01
「あはは、こりゃ凄い! 物体操作と遠隔知覚、古代の呪法を組み合わせて――人型の傀儡を操るのか」
エヴはこの屋敷の前の住人、『メイ』という魔法師が残した蔵書を読みながら夕食を取っていた。
「これなら、人が行けない危険な場所でも、安全に作業ができるな……。色々と、使い道がありそうだ」
エヴは碗皿の底に残ったシチューを、パンで拭いとりながらつぶやいた。
だが、その言葉に答える者は、誰もいない。
「ほんと、面白い研究をしていたんだなあ……」
パンを口に放り込んで、もぐもぐと飲み込む。
「はあ、ごちそうさま」
パタンと本を閉じ、食器を持って厨房に向かう。
流しには山盛りの、洗っていない食器が溜まっていた。
「――まあ、いいか、明日で。明日こそは、掃除でもするかな」
流しに食器を置くと、トコトコと廊下を歩き、中庭に通じる扉をあける。中庭の片隅には、建物に寄り添うように小屋が設えてあり、トイレになっていた。もちろん、魔力化建築の技術を使った、『快適』なトイレだ。
「――よし」
用を足し終わり、便座の脇の突起――ボタンと言うそうだが、それを押しこんだ。
「んん、ふぅーん……。うはぁ……」
温かいお湯が便座の下から『ぴゅー』っと出て、デリケートな部分をやさしく洗い流す。
初めてこの機能を使った時は驚いて飛び上がってしまったが、慣れてしまえばこんなに素晴らしい物はない。さらに、最後には温風が出て残ったしずくを乾かすという、至れり尽くせりの機能。
エヴは感慨深くうなずいた。もう二度と、木の棒や砂には戻れないだろう。
「うーん、夜はまだ冷えるなあ」
トイレから出たエヴは、身震いをしながら夜空を見上げた。本を読むのに夢中になっていて気が付かなかったが、真夜中をすっかり過ぎた夜空には、細い三日月が掛っていた。
中庭の真ん中に立つ木が、風に若葉を揺らしさわさわと鳴る。
「うー、さぶさぶ」
エヴは両腕を掻き抱いて、小走りに屋敷に駆け込んだ。そのまま、廊下の奥の寝室に入ると、ベッドにぽんと飛び乗った。屋敷の中は暖房が利いていて、とても快適だ。
枕を背にあて体勢を整えると、ベッド脇のテーブルから本を取り上げる。
「本当に、この屋敷の魔法書は興味深い……。さーてと」
エヴは本を開くと、続きを読み始めた。
◇
(――ぴんぽーん)
(――ぴんぽーん、ぴんぽーん)
「ああぅ、あー?」
エヴはベッドの中で、枕に顔を押し付けたまま呻き声を上げた。
「……誰だよ、こんな朝早くから」
(――ぴ、ぴ、ぴ、ぴんぽ、ぴん、ぴんぽ、ぴんぽーん)
再度、少女の声を使った呼び鈴が鳴った。こんな鳴らし方をする人物は、一人しかいない。
エヴはのそのそとベッドから起き上がると、中庭に面した寝室の窓から屋敷の玄関をうかがった。白髪頭の、一人の男が立っている。
留め金を外し窓を開けると、エヴは男に声を掛けた。
「やあ、カノウさん、早起きですね。入って来てください。今、行きますから」
カノウは不思議そうに首を傾げ天を指差すと、玄関の扉に手を掛け開けた。
エヴは窓から身を乗り出し、カノウが指差した空を見上げた。エヴの感覚だとまだ朝早いはずだったが、陽の高さを見る限りでは、もう昼近い時刻のようだ。
「寝過したかな? まあ……、いいか。ふあーあ……」
エヴは大きく欠伸をすると、寝間着の上にガウンを羽織り厨房に向かった。
ケトルに水を汲みコンロに掛け、居間にいるカノウに声を掛けた。
「カノウさん、何か飲みますか?」
「ああ、お構いなく――いや、私も、エヴさんと同じ物を――」
カノウの返事にエヴはうなずくと、流しに積みっぱなしの食器を、右から左から観察した。吟味の末にカップを二つ引っ張り出すと、ちょいちょいと洗った。ティーポットの中の茶葉を入れ替え、ケトルからお湯を注ぐ。
「よし、と。あれ、トレイはどこにいったかな? まあ、いいか」
右手にティーポット、左手にカップを二つ持ち、エヴは居間に向かった。
「どうも、お待たせ――おっと」
床に積まれた本につまづきそうになった所を、危うく回避する。居間のソファーに座ると、テーブルにカップを置き紅茶を注いだ。
「さあ、どうぞ」
「ああ、どうも……」
カノウは礼を言いつつ、ティーカップを見つめた。
カップの洗いが適当なのか茶渋で汚れている上に、濾しきれなかった茶葉がぷかぷかと浮いていた。ちょっと見、パセリを浮かべた、小粋なコンソメスープのように見える。
「エヴさんがここに越して来て、半月ぐらいになりますか?」
「――えーと、そうですね。それくらいになります。ひと月は経っていないですよ」
カノウの質問に、エヴは少し考えて答えた。
「ふーむ……」
カノウはエヴを見て、そして、部屋の中を見回した。
エヴは――もう昼近くだというのに、いまだに寝間着姿で、しかもガウンは表裏が逆だ。
部屋の中は――脱ぎ捨てた服や使いかけの食器があちこちに散らばり、その間を埋めるように分厚い本が積んであった。
カノウは紅茶にひとくち口を付けると、首を振ってテーブルに置いた。紅茶から、何か怪しい臭いがしたからだ。
エヴはまだ半分寝ボケたような顔で、紅茶をすすっている。
「ねえ、エヴさん?」
「はい?」
「毎日の食事は、どうしています? ちゃんと食べていますか?」
「――? もちろんですよ。今朝はちょっと寝坊をしちゃって、食べてませんけど。昨夜は、キャルーが作ってくれたシチューを食べましたよ。あと、カノウさんが教えてくれた、市場で買ったパンとか」
「あれっ? キャルーさんって確か、引っ越しの次の日には帰ったのでは?」
「ええ、帰りましたよ。シチューは、魔法で時間の進みを遅くして、取って置いたんです。でも……、ついに昨夜で無くなりました」
「はあ。じゃあ、それ以外の食事は?」
「あー、色々適当に、食べていますよ。それにしても、料理って難しいですね。実感しましたよ。キャルーたちが帰った後、自分で料理をしたんですが――時間が掛かる割には、全然美味しくなくて」
「それで?」
「――それで何度か作ったんですが、準備や片付けも面倒くさいし。まあ……、諦めました」
「じゃあ、今は何を食べているんですか?」
「何って、もちろん『食べ物』ですよ。市場で買ってきた燻製肉を、パンに乗っけて塩胡椒をかけたやつとか。これが簡単にできて、結構美味くて。『男の料理』っぽいでしょ。他にもチーズを乗せたり、サラミを乗せたり、いろいろ作れますよ」
エヴは得意げに語ったが、カノウは少しあきれ顔をした。
「でもそれって、火の通っていない物ばかりじゃ?」
