における自分の体たらくである。
「にしても、結局構えてちゃ世話ねえな、カッコ悪い」
「やはり、木場さんは強かったのですね」
「ああ。生身で戦っても絶対勝てねえ。なにより」
長い髪を振り乱し、ときに流麗に、ときに苛烈に攻め手を変える女の姿が脳裏によぎる。暮れゆく空を眺めながら、黒部は最後に付け加えた。
「イイ女との殴り合いなんて、二度とごめんだ」
翌日。
筋肉痛に加え、先日のケーキ分が上乗せされた早朝トレーニングを終えた浮暮波が、本日も物言わぬ屍と化していた。向こう暫くはこの光景が朝の風物詩となるだろう。
一方、浮暮波を送った後に別メニューを課された紀久淑も身体に違和感を感じている。筋肉痛とまではいかないが、乳酸の溜まりゆくなんとも言えないむず痒さに身悶えている姿は、なんとも言えない色っぽさを湛えて……いない。どちらかというと、落ち着きのないお転婆さんがそわそわしているようにし見えなかった。
そんな二人を差し置いて唯一元気な黒部が、三人の下へ近づく女生徒にいち早く気づいた。
「おはよう、木場さん」
「ああ、おはよう」
言うまでもなく、木場である。土曜の朝でも声音ははっきりとしている。普段は気だるげな印象を受けるが、早朝からの稽古を欠かさない彼女は春眠に暁を覚えないようだ。
それでも昨夜は一晩中考え事をしていたのだろう、切れ長の鋭い目は少し赤い。
「アンタたちのパーティに、アタシも入ってやる」
端的に結論のみを述べ、木場はスイっと顔を背ける。あまり乗り気ではない様子がひしひしと感じられた。
色よい返事こそもらえたものの、これでは何のために選択肢を与えたのかわからない。
「いや、別に無理しなくていいんだぜ? 気が向いた時に、ふらっと遊びに来てくれるだけでもいいし」
「皆の前であんなこと言われたら、こ、断れないじゃないか!!しかも、あんなに大勢の前で手玉に取られて、碌な抵抗もできずに好き勝手されて……」
言い切らずに木場は俯いてしまう。とたん、一連のやり取りに聞き耳を立てていたクラスがざわめく。驚愕と嫌悪に彩られた一同は、二人の間に何があったのかを尾ひれに背びれもつけて勝手に推測していく。
「え、ちょ、頼むから止めて! 俺はやってない!!」
「……木場さん、戯れが過ぎましてよ?」
「ゴメンゴメン。ま、これで一本取れたし、こんなもんにしとくよ」
さすがに見かねた紀久淑が助け舟を出すと、木場は顔を上げて場を改めた。悪びれた様子もなくしれっと言ってのける姿を見て、四人の間から気安さを感じ取ったクラスメイトが、今度は別の意味でざわつく。
一方、朝イチからいらぬ冤罪をかけられた黒部は、いまだ感情のアップダウンについていけていない。それでも事態が収束したのは理解できたのか、木場をジトリと睨みつけた。
「おい、随分な挨拶じぇねえかコラ」
「やられっぱなしは性に合わないんでね。自分の武器で戦わせてもらったよ」
これをさらりと流しながら、艶やかに笑った。自分の武器、すなわち女の武器である。粗野でガサツなイメージがある木場だが、メリハリのある肉体でしなを作る様は、どことなく品のあるエロスを感じさせる。
うぐぐと唸る黒部の姿を気分良く眺めた彼女は、笑顔を人の悪そうなものへと変えてとどめを放った。
「それに、持ってる手札で戦うことは、別に悪いことじゃないんだろう?」
「チクショウ、何も言い返せねえ」
完全敗北を喫した黒部は、それでも楽しそうな顔をしている。木場の浮かべる、いたずらに成功した子供のような表情にほだされてしまったのかもしれない。
「今度は、ノアの中でぎゃふんと言わせてやる。覚悟しときな、クロ」
「……お手柔らかに頼む」
堂々と言い放つ木場を眺めて、黒部は一つ学んだ。
女ってのは、ただそれだけで強い。