一人目
「そういやさ、あのゴーレム何落とした?」
部室棟の三階にあるとある部室にて。
パーティと臨む初のクエストを終えた一組の男女が、主に女子が食べ散らかした菓子の残骸を片付けながら会話していた。
パーティ開けされたポテトチップスのなれの果てをゴミ袋に突っ込みながら、男の方――黒部泰智はふとそんなことを聞く。
「……主に素材でしたわね。それと、腕に装備するアクセサリーが一つといったところでしたわ」
一方の問われた女である紀久淑茉奈は、若干不機嫌そうな声音で答える。
別に黒部が何かをしでかしたわけではない。紀久淑も黒部に怒っているわけではない。
紀久淑は、己の身へ向けられた怒りを隠し切れないだけだった。
ギルドで行ったグータッチの後、もう遅いからということでログアウトをした二人。
慣れてくれば接続を続けたまま日常生活も送れるようになるが、今は並列思考を別に動かせるほどの練度はない。
いずれは同時にこなせる日が来るだろうが、今はその時ではないと満場一致で処理を始めた。
人にもよるが、夏休みが終わる頃には多くのプレイヤーが睡眠時以外はノアを繋げたままにできる。夏休みを含めた勝負の夏に、どれだけ周囲に差を付けられるかが一年生共通の目標だ。
とはいえ、いまだ決まったパーティに加入していない二人からして見れば対岸の火事でしかない。
いずれはその騒ぎに身を置きたいものだと考えつつの帰還を果たしたところで、目の前に広がる夢の島もかくやというゴミの山に絶句。
どちらともなく片付けを始めたところで今に至る。
空になったペットボトルを纏めながら、紀久淑はかつてない羞恥心と、やり場のない怒りに身を置いていた。
あれだけ買い込んだお菓子が一日ともたずに消えた点について思うところはない。ああ、殿方であればそれくらい健啖な方が魅力的ですわよと小粋に返すこともやぶさかでなかった。
それをなしたのがクロベーであれば、の話だが。
ログアウトを完了させ、肉体を操作する意識がはっきりとしてきた自分がまず感じたのは、喉を通っていくコーラの刺激的な甘さだった。
自身の身体が飲み物を飲んでいるのは把握していたので、紀久淑はそのまま飲み慣れない炭酸飲料の味に舌鼓を打っていた。
我ながら良い飲みっぷりですわねなどと思いながら、視線を己が抱え飲むファミリーサイズのペットボトルへ移したところで、危うく黒い噴水を生み出すところだった。
綺麗に飲み干したところで慌ててクロベーを見る。
淑女である自分が昨日今日出会ったばかりの殿方を前に、何とはしたない姿を曝しているのかと赤面する。
しかし、目の前に座る男の顔は平然としていた。その眼に宿る〝ああ、大丈夫大丈夫。さっきからずっとその調子だったし〟といわんばかりの色を読み取って、彼女は全てを理解し、絶望した。
目の前に広がる惨劇を巻き起こした暴食を司る塵山の女王は、自分なのだと。
とりあえず場をとりなそうと片づけを始めたものの、頭の中に浮かぶのは〝あり得ない〟の一言だった。
きっとわたくしは黒部さんに嵌められているのですわなどと考えながらも、お腹に感じる確かな満足がこれを否定する。
起こってしまったものは仕方がないと開き直りたいが、帰宅後に起こるであろう悲劇を思うと楽天的な意見は鳴りを潜めた。
「夕飯が入りませんわ……。料理長に怒られますわ……」
何やらぶつぶつと聞こえる呟きを、黒部は総スルー。
彼女がこうなったであろう原因は部室を見れば明らかだったが、女子にとって食が絡む話題は男のそれ以上にセンシティブなのだと知り合いから聞いていた。
なので、あえて関係のない話題でお茶を濁していたのだ。
幸い、先のクエストのお陰で話題には事欠かない。慎重に地雷を避けながら会話を進めていく。
「お、アクセサリーもあったのか。ランクは?」
アクセサリーとは、装備することでさまざまな特殊効果を齎すマジックアイテムの総称だ。
種類も装着部位も豊富で、中には組み合わせて装備することで真価を発揮するものもある。
特に、特定のモンスターが稀に落とすアクセサリーは強力なものが多く、市販品やハンドメイドに比べて人気が高い。
