03
エヴは釣竿を振ると同時に糸を送り出し、餌の付いた針を岩陰の淀みの少し上流に落した。そのまま流れに任せて餌を流し、しばらく様子を探る。
屋敷の裏の川は引っ越しをしてきた時より水量が増え、絶好の釣り場があちこちにできていた。
エヴよりも少し下流でも、同じようにエラドが釣り糸を垂らしている。季節が良くなってきてからは、時間が合う時にはこうして二人で釣りを楽しんでいた。
「アレクも、本当に良い物件を探してくれたな。屋敷の裏で釣りができるなんて、『まじ、すげー』って奴だな」
慣れた手つきで竿を操りながら、エヴは最近覚えた『感嘆詞』を使って独り言をつぶやいた。
「何か、おっしゃいましたか?」
後ろの土手に腰を掛け、エヴの釣りを眺めていたアンが声をかけた。
「うん、いいや。独り言さ」
「――そうですか」
アンとリラは二人並んで、川沿いの土手の乾いた所に座ってこちらを見ている。いつもは釣りに興味も示さないのに、エラドと一緒だと言ったら、めずらしく見物について来ていた。ディーは時々エヴの趣味に付き合ってくれたが、生憎と午前中は学校に行っている。
エヴは手振りでアンにやってみるかと示したが、首を一つ振って断られた。
肩をすくめ川に向き直ると、釣り糸が狙った所から大分流されていた。もう一度投げ直そうと、釣竿を上げようとした瞬間、竿先から微かな振動が伝わった。
「お?」
エヴは慎重に釣竿を動かし、感触を確かめる――もう一度来た強い引きに合わせ、エヴは竿を素早く立てて引いた。
「きた!」
立てた竿先が大きくしなり、水中に伸びる釣り糸が左右に振れる。
「結構、大きいぞ! ねえ、ほら! ほら、見てる!? 大きいよ!」
エヴは振り向いて、姉妹に呼びかけた。
「わあすごいですわ」
リラが答えたが、今一つ反応が薄い。エヴはエラドにも声をかけようと下流を見ると、既にこちらに向かってくる途中だった。
「おお、良い引きじゃないか! おい、岩の下に潜ろうとしているぞ! 糸を切られる!」
エラドの警告に、エヴは慌てて竿を岩とは逆の方向に水平に引っ張った。魚が走る方向とは逆へ竿を立てながら、少しずつ岸へと寄せて行く。ぱしゃんと魚が水面に跳ねると共に、一気に引き寄せた。
「やったぞ! ほらニジマスだ、今年一番の型だな」
エラドは川岸で跳ねるニジマスを掴むと、口に指を突っ込んで針を外した。
「おほっ、すごく大きいぞ。元気が良いな、ぴくぴくしている。ほら、エヴも持ってみなよ」
「ああ、本当だ、すごく大きいな。こんな大きいのは、久しぶりだ」
エヴは、両手でニジマスを抱えた。銀色の身体の側面には、綺麗な朱色の筋が走っている。エヴは惚れ惚れと、自分の釣果を眺めた。
「――こんなに大きいと、入るかな?」
エヴは自分の持ってきた魚籠と、ニジマスの大きさを見比べた。魚籠には濡らした笹の葉と、その前に釣った幾匹かの魚が入っている。
「大丈夫だろう。俺も前に同じくらいの大きさのを入れたが、頭さえ入れば何とかなるって」
「えー、本当かい? 大丈夫かな」
「いけるよ、優しくな」
「ああ、本当だ。いけそうだ――ああ、入った!」
エヴは何とかニジマスを魚籠の中に押し込めると、笹の葉を上にかぶせて蓋をした。
「でも、もうこれでいっぱいだ。これ以上は入らないな。そろそろ帰ろうかな――っ?」
姉妹に声を掛けようと振り向くと、先程までは離れた所に座っていたのに、今はエヴとエラドのすぐ後ろに立っている。
「もう、お帰りですか?」
此処でこうしているのが、さも当たり前のような表情でアンが問い返した。
「ああ、うん、釣りはどうだった?」
アンとリラは一瞬だけ顔を見合わせると、とても真摯な表情でエヴに向き直った。