「そうそう。そればかりじゃあ、さすがに物足りなくて――ああ、そうだ! それで、新しい『魔法料理』を思いついたんですよ! 従来の発想に囚われない、面倒くさくない料理法! カノウさん――好きでしょ、こういう話」
「ええ、もちろん! 聞かせてください」
カノウの口調が目に見えて変わり、ソファから身を乗り出した。
カノウはエヴが来て以来、ちょくちょくと屋敷に通っては『魔法』の話を聞きたがった。
エヴが借りているこの魔力化建築の屋敷も、カノウがいくつかアイデアを出したと言っていた。実際にカノウの発想力はユニークで興味深く、エヴはカノウとのおしゃべりを楽しむようになっていた。
「この屋敷に残されていた――メイの魔法書を読んでいて、思いついたんです。使う魔法は簡単な物ばかりだけど、いくつも組み合わせるので、制御が重要です」
「ふーむ、なるほど。それで?」
「――もう、お昼ですね。ちょっと作って、食べてみますか?」
「ええ、是非に!」
二人は立ち上がると、奥の扉を抜けていそいそと厨房に向かった。衣服や本の山を、飛び越えながら。
厨房に足を踏み入れ、カノウは少し怯んだ。
「……これは……」
何と表現すれば良いのだろう、強いて言うなら『制御された混沌』が一番近い表現だった。
厨房の中は基本的にはかわいらしく、女性らしさで溢れていた。前の持ち主の趣味だ。そして、室内のほとんどは、きちんと片づけられている――と言うか、まったくの手つかずだった。
それに反して、水回りとコンロの周辺には、混沌が広がっていた。
使ったままで洗われていない食器類が、あり得ない角度とバランスで、うずたかく積まれている。かろうじて救われている所は、時間遅延の魔法で『腐敗』していない事のみ。
そして食材は、空間固定と時間遅延の魔法で、すべてが壁に張り付いていた。玉ねぎやパン、白身魚の半身など、さまざまな食べ物が『薄青色』に光りながら壁にくっついているのは、ある意味芸術的でもあった。
「ははは、片づけは、ちょっと苦手で――ね」
カノウのあっけにとられた表情に気付いて、エヴは言い訳がましく言った。
「ふう、これはまあ、なんと……。しかし、なんでこちら側しか使っていないんです?」
カノウは厨房の奥の、手付かずの空間を指し示した。
「……ああ、えーとですね、何か悪い気がして――すごくね、ここは大切な空間みたいで……」
「メイとマリオンの?」
「そうです。ここにある物、一つひとつに思いが込められている感じがして。男の俺が侵しちゃいけない――と言うか」
「ほーん……、何か意外ですね。ああ、だから寝室も小さい方の『客間』を使っているんですね」
「ええ、一番大きな寝室の方が使い勝手もいいけど、女性の部屋を俺が使うのは気が引けちゃって」
カノウは思い出した――そう言えば、居間でも刺繍のクロスや置物などが、ひとまとめに部屋の隅に押しやってあった。あれは、汚れないようにするためだったのだ。
「なるほどねえ……。じゃあ、ここも綺麗にしないと?」
「すみません、できる事とできない事がありますんで! 線引きですよ、線引き!」
エヴは線を示すように、手をシュッシュッと振った。
「まあ、そのうちにね、片づけますよ? それよりも、昼食を作りましょう!」
エヴは、壁に張り付いたパンに手を伸ばした。
「では、始めます」
「はい!」
カノウは右手を大きく上げ、大きな声で返事をした。
「……良い返事ですね。それじゃあ、まず、食材を適当な大きさにします――ふんっ」」
エヴは、おもむろにパンを二つにむしった。
「はっ、ふっ、うぬっ、よしっ! 他の食材も、同様に!」
ふわふわと宙に浮かぶ、豚肉の塊、ニンジン、玉ねぎを、気合とともに引き裂いていく。
「あのー、包丁とかは使わないので?」
「はい。これは、調理器具を使わない――つまり、できるだけ何も汚さない、手間のかからない魔法料理なんですよ。ちなみにほら、手も魔法でシールドしているので汚れません!」
「ああっ、ほんとだ! やっぱり、魔法は便利ですねえ」
エヴが差し出した両手を見て、カノウは感心したようにうなずいた。
「それでねカノウさん、メイの研究を読んで気付いたのですが――料理というのはつまり、錬金術なんですよ。なんらかの混合物を作る場合、複数の物質を混ぜ合わせ、場合によっては熱を加える。ね?」
「――えーと。パンを例にすると、適切な量の材料を混ぜ合わせ、最後に火を加える事でモチっと美味しくなる――みたいな意味ですか?」
「そうそう、そうです!」
エヴは、嬉しそうに手を叩いた。エヴがカノウを気に入ったのは、こんな所だった。
カノウは辺鄙な村に住む『ただの農夫』のはずなのに、驚くほど見識が深い所がある。特に錬金術の分野では、カノウが知らない事でも少し説明をすると難なく理解し、高度な会話を楽しむ事ができた。
エヴは、カノウに指を三本立てた。
「で、料理をするには――一つ、味付けをする。二つ、かき混ぜる。三つ、熱を加える。でしょ?」
「ええっ? ずいぶん端折りましたね。突き詰めれば――まあ、そうなりますか」
「そこから、俺が考えた料理法は――まずは味付けで――どんな味付けにしようかな? シンプルに、塩、胡椒、ちょっとワインとチーズを入れて――とろみも欲しいから、小麦粉も入れよう」
エヴは陶器の壷から調味料をつまみ取ると、食材に振りかけた。
「さあ、一つ目の準備ができた。この食材を、一つの空間にまとめますよ」
今まで別々に浮いていた食材が、一つにまとまり薄青色の光に包まれた。
「味付けの次は――二つ目、かき混ぜる」
エヴは人差し指を立て、くるっと回した。
『バンッ』
大きな音と共に、食材の『塊』は高速で回転を始めた。カノウが驚いて、耳を押さえる。
「ああ、しまった。音速を超えてしまった――どうも、加減が難しいな」
カノウは目を見開いて、物凄い勢いで回転する食材を見つめた。
「ここで、ちょっとした工夫! 食材はただ均一に回転させるのではなく、速度を調節してわざとムラを作るんです。こうする事で、効率よく混ざるんですね」
確かに最初は何となく、食材のニンジンや玉ねぎの色が見えていた。だが、今では高速で回転する、完全に混ざった『茶色の塊』だ。
「次の工程は――三つ目、熱を加える。火が通りやすいように、形を整えて、と」
エヴは両手を、高速で回転する『塊』の両側に添えた。そして、棒状に変形をさせると、炎の魔法を加えた。
ゆらゆらとした炎は『塊』の回転に巻き込まれ、周りを包み込んだ。
