藪蛇
突如訪れた幕開け。
図書室という場所を鑑みてだろう、届けられた声は小さかった。
しかし、どんなに大きな音が響いてもこれほど驚くことはないだろうと思うくらい、黒部と紀久淑の顔は驚愕に彩られていた。
互いに顔を見合わせて頷きあう。声の聞こえた方へ同時に振りかえると、ちょうど顔の中心部から縦に割かれた黒髪が目に入る。
その奥から除く病的なまでに白い肌、隙間から除くすっと通った鼻梁。白と黒のコントラストに乗せられた紅色の唇が男を狂わせる魔性を放つ。
相変わらず目元は見えないものの、それでも顔立ちが整っているのが分かる。ともすれば目隠しにも見える背徳的な色香が、彼女の魅力を増しているのかもしれない。
今までのギャップにしばし心打たれていた黒部だったが、かぶりをふって我に返る。こうして声をかけてくれた相手を待たせてはいけないと、自己紹介を始めた。
「騒がしくして申し訳ない。俺は黒部 泰智。クラスメイトだ。で、こっちが」
「紀久淑 茉奈ですわ。〝浮暮波 凛〟さんでお間違えありませんわよね?」
「……はい、間違いありません」
急な自己紹介についていけないらしく、躊躇いがちに肯定を返す浮暮波。
お嬢様である紀久淑にもましてゆっくりとした口調は、コミュニケーションを苦手としている彼女独特の間をもって、黒部達へと届けられる。
穏やかな声音も合わさってとても心地よい響きに感じる二人であったが、彼女の声に聞き入っている場合ではなかった。
何せ、昼休みの時間は残り十分を切っている。そのうえ、交渉失敗の報告を受けたクラスメイトが新たな刺客を差し向けてくる可能性もある。
これは短期決戦しかないと、紀久淑がさっそく本題に入る。
「実は、折り入ってお話がございますの」
「はあ……」
黒部もそうだが、枕となる会話を挟まずに、いきなり本題に入るのはどうなのだろうか。焦る気持ちもわかるが、こういう時こそ平常心を保つべきである。これでは女子との会話にがっついてしまう思春期男子と変わらない。
そして、話したことのない相手からいきなりお願いがあると言われて、いい顔をするコミュ障などいるはずもない。案の定、浮暮波は怪訝そうな顔をしている。なんなら既にお断りオーラ全開だ。
にもかかわらず、はた迷惑な寂しがりコンビはこれに気づかない。真剣な表情で浮暮波に向き直った紀久淑は、重々しく口を開いた。
「わたくし達のパーティに、浮暮波さんをお迎えしたいのです。貴女のお力を、ぜひともわたくし達にお貸しくださいまし」
「……パーティ、ですか?」
「ええ、浮暮波さんが、わたくし達には必要なのです」
何とも情熱的な勧誘である。最後の言葉など、背景に百合の花が咲き乱れてやまない。
力強くまくし立てた紀久淑の頬はうっすらと上気しており、これを受けた浮暮波の胸を打つ。黒部は空気だ。
ややあって、言葉を咀嚼し、飲み込んだ浮暮波が言葉を返す。
「わ、私などにはそのような大役……とてもではありませんが、務まるとは思えません……」
蚊の鳴くような声からは自信のなさがうかがえる。遮光カーテンのインパクトが強すぎて忘れがちだが、本来の彼女は典型的な文学少女だ。緞帳のように分厚い前髪も、人の目を見て離せない内向的な性格が災いしてのものである。
しかし紀久淑も、まさかここで引き下がるわけにはいかない。ここを勝負どころと見極めてか、渾身の口説き文句を繰り出した。黒部は背景だ。
「それは違いますわ、浮暮波さん。務めるのではなく、楽しむのです。浮暮波さんがわたくし達と共に楽しんでくれる。それ以外には何もいりませんわ」
すべてを照らす太陽のような微笑みを浮かべる紀久淑に、前髪の上からでもわかるほどに驚いた顔を浮かべる浮暮波。
ややあって、僅かに頷いた浮暮波が呟くような声で答えた。