「興味深く、ございました」
◇
遠くで、朝を告げる鶏の声がする。
ハッとしてエヴは、読みふけっていた本から顔を上げた。机の周りには、エヴの書きつけたメモが乱雑に散らばっている。
「――うわっ、もう夜明けか。うーん――」
エヴは伸びをすると、肩を回してコリをほぐした。思わず大きなあくびが出る。
「ふー、どうしようかな、今からでも寝ようか。リラたちは――もう起きているかな、今日は起こさないように言っておかなくちゃな――さて、用を足して寝るか」
身震いをすると、エヴは用を足そうと中庭に出た。
「あれ?」
中庭には大きな木があって、その下にベンチが設えてある。そのベンチにアンが座り、大ぶりの紙ばさみに乗せた紙に、何かをしきりに描き込んでいた。細い木の板に黒鉛を挟みこんだ筆記具を、忙しく動かしている。何か、絵を描いているようだ。
ちょうど良い、アンに伝えようとエヴは近づいた。
「やあ、おはよう。ちょっとお願いが――」
絵を描く事に夢中になっていたアンは、エヴに気付き慌てて立ちあがった。
「あっ、あ、あの――」
アンが胸にかき抱いた紙ばさみから、バサバサと様々な大きさの紙がこぼれ落ちる。
「あーあ、落ちちゃったな」
「いえ、わたくしが拾いますから。やめて、触らないで!」
アンは必死に落ちた紙をかき集めながら、エヴに叫んだ。
「え?」
エヴは手伝おうと、足元に落ちた紙を拾い上げようとしていた。
なかなか上手なスケッチだが――カップルが抱き合い、口づけを交わしているように見えた。
「うん? これは――」
よく見ようとする前に、アンが強引に手を伸ばしひったくる。
「――み、見ましたか?」
アンは顔を真っ青にして、わなわなと身を震わせている。
「ふーん――」
エヴは、微かに眉をひそめて考えた。
アンの年は、幾つだっただろうか。年頃の娘なら、恋愛に興味は――当然あるだろう。このような、絵を描く事は――特に問題はない。エヴは、そう理解した。
しかし、構図はたくましい男が覆いかぶさり半ば強引な感じがして、それが気になった。
これを、ディーが見るのはまずいだろう。ここは、大人として一言、言っておいた方がいいとエヴは判断した。
小さく咳払いをして、真面目な表情でアンに向き直る。
「ああ、見たよ。だが、これは、あまりよろしくない――」
そこまで言った所で、アンは駈け出して行ってしまった。
「――?」
エヴは、頭を掻いた。また何か、間違えてしまったのだろうか。いや――分からない。
「うーん、恥ずかしかったのかな。まあ、後でリラに相談するか。取り敢えず、今は――」
朝の冷気に身体の冷えたエヴは身震いをすると、首をかしげながら用を足しに向かった。
(ダン、ダン、ダン――ぴんぽーん)
「…………! おーい! 誰かいないのか!?」
どこかで――誰かが、叫んでいる。いったい、誰が叫んでいるんだ――まったく迷惑な……。
「エヴ! いないのか!? おーい!」
エヴは寝返りを打ちながら、ベッドの上に起き上がった。
「俺ならいますよ、ここにいますよ……」
寝惚け眼をこすりながら立ちあがると、窓から中庭をうかがった。中庭ではエラドがうろうろと、窓から屋敷の中を覗き込んでいる。寝起きでぼんやりとしているエヴと、目があった。
「おお、エヴ――なんだ、寝起きなのか? もう、夕方だぞ――って、そんな場合じゃない。緊急の連絡だ! 入るぞ」
エラドはそう言うと玄関ではなく、中庭の扉を開けずかずかと入ってきた。
エヴものそのそと自室の扉を開けると、廊下に出てエラドを迎えた。
「やっぱりその格好は寝間着だな、こんな時間まで寝ていたのか?」