しかし、闇雲に装備しまくれば良いというわけではなく、行き過ぎた装飾にはペナルティが発生する。当たり前な例え話だが、ジャラジャラと指輪だらけの手で剣を握れるわけがない。
そのため多くのプレイヤーは、自身のステータスと相性の良いものを選別していくようになるのだ。
また、装備品にはランクが存在しており、F~A、その上にS~SSSに分かれている。更には、同じ種類のアクセサリにもⅠ~Ⅲと三段階の評価がある。
「AランクのⅢですわ」
「おお」
返ってきた答えに、クロベーが感嘆の声を上げる。
最初期に得るアイテムとしては間違いなく破格である。効果によっては高校生活三年間を第一線で活躍するかもしれない。
「……折角なので、差し上げますわ」
そんな代物を差し上げようとしている紀久淑は、いまだ心ここにあらずであった。
話題が卑しかったかと慌てる黒部が、咄嗟にこれを止めようとする
「い、いや、紀久淑さんが持っててくれた方が俺も嬉しいから」
「……そうですか」
「ああ、今日の記念にでも持っててくれ」
困ったように笑う黒部を見て、漸くこのままではいけないと我に返る紀久淑。
この後に待ち構える苦難は、あくまで自分の中に潜む暴食の仕業であり、黒部に否はない。
そう思いなおしたところで、今は彼との会話を楽しもうと頭を切り替えた。
「であれば、そうさせていただきますわ。それと、空気を悪くしてしまいましたね。気を遣わせてしまい、申し訳ございません」
「気にしちゃいないよ。色々あったんだろうし」
紀久淑が帰ってきたところで、会話を再開させる。
「正直、あまりにもわたくし向きな装備でしたので、戸惑いの方が強かったですわね」
「へえ、どんな効果か聞いてもいいか?」
相手の持ち物を聞くのは正直マナー違反ではあるが、紀久淑の口ぶりから興味をそそられたようだ。
「最高値のステータスの半分を、最低値のステータスに反映させる。ですわ」
「…マジ?」
「至ってマジですわ」
高校三年間どころか、この先ずっと使えるレベルの性能だった。
特に、長所と短所が極端な二人の種族にとっては破格と言っても良い。何より、それを使えばエクス・マキナの抱える問題はだいぶ改善される。
イレギュラー・クエストの性質を思えば納得できなくもない。レアリティが一パーセント以下と言われているⅢであればなおさらだ。
そういった背景があるにしても、初のクエストで得る成果にしてはでき過ぎていて怖くなる。
「わたくし、今日死ぬのでしょうか…」
「大丈夫!よくあるよくある」
「他人事だと思って…」
何故かレアアイテムをゲットした方が慰められていた。欲しかったものを労せず手にしてしまった日の帰り道は慎重になる、ノアあるあるだ。
とはいえ、日々の送迎を専属の運転手に任せている紀久淑の場合、シートベルトを確認する以外に手はないのだが。
「まあ良いですわ。ですが、折角長く使えるアイテムを手にしたのですから」
少し間を開けて、紀久淑が黒部に目を向けた。
声も小さく呟かれた言葉には、果たしてどのような意味が込められていたのか。
「どうせなら、お揃いが良かったですわね」
どうやらそこには、ゆるく弧を描く彼女の笑みを見た黒部を朱くする程度には。
何かが込められていたらしい。
「とは言うものの、本当に欲しかったものはお互いに手に入れることはできなかったのですから、喜びも半減ですわね」
唐突に、えらく艶っぽい空気を振り撒いていた紀久淑が、今度は小悪魔な雰囲気を纏う。
女性が持つ二面性に振り回されっぱなしの黒部は、今度は顔を青くして頭を下げる。
「申し訳ない」
黒部が繰り出した綺麗な九十度を見て、紀久淑はふふんと鼻を鳴らす。
言葉の割に機嫌が良さそうなのは、アクセサリの効果を気に入ってなのか、それとも。
「……誰かと共にある。ただそれだけのことが、こんなにも幸せな気持ちにさせてくれるのですね」
翌日。
始業ベルが鳴る五分前に席へ着いた黒部を、正体不明ではない謎でもない視線が襲いかかる。
「じーっ」
お嬢様だ。