熱が加わるにつれ『塊』はぐつぐつと沸騰し、蒸気が漏れ始める。
「うわっ! 何だこれ! あ、あちっ、あちちっ!」
カノウが、悲鳴を上げた。
回転する『塊』から、蒸気が四方八方へ噴き出した。蒸気の刃になで斬りされ、カノウは部屋の中で逃げ惑う。
エヴは――魔法で防いでいるので、平気だ。
「ああ、そうか! 水分は沸騰すると、蒸気となって体積が増える。それを魔法で封じ込めているから、高圧となった蒸気が逃げ場を求めて、隙間から噴き出しているんだ。へー、知識では知っていたけど、実際に見るのは初めてだ」
エヴはさっと手を振って『塊』を包む魔法を強化すると、感心したようにうなずいた。
「ねえ、エヴさん! これ、大丈夫ですか? なんだか、まずいような……ねえ、エヴさんってば!」
厨房の隅で椅子の背を盾にしたカノウが、『塊』を指差して叫んだ。
『塊』は尚も熱を加え続けられ、高速で回転しながら歪に変形し始めた。
「おっと、そうですね。もう、いいでしょう」
エヴはうなずくと、炎の魔法と回転の魔法を解除した。
「ほら、完成です! どうです、料理も見方を変えて魔法を使えば、こんなに簡単!」
エヴは、満面の笑みで手のひらを差し出した。その手の上には、『塊』が浮かんでいる。
魔法で固められ茶色にてらてらと光る『塊』は、炎と回転が止まった今でもブルブルとうごめいていた。
「じゃあ、試食しましょう! きっと、美味しいですよ!」
『塊』の下に皿を置き、エヴは魔法を解除しようとした。
「あっ! エヴさん駄目です! 圧力が――」
『バシューーーーー』
カノウが警告する間もなく、『塊』は茶色の飛沫を激しく噴き出しながら飛翔した。真っすぐに、物凄い勢いで。
『べいん』と奇妙な音を立て『塊』はカノウの額を直撃し、窓を突き破りはるか遠くへと飛び去った。
「ほーら、元通りっと!」
エヴはカノウの額に当てていた手を、ぱっと離した。カノウはこわごわと額に触れると、壁に掛けられた鏡で自分の額を確かめた。
「ねっ、大丈夫でしょう? 治癒魔法は得意な方じゃないけど、火傷ぐらいならお任せですよ?」
カノウの額には『塊』と同じ太さの、薄桃色の跡が残っていた。カノウは鏡越しに、エヴに恨みがましい視線を送ったが、さっとかわされた。
「さあ、もう一度。初めての事には、失敗が付き物ですから」
少し怯えた表情をしたカノウに、エヴはにこやかに笑いかけた。
「いや、大丈夫ですって。ほんと、今度は上手にやりますから。痛くしませんから……、ね?」
◇
「うん、こんなもんかな。蒸気も抜いたし、最後に形を整えて――」
エヴは『塊』を手でさすり、棒状に形を整えた。
下に皿を差し出し魔法を解除すると、『塊』がペタンと落ちた。
「ほら、できた! こんなに手早くできて手間いらず、新しい料理時代の幕開け! さあ、味見をどうぞ」
カノウはエヴが差し出すフォークを受け取り、ひとくち切り取ると口に運んだ。
もぐもぐと味わう。
「うーん、そうですね、味は悪くないです。と言うか、これは、覚えのある料理のような? ああ、これは豚肉と野菜の『パテ』です……。既にある料理ですね」
「――え? ああ、そうか。これは――道理で、見た事があると――うーん、そうか。残念」
エヴは、しょんぼりと肩を落とした。
「でも、調理法は良いと思いますよ。調理器具を使わず、どこでもできるのは、良いじゃないですか。魔法ならではです」
あんな仕打ちを受けてなお、カノウはエヴを励ました。
「――そうですよね。じゃあ、食べましょうか」
二人は食堂に移ると、新しい魔法のアイデアを話しながら『パテ』を平らげた。
「なかなか、美味しかった。腹もいっぱいになるし――でも、なんというか――」
エヴはフォークを置くと、口を拭いながら言った。
「飽きる。ですか?」
カノウも、同意するようにうなずいた。
「やっぱり、そうですよね。同じ味ばかりだと、飽きちゃうなあ」
「確かに。これは一つの料理であって、食事と言うのはいろんな物を食べてこその楽しみだから。ところでエヴさんは、料理とか家事とかは好きじゃないです?」
「あー、どうでしょう。一人暮らしをする前は、張り切っていたんですが。実際やってみると、面倒くさいですね。いやでも、違うんですよ。やればできるんですよ――やればね」
言い訳がましく答えるエヴに、カノウは眉をひそめた。
「だけど、現実はこうですよね――」
カノウは手を振って、混沌が広がる部屋の中の惨状を示した。
「うーん、そうかな? まあ、そうかもしれないし、見ようによっては――」
「いや、見間違えようがありませんよ」
きっぱりと否定するカノウに、エヴは肩をすくめた。
「まあ、確かに少々、雑然としているかな? でもね、仕方が無いんです。ここの魔法書が面白くて、しょうがないんですよ。今までに見た事がないような理論や応用、興味深い考察――読めば読むほど、新しく知らない事が増えていく。だから――」
「――他事をする時間がない?」
「そうなります、ね」
カノウはうなずくと少し考え、居住まいを正してエヴに尋ねた。
「あのですね、エヴさん。ぶしつけな事を聞きますが、良いですか?」
「? 答えられる事なら、どうぞ」
「アレクさんから、ちらりと聞いたのですが、エヴさんは裕福な貴族のご子息だとか」
「――え? ええ、ええ、そうです。ここから遥か東、帝国の片隅の小さな所領、ですが」
これは、ここへ来る前に、アレクたちと考えたかりそめの設定だった。
「それでですね――財政的には、余裕がありますか?」
「お金の事ですか? ええ、まあ、色々ありまして、そこそこには」
「なるほど、そうですか……。あの、エヴさん。明日は何か、ご用事とかありますか?」
「いいえ、特には」
「じゃあ、明日の――そうですね、十時頃にお伺いしたいのですが?」
「良いですよ。というか、どうしたんです? いつもは、そんなこと聞かないじゃないですか」
「えーと、はい。それは、また明日お話します。『パテ』美味しかったです、ごちそうさまでした。じゃ!」
そう言うと、カノウはそそくさと帰って行った。
「何だろう? まさか、借金? なわけないか……。まあ、いいか」
エヴは首をかしげながら、カノウの出て行った玄関を閉めた。
「さて、確かに、少しばかり散らかっているな……。まあ、今日は早く寝て、明日やろうっと。ふっふー」
それよりも今は本だと、エヴは昨夜読みかけていた魔法書に向かった。
◇
(――ぴんぽーん)
(――ぴんぽーん、ぴんぽーん)
「ああぅ、あー?」