「あーうん。明け方まで本を読んでいてね、それから寝たんだけど――」
廊下の窓から外を見ると、夕暮れまでにはまだ時間があるようだが、空は茜色に染まりつつあった。
「――何時間、寝たんだろう?」
エヴは指を折って、一、二、三と時間を数え始めた。
「そんな事は良いから、とにかく聞け! あの三姉妹――えーと、リラたちはいるか?」
「え? ああ、うん」
「そうか、なら安心だ。あのな、村の東はずれに魔法の先生さんがいるんだが、そこで飼っていた魔獣が逃げ出したそうなんだ」
「――あー、魔獣? 前も、何か似たような……」
エヴの脳裏に、引っ越しをしてきた日の思い出が蘇る。
「ぷふっ――いや、ごめん」
小さく噴き出したエラドに、エヴは口をへの字にして渋面をつくった。
「――えーとな。逃げ出した魔獣に襲われても命の危険はないが、何やらよく分からない『恐ろしい』事が起こるらしい。動きはそんなに早くないから、とにかく家の中にいれば安心だそうだ。村の東って言うと、ここから一番遠い反対側だから大丈夫だと思うけど、今日は外に出ない方が良いだろうな」
そこまで言うと、エラドは窓から外をちらりと見た。
「じゃあエヴ、伝えたからな。俺は、もう一軒寄らなくちゃいけない――念の為、日暮れ前には家に帰っていたいしな。それじゃ!」
「ああ、わざわざありがとう、気を付けて」
エヴはエラドを屋敷の内門まで見送ると、門を閉めてしっかりと閂を掛けた。
「これで良しと――うん?」
中庭を振り返り、エヴは何かがおかしい事に気が付いた。
あれだけエラドが大騒ぎをしていたのに、誰も様子を見に来ない。
「おーい、リラ?」
夕闇が迫る中、屋敷には自動で明かりが灯り始めた。
「アン? ディー?」
三姉妹の名を呼びながら、エヴは台所の扉を開けた。
「――――」
台所にも、誰もいなかった。
エヴは踵を返すと、足早に居間へと向かった。
屋敷で一番広い居間には、暖炉の前にソファと食事を取る大きなテーブルがある。そこにも、誰もいなかった。
エヴは廊下を取って返そうとしたが、テーブルの上に紙片が置いてある事に気が付いた。ひったくるように、紙片を取り上げる。
紙には一言、『――お世話になりました』と書いてあった。
エヴは廊下を駆けだし、三姉妹の部屋の前に立つと扉を叩いた。返事はない。
「入るよ」
半ば予想していたが、部屋の中は空っぽで――最初から誰もいなかったように、綺麗に片付いていた。
「ああ、どうしてだ? ああ、俺は――また間違ってしまったのか――ここでも」
エヴは戸口に力無くもたれかかると、片手で顔を覆った。
部屋の窓から見える空はすっかり暗くなり、星が瞬き始めている。
しばらく何を見るとは無しに外を眺めていたが、首を振ると自室へと引き返した。部屋の入り口で、立ち止まる。
「最初に、戻っただけだ……」
綺麗に整えられた室内。だが、エヴの机の上だけは本が積み上げられ、メモが散らばっている。ここだけは、三姉妹との協議の末認められた、エヴの聖域だった。
「――?」
机の上に花瓶に生けた、花が飾ってあった。これは、寝る前にはなかった物だ。
「いや、まだだ――今度は、今度こそ――俺は――」
中庭に出て、辺りを見回す。片隅に立てかけてある細枝で編んだ箒を手に取ると、急いで地面をならした。二メートル四方をざっと平らにすると、その前に立ち三姉妹が書き残した紙片を取り出した。
紙片を左手に持ち右手をさっと振ると、エヴの身体の前に光の帯が現れた。光の帯は古代の文字の集合体で、それらが繋がる事で複雑な術式を発動する事ができる。