一昨日から続く奇行は今日も健在であり、その手に握られたしわくちゃな現国の教科書も変わらない。
今までと違うのは、目があうなり紀久淑が立ち上がったことだ。そのままこちらに歩いてくる姿を確認して、黒部が若干焦り始める。
とはいえ逃げるわけにもいかない。大人しく席に座って待つ黒部の前へ辿り着いた紀久淑が、左手で後ろ髪をかき上げながら口を開いた。
「ごきげんよう、黒部さん」
「ああ、おはよう、紀久淑さん」
それを見て驚いたのはクラスメイトだ。教室のあちこちからひそひそと話し声が響き始める。
連日にわたって行われる〝黒豚〟とお嬢様の奇行は、クラスでも話題に上がり始めていた。それもそのはず、話のネタとなりそうなフックには事欠かない二人を、噂好きな高校生が放っておく理由がない。
今日も何かしらのネタが飛び出すかもしれないと、多くのクラスメイトが注目していた中で親しげに交わされる挨拶。様々な憶測が飛び交うのは当然であった。
「え、何アレ」
「紀久淑さん、寂しすぎて頭おかしくなっちゃったんじゃん?かわいそー」
「だからー、誰か声かけてあげればいいのにって言ったじゃーん」
「あ、そう?んなら俺、声かけ行っとこっかな」
「……いーんじゃん?紀久淑さんと二人で頑張ればー」
「んじゃ、ウチらもアンタの抜けた分新しいヒト探さないと」
「い、いや、ジョークだよジョーク。マジになんなよ」
「あ、そうなん?」
「てっきりウチらじゃなくて紀久淑さんにつくんだと思ってたよー」
「なわけねーじゃん。てか黒豚キモ過ぎじゃね?下心見え見えっつーかさ」
「言えてるー」
わざと聞こえるように話される声を聞き流しながら、うんざりするような顔で紀久淑が用件を伝える。
「…このような場所で長話をするのも何ですわね。手短に済ませましょう」
黒部も同意見だった。周りの声を聴く限り、紀久淑さんが自分と話していても良いことはないだろう。
相手の要件は分からないが、それも今から判明するだろうと聞く体制に入った。
「黒部さん。貴方、わたくしに何か言わなければならないことがあるのではなくて?」
「ん?」
「昨日の今日です。躊躇う気持ちはわかりますが、鉄は熱いうちに打たなければなりません。さあ!」
そう言われても、問われた黒部に思い当たるものはない。恐らく昨日のクエストにかかわる話なのだろうが、全くぴんと来ないようだ。
と、ここまで考えた所で黒部が閃いた。昨日の件で、今日改めて行わなければならないことが、確かに存在する。
大勢の前で話すのは、彼女の立場を思うと危険かもしれないが、わざわざ彼女の方から来てくれたのだ。その恩に報いるためにも、今伝えるしかあるまい。
「紀久淑さん。昨日はありがとう。お陰で楽しかった」
「ええ、そうでしょう。わたくしからもお礼を申し上げますわ」
「うん」
満足げに微笑みながら頭を下げる黒部と、我が意を得たりとふんぞり返る紀久淑。
一拍、二拍と間をおいて。
「って、え?それだけですの?」
「うん…うん?」
「え?」
続く言葉を待つ紀久淑のツッコミに、続く言葉などない黒部が疑問を返す。
黒部の〝え、間違った?〟というアイコンタクトに、紀久淑が〝え、ホントにそれだけ?〟と返したところで、数秒の沈黙が生まれた。
ややあって。
「数日前の熱心なお声かけは何だったのですか!?わたくしの純潔を弄んだのですか!?」
「誤解を招く言い方すんなあああ!」
紀久淑が吼えた。黒部も吠えた。クラスメイトは沈黙した。
と、突っ込んだところで黒部も気づく。このお嬢様が待っている言葉は、パーティへの勧誘なのだと。
同時に思う。それを行うのは自分以外の誰かでなければならないと。自分と一緒にいるせいで貼られる〝黒豚の仲間〟というレッテルは、きっと彼女も不幸にしてしまうから。
周囲から向けられる視線がその思いを確信に変える。だからこそ、彼女のためを思えば、その先を言うのは憚られた。
うまい言い訳を口にしようとしたところで、紀久淑に機先を制される。
「……そのような目をされていては、何をしようとしても説得力はありませんわ」
