邂逅
紀久淑が不気味な宣言をしたところで、またまたチャイムが鳴り響いた。何ともせわしないが、十分しかない休み時間ではそれも当然だろう。
二度あることは三度あるではないが、三度お預けを喰らったお嬢様は一転、とぼとぼと自席へ戻っていった。
その姿を何とも言えない顔で見送ってから、黒部は続いて始まった科学の授業を寝て過ごす。これから慌ただしくなるのを見越して、今のうちに英気を養っておく作戦である。おい高校生。
机に突っ伏した黒部は、これから声かけを行うことになるであろうクラスメイトのパーソナリティを思い浮かべる。
誰もが一癖も二癖もある猛者。それらの情報にげんなりとしながら、まどろみの中に沈んでいった。
授業時間の三十分ほどを睡眠に費やした黒部。凝り固まった身体を動かす意味も込めて、今度は自分が紀久淑の席まで赴こうと動き出す。
号令後にダッシュが癖になりかけていた紀久淑、先んじて動こうとして危うく転びかける。
結果、二人の中間地点辺りで合流。
以上、ここまでのハイライト。一体何のコントだ。
「では、参りましょうか」
「大丈夫なのかそれ?脛からえらい音が鳴ってたけど」
「しゅ、淑女たるもの、これくらいはバッチコイですわ!」
大丈夫ではなさそうだ。振り返る際、机の脚へしたたかに打ち付けたらしい右脛は、今も鈍い痛みと口調の乱れを彼女に与えている。
若干おろおろしている黒部の前で、若干左足に重心を傾けた紀久淑。当然涙目だ。
「……スカウトするお仲間は、回復役が良いですわね」
「いくらノアが最新テクノロジーの塊でも、生身の肉体に回復呪文は使えないかなあ……」
今彼女に必要なのは、仲間よりも治療かもしれない。
そう思ったのも束の間、教室の入口から黒い奔流が雪崩れ込み、紀久淑を飲み込んでいく。
「ちょっ!」
「えっ!?何コレ、闇魔法!?最新テクノロジーの自己アピールかなんかか!?」
驚きの声を上げる紀久淑。黒部に至っては、ノアが現実世界に干渉した結果、自身の闇魔法が暴走でもしたのかと慌て始める。クラスメイトは完全にフリーズしていた。
勿論、黒部が懸念したような事態は起こらない。紀久淑の周囲に蠢く黒の正体、それは昨日存在が明らかになった黒服の方々だった。
紀久淑の脛から産み出された鈍い音は、教室内どころか廊下にも反響して響き渡っていた。
それを受けた職務に忠実なプロは、即座に護衛対象の保護と治療へ動き出したのだ。
「お、お待ちなさいな!わたくしは平気ですわ……って、肩に担ぐのはおやめくださいまし!淑女の扱いとしてそれは看過できませんわ!」
紀久淑はおろか、黒部と比べても二回り以上大柄な人物が彼女を軽々担ぎあげる。筋骨隆々の肉体は、オークであるクロベーと相対しても圧勝しそうだ。
紀久淑もスカートの裾を抑えながらギャーギャー暴れ回るが、丸太のように太い腕に囚われてはそれも無駄に終わる。
その光景を眼前に眺める黒部はというと。
「え、これ助け出した方が良い……あ、スミマセンなんでもないっす、はい」
紀久淑の嫌がりっぷりを見て手助けをしようとした刹那、己に向けられた黒服のひと睨みを受けて引き下がった。例え生身がオークだったとしても勝てなかっただろうなとは、黒部の正直な感想だ。
「く、黒部さん!?それは殿方としていかがなものかと思いますわ!?こら、離しなさいリリーナ!命令ですわよ!」
「あ、この人女性なんだ……」
余計な情報を黒部が得たところで、黒服の群れはヌーの大移動の如く動き出す。
即座に道を開けてしまった黒部は、単身これに遭遇したセグロジャッカルの気分だろうか。
「わ、わたくしは必ず舞い戻りますわ。ですので、お待ちになっていらしてええええ!!」
そのまま、どう贔屓目に見ても拉致されていく紀久淑が、推定リリーナさんに担がれたまま捨て台詞を残して連れ去られていく。
その姿を見送った黒部は、静かにその姿へ最敬礼を返した。
クラスメイトは最後まで空気だった。
その後。
続く三限と四限を終えても紀久淑が戻ることはなかった。
その間黒部は何をしていたのかというと、気もそぞろに教室の扉を眺めながらそわそわしていた。勿論授業など頭に入ってこない。いや授業は受けろよ高校生。