エヴは紙片に意識を集中して、右手を振り下ろした。同時に光の帯は地面に円形に拡がり、複雑な模様を描き出した。砂と土でできた、精巧な村の地図が浮かび上がる。
「――駄目だ、見えない」
エヴは、首を振った。
「これは、俺を――拒絶する、物だから……。何か、あの子たちと『繋がる』触媒がないと――そうだ!」
エヴは自室に駆け込むと、今朝まで読んでいた魔法書を取り上げた。恭しく開いたページには、しおりが挟んである。
空色のリボンの付いた、押し花のしおり。
エヴはもう一度地図の真ん中に立つと、左手のしおりに意識を集中する。再度、光の帯が地図の上を走った。
「いたぞ! 見えた! ああ――何て事だ」
村を描いた地図の端に、光の渦が舞っている。
「あそこは、エラドの言っていた『村の東はずれ』じゃないか」
エヴは門の閂を開けるのももどかしく屋敷を飛び出ると、東に向かって走り出した。敷地の柵を飛び越えようと足を振り上げたが、つま先が引っ掛かってもんどり打つ。ゴロゴロと地面を転がりながら立ちあがると、再度走り出した。
だが、幾らも走らないうちに、エヴの息が上がってきた。足の運びもおぼつかない。
「――走るなんて――この所――まったく――していなかったけど――こんなはずは――」
ハアハアと息も絶え絶えになり、わき腹に痛みが走る。
元々エヴは、身体を動かす事は苦手ではない。どちらかと言えば、何でもそつなくこなす。戦時中は馬を駆り、戦場を駆けた事もある。だが、戦争が終わってからは、釣り以外ではほとんど外に出ていなかった。
「――仕方――ないな――」
よろよろと走りながら、エヴは両手を内から外へと振った。前方の地面に、二本の緑色に光る帯が現れる。
その上を走ると光の帯が左右の足に巻きついて行き、とたんにエヴの歩調は力強くなった。
「――つぎ――」
右の手のひらを前に突き出すと円状の緑の光が現れ、エヴの胸に張り付く。
「ああ、これで楽になった――」
呼吸が楽になり、エヴは大きな歩幅で駆け続ける。
「――でも、これをやると後がなぁ……」
エヴは村の地図を思い出しながら、最短距離になるように道を選んだ。
今ではすっかり日も沈み、宵闇が辺りを包む。
懸命に走るエヴの左手に遠く見える村の家々は、魔獣を警戒して鎧戸を締めているのか、漏れ出る明かりはいつもより少なかった。
かなりの距離――村の端から端――を走りきり、目的地が近くなってきた。街道から逸れ森の中の小道を進むが、あまりの暗さに魔法で小さな明かりを呼び出した。
「この辺りのはずだけど、小さな屋敷の近くに――」
いた。こじんまりとして、長い間手入れがされていない様に見える屋敷の前に、三姉妹が座っていた。
帆布地の大きなバッグの上に、身を寄せ合って座る三人は、眠ってしまっているようだ。
歩調を落とし歩み寄ると、気配に気づいたアンが最初に目を覚ました。
「…………」
エヴの灯した小さな明かりの下で、しばし無言で見つめ合う。アンは泣いていたのだろうか、眼鏡の下の眼は赤く泣き腫らしている。
「――アン――俺は……」
ここに来て何と言ってよいかわからずエヴが口ごもっていると、リラとディーも目を覚ました。
三姉妹は立ち上がると、おずおずとエヴの前に歩み出た。
アンはいつもの気の強い態度とは打って変わって、リラの後ろにぴったりと寄り添っていた。ディーもリラの服の袖をつかみ、うつむいて何も喋らない。
リラだけが三人の長女としての役割を果たそうと、エヴを見て何かを話そうとするが、言葉が出てこずに目を伏せた。
こんな時は、何と言えば良いのだろう――エヴは懸命に考えるが、何も出てこなかった。