先程の狼狽はどこへやら、静かな声音で語りかける紀久淑。見透かされたような眼差しに、言葉に息をのむ。
それでも、彼女の優しさに甘えてはいけないと思いなおす。
「しつこく何度も言い寄って悪かった。といっても、強いアイテムも手に入ったみたいだし、これでチャラだろ」
わざと周りに聞こえるように言う。粗暴な印象で、かつ恩着せがましい響きを持たせて。
「でも、まさかエクス・マキナが魔法耐性の低さを克服するとは思わなかったわ。俺も頑張んねえとなあ」
我ながらうまい言い回しだったのではないかと自賛する黒部。
要点を纏めつつ、とても厭味ったらしく聞こえたのではないか、と。
―――これまでのやり取りで、自分たちがクエストに向かったのは周囲に知られてしまった。ただでさえ、昨日は大勢の前でクエストに向かう話をしてしまったのだ。こうなっては誤魔化しようがない。
であればと、黒部は考える。これを利用しつつ論点をすり替えようと。
〝黒豚とパーティを組んでクエストに行ったら、たまたま良いアイテムが手に入った〟という負のニュースから、〝良いアイテムが手に入った〟の部分だけを抽出する。
そこだけを強調すればどうなるか。新たな力を得た紀久淑が、弱点の補填に成功した強いエクス・マキナであると周囲が知れば、彼女を放ってはおかないだろう。もともとビジュアルでの人気は高い種族である。これに本人の美貌も合わされば、彼女のこの扱いも改善されるかもしれない。
元より、彼女に足りていないのはきっかけだった。クラスの中で浮いていた理由も、あまりにもお嬢様している雰囲気が災いしてのことだ。
だがそれも、今回の件でケチがついた。雲の上の人だったお嬢様が、あろうことか〝黒豚〟とパーティを組んだ。その姿を見た周りは、彼女の評価を下方修正していく。
一方的に押し付けた高嶺の花という括りを勝手に外し、あろうことか自分達と同じ路傍の草とみなすのだ。出る杭は打たれるが、打たれてしまえば肩を並べられる。
そうしてパーティを得られれば、後はその輪の中で〝黒豚とパーティを組んでいた〟という話は笑い話になるし、いずれは目的が逆転して〝黒豚を使って良いアイテムを取りに行った〟と変わっていくはずだ。
黒部の皮肉めいた物言いを耳にした紀久淑さんも、さすがに彼の肩を持つような発言はしないだろう。
黒部以外はみんなハッピー。大団円。
ここまで考えた黒部の案は、その場の思いつきにしては上等なのではないか。
現に、彼の発言を聞いたクラスメイトにも変化が訪れている。
クソもミソもまとめて一緒くたにされていた視線が、紀久淑へ向けられるものはだいぶ趣を変えている。それを目にして黒部は手ごたえを感じる。自分はうまくやれたのだと。
しかし、目の前にいる女生徒は騙せなかったようだ。
「……なるほど、そう来ましたか」
皮肉どころか周りの目すらも気にしないまま、顎に手を当てて感心する紀久淑。怒りはおろか、表情にも何ら変化は見られない。
お陰で動揺を隠せないのが黒部である。少なからず手ごたえを感じていた矢先にこれである。
―――黒部にとって誤算だったのは、黒部が思っている以上に紀久淑は彼の性格を把握していたという点だった。
先のクエストにおいてクロベーは、最後の最後に自身を盾として真名を生かした。その後聞き出した意図と独白を受けた真名は、同時に彼の本質も理解したのだ。
彼の価値基準は、利己的なまでの利他主義に基づいていると。
自分勝手に、自分のためだけに、他人の利益を優先して。最後に一人、自己嫌悪に陥る。
何と利用しやすく、何と御しにくい存在なのだろう。彼を取り巻く環境がそうさせたのか、彼がそれを望んだのかはわからない。
どいつもこいつも、ふざけるな。真名は思った。であれば、こちらにも考えがあるぞと、紀久淑は黒部に口を開いた。
「では、わたくしはこうしましょう。貴方がおっしゃる強いエクス・マキナが、今ならばフリーですわよ。黒部さん」
先ほどよりも具体的な発言を言いきったところで、一限の開始を告げるチャイムが鳴る。
一連の流れを食い入るように見ていたクラスメイトが、慌てて準備を始める中。