「……わかりました。私にできることがあるのならば、誠心誠意これに臨ませていただきます」
「と、いうことは……」
「はい、お二人のパーティに、私も参加させていただきたいと思います」
「や……やりましたわー!!」
よほど嬉しかったのだろう。両手を掲げてガッツポーズをしながら跳ね回る紀久淑。司書さんが飛んできた。怒られた。
とばっちりで床に正座させられた黒部は、納得いかないと言わんばかりな表情を浮かべる。浮暮波は気配を消して難を逃れた。
「ところで、いくつかお聞きしたいことがあるのですが……」
「はい、何でしょう?」
一通りのお説教を終えたところで、浮暮波がおずおずと紀久淑に尋ねる。続く言葉を受けたところで、黒部までもが目を丸くした。
「パーティとは、いつ、どこで行われるのでしょうか……?その、お恥ずかしい話なのですが、私はドレスなどの召し物を持っていないのです……それを都合するためにも、先んじてお教えいただければ、と……」
まさかのパーティ違い。これには二人も絶句だ。
気まずい沈黙が場を支配するが、このままではいけないと紀久淑が謝罪をする。
「……申し訳ございません。主語が抜けておりましたわ」
「主語、ですか……?」
「俺達が言っていたのは、その、ノアの話なんだ」
「ノアのパーティ……つまり、社交界の招待ではなく、冒険者仲間としての勧誘だったと…?」
「ああ、勘違いさせる言い方をして、悪かった」
言いながらぺこりと頭を下げる二人。事実、ノアで頭の中がいっぱいだった二人にとって、〝パーティ〟という名詞をノア以外に用いるイメージがなかったのである。それでいいのかお嬢様。
しかし、多くの高校生にはこの認識で間違ってはいない。逆に、パーティの勧誘と言われて他の可能性を思い浮かべる浮暮波が変わっていると言ってもいい。
つまり、浮暮波にとっての〝ノア〟とは、自身には縁もゆかりもない社交界以下。それよりも意識に昇らない存在でしかないのだ。
頭を下げる二人を前に、浮暮波は微妙な顔をする。
「あの……頭を、上げて下さい」
「お気遣い、感謝いたしますわ」
謝られた方が申し訳なさそうな顔を浮かべるという一種異様な雰囲気にあてられてか、続く言葉を発する者はいない。
このままタイムアップを迎えれば、勧誘もうやむやなままで終わってしまうだろう。
「それで、改めてお願いするけど……俺達のパーティに、ノアの冒険仲間になって貰えないか?」
それではいけないと、黒部が沈黙を破る。ここで終わらせてしまったら、もう彼女を勧誘する機会はないかもしれない。
何より、浮暮波に声をかけようと、これまでずっと頑張ってくれた紀久淑の努力が無駄になる。
ここに至るまで、全てが紀久淑一人によって齎されたものだ。であれば、ここで自分が動かなくて、何が仲間だろうか。今日までずっと自分を励ましてくれた、勇気づけてくれた紀久淑に報いようと黒部は続けた。
相変わらずなんか重い男である。
「勿論、いやだったらそう言ってほしい。浮暮波さんがノアに消極的なのはキャラメイクの時に聞いてるし、無理強いはしたくないからさ」
「……私の言葉を、覚えておいでなのですね」
黒部の言葉に、少し驚いたらしい。それでいて、分かっていながらなぜという表情を浮かべる浮暮波に、黒部は苦笑いを浮かべる。
「そりゃ、覚えてるよ。俺みたいにハズレを引いたわけでもないのに、えらくネガティブな自己紹介だったからさ」
「……では、改めて、もう一度言わせていただきます。〝……足手纏いにしかならないので、どうか私にはお構いないようお願いいたします〟」
当時の黒部は、これを血涙しそうな勢いで眺めていた。多分に嫉妬の意味合いを込めた怨嗟の眼差しに、浮暮波が気づいていたかはわからない。