続く休み時間も、彼女が去り際に放った〝待っていろ〟という言葉に従い、大人しくトイレを済ませる。決して一人でクラスメイトへ声をかけるのを躊躇ったわけではない。
そのまま迎えた昼休みも弁当を頬張りながら過ごしていたところで、漸く紀久淑が教室へ戻ってきた。右脚には痛々しい包帯を巻いているものの、足取りは確かなものとなっている。
「おかえり。足の調子は?」
「……仲間を売っておいて、第一声がそれですか」
「いや、あれは紀久淑さんの身を案じた身内の問題だから」
「だとしても!連れ去られようとしている淑女を前に、ああもあっさりと引き下がられるのは納得いきませんわ!」
「んなこと言われてもなあ……」
高校生にプロのボディーガードと一戦交えろと言うのはあまりに酷だろう。紀久淑も本気で言っているわけではない。
ただ、ほぼほぼ無抵抗のまま差し出されようものならば、それはそれで乙女の沽券にかかわるのだ。理解はしているが納得はいかないといったところだろう。
そういった心の機微を察した黒部も、彼女をなだめつつ己の非を認める。
「わかったわかった。紀久淑さんが本当に危ない時は、ちゃんと抵抗するから」
「……まあいいでしょう。痛みが引いたことに変わりはありませんし。ご心配をおかけいたしましたわ」
「おう。昼飯は?俺はもう食い終わるけど」
「既に済ませておりますわ」
急ぎ弁当をかき込む黒部をしり目に、紀久淑はクラスを見回す。いくつか見当たらない生徒もいるが、多くは各々のグループに分かれて昼休みを過ごしている。
その様子を眺めていた紀久淑は、途端に眉を顰める。
「ソロのプレイヤーが、随分と減りましたわね」
「ああ、ここぞとばかりにスカウトが張り切ってるみたいだな」
そう、一年C組の教室内に、一人で昼休みを過ごす生徒はいなかった。
数時間前までは決まったグループに属していなかった女生徒達が、ある場所では他のプレイヤーと無表情に食事を摂り、またある場所ではたどたどしく自己紹介を行っていた。
勿論、これは偶然などではない。
先日の紀久淑の振る舞いに危機感を覚えたクラスメイトが、より多くの集団でこれに抗おうと結託する道を選んだのだ。
中心になって動いているのは、クラス二番目に位置するパーティ、およびそれらに声をかけられた半端な数のパーティである。
言うまでもなく、彼女達の目的は、これ以上紀久淑に好き勝手されるのが我慢ならないという、至って独善的な理由に過ぎない。
それでも他のプレイヤーがこれに従っているのは、彼女達の半ば脅迫に近い説得が功を奏したのが一つ。
もう一つは、紀久淑に声をかけられる面倒を回避したいソロプレイヤー達と、紀久淑に声をかけさせたくない彼女達の利害が一致したからである。
上田君事件の際に起こった事象とは敵を異にした、むしろそれ以上の脅威を前にして、力なきものの意思は一つとなったのだ。
それを受けた黒部もまた、呆れ気味に溜息を吐く。こういった動きは事前に察知していた黒部であるが、まさか〝黒豚〟が単身乗り込むわけにもいくまい。
返り討ちに遭う未来しか見えなかったが故の放置であったが、結局はチェックメイトを招いてしまったのだ。
「…これでは、教室内で行動を起こすのは不可能ですわね」
紀久淑も同じ結論に至ったのだろう。溜息を吐きながら、黒部に向き直る。
「それでは、他の場所に参りましょう」
「他のクラスか?だとしても、俺を連れて行くのはまずいんじゃねえかな」
他クラスを回るのは黒部も考えていた。確かに選択肢は増えるものの、ここでもネックになるのが、やはりというべきか〝黒豚〟の知名度だった。
学校単位で広まっているネームバリューは、紀久淑単体ではうまくいったであろう交渉を台無しにしかねない。そう思って同行を拒否しようとした黒部に、紀久淑は駄目な生徒に言い聞かせる教師のように言った。
「パーティのスカウトなのです。二人で向かわなくては意味がありませんわ」
黒部が授業中に寝る駄目な生徒なのは認めるところではあるが、それとこれとはまた別の話だ。
そう返そうとしたところで、紀久淑はまっすぐに彼を見据える。
「共に戦う仲間に、隠しごとなどしたくはありません。何より」
ふっと柔らかさを含んだ目元に、それが湛える暖かな雰囲気を前に、黒部の反論は勢いを失っていく。
続く言葉を耳にして、彼の言葉は立ち消えた。