家臣や配下に指示や命令を――自分の考えを伝えるのとは、訳が違う。彼女たちは、自分の『部下』ではない――キャルーたちのような、『仲間』でもない――エラドやカノウたちのような、『知り合い』でもない。じゃあ、彼女たちは自分の、何なのだろう。
初めての様な、それでいて知っている様な、複雑な感情に混乱しながらも――それでも、話さなくては。
「――どうして、出て行ったんだい? 俺は、また間違えてしまったのかい?」
やっと絞り出した言葉は、過去の地位に相応する徳のある物でも、年相応に練られた物でもない。だが、これが今のエヴの、素直な本当の言葉だった。
「違うのです! エヴが悪いのではなく――わたくしが悪いのです」
エヴの言葉を打ち消すように、震える声でアンが答えた。
「アン、それは今朝の絵の事だよね。俺が絵を見たから――みんなは出て行ったのかい?」
「――はい。エヴは絵を見て、『よろしくない』とおっしゃいました。わたくし、とてもいけない絵を描いてしまって――それで、エヴを傷つけて。ごめんなさい、嫌な思いをさせてしまって」
「アン、違うわ! あなただけのせいじゃないわ。エヴ、あの絵はわたしがお願いしたんですわ! だから、わたしたちは――もう、お屋敷にはいられないと――申し訳ありません」
「わたしも! エヴ、ごめんなさい! わたしもお願いしたの!」
突然の三人の矢継ぎ早の謝罪に、エヴはうろたえた。
「え? ディーも、描いてくれと頼んだのか? うーん、世間ではそんな物なのかい? とにかく待ってくれ――えーと」
エヴは額に指を当て、懸命に考えた。どうも、エヴと三姉妹との間には見解の相違があるようだ。
「あのね、俺は確かに『よろしくない』と言ったけれども、それはアンの絵を否定した訳ではないんだ。それどころか、あの絵はとても上手で、良く描けていたよ。あのね俺は、世事にはうといけれども、ああいう絵のような内容は――『年頃の女性』なら、誰でも普通に興味のある事じゃないのかい?」
「えっ?」
三姉妹の口から揃って、疑問符が飛び出した。
「えっ?」
三人の虚を突かれたような表情に、エヴも思わず戸惑った。
「普通じゃ――ないのかな……?」
「いいえ! 普通ですわ! 普通ですとも! 興味のない女性なんて、いませんわ! そもそも――もが」
鼻息も荒く話そうとしたリラを、途中でアンが口を押さえて黙らせた。
「そ、そう? それでね、俺があの時言おうとしたのは――ああいう――その――熱情的な絵はディーにはまだ早くて、教育上『よろしくない』ので見せないようにと、くぎを刺そうとしていたんだ。でも、ディーもお願いしたって――うーん、ああ言う事に興味を持つには、早すぎないかな?」
エヴの中にある、年若い少女の恋愛観が――あまりあてになる物でもないが――間違っていたのではないかと、自信が無くなって来た。
「ううん、そんな事ないの! だって、素敵な事は素敵なんですもの! あれは、わたしにとっての、憧れなの!」
「そうそう、そうですわ、ディー! 憧れですわ! わたしたちは、本物を見たい訳ではないのです。想像を二次的な物に置き換える事によって、現実を尊き物に――もが」
再度、アンがリラの口を塞いだ。いつもおっとりとしているリラが見せる別の一面に、エヴは――元大陸の半分を統べた男は――思わず一歩退いた。
「エヴ、わたくしが描いた絵は、エヴを傷つけてしまったと思ったのですが――そうではないのですか? 認めていただけるのですか? あんな――軽蔑されてもおかしくない絵を描いた、わたくしを許していただけるのですか?」
アンは胸元で両手を握りしめ、真っすぐな瞳でエヴを見つめた。リラとディーも、同じくエヴを見つめる。