それでも、紡いだ言葉から漏れだす諦観の色が、黒部の記憶にはしこりとなって残されていた。機会があれば、聞いてみたかったのだ。なぜ、始める前から諦めてしまっているのかと。
「あのさ」
「足手纏い、大いに結構ですわ!」
この機に聞いてみようと黒部が口を開いたところで、紀久淑がカットイン。どうやら空気になるのは嫌だったらしい。今か今かと会話に割り込む機会を窺っていたようだ。
何ともいじましい姿を見せてくれるお嬢様であるが、そこはさすがというべきか。支配者特有の殺し文句をもって浮暮波に相対した。
「素晴らしい響きではありませんか。足手に纏うということは、変わらず傍にいてくださるということでしょう?共に歩む仲間であれば、これほど嬉しいお言葉はありませんわ」
「え……」
「紀久淑さん…」
口説かれている浮暮波どころか、現在進行形で足手纏いをやっている黒部まで感じ入っている。こいつお嬢様相手だとホントにチョロいな。
「たとえ足を引っ張られようと、手を掴まれようと、わたくしは決して振り払いません。浮暮波さんを連れたまま、変わらぬ歩みで進んでいくことを約束いたしますわ。ですので、わたくし達と共に、同じ景色を眺めてはいただけませんか?」
「……それに、俺以上の足手纏いはそうそういねえよ。たとえ浮暮波さんが相手だとしてもな!」
ここに来て便乗する黒部。紀久淑の賑やかしというか、金魚の糞が板についてきて思える。しかも紀久淑ほどうまく言えていないもんだから、お前もう黙ってろ状態だ。
二人の言葉を受けてなのか、浮暮波は少し考えるようなそぶりを見せる。間をおいて、少し諦めたような溜息を吐いて言葉を発した。
「……わかりました。百聞は一見に如かず、とも申しますので、お二人にも私の無様を晒してから、判断していただきましょう」
「無様を晒して呆れられるのは、果たしてどちらかな?」
「黒部さん、得意げにおっしゃることではありませんわ……」
昼休み終了のチャイムを受けて、三人は連れだって教室へと戻った。
それを迎えたクラスメイト、特に浮暮波のスカウトへ向かった男子生徒は苦い顔をした。スカウト失敗の報告をする際、放っておいても絶対に大丈夫だという太鼓判を押してしまっていただけに、実に気まずそうな表情を浮かべている。
即座に飛んできた女生徒の攻めるような眼差しを受けては、明後日の方向に目を逸らした。彼女たちの放課後の予定は、中途半端な仕事をしたスカウトマンの吊るし上げで決定だろう。
一方、そうした動きを全く理解していない三人はというと、自席へ戻る前に放課後の予定を話し合っている。
「では、わたくしが浮暮波さんを案内している間に、黒部さんが買い出しに行くという流れで行きましょう」
「オッケー。浮暮波さんは、何か好きな食べ物とかあるか?飲みたいものでもいいけど」
「では、紅茶を……」
「あら、浮暮波さんは紅茶をお飲みになられるのですね。それでしたら、ティーセットを用意しておきますわ。黒部さんもお飲みになられますわよね?」
「おう、貰う貰う。んじゃ、飲み物は適当に買って来るわ」
「冷蔵庫も必要ですわね。準備させておきましょう」
「いよいよ家じみてきたな」
「あの、お話についていけないのですが……」
戸惑う浮暮波に、まあ行けばわかるさといったところで席へ着く黒部。疑問が何も解消されていない浮暮波は次いで紀久淑に向き直るも、携帯端末でどこかへ電話をかけ始めてしまった紀久淑を見て、質問を諦める。
ここから放課後を迎えるまでは悶々とした気持ちで過ごすことになるのかと、小さく溜息をついてから席へと向かっていった。
しかし、授業に手がつかないのは他の二人も同じだった。ドキドキとワクワクが止まらないのか、紀久淑ですらチラチラと時計を窺っている。黒部など、シャープペンシルと貧乏ゆすりがブラスト・ビートを刻んでしまっている。せめて静かにしていろと先生に怒られた。当たり前だ馬鹿野郎。