「黒部さんにも、あまり自分を卑下してほしくはありませんわ」
「……おう、オークが人の顔色を窺ってちゃ、舐められるもんな」
にやりと笑顔を浮かべながら虚勢を張る。弱った姿を見せたところで相手が調子づくだけだと言い聞かせ、余裕のある様を周囲に見せつける。
残念ながら黒部が凶悪に嗤うその様は、先のヘタレた姿も合わせて情緒不安定にしか映らず、眺める者に別の意味で恐怖を与えるだけだった。
うっすらそれに気づいていた紀久淑は以外にもこれをスルー。自分に自信を持つのは良いことですわと見守るスタンスを取る。
自信満々に口端を歪める黒部を眺め、紀久淑もまた艶然と微笑んで口を開いた。
「着いていらして。わたくしに一人、当てがありますわ」
紀久淑の案内で黒部が辿り着いたのは、同階突き当りにある図書室だった。
公立にして国内有数の進学校である本国川高校が誇る知識の宝庫なだけはあり、下手な図書館を軽く凌駕する蔵書の量は、ここを訪れる者へ言葉に表せない威圧感を与える。
静寂が場を支配する同所は、一年の教室とはまた違った意味で静謐に包まれた空間をもって二人を迎え入れた。
読書週間や掃除当番以外では訪れる機会などないと思っていた黒部は、己が放つ場違いな嘲笑顔をスッと無に変えた。お前その顔でここまで来たのか。
一方の紀久淑。黒部を伴って入室したと思いきや、そのままの足取りで奥へと進んでいく。
どこに行っても物怖じしない歩みの進め方は、どこにあっても様になっている。
その後ろ姿を呆然と眺めていた黒部は、ふと我に返ると慌てて彼女を追いかける。司書さんに睨まれた。早歩きに切り替えた。
黒部が追い付いたのを確認した紀久淑は、彼にのみ聞こえるような小さい声で話し始めた。
「キャラクターメイクを終えた後に、学校案内を受けましたの。その時にここへ連れられた際、お一人でいらっしゃった方をお見かけしたのです」
「……いや、それは単に上級生なんじゃねえかな。入学式の日に図書室に赴く一年生なんて、そうそういねえだろ?」
「いえ、わたくしが探すまでもなく、翌日にはお見かけしましたので、間違いはありませんわ」
図書室で見かけた推定同学年を、これと言って探したわけでもなく発見した。
廊下でたまたまという可能性もないわけではないが、それを強調するような話しぶりから察するに、答えは一つしかない。
「クラスメイト、だったのか」
「はい」
紀久淑の肯定を聞いて、黒部は記憶を引っ張り出す。
先ほどの教室に姿がなく、図書室に用がありそうな、ノアへの関心が薄い女生徒……。
一人、検索項目に引っかかった。同時に、紀久淑が足を止める。黒部が〝彼女〟を思い出している間に、目的地に着いたらしい。
窓に面していない、保存状態を維持する目的で暗い場所へ置かれた古書の並ぶ棚。その最奥部。
図書室を利用しない生徒の目には決して留まらないであろう、奥まった場所にひっそりと用意された長机と、数脚ばかりが据えられたパイプ椅子が立ち並ぶ空間に、一人の少女がいた。
「今日もいらっしゃいますわね。黒部さん、あちらで本をお読みになっている方が、わたくし達の仲間候補になるお方ですわ」
記憶の中で思い浮かべた少女と寸分たがわない出で立ちを受けて、黒部もまた息をのむ。
「彼女に、話しかけるのか?」
「ええ。……緊張していらっしゃるのですか?」
「いや、そりゃするだろ」
言いながら、黒部は今一度彼女を見据える。
まず目に入ったのは、薄暗い室内にあってなおも目を奪われる、艶やかな濡羽色の髪だった。
閑やかな図書室の一角。人目に触れない席で黙々と本を読む少女からは、周囲の喧騒から切り離されたような印象を覚える。
ある種超然とした雰囲気を持つ彼女は、どうやら手元にあるのだろう本を読んでいるようだ。
恐らくは細くしなやかだと思われる指先が本を繰る様は、黒部達からは見えない。
少し屈んだような恰好で椅子へ腰掛ける姿は、長く読書へ没頭していただろうが故に見られるのだと思うと、途端に人間味を感じさせる。
と、先ほどからなぜ色々と断定型じゃないのかというと、それは彼女の姿に起因する。
何を隠そう、見えないのだ。本が。
黒部の眼差しを独り占めしてやまない長い黒髪は、彼女の手元から机に至るまでをばさぁっと覆っていた。