エヴは、良く分からなくなった。アンは反省しきりだが、当のディーは望んで描いてもらったと言っている。三姉妹の長女、リラもそれを肯定している。
とにかく、アンの真摯な問い掛けに答えようと、その両肩に手を置いた。思ったよりも華奢なアンの肩は、微かに震えていた。
「――もちろんだよ。ただし、節度は守ってね」
「わー良かった! じゃあ、わたしたちお屋敷にいても良いのね!」
ニッコリと笑うエヴに、ディーとリラが嬌声を上げて飛びついた。アンはエヴとディーたちにはさまれる形になり、エヴの胸の中で恥ずかしそうにもじもじとしている。
「ああっ、怪我をしているではないですか!」
うつむいていたアンが、エヴの膝を見て声を上げた。
「えっ? ああ本当だ」
屋敷を飛び出した時に転んだっけ、と思い出しながらエヴは自分の膝を見た。すりむいた両膝から、少し血がにじんでいる。
「ちょっと転んじゃってね。でも、大したことはないよ」
アンはエヴの足元にしゃがみこむと、怪我の具合を確かめた。スカートのポケットからハンカチを取り出し、傷の周りについた泥を優しく拭う。そんなにひどい怪我ではない事を確認すると、うなずいて立ち上がった。
「――今、お召しになっているのは、寝間着ですね?」
そう言いながら、アンはエヴの頭や肩についた木の葉をつまんで取った。
「うん、エラドに起こされて、手紙を見つけて、それで急いで走ってきたから」
エヴの膝丈の寝間着は、泥と汗で薄汚れていた。
「ふふ、と言う事は、夕方まで寝ていたのですか?」
アンは珍しく微笑むと、柔らかな表情でそう言った。
「ははは、まあね。エラドに起こされなければ、もっと寝ていたのかも――って、そうだ! みんな、すぐに帰るぞ!」
「どうかしたのですか?」
「ああ、エラドが伝えてくれたんだが、村の東はずれ――この辺りで、魔獣が逃げ出したらしい。襲われると、恐ろしい事が起こるって。とにかく面倒な事には、関わらない方がいい。さあ、みんな――帰ろう――」
エヴは三姉妹の大きなカバンを運ぼうと手を伸ばしたが、幾枚かの木の葉が乗っている。さっと振りはらったが、またパラパラと木の葉が落ちてきた。何だろうと周りを見ると、辺りにも緑の木の葉が舞っている。緑の木の葉――まだ夏前の森で、風もないのに葉が落ちるなんて。
何だろう、とエヴは頭上を見上げた。小さな魔法の光では、遠くまで明かりが届かない。だが、木の葉は、特定の一点から降っているようだ。
「エヴ、どうしたの?」
頭上を見上げるエヴに、不安げにディーが声をかける。
何かが、落ちてきた。
怯え固まって立つ三姉妹の上に、ばらばらと木の葉が降りかかる。エヴは腕を伸ばして三人を突き飛ばした。
同時に、何かがエヴの全身を取り囲んだ。
「きゃー!」
悲鳴を上げる三人をよそに、エヴは自分に襲いかかる何者かから逃れようと、両腕を振った。どろりとした妙な感触に、全身を包まれている。捉えようのない相手にもがいていると、頭だけが自由になった。状況を確かめようと、エヴは念を込めて魔法の光を強化した。
「何だ、こりゃ?」
エヴはぶよぶよとした半透明のつぶれた球体に、頭だけを出した状態で浮いていた。
「今、助けますから!」
三姉妹は手近な木の棒を取ると、エヴを捉える得体の知れない物に打ちかかろうとした。
「だめだ! 近寄るな! 俺は、大丈夫だから」
確かに身体は――傷む所もなく、身体が浮いて踏ん張りようがない事を除けば、問題はないようだ。
「何だろう、これは――スライムか!?」
エラドは、『魔獣』が逃げたと言っていた。確かにスライムも魔力を持った獣なので、扱いとしては魔獣に入る。