「話の続きは後にしましょう。色よい返事を期待しておりますわ」
来た時と同じく颯爽とした足取りで、紀久淑は自分の席へ戻っていった。
その後ろ姿を見送った黒部の目に、彼女の姿はどう映っていたのか。
授業も恙なく終了して迎えた休み時間。
ああでもないこうでもないと自問自答を繰り広げ、おかげさまで全く授業を聞いていなかった黒部。その甲斐あってか、何とか纏まった結論のようなものを得ることができた。
同時に変なテンションに陥った彼は、紀久淑が言っていた鉄は熱いうちに打てを体現しようと前のめりになっている。終礼が響くと同時、今の勢いを失わないうちに伝えてしまおうと立ち上がったところで、他の生徒が紀久淑に声をかける。
「おはよう、紀久淑さん。今ちょっといいかい?」
彼女の隣に座る上田君だ。少し間をおいて、彼を勧誘したパーティが彼女の前に群がる。
先ほどの話を耳にしていた彼らは、有能になった美少女クラスメイトのヘッドハンティングへ動き出したようだ。
然程目立たないメンバーで構成された彼らには、紀久淑を良く思っていない女子の支配も届かない。これ幸いと声をかけたというわけだ。
初期とは明らかにキャラが変わってしまっている上田君の内面を推し量ることはできないが、恐らくは黒部への意趣返しだろう。間接的にとはいえ、自身がパーティに加わる遠因となった彼へ大した仇の返しようだが、上田君がそれを恩に感じることはない。下が自分に良くするのは義務で、上が下をぞんざいに扱うのは権利だと思っているようだ。
何より、黒豚とも対等に話してあげられる彼女ならば、自分でも会話ができるはずだという謎の後押しもあった。
笑顔で話しかける彼らに、これまた笑顔で言葉を返す紀久淑。その姿を見て、黒部の勢いは立ち消えた。
もとよりそうするつもりだったのだ。いまさら何を言ったところでもう遅いし、みんなに迷惑をかけるだけ。きっとこれで良いんだと自分に言い聞かせたところで、紀久淑と目が合う。
その目が。
その表情が。
〝早く来い〟
〝それでいいのか〟
そういっている気がして。
黒部はもう一度立ち上がった。
それを眺めた紀久淑の顔には、上田君達へ向けるものとは違う色を放つ笑顔が浮かぶ。
「先約がありますので、ごめんあそばせ」
「あ、き、紀久淑さん?」
上田君の言葉を遮りながら、紀久淑が立ち上がる。呼び止めようとした上田君の言葉にまるで頓着せず、そのまま黒部を迎えた。
続けて顔を向けた上田君は、視線の先に黒部がいるを確認すると憎々しげな視線を浴びせる。
「良いお話を聞かせていただけるのですわよね?レディを待たせているのですもの、ねえ?」
揶揄うような口調、顔には挑戦的な笑顔を浮かべている紀久淑。
まるで試すような口調には、それでも望む言葉が聞けるだろうという確信めいた雰囲気を湛えている。
「まさか、ここに来て〝なぜ〟などと聞きませんわよね?」
聞きたいのは黒部の意思だと、紀久淑は眼で語る。
ちらりと目を向けた周囲の目は、やっぱり否定的で。お前分かってんだろうな、ああ?といわんばかりの雰囲気を漂わせる。どこまで行ってもお前は〝黒豚〟でしかないのだと、自身の分を押し付ける。
にもかかわらず。
目の前の少女は、黒部から視線を逸らさなかった。
これは自分達の問題であると、周りの目などは関係がないのだと、その目は語っていた。
黒部の視線はあちこちを彷徨って、自然と下を向く。自信のなさの表れと、目の前に立つ彼女があまりにも眩しかったから。
「俺は〝黒豚〟なんだ。最底辺で、邪魔者で、一人でいなきゃいけない。欲しても、望んでも、手にしちゃいけないんだ。それが当たり前だから」
それでも、これだけは言わなければならなかった。
〝黒豚〟という個性が齎す価値観を、扱いを。こうして自分の口から言葉にして出さなければ、きっと忘れてしまうから。
そうしないと。あの時ギルドで助けてくれたように、また彼女の優しさに甘えてしまう。
「……口調。いつの間にか戻ってしまいましたわね」
彼の姿を、弱弱しい言葉を聞いて、紀久淑が悲しそうな声で呟く。