〝メカクレ系女子〟と呼ばれるジャンルがある。一定のサイクルを経て流行に呼ばれるそれは、見えないが故に湧く想像力と内向的な人物への庇護欲を掻き立てる、絶好の魅力であろう。
だが、彼女の場合はメカクレどころじゃなかった。美しくも妖しい魅力を放つ御髪は、その内側にあるものすべてを遮光カーテンよろしく覆ってしまっている。お陰で近づき難いどころか関わり合いになりたくない。
自信のなさを表しているはずの外見が猛烈に自己アピールしている姿からは、本末転倒という言葉も霞ませるアグレッシブさすら感じられる。
遮光カーテン系女子、新しいのではなかろうか。
ここにきて黒部は思った。超話しかけにくいと。
お分かりであろうが、黒部は別に深窓の令嬢に気後れしているわけではない。どちらかというと、未開のジャングルに生息する異星人が興した部族の長が飼うUMAへ話しかける心境に陥っているのだ。
「え、アレに声かけるの?」
思わず漏れた黒部は悪くない。どう見てもアレだもん。
「ええ。声をかけなければ何も始まりませんわ。行きますわよ!」
「こういう時、ホントグイグイ行くよね」
一方、お嬢様は気にしていない。この物怖じのしなさは素直に尊敬する黒部だ。最初からそうしていれば黒豚と組むこともなかったよ?
若干、いやだいぶ足取りが重くなっている黒部をよそに、紀久淑は持ち前の積極性を遺憾なく発揮する。
「もし、お時間宜しくて?」
相手は気づいていない。黙々と本を読んでいる。
「もし?聞こえておりますの?」
相手は見向きもしない。本を繰る音が静寂にぺらりと響いた。
「うん。紀久淑さんは頑張ったよ。だから泣くな」
紀久淑茉奈、轟沈。
涙目でこちらを見上げるミニマムお嬢様の頭を撫でながら、ちらりと相手を観察する。目の前の少女が持つ遮光カーテンは遮音性も完璧らしい。まるで緞帳のように周囲の音をシャットダウンしている。
黒部達は知らないが、実はこの緞帳系女子。昼休みの開始とともに他のクラスメイトがスカウトへ向かっていたのだ。
結果については推して知るべし。今もこうして読書に勤しんでいる姿を見ればわかるように、スカウトに乗り出した男子生徒もまた、彼女の絶対防壁を突破できずに終わった。
肩などを叩けば流石に気づくだろうが、控えめに言ってホラーじみた外見の彼女を目の当たりとした彼は、叶うことならば触りたくないと思ったらしい。そのまま放置して戻っていった。
この場に赴いたのが、女子と触れ合う機会にあまり恵まれない男子生徒であれば話は違ったのかもしれない。しかし、図書室へ赴いた彼は中学時代から交際している彼女が他校におり、女性に不自由はしていないホント羨ましい。
女性と話すことに気後れしない能力を買われてこその派遣だった彼だが、その能力が交渉の機会を奪う結果を生むとは、何とも皮肉な話である。
とはいえ、黒部達にとっては千載一遇のチャンスである。現時点ですべてのクラスメイトが勧誘を受けている以上、一度これを撃退している彼女以外は全滅するだろう。
だというのに、今までシカトなどされたことのないお嬢様はいまだにメソメソしている。どよーんとした顔をしながらぶつぶつ呟いているが、勿論相手には届いていない。
「お独り様ならば、お独り様ならばうまくいくとリリーナも仰っておりましたのに」
「だからニュアンスが失礼な感じになってるってば。あと、あの人にアドバイスして貰ってたのかよ」
「わたくしからお独り様に声をかければ、一発だと申しておりました」
「よし、今後あの人にアドバイスなんぞ貰うな。それと、いい加減そのイントネーションをやめてもらわないと、同性同士のパーティを直視できなくなる」
このままだと、黒部の夢である男友達がいるパーティが、薔薇の花咲き乱れる社交場に発展しかねない。さしずめ紀久淑は一輪の百合の花であろうか。
馬鹿な妄想に思考を費やしている場合ではない。何かしらの手段を講じて彼女の意識をこちら側に戻さなくてはならない。
この目つきでいきなり肩に触れるわけにはいかないと、紀久淑にお願いをしようと黒部が彼女に向き直ったその時。
目の前の緞帳が音を立てずに開き、澄んだ川のせせらぎのような声が静寂へと流れた。
「あの、何の話をしているのですか…?」