エヴはベッドの中で、枕に顔を押し付けたまま呻き声を上げた。
「……誰だよ、こんな朝早くから」
(――ぴ、ぴ、ぴ、ぴんぽ、ぴん、ぴんぽ、ぴんぽーん)
再度、少女の声を使った呼び鈴が鳴った。こんな鳴らし方をする人物は――。
エヴはハッとして、飛び起きた。そう言えば、昨日カノウと約束をしたのではないか。
屋敷の玄関には、カノウと見覚えのない人影が三つ。後ろ姿しか見えないが、女性のようだ。
窓を開けると、エヴはカノウに声を掛けた。
「カノウさん、入って来てください。今、行きますから」
誰を連れてきたのだろう、とエヴは訝しみながら寝間着の上からガウンを羽織った。少し考え、クンクンと寝間着の匂いを嗅ぐ。
「そう言えば、この『服』は何日ぐらい着たっけ? と言うか、洗濯っていつしたっけ? んー、まあいいか」
エヴは厨房に向かうとケトルをコンロに掛け、カノウに声を掛けた。
「カノウさん、何か飲みますか?」
「いや、結構です!」
カノウは、即答した。
「じゃあ、俺だけいただきますよ?」
エヴはカップを抜き取ると、ティーポットを見つめた。
「葉っぱは、昨日入れ替えたばっかりだから、いいか」
ポットのふたを外しお湯を注ぎ入れると、満足げにうなずいて居間に向かった。
カノウはいつもと違い、ソファーに座らず立ったままエヴを待っていた。
カノウの後ろにに控える三人の女性には見覚えが無く、初見のようだ。
「おはようございます、エヴさん――今、起きたばかりですか?」
「えへへ、まあ、そうです――えーと?」
「ええ、はい。ちょっとですね、エヴさんにご紹介と言うかですね――」
「はい?」
カノウは、何とも歯切れの悪い様子だった。エヴはポットとカップをテーブルに置くと、小首をかしげて先を促した。
「あのですね、エヴさん、メイドを雇いませんか? ――住み込みで」
「ええっ? メイドですか?」
「そうです。さあ、みんな、エヴさんにご挨拶を」
カノウに促され、三人はエヴの前に立った。
エヴは失礼のない程度に、さっと三人を観察した。どことなく顔立ちが似ているから、三人は姉妹なのだろう。
三人ともメイドが着るような服を着ているが、妙なと言うか――珍妙な服装をしていた。所々、サイズや丈が合っていないように見える。
「こんにちは。はじめまして――ご主人様」
三人は揃って、深々とエヴに頭を下げた。
『ご主人様?』――エヴはカノウに視線を送ったが、さっと顔を背けられた。
「わたしは、長女のリラと申します。これから、精一杯ご主人様のお世話をさせていただきますので、よろしくお願いします」
そう言って微笑むと、リラは再度頭を下げた。胸元まで開いたブラウスから、胸の谷間がこぼれて見え、エヴは慌てて目をそらした。
リラは豊かなブラウンの髪をアップにまとめ、その優しげな顔立ちと相まって、清楚な雰囲気を醸し出していた。が、着ているメイド服は、胸元や腰回りなど、女性らしさが強調されすぎていた。特にブラウスから覗く柔らかい谷間が、エヴをどぎまぎとさせた。本当に、平均よりも大きい。かなり。
「――次女の、アンです」
そんなエヴの、下卑た考えを見透かすような冷めた表情で――考えすぎだとは思うが――次女のアンはリラの隣に立つと、姉と同じように頭を下げて挨拶をした。
アンは姉に比べ少し赤毛がかった長い髪を、二つの三つ編みにしていた。肩にかかった髪を払いあげると、細い銀フレームの眼鏡を指先で直し、エヴを見つめた。
エヴはその表情に少し気圧され、軽くうなずき挨拶を返した。
アンの服装はリラに比べ幾分かはメイド服らしいが、やはりどことなく――おかしなデザインだった。スレンダーな身体にぴったりした、タイトなブラウスと膝上丈の短めなスカート。眼鏡をしているせいか理知的には見えるが、何とも挑発的な――どちらかと言えば、エヴ好みの……。アンがじっとエヴを見ている事に気づき、エヴは慌てて眼をそらした。
「こんにちは、ご主人様。わたしはディー、十二歳です。こんな素敵なお屋敷で働けるなんて、とっても幸せ! だって、このお屋敷、とってもかわいいんですもの。でも、わたしはまだ学校に行かなくてはいけないから、姉様たちみたいにいっぱい働けないけれど、精一杯頑張るわ! どうぞ、よろしく、ご主人様!」
快活にそう言うとディーはスカートを両手で広げ、軽く膝を曲げ、頭を下げて挨拶をした。
姉たちと違い、ディーの服装は『まとも』だった。肩口と腰回りの膨らんだ、ブラウスとスカート。ここに、仕事用のエプロンを付ければ、立派なメイド服だ。
ディーのあいさつが終わると、三人は顔を見合わせ揃って頭を下げた。
「どうぞ、末永くお願いいたします。ご主人様」
エヴは目の前に居並ぶ三人を見て、その後ろに立つカノウを見た。カノウは先程から、一度も目を合わせようとしない。
「……カノウさん」
「……はい、なんでしょう?」
揉み手をするように両手を身体の前で組み、モジモジとしながらカノウはエヴをちらっと見た。
「話がしたいのですが……、二人で」
「……はい」
エヴはカノウを従え厨房へ向かうと、扉を閉めた。
「……それで?」
長い沈黙の末、エヴはカノウに尋ねた。
「それで、ですね、あの三姉妹には色々ありまして――身寄りが無くて。なので、私が預かっているんです。本当に三人ともいい子で、まったく――ええ、何の問題もないんですよ。ちゃんと三人で、自立して暮らしていたんですから。上の二人はもう働ける年ですので、あちこちでメイドとして働いていたんですよ」
「働いていた?」
「はい、それはもう真面目で、評判も良かったんです。この村も、昔は辺境にしては人も多く、そこそこに賑わっていたんです。それなりのお屋敷を構える人もいて、そんな所でお勤めしていたんですよ。ですが、共和国と帝国の戦争が終わった後、羽振りのいい人たちが少しずつ居なくなって――いつの間にか、メイドを雇えるような人が居なくなってしまったんです」
エヴは、うなずいた。終戦は、それまでの帝国と共和国の在り方を、かなり変えたはずだ。それは、『良い』事の方が多かった――と、エヴは信じているが、人によっては『悪い』事となる場合も多々あるだろう。
それから、エヴは最近気づいたのだが、緊張したりすると口数が多くなるのはカノウの癖のようだった。
「――あの子たちにも蓄えは少しはあるんで、暮らしていけない事もないんです。でも、将来の事を考えると、あまり手を付けない方がいい。それで、とりあえず今は、我が家の離れで暮らしているんですが、あまり環境が良くないんです。何とかしてやりたいのですが、私にも私の家族がありまして、いかんともしがたい状況なんです」