幻滅させてしまっただろうかと黒部は思う。恐る恐る顔を上げると、それでも彼女は優しく微笑んでいた。
一歩、彼に向けて歩みを進める。それを受けて、周囲がどよめく。
「昨日調べました。黒部さんが持つアバターの評価を。そして知りました。今、黒部さんが置かれている状況を」
「だったら、なおさら駄目だ。紀久淑さんまで」
巻きこんでしまう。そう続けようとしたところで、紀久淑さんが目で制する。
その視線のまま周囲を睨め付けると、吐き捨てるように言った。
「選民意識がもたらす負の面というものには、人一倍触れております。特に、わたくしが身を置く場ではいっそう陰湿で苛烈でした。それでも、目に留まってしまえば不快な点は変わりませんわね」
つまらなそうな顔を向けられて、何人かは不満げに顔をしかめる。面と向かって何かを言ってくる者はいないが、ひそひそと眉をひそめる姿を見るに、良からぬことを話しあっているのかもしれない。
それを目ざとく見つけた黒部。このままではいけないと言葉を発する。
「あまりそういうことは言っちゃ駄目だ。じゃないと、紀久淑さんまで俺と一緒くたにされるから」
「良いではありませんか。世を動かすのは、いつだってつまはじきに遭う弱者ですわ」
そう言いながらも、紀久淑の振る舞いは弱者のそれではない。あまりに堂々と言い放つ姿は、彼女をいつもより大きく見せた。
「わたくしが空気に乗せられて、誰かに阿ることはありません。いつだってわたくしは、わたくしが思うように生きてまいりましたから」
振る舞いはまるで支配者。傍若無人な物言いは、周囲に屈辱的な屈服を強いる。
「望んで、欲する。当たり前のことではありませんか。黒部さんの思うようになさってくださいまし」
民衆を伏して黙らせた王はそのまま、虐げられる弱者に救いの手を差し伸べた。
黒部は、紀久淑の目を見る。そのままゆっくりと言葉を紡いだ。
「最初は、一人になりたくなくて声をかけたんだ」
「ええ、存じておりますわ」
寂しかった。それだけなのかもしれない。
「パーティ組んで、クエスト行って、話して。紀久淑さんは優しいんだって知って、楽しかった」
「わたくしも、黒部さんをたくさん知ることができましたわ」
縋りたい。それだけなのかもしれない。
「優しいだけじゃなくて、カッコよくて。これからもこうしていたいって思った」
「そうも真っ直ぐに褒められると、何とも面はゆいですわね」
憧れを抱いたのかもしれない。
「でも、パーティを組んで楽しくしているより、パーティを組んで悲しい思いをさせたくなかった」
それらの感情が。それ以外の感情も、ぐるぐると回って、混ざって。
「だって俺は、〝黒豚〟だから。だから、このままじゃいけないんだって思って…」
「……黒部さんの取れる手段で、わたくしを守ろうとしてくださったのですね。ご安心くださいな。わたくしは、できることすらせず、誰かに守られながら後ろで震えているだけの女ではありませんわ」
それでも残ったものは。すべてに共通していたのは。
「共に乗り越え、共に分かちあう。黒部さんが教えてくださったではありませんか。それが仲間だと」
たった一つの、すべてだった。
「では改めて。黒部泰智さん。貴方、わたくしに何か言わなければならないことがあるのではなくて?」
黒部は頷いた。周りが認めなくても、彼女が認めてくれるのならば遠慮はしない。
一人ぼっちの黒豚だって、好きでそうしているわけじゃない。窮鼠猫を噛む。オークも孤独に曝されれば、開き直って人里にも降りよう。何も間違っちゃいない。
オークが女を欲するなんて、当たり前なのだから。
「紀久淑さん、いや、真名。俺とパーティを組んでください」
「喜んで、お受けいたしますわ」
当然というべきか、新たなパーティ誕生を喜ぶ声は上がらない。
多くは目の前で行われた茶番に白けた目を向けているし、残る少数は我関せずに思い思いの時間を過ごしている。歓迎ムードなどかけらも感じられなかった。
「え、何今のやり取り。キモいんですけど」
「てか、黒豚がパーティとかマジふざけてね?」