スライムとは森に住まう、どこにでもいる魔獣だ。性格は――性格と言う物があればだが――おとなしく、地面に落ちた木の葉や木の樹皮などを主食にしているので、生き物を襲うと言う事はない。だが――。
「これが、スライムですの!? 大きすぎますわ?」
リラの疑問ももっともで、通常のスライムの大きさは人の握りこぶしぐらいで、エヴの読んだ文献でもここまでスライムが大きくなるなんて聞いた事がない。
「とにかくみんなは離れているんだ、俺が何とかするから――これで、二度目だしね――ははは」
妙に諦観したような乾いた笑みをもらし、エヴはどうやってスライムを退治をしようか思いあぐんだ。
炎や氷の魔法では、スライムを傷つけてしまう。生き物を傷つけずに行動不能にするには雷の魔法が有効だが、あの巨大カエルの時の様に自分も同様に痺れてしまうだろう。特にスライムはほとんどが水分なので、効果はてきめんだ。
他に何か、スライムが苦手とする物は――エヴは、スライムの生態を思い出そうとした。スライムは木々が生い茂った、暗い森を好む。それは、湿った落ち葉が豊富にあるからだが、もっと重要な理由がある――太陽だ。
スライムにとって陽の光を浴びる――乾燥する事は、命にかかわる重大事だ。
つまり、スライムは、強い光を嫌う。
「そうだ! みんな、目を閉じていて!」
エヴは三人に警告をすると、『光』の魔法を発動させた。スライムが離れるように、自分の身体を触媒にして。
エヴの全身が、光り始める。
「うおっ、まぶしい! 何も見えんぞ!?」
それもそうだろう、効果を確かめようと、かっと見開いたエヴの眼も光り輝いているのだから。
スライムは一瞬、ぶるっと震えた。光を嫌がっているようだが、光量が足りないのかまだ離れて行かない。
「光り方が足りないのか? じゃあ、全身ではなく、一部に光を集中させれば――」
身体のどこか、意識を集中させやすい所は――エヴは、自分の股間を――。
「それはない。となると、うーん、ここ、かなぁ? みんなー、絶対目をつぶっていてよ!」
エヴは自らの胸にある、特に役に立たない――立つ事はあるかもしれない、二つの突起に意識を集中した。
「はあぁ、んっ!?」
魔力の高まりと共に、不可思議な感覚の高まりを感じ、情けない声を漏らす。
エヴの両乳首が、まばゆい光を放ち始めた。
まぶたをぎゅっと閉じていても、なおまぶしい程の光が放たれた。すっかりと陽の暮れた真っ暗な森の中が、真昼のような乳首光に照らされる。
スライムはぶるぶると震え、ずるりとエヴを吐き出した。
「うぬぅ――」
エヴの身体は、何かぬるぬるした物で包まれている。立ちあがろうとするが、ぬるぬるで足が滑ってすっ転んでしまった。立つことをあきらめ、なんとか四つん這いで辺りを探る。
「何も見えんが――そこか!」
光で目が眩んでいるので、『ずるずる』とそれらしい湿った音がする方向へ、とりあえずエヴは電撃を放った。狙いたがわず、スライムの全身に細かな火花が散る。
『ぽん』という間の抜けた音がして、微かな煙と共にスライムは本来の大きさに――拳ほどの大きさに、縮んでしまった。
「ふん」
もぞもぞとうごめきながら森の奥へと消えていくスライムを見送りながら、エヴは鼻を鳴らした。
「みんな、もう良いよ」
身体からぬるぬるのべたべたを滴らせ、何とか立ち上がると、エヴは三姉妹に声を掛けた。
「エヴ! 大丈ぶ――」
両目を手のひらで覆いしゃがみ込んでいた三人は、エヴに掛け寄ろうとして立ち止った。
「いやっ! そんな――」
三姉妹はエヴから顔を背け、再度両目を覆った――覆いながら、ちらっちらっとこちらを見ている。