「それで、俺に?」
「はい! 今日までエヴさんを見てきましたが――エヴさんになら、あの子たちを安心してお預けできるんではないかと。金銭的にも、余裕があるようなので――いえいえ、お給金はお気持ちほどで、食べる所と寝るところがあれば――住み込みで、いかがですか?」
エヴは腕を組んで、ため息をついた。
「はあ……、彼女たちの状況は分かりました。ですがね、カノウさん。俺は、一人暮らしがしたくて、ここに来たんです。今までとは違う、自分一人だけの気ままな暮らしがしたい。だから、メイドとは言え、誰かと暮らすなんて――お断りをします。無理です。駄目です」
有無を言わさぬ口調できっぱりと言い切るエヴに、カノウは珍しく食い下がった。
「でも、エヴさん。そうは言いますが、その『気ままな暮らし』と言うのは、色々と不自由があるのでは?」
「何を言ってるんです、不自由なんてありませんよ。自由そのものです」
「じゃあ、食事は? どうしていますか? 温かい食事を最後にしたのは、いつですか?」
「何を言ってるんですか? 昨日、一緒に食べたじゃないですか」
「あれは食事じゃありませんよ!」
カノウは額に細長く残るピンクの痕に手をやり、エヴをにらみつけた。エヴは後ろめたさに首をすくめ、愛想笑いを浮かべた。
「えへへ、まあ、料理も追い追いとやりますよ。ここの暮らしに慣れたらね、本当に」
「その他の家事は、どうしています? 掃除は? 洗濯は?」
「えー? 掃除、ですか? ええ、ええ、やりますよ。ただ、今は、この屋敷の蔵書を調べるのに忙しくてですね……」
おかしいな? と、エヴは首をひねった。なんだか、風向きが怪しい。いつの間にやら、攻守が逆転しているようだ。
「ちょっと、あのね、カノウさん。今はそういう話では、ないですよね――とにかく、俺はきちんと一人暮らしができていて、メイドを雇うなんて気は、さらさらないですから」
「――ほうほう、この、有様で? それに、その服は何日着替えてないんですか?」
カノウは手を振って厨房の惨状を示した後、エヴをぴしりと指差した。
「……あの、いや、服は……、何日だったかな? とにかく、それは全部今日やろうと……」
「それ、先日も言ってませんでしたっけ?」
ここぞとばかりにカノウは、エヴの言葉途中にたたみかけた。両手を腰に当て、エヴにのしかかるように睨みつける。
「ねえ……、エヴさん。私は代理とは言え、この家の大家なんですよ――それで、エヴさんは借りている側――店子ですよね?」
「はい……」
「この家の大家としては――あんまり汚されるとねえ。お、お、や、としては困るんですよねえ」
『大家』と言う言葉を強調すると、カノウは昨日割った時のままで穴のあいた窓を見た。
「いや、だから、全部今日やりますって。だから……あのですね――」
「そうだ! エヴさん、本を読む時間がいくらあっても足りないって言ってましたよね。あの子たちを雇えば、家事はお任せで本が読み放題ですよ。あの子たちは有能ですから! 保証します」
カノウはエヴがのけ反るほど顔を近づけそう言うと、ぱちぱちとウインクをした。
「……むぅ……、いやいや、やっぱり――」
エヴはカノウを押しのけると、手近な椅子に座り頭を掻いた。
「じゃあ、エヴさん、こうしましょう。試験期間と言うのは、どうです? そうですね、一カ月では?」
カノウもエヴの向かいに座ると、指を一本立てエヴに突き出した。
「えー、一カ月かぁ。うーん」
「……キャルーさん……」
カノウは仕方が無いという表情で、ぼそりとつぶやいた。
「えっ? 今、なんて――」
エヴはピクリと動いて、カノウを見た。
「しょうがないなー、もうキャルーさんに言うしかないかなー。ねえ、エヴさん?」
エヴの反応に、にこにこと笑いながら、カノウはエヴを見た。だが、目は笑っていない。
「な、なんでキャルーに? キャルーは、関係ないじゃないですか」
「あのね、この屋敷をお貸しするにあたり、キャルーさんが保証人になっているんですよ。で、借り手のエヴさんは、綺麗に使ってくれていないし、綺麗に使うつもりも無いなんて言っていると。では、私はお願いするしかないでしょう――キャルーさんに、何とかして下さい、と」
カノウの瞳が、きらりと光った。
「どうしますか? さあ、エヴさん!」
「ぐう……うぬう。だから、掃除しないなんて言ってないし――今日やるって――」
「じゃあ、十日間! 十日間だけ、試してみてください」
カノウは両手のひらを大きく広げ、エヴの眼前に差し出した。
「十日間か――うーん、それなら――十日間ですよ?」
カノウは満面の笑みで、エヴはいやいやと――二人は、握手をした。
なんだか上手く言いくるめられたような気がしながら、エヴはカノウを従え居間に戻った。
三姉妹は先程と同じように、揃って立っていたが――エプロンを付けていた。リラとアンの服はともかく、この方がメイドらしく見える。と、そこでエヴは、部屋が片付けられている事に気付いた。
あちこちに脱ぎ散らかされていた服は畳んでまとめられ、本はソファーテーブルの上に積まれていた。
「ご主人様がお話しされている間、勝手ながら少々片付けさせていただきました」
アンは一歩進み出て報告すると、頭を下げた。
エヴは、少しムッとした。読みかけで開いてあった本も、あったからだ。
「あー、本は触らないで欲しかったな。読みかけの所もあったし――」
「はい、読みかけの本には、章の見出しを書いた付箋を挟んで置きました」
アンは、テーブルの上の蔵書を指し示した。確かに、すべての本に付箋が挟んである。
「えっ、ああ、そうなの」
「本は開いたままだと、悪くなっちゃうの。せっかくの立派な本なのに、かわいそうだったから……。駄目だった?」
ディーが上目づかいで、心配げに尋ねた。
「いや、あのう……。うん、そうだね。確かに、開いたままだといけないよね」
「あとね、本が食べ物で汚れていたの」
これには、カノウが渋い顔をした。ここの蔵書はエヴに譲渡された訳ではなく、所有権は今でもこの屋敷の本来の持ち主メイにある。それは、この屋敷を借りるときにしっかりと言われていた。
カノウの視線に、エヴはばつの悪い表情で目を逸らした。
「汚れていたのは、服もですよ。それに、少し臭いますねえ」
リラが、おっとりとした口調で付け足した。