「いんじゃね?二人でせせこましくやってりゃ」
「いや、何かムカつくじゃん。ウチのクラスでフツーにオークがノアやってるとかさ」
「あー、確かにハズいわソレ」
「それに、リソースだって限られてんだし、あんまあいつ等に貴重なリソース割かれたくねえわ」
「だよな。俺達のリソースあいつらに取られんのムカつくわ」
「っつーかいらねえでしょ?黒豚のパーティなんて」
はじめこそ好ましくない程度の世論が、過激な生徒による発言で段々と排除寄りの意見が増えていく。
彼らに悪気など欠片もない。何故ならば、今までクラスを支配してきたルールは、〝みんながそうしている〟ものだからだ。
みんなで作ったルールやノリだから、何も悪くない。であれば、それを破る方こそが〝ノリの悪い〟悪なのだ。
人里に降りてきたオークを、姫君をさらう化け物を、人は決して認めない。
今までは嘲笑で済んでいたクラスメイトが放つ剣呑な雰囲気に、黒部は戦慄する。こうもあからさまなのかと思いながらも、自然と紀久淑を背中に庇う。
「紀久淑さん。この先いじめや嫌がらせがあったら、すぐに教えてくれ」
このままにしておいてはいけない、そう思った黒部が目元を険しいものへと変えていく。それを見た生徒の何人かは息をのむが、生意気だと言わんばかりに睨み返してくる者もいる。
あまり情けない姿は見せられない、派手に啖呵を切ろうとした黒部の横顔へ、紀久淑はきょとんとした顔を向けていた。
「わたくしに?いじめ?御冗談を」
言いながら黒部の前に躍り出る紀久淑。同時に、パチンと指を鳴らす。
その瞬間、黒い奔流が教室の入口から雪崩れ込んだ。何事かと慌てるクラスメイトの前に、大柄な体格を持つ黒いスーツの男性が居並ぶ。
前後の入口から教室内をぐるりと囲むように並ぶ彼らは、いかつい表情をサングラスで覆う。職務に準ずるその様は、フィクション世界に存在する〝黒服のエージェント〟そのものだった。
「皆様が平穏な学び舎のひと時を送れるようにとあえて申し上げませんでしたが、わたくしの行動範囲には、常に家の者の目がありますの。そのことゆめゆめお忘れなきよう、ご忠告差し上げますわ」
ずらりと列をなす黒服を前にして、クラスメイトは身じろぎ一つできない。どこまでが彼らの職域なのかがわからない以上、迂闊な動きは封じられたからだ。
悔しげな表情よりも恐怖に震える生徒が多いなか、紀久淑は教卓へと歩みを進める。道すがら、世間話でも行うような気軽さでクラスメイトに語りかける。
「わたくし、理不尽に力を振るう真似は好みませんの。ですが、わたくしを害する敵には一切の容赦をいたしませんわ。苛烈に、一切の慈悲なく断罪いたしますので、その際はお覚悟を」
教室の正面、教卓の前で振り返る紀久淑を見て、黒部はまた彼女に守られてしまったと凹む。
それでも彼女に被害が及ばないならばとここは喜ぶことにして、続けて言葉を発する紀久淑を見る。
「つきましては、僭越ながらこの場をお借りして、改めて自己紹介を行わせていただきますわ。皆々様、唐突にお時間をいただく無礼をどうかご寛恕くださいまし」
慇懃無礼な言葉のままに、周囲を睥睨するその目が語る。
―――人里に降り、姫を攫ったオーク。これを退治したくばすればいい。
―――だが勘違いするな。彼を疎み孤独に追いやったのは、他でもない貴様達だということを。
「紀久淑茉奈と申します。〝もう一人の自分〟はエクス・マキナ。真名と名乗らせていただいておりますわ。未熟者ながら、シーフの技量を嗜んでおります」
―――その時は覚悟しておけ。攫われたはずの姫君に、その首をかかれることを。
「本日より、皆様が〝黒豚〟と蔑む黒部泰智と、正式にパーティを結成する運びとなりました」
―――魂なき機械人形の姫君は、自罰的で心優しき黒い化け物と、共に在ることを望んだのだから。
誇らしげに、堂々と言葉を紡ぐ。結びの言葉と共にスカートの端を摘まみ、恭しく、見下すように頭を下げた。
「ご学友の皆様におかれましては、幾久しくご交誼を賜れますよう、伏してお願い申し上げますわ」