クラスメイトも、一人ならず二人も〝黒豚〟に仲間が増えたからか、忌々しげに黒部をチラ見している。だが今回に関しては、黒部が奏でるはた迷惑なパフォーマンスを疎ましく思う生徒の方が多そうだ。周りの目を気にしなくなったのは良いことだが、周りの迷惑は気にした方が良いと思う。
誰もが落ち着かない、みんな落ち着かない。この日、初めて一年C組は一つになったのかもしれない。
そんな午後の一幕を終えて、ようやく訪れた放課後。
周りから向けられる冷たい視線などなんのその。帰りの挨拶を終えた黒部は我先にと教室を飛び出していく。
それを呆れたような眼差しで見送ってから、紀久淑は浮暮波の席へと近づく。相手もそれに気づいたのか、彼女の視線の先で、帰りの支度を終えた浮暮波がゆっくりと紀久淑へ顔を向けた。
クラスメイトの視線が一斉に彼女達へ向けられるが、紀久淑は相変わらず気にかけない。
「それでは、参りましょう」
「はい……」
紀久淑に声をかけられて、浮暮波も静かに立ち上がる。周りが自分に向ける視線を受けてか、目元のカーテンが普段以上に厚みを増してこれを遮らんとしているように見えなくもない。さらには顔を若干俯かせ、完全シャットダウン状態だ。それで本当に前は見えているのだろうか。
前後不覚というよりは前後不明のまま、案内をしようと先んじて歩き出す紀久淑に続こうとしたところで、浮暮波に声をかける者がいた。
「ねえ浮暮波さん、ちょっといい?」
紀久淑のことを良く思わない女生徒の一人である、前席の緋村さんだ。
昼休み終了後の光景に危機感を覚えた彼女達は、このまま紀久淑達に好き勝手をさせてなるものかと、先の休み時間に作戦会議を行っていたのである。
その結果、浮暮波を捕獲する新たな刺客として選ばれたのが彼女。ターゲットである浮暮波と席が近いのも理由の一つだが、彼女ならではのカードが決め手となっていた。
「ていうか、同じガッコだったんだね。同中の浮暮波さんがいてくれて、チョー嬉しいんだけどー!」
さも親しげに浮暮波の手など握りながら近づく彼女は、何を隠そう浮暮波と中学を共にしていたのだ。
私立に通う一部の生徒とは違い、大半の生徒は近隣の中学校を選んで通学する。同じ区画に住まいを持つ二人であれば、当然同じ学舎を選択しているだろう。
しかし、高校ともなると選択肢も増え、よほどのことがなければ皆バラバラになってしまうものだ。そうしたなかで、示し合わせたわけでもなく同じ高校に通うことになり、しかも席が近いという奇跡を受けては、緋村さんがはしゃぐ気持ちもわかる。
とはいえ、なぜ今このタイミングで声をかけてきたのだろうか。浮暮波の外見は特徴的であるし、気づいていなかったわけではないだろう。偶然を喜んでいるのならば、それこそ入学式の日に声をかけていてもおかしくない。
それもそのはず。実はというべきか案の定というべきか、別に緋村さんは浮暮波との邂逅を喜んではいない。というのも、中学校を含む三年強の中で、彼女達の間に接点など一度も生まれなかったのだ。
それどころか、緋村さんにとっての浮暮波は、そういやこんな奴いたっけなあ程度の認識でしかない。特徴的な外見から記憶の隅に引っかかっていた存在、いわばモブだった。
ないない尽くしの交友関係であるにもかかわらず、さも旧来の友人と再会を喜ぶような態度をとる緋村さん。
貼り付けた笑顔の裏側には、打算以外の感情はない。紀久淑 茉奈に一杯食わせる。そのために使えるものならば何でも使う。それが彼女の持論だった。
緋村さんは心の中でほくそ笑む。この作戦ならば必ずうまくいくと確信していた。