「――どうせ、臭いんでしょ――まあ、分かっていたけどね――」
ぬるぬるに覆われた右腕を鼻先に近づけるが、少し生臭くはあるがそこまでの匂いはしない。では、まだ光っている所があるのかと、身体を改めるが乳首に特に怪しい所はない。
「おやおや?」
どうして、乳首が見えるのかな。
「ややや、これは――いやぁ!」
エヴは気合の様な、恥じらいの様な声を上げると、慌てて胸と股間を手で覆った。
エヴは、丸裸になっていた。スライムに取り込まれるまでは、下ばきと寝間着を身につけていたはずなのに、今は完全に丸裸。
「取り敢えず、これですわ!」
エヴの悲鳴にリラはカバンを引っ掻き回すと、綿の毛布を放って寄こした。
「ありがとう!」
礼を言いエヴは綿毛布を身体に巻きつけたが、ぬるぬるがついた所から微かな青い光を発し、布はぼろぼろと崩れて行く。
「あっ、あっ、ああー!? ああ!」
直ぐに状況を理解したエヴは、残った布で手早く体のぬるぬるを拭った。拭い終わる頃には布はすべて溶け、エヴはいまだ裸のまま。
「ごめんよリラ、毛布を駄目にしてしまった。これはスライムの体液と言うか、消化液なんだ。植物の繊維だけを溶かす、魔法特性を持っている。だから俺の服や、毛布が溶けてしまったんだ――これでもう平気だと思うから、もう一度何か――貸してもらえないかな?」
とても大切な所を慎ましく隠しながら、エヴは懇願するようにリラに尋ねた。
「ああ、申し訳ございません。もう、隠せそうな――適当な物が、ありませんわ。わたしの、その――下ばきなら」
「うん? それは、うん、さすがにね――いや、ありがとう。ごめんね」
「そ、そうですわね――」
顔を真っ赤にして健気にも提案したリラに、エヴは頭を下げた。
「仕方がありませんね」
二人のやり取りを見ていたアンは、後ろ手に腰のリボンを外し、木綿地のエプロンを脱いだ。
「これを――どうぞ」
慎ましくエヴの方を見ないようにしながら、アンはエプロンを手渡した。
「ええっ、これをかい? うーん、仕方なしだな」
「嫌なら、着なくて結構ですが?」
「ううん、着るよ。着させてください」
エヴは急いでエプロンを被ると、腰のリボンをキュッと縛った。
「ふう、これで何とか――なったのかな?」
アンから渡されたエプロンは、胸元から膝丈まであるドレス型で、隠さなければいけない所は――まあ、隠す事ができた。
だが、サイズはアンに合わせた物なので、いくら瘦身とはいえ背丈のあるエヴには『ぴっちぴち』だった。しかも、肩紐や裾には、可愛いレースのフリルで装飾までしてある。どこから見ても、立派な『変人』のご登場だ。
「ぷふっ――エヴ、とっても可愛いの!」
「駄目よ、ディー! でも、ごめんなさいエヴ。なんだか本当に、可愛らしいですわ!」
そう言うと、ディーとリラはゲラゲラと笑い転げた。エヴは眉尻を下げ、渋面を作る。
だが、姉と妹とは違い、アンだけが笑わなかった。銀縁の眼鏡をクイっと直し、真面目な顔でエヴを見ている。
「ア、アン……」
エヴは嫌な顔をせずエプロンを貸してくれた上、笑わずにいてくれるアンの心優しさに、救われる思いがした。
「リラ、ディー、違いますよ。これは、少しも可笑しい事ではありません。良く観察して、考えてごらんなさい」
「え? ええ……」
アンのいつにも増して真剣な表情に気圧され、二人はエヴを見つめた。
「――! そうね、アン。これは――」
三姉妹は顔を見合わせ、うなずいた。
「――これは、大変興味深いわ」
アンを中心に三人で手を取り合うと、エヴを見つめさらに深くうなずいた。
「え、何? 何だい?」
三姉妹はエヴに、ニッコリと笑いかけた。
「大変興味深いです」
◇