エヴは少し赤くなりながら、自分の服を引っ張りくんくんと匂いを嗅いだ。エヴは、なんだか恥ずかしくなってきた。
「ではご主人様、本日は天気もよろしいので、このままお屋敷の掃除をさせていただきたいのですが?」
両手を身体の前で軽く組み一礼をした後、アンがいかにもメイドらしく尋ねた。リラとディーも同じく、品良く一礼を重ねてエヴを伺う。
「えっ、掃除? うーん、今日は、昨夜読みかけだった本の続きを――」
エヴの汚れた衣服の匂いを嗅ぎ、顔をしかめていたカノウがぱっと振り向いた。眉をひそめて、エヴに強い視線を送る。
エヴは肩をすくめてため息をつくと、首を振った。その二人の様子に、ディーはハッとした表情でエヴの前に進み出た。
「ご主人様、わたしたち――だめだったの? カノウさん、わたしたちだめだったの? お願いします、ご主人様――わたし、一生懸命働くわ――だから、ここに置いてください」
エプロンを両手でギュッと握り、ディーは瞳にうっすらと涙を浮かべ懇願した。リラとアンはディーに歩み寄り、背中にそっと手を置くと、ちらっとエヴを見た。
「いやいや、違うよ。うん、俺の勘違い。掃除はね、今日やるはずだったんだから。だからね、みんなにやってもらえば本当に助かるなあ。ね、カノウさん、掃除は今日やるつもりだったんですから――本当に」
ディーの涙に驚き、エヴは慌てて弁明をした。カノウはその様子に、『よろしい』と言うように大仰にうなずいた。その表情に、今度はエヴが顔をしかめた。
「本当に? ご主人様? わたしたち、ここで雇ってもらえるのね? ありがとうございます!」
「ああ、うん、よろしく頼むよ」
エヴは片膝をつくと、服の袖でディーの涙をぬぐってやった。
エヴの視界の端で、リラとアンが小さく拳を掲げたように見え、ハッと振り向いたが、二人は慎ましくメイド然として立つばかりだった。
「では、ご主人様。お許しが出たようなので、仕事にかからせていただきますね」
リラが、ずいとエヴの前に進み出た。
「それでですねえ、ご主人様にお願いがあるのですが?」
身体をもじもじとさせながら、リラは恥ずかしげに尋ねた。身体を揺らすと同時に揺れる豊かな胸に、どうしても目が吸い寄せられる。エヴは、意識をして目を逸らした。
「お召物を、脱いでいただけます?」
「えっ? 服を?」
エヴは思わず、聞き返した。
「はい」
「今、ここで?」
「えっ?」
「えっ? ああ、そんな訳ないな……。脱ぐの?」
「はい、そのお召物も洗濯をしたいのですが?」
「ああー、そっか。洗濯したいからね。うんうん、そんなに――臭う?」
エヴの問い掛けに、その場の全員が目を逸らした。
視線を向けられていないのに、視線が痛い――そんな事もあるのだと、エヴは初めて知った。
「ご一緒に、湯浴みもいかがです?」
「えっ? 一緒に?」
「えっ?」
「ああ、いいや! 違うな、勘違いしていないし! えーとだ――つまり、俺の服が臭うから洗う。そうだな、お願いしよう! そして――俺も臭うから洗う、と言う事だ……な……」
人差し指を立て、さも分かっている様な顔でエヴは語った。が、途中からその指は力無く、ぐんなりと萎れた。
「俺……、そんなに……、臭うの?」
寂しげなエヴの問い掛けに、その場の全員が目を逸らした。
「うん、そうね。じゃあ、行ってきます……」
とぼとぼと肩を落とし、エヴは湯浴み場へ向かった。
◇
エヴが湯浴みを終えると、棚に脱ぎ捨てた服は無くなり、新しい服が置いてあった。タオルで身体を拭い服を着終えると、湿った髪を撫でつけ頬を触る。身体中を三回ずつ洗い、髭もしっかりと剃った。
意識していなかったが、知らないうちに髭はかなり伸びていて、剃るのに苦労をした。帝国にいた頃は、エヴの立場上、考えられなかった事だ。
「よし、良いだろう」
頬に剃り残しが無い事を確認し、湯浴み場を出る。湯浴み場は、屋敷の作業棟にある倉庫の一角に設えてあった。
倉庫の中で、ゴトゴトと音がする。何だろう、とエヴは室内を見回した。壁際の四角い大きな箱から、音がしているようだ。
箱の前面にはガラスがはめられ、中で泡だらけの何かが回っている。どうも、服のようだ。エヴは思い出した――『洗濯機』とか言う、人の手を煩わせることなく衣服を洗ってくれる魔法道具。ここに引っ越してきた時に聞いていたけれども、すっかり忘れていた。
湯浴み場でも蛇口をひねるだけで、お湯が使い放題。洗濯も、勝手に魔法道具がやってくれる。魔力化建築は何とも便利な物だとうなずきながら、ぶらぶらと歩きだした。
この屋敷は魔法研究家のメイが建てた魔力化建築で、便利な魔法道具はすべてメイが自作した物だった。妹のマリオンと暮らしていたが、二年前に突然行方不明になって以来、ずっと空き家となっていた。
屋敷は、一辺が荷馬車五台分ほどの小ぢんまりとした大きさで、外から見ると平屋の一軒家に見える。実際は中心にある中庭を、建物がぐるりと囲むような形で建てられていた。
中庭の一番奥にある玄関ホールを境にして、右手側が居住棟になっていた。居住棟には居間と食堂が一続きになった、屋敷で一番広い部屋。居間から続く廊下沿いに、厨房と寝室が三部屋ある。左手側は作業棟で、メイが遺した蔵書が保管されている仕事部屋と、先程エヴが身体を洗った湯浴み場のある倉庫、一番端に家畜小屋といった間取りだった。
エヴが倉庫から仕事部屋へと足を踏み入れると、脚立の上の『尻』が見えた。
――いや、違う。尻ではなく、蔵書を本棚にしまおうとしているアンが見えた。
こちらに背を向け、危なかしく脚立の上に片足立ちで、本を本棚に納めようとしている。なかなか上手くいかないのか、身体をくねらせながら懸命に手を伸ばし本と格闘している。その度に形の良い臀部が、エヴのちょうど目線の高さで、ふりふりと揺れた。
エヴは思わず戸口で立ち止まり、一瞬アンの後ろ姿を凝視しかけた。だが、先程のアンがエヴを見る視線を思い出し、激しく首を振り歩み寄った。
「手伝おうか?」
できる限り、紳士らしく声を掛ける。
「――えっ? いいえ、結構です。お気遣いありがとうございます、ご主人様」
アンはちらりとエヴを見てそう言うと、再度、作業を続けようとした。エヴとしては、アンがこのまま脚立の上で『ふりふり』するのを眺めていたい気もしたが、部屋を汚した元凶としては気が引ける。
辺りを見回すと、大きな作業用の机に二冊の本が置いてある。エヴは本を手に取ると、再度アンに声を掛けた。
「じゃあ、こうしよう。俺が上に登って本をしまうから、君が下から残りの本を渡してくれないか?」