中学時代から自分磨きに余念のない彼女は、これまでずっと華やかな学校生活を送り続けてきた実績がある。今でこそ峯村や紀久淑といった別次元の存在に水をあけられているが、そういったある種別枠とは違う、手が届く綺麗処という地位を確立していた。
そんな自分からの声かけであれば、彼女のような陰キャラは従うほかない。自分達の間にはそれだけの力関係がある。
浮暮波も、上の存在である自分に迫られれば悪い気はしないだろう。高校という環境に変わったことで、もしかしたら自分も、華やかな場に身を置く機会がワンチャンあるのではなかろうかと思っているに違いない。
紀久淑という規格外が傍にいるが、今相手をしているのはあくまで浮暮波だ。
〝黒豚〟との茶番を見るに、どうやらお嬢様の本質は甘ちゃんなようだし、まさか勧誘相手の意思を蔑ろにはしないだろうとたかをくくっていた。
そして、その読みはおおむね正しい。
「あの……」
「ん?どうしたの浮暮波さん。あっ、凛ちゃんって呼んでもいい?」
「いえ、その……失礼ですが、どちら様でしょうか……?」
「……は?」
ただしそれは、緋村さんを取り巻く人間関係においての話だ。
緋村さんが読み違えていたのは、〝浮暮波 凛〟という少女のパーソナリティだった。
今しがた口にした空気の読めない返答からもわかるように、彼女は割と日常生活に支障をきたすレベルのコミュ障であった。笑顔のまま固まる緋村さん相手に、誰だっけこいつという無遠慮なきょとん顔を向け続けるほどに色々と欠けていた。
さもありなん。浮暮波はこれまでの義務教育期間を、本当に一人で過ごしてきたのだ。それはもう徹底的に、掛け値なしに。
そんな彼女にとって、関わりあう機会もその気もないクラスメイトなど、覚えるだけ無駄な情報でしかなかったのである。
曰く、心打たれた書物の一文を覚えた方が、有意義ではありませんか。
浮暮波にとっては、人気者のクラスメイトも、同じ中学の美少女も、等しくインクのシミ以下であった。
完全に見下していた相手からもらったカウンターがいいところに入った緋村さんは、視界が屈辱と怒りで真っ赤に染まるのを感じていた。
しかし、危うく手が出そうになったところで、思わぬ助け舟が渡された。
「浮暮波さん、ご学友のお名前は覚えておかないといけませんわよ」
誰でもない、紀久淑である。
これには他のクラスメイトも目を丸くする。今の状況は、どう贔屓目に見ても紀久淑達を邪魔しているようにしか見えない。実際その通りなのだから仕方がないが、それを紀久淑が擁護する理由はない。
緋村さんも一旦はフォローの声を受けて怒りを鎮めたが、敵に塩を送られる形になった屈辱からか、再び怒りを燃やし始める。
しかしその直後、緋村さんの表情が恐怖に染まる。
「『緋村 宝石』さん。『十一月十一日生まれ』。『ご両親は共働き』で、『お父様は外資系の企業にお勤め』でしたわね。『お母様はご自宅近くの雑貨屋に勤めて』いらして、近く責任者におなりになられるとか」
「なっ……」
「『趣味はメイクとヘアアレンジ』で、『趣味が高じて知り合った美容師の殿方と懇意に』していらっしゃるそうですわ。それと、『中学二年生になる弟さんが近頃夜遊びをお覚えになられた』ようで、お心を痛めておいでなのです。お心の優しいお姉さまなのですわね」
紀久淑が語る言葉は、緋村さんが持つ個人情報に他ならなかった。予期せぬ不意打ちを受けた緋村さんが言葉に詰まる。
最初こそ急に語られた単語の列挙を理解していなかったクラスメイトも、驚愕に目を見開く緋村さんの表情を見て全てを察した。
紀久淑 茉奈の語る言葉は、真実なのだと。
「な、何で、そんなことまでアンタが知ってんのよ……?」
「?なぜと申されましても……」
カチカチと歯の根が合わない様子のまま、それでもこれだけは聞いておかなければならないと、緋村さんは口を開く。それも当然、にっくき相手に自信の秘密すら握られている事態は我慢がならないのだ。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、さも当然であろう、寧ろなぜそんなことを聞くのかといった顔を浮かべた紀久淑は、目の前で震える学友の問いに答えを投げる。
「ご学友のことをよく知りたいと思うのは、悪いことなのでしょうか…?」
緋村さんの全身に冷たい恐怖が走る。同時に思う。目の前に立つお嬢様は何を言っているのだろうか。
それでも理解した。またしても理解させられてしまった。このお嬢様は、クラス全員の、下手をすれば全校生徒のプロフィールを把握しているのだと。
他方、相手の質問の意図を図りかねている紀久淑は困ってしまう。
なぜなら、紀久淑が身を置く世界では、交流を持つ相手のパーソナリティを把握しておくのは常識であった。親の仕事や家庭環境によって話題が変わるのは当然であるし、そもそも相手の人となりも知らずに会話をするのは失礼でしかないのだから。
そのために紀久淑は、持ち得るコネクションの全てを活用して情報を集めた。本国川高校の皆様と円滑なコミュニケーションを行えるように。
勿論彼女は、この場においても脅しのニュアンスなどは含めていない。話し相手のことを知らない浮暮波へ、純粋な親切心から、コミュニケーションに必要な情報を得られるよう、ほんの少しばかりアドバイスをしただけなのだ。
ついでに述べると、驚くことにこのお嬢様は、緋村さんが紀久淑達を邪魔しようとしているなどとは夢にも思っていない。
自分から声かけなど行ってこなかった紀久淑は、こうして呼び止められるのは日常であり、それが世界の常識なのだと割と本気で思っていた。変なところで世間知らずである。
しかし、これを受けた緋村さんにはそう映らない。
ゆるりと微笑む彼女の視線に、あまり邪魔をしてくれるなと、お前程度ならば家族もろともどうとでもできるのだという意図を読み取っていた。とんだ被害妄想もあったものである。
「お話は、もうよろしいので?」
「う、うん……はい。もう、もう二度とこんなことしません……っ」
涙目を通り越して嗚咽を上げる緋村さんに、そんな顔をさせたかったわけではない紀久淑は一計を案じる。ちょっとしたお茶目を見せて、この場を和やかな空気にかえようとしたのだ。
俯く緋村さんへいじけるような流し目を送りながら、口端に笑みを湛える。
「いやですわ、できれば今後とも良くしていただきたいですわね。その時はぜひとも、わたくしも交えてくださいな」
どことなく拗ねたような声音を含ませながら、口元に手をやって嘯いて見せる。
「蚊帳の外におかれるのは、ええ、とても寂しいですわ」
「ひ、ヒイイイイッ!」
それがとどめだった。
ありもしない裏を読んでしまい、全てを見透かされたような感覚に陥った緋村さんが、奇声を上げながら逃げていく。
その後ろ姿を眺めて、紀久淑はきょとんとする。暫くを待って、どうやら戻っては来ないのだろうと把握したところで、浮暮波に向き直った。
「お身体が優れなかったのでしょうか……まあ良いですわ。では浮暮波さん、参りましょう」
「は、はい……」
一連のやり取りを目にしたクラスメイトは、お通夜のように静まり返っている。
藪をつついて出てきたのは、蛇ではなくて冷酷な機械人形であったと後に語る彼ら彼女らは、黒豚が関わるすべてに触れるのはもうやめようと心に誓った。
その様子を前髪の奥から観察していた浮暮波も、黙して語らない。彼女自身は普通の感性を持っているが、興味のない相手がどうなろうと知ったことではないと、中学時代からの同級生のことも含めたすべてを忘れる。
ルンルンと前を歩く紀久淑。しずしずと後に続く浮暮波。色々どこかがズレたコンビであった。