アンは手を止め、エヴの提案を吟味するように首を傾げると、うなずいて脚立から降りてきた。
床に立つとアンは片手で本を持ちながら、ずり上がってしまったスカートの裾を引っ張り直した。
「申し訳ございません、ご主人様。お願いできますでしょうか?」
そう言いながら、アンはお辞儀をした。
「ああ、うん。じゃあ、まず、その本からだね」
エヴはアンの持つ本を受け取りトントンと脚立に登ると、そのまま苦も無く本を本棚に納めた。エヴは平均より身長は高い方なので、こういう作業は得意だ。
「はい、じゃあ次を」
「お願いします」
アンから残りの二冊を受け取り、同じように本棚の抜けていた所に本を納めた。
「よし、できた」
そう言い脚立から降りてきたエヴを、アンはじっと見つめた。
「失礼します」
何だろうとエヴが訝しむ間もなく、アンはエヴの眼前に顔を近づけた。突然の事にどうしたら良いか分からず、エヴは――そっと目を閉じた。
アンはそのままエヴの首元に顔を近づけると、すんすんと匂いを嗅ぎ小さくうなずいた。
「えーと、あの――今のは」
「――何か?」
「ううん、何でもない。じゃあ、よろしく」
「はい、ご主人様」
お辞儀をするアンを後に、赤面したエヴはそそくさと仕事部屋を立ち去った。
居間に入ると、エヴはすぐに様子が変わった事に気が付いた。あちらこちらに積んであった本や衣服の山が無くなり、この屋敷に元からあった調度品があるべき位置に戻され、すっきりと片付けられていた。窓辺の小さなテーブルには、花瓶に花まで活けてあった。
ディーは何かの歌を口ずさみながら、床を雑巾がけしていた。
「まあ、ご主人様」
エヴの気配に気付き、ディーはぱっと立ちあがると会釈をした。
「ご苦労さま、とっても綺麗になったね」
「はい、ありがとうございます、ご主人様。このお屋敷は、可愛い物がいっぱいだから、お片付けも楽しいの」
「そうかい、それは良かった」
にこにこと笑うディーにつられて、エヴも笑顔で答えた。
「あのね、えーと、ご主人様?」
「なんだい?」
「ご主人様は――魔法使いなの?」
「えっ? うーん、そうだね。魔法は――得意な方かな」
「やっぱり! だって、部屋中に置いてあったの、とっても難しそうな本ばっかりだったもの!」
そう言い、ディーは嬉しそうに両手を打ち鳴らした。
「――ご主人様は、難しい魔法も使えるの?」
ディーは少し間を置くと、遠慮がちな上目使いでエヴに尋ねた。
「えーと、難しいと言っても、いろんな種類の魔法があるし、得手不得手はあるね。例えば、どんな魔法?」
「あのね、忘れてしまった事を思い出す魔法なんだけど……、そんな魔法はあるの?」
エヴは、しばし考えた。
「忘れた事を思い出す、か。うーん、俺は物理的な魔法――何かを持ち上げたり、熱くしたりとかの魔法が得意で、精神的な魔法――心に働きかける魔法は、あまりなあ。もともと、精神的な魔法と言うのは適正があってね、使える人も限られているんだよ」
「そうなの……」
ディーは、少し気落ちしたように目を伏せた。
「いや、俺も得意で無いだけで、できない訳じゃ無い――大事な事なら、調べてみようか?」
「本当? ありがとう、ご主人様!」
そう言い、ディーはエヴの手をギュッと握った。
「……」
ディーはふっと無言になると手を離し、エヴの周りをトコトコと一回りした。そして、満足げにうなずいた。
「どうしたの?」
エヴは、不思議に思い尋ねた。
「――あのー、えーと、うーん」
ディーは眉根を寄せ、言葉を探すように口をパクパクさせながら一生懸命考え始めた。
「あのね、ご主人様――」
ディーは顔を少し赤らめ、モジモジとした。
「うん?」
「ああっ、そうだ! 良い匂いがします!」
やっと言葉が見つかったのか、ディーは両手をパンと打ち鳴らした。
「良い匂い? うん、身体を洗ったばかりだからね――俺はそんなに、臭かった?」
「はい、とっても臭かったです!」
そう無邪気に言った後、ディーは慌てて両手で口を押さえた。
「って、すみません! わたし、失礼な事を。今は大丈夫です!」
「うん、そうか。うん、良かった。ところで――俺は、どんな臭いがしていたの?」
ディーは再度眉根を寄せ、束の間考えた。
「洗っていない犬の、酸っぱい獣臭?」
「おおぅ、そうか……」
エヴは突然、激しい喉の渇きを覚えた。
「じゃあ、お仕事頑張って」
力無く片手を上げると、エヴは喉の渇きを癒そうと厨房へ向かった。
厨房では、リラが洗い物をしていた。既にかなりの量の食器が洗い終わり、うずたかく積み上げられている。
エヴに気付いたリラはエプロンで手を拭うと、水差しから洗ったばかりのコップに水を注いだ。
「はい、どうぞ、ご主人様」
「ああ、ありがとう」
喉が渇いていたエヴは、礼を言うとコップの中身を一気に飲み干した。
「まあ、そんなに喉が渇いていらしたんですか? おかわりします?」
「うん、頼むよ」
エヴからコップを受け取ると、リラは再度水を注いだ。
「ありがとう」
今度は、ゆっくりとコップをあおる。
「――あれ? なんか、美味しいね。水――じゃないのかな」
「はい、棚にハーブがありましたので、水出しできる物をいくつか。勝手に使っては、いけませんでした?」
「――良いんじゃないかな。使うべき人が、使う分には。カノウさんにも、何も言われていないし」
「そうですか。良かったですわ」
リラはそう言い、微笑んだ。エヴはコップの水を味わうようにもう一口飲むと、パッと両手を広げて一回りした。
「ほら、身体は綺麗になったから、もう臭わない」
「はい、見違えました。男振りが、上がりましたねえ」
「えっ、ああ、うん……、ありがとう」
突然の褒め言葉にエヴはどぎまぎして、もぐもぐと返事をした。
「ああ、そうだ。屋敷の中が、ずいぶん綺麗になったね」
「はい、腕の振るいがいがありました。久しぶりのお仕事で、わたしたちも張り切っていますわ」
「そうかあ、自分では――まあ、そろそろ掃除をしなくちゃとは思っていたけど――そんなに汚れてたかな?」
「はい、とっても」
頬笑みを浮かべたままの表情で、リラはきっぱりと言い切った。
「そうなんだ、ゴメンね……」
「いいえ、これがお仕事ですから。せっかくお雇いいただいたんですから、しっかり働かせていただきますわ!」
「いや、まだ正式には――」
雇った訳ではないと言いかけて、エヴはカノウを見かけない事に気が付いた。カノウは、リラたちに『試験期間』だという事を伝えていないのだろうか?
「あれ、カノウさんは?」
「ご主人様が身体を洗いに行った後、すぐにお帰りになりましたよ。とても急いでいる様子で」
「……ちっ。逃げたな」
舌打ちをしながら、エヴは頭を掻いた。カノウは説明責任を放棄して、逃亡したのだとエヴは悟った。
「ご主人様?」
エヴの様子に、リラが少し心配げに声を掛けた。
「ああ、何でもないよ。今度、カノウさんが来たときにしよう」
「――? そうですか。ところでご主人様、お願いしたい事があるんですが――」
「ん、何?」
「これなんですけど、わたしには動かせなくて――魔法が使えませんから」
リラは壁に張り付いた食材を、指でつついた。エヴが、壁に魔法で固定していた物だ。
「ああそうか。でも、魔法を解除すると、食材が傷んでしまうけど。どうしようか」
「えっ? 冷蔵庫に入れておけば――ああ、だから冷蔵庫が空っぽだったんですわね」
リラは、納得したようにうなずいた。
「れいぞうこ?」
「ええ、そうですわ。厨房に備え付けてある、この大きな箱です」
リラは食器棚の隣にある大きな箱の前に立つと、前面に取り付けられたレバーをガチャリとひねって扉を開けた。中に閉じ込められていた冷気が、辺りに広がった。
「これは――ああ、これも魔力で動いているんだな。箱の中が冷気で満たされて、中に入れた物を冷やすのか」
「はい。食材は、冷やすと長持ちしますから」
「これもここに引っ越してきた時に、聞いたような気が――忘れていたな」
「このお屋敷は、本当に便利な物がいっぱいですわ」
「うん、ここは本当に良くできている。感心するよ」
食材にかけた魔法を解除しながら、エヴはつぶやいた。
「その割にご主人様は、あまり家事をなされなかったようですねえ」
エヴの後ろについて食材を集めながら、リラが答えた。
「あー、ごほん。やろうとはしたんだよ、ほんとに。でも、ここの蔵書が――魔法理論の研究とか、新しい視点で書かれた物が沢山あって、ね。夢中になっちゃって」
「ふふふ、本当に夢中だったようですわね。お屋敷中が、本だらけでしたもの」
少しばつが悪そうに言い訳するエヴに、リラは微笑んで答えた。
「ですが、ご主人様――」
そう言うとリラは、一変して真面目な顔になった。
「――お掃除、お洗濯、そしてお食事。家事の基本は、生活の基本です。基本を疎かにしては、お身体に障りがありますわ。ご主人様の身なりはさっぱりしましたが、顔色はあまりよろしくありませんねえ。お食事はバランス良く、しっかり取っていましたか? 睡眠も、ちゃんと取っていましたか?」
「食事はちゃんと――」
言いかけて、エヴは先日のカノウとの会話を思い出した。
「――できていないかな? 睡眠は、ちゃんと取ってるよ?」
「そうですか? 今日、わたしたちが来た時は、まだお休みだったような――お日様は、とっくに登っていた時間でしたわ」
「あーはー、そうだね。うん――そんなに顔色が悪い?」
「ええ。初めてお顔を見た時は、まるで『山賊』みたいでしたよ。うふふ、髪も髭もぼうぼうで」
リラは口元を手で隠しながら、思い出し笑いをした。
「そうか。一人でいると、気付かないんだなあ」
エヴは壁の鏡に自分の姿を写し、両手で顔をさすりながら見分した。言われてみれば顔色はあまり良くなく、目の下にはくまもできている。目の下を擦りながら、小さくため息をついた。
「一人暮らしに憧れてみたけれど、簡単じゃないな……。それでも俺は、やらなくてはならないんだ」
力無く、控え目な決意を表明するエヴの手を、リラはそっと取った。
「はい。わたしたちが、お手伝いしますわ。ですから、ご主人様は心置きなく『一人暮らし』をなさってくださいね」
「――なんだい、そりゃ? そいつは『一人暮らし』って言えるのかな?」
「ふふふ。もちろん、そうですわ」
「……そうか」
微笑むリラにつられ、エヴも笑みを浮かべた。
「そう言えばご主人様、お腹は空いていませんか?」
「ああ、そうだね。空いているかな」
エヴは確かめるように、腹をさすって答えた。陽は天頂近くまで登り、既に昼時になっていた。
「ではご用意しますので、食堂でお待ちくださいね」
「うん、よろしく」
軽くお辞儀をするリラを背に、エヴは台所を後にした。
◇
リラの用意した簡単だが美味しい昼食を取ったエヴは、屋敷内をうろうろとしていた。
三姉妹は今日までエヴが十二分に『楽しんだ』一人暮らしの痕跡を片付けるために、忙しく働いていた。おくつろぎくださいと言われても、まったく居場所はなかった。それどころか、控え目ではあるが『邪魔者』的な視線が痛い。
こういう扱いは、帝都の居城でも覚えがある。そんな時にみんなが喜ぶ行動は一つ――ここから、居なくなる事だ。
「散歩にでも、行ってこようかな?」
エヴは、誰に言うともなくつぶやいた。
「いってらっしゃいませ!」
間髪いれない三人揃ったお辞儀に、エヴはうんうんとうなずきながら屋敷を出て行った。
「……どう?」
「わたしは良いと思うの!」
「そうね――最近、カノウさんが足繁く通っていたのは、このお屋敷だったのね」
「あんなに楽しそうにしていたから、どんな人かなと思っていたけど。とっても素敵なご主人様でよかった!」
「痩せすぎ」
「そうかしら? ともかく、せっかくできたご縁だわ。末永くお仕えできるよう、がんばりましょうね」
「そう、ね……。でも、絶対に悟られないよう、気を付けて」
「はーい」
「ええ、なかなか分かってはもらえないでしょうからね……」
三姉妹は束の間、足を止めて語らうと、すぐに元の仕事に戻った。
◇