44話 無惨
──まずい、まずい、まずい。
目が、合っている。人間に近い骨格で、悪魔のように悍ましい顔をした怪物と。
兵士寮の屋上で身を潜めていたはずなのに、なぜピンポイントで顔を上げ、こちらに気付いたのだろう。なぜそんなに狂気的な笑顔でこちらを睨むのだろう。
怪物と自分。片方は笑顔、もう片方は血の気が引いた驚き顔。お互いに目を合わせながら硬直している。早く、早くこの地獄から解放されたい。そんな思いが心を侵食していく。──が、
「…………ッッ!?」
そのまま怪物は、狂喜しながら勢いよく地を蹴り上げた。そして、そして──
当たる、麗翔のいる兵士寮の壁に向かって、自らの身体をぶつける。巨大な肉体と石造の壁が接触する度に、体感的には震度7にも及ぶ揺れが発生する。それだけではない、次第に、建物全体に亀裂が入る。接着している石と石が離れ始める。
「くそ、やめろ、やめろ、やめろ……ッッ!」
理由もわからず怪物は、未だに体当たりを続けている。麗翔は恐怖のままに壁にしがみ付きながら、いつ崩れるかもわからない建物の、残り僅かな耐久度に縋っていた。
だが、敵の身長は十五メートルにも及ぶ。全身の筋肉も非常に発達していて、そんな怪物の猛攻に建物が耐え切ってくれるなど、麗翔も心底信じ切れていなかった。それでも、もはやそれに縋るしか──
「…………ッッ!?」
やがて、麗翔がいる屋上の足場にまで大きな亀裂が入った。そのまま建物は、次々と破片をばら撒きながら形を失っていく。すると体当たりを続けていた怪物は、一呼吸置くかのように後方へ後ずさりした。そして、
「オオオオオオオッ!!」
今までのものとは明らかに勢いが違う、最大級の突進をした。衝撃で運動場が裂ける、木々が吹き飛ぶ、脆くなった壁が、粉砕される。
建物が──倒壊する。
* * * * * * * * *
──目を覚ました時、麗翔の鼻孔を最初に突いたのは細かい砂だった。
「えぁ……?」
意識の覚醒を待ち、瞼を閉じたまま首を振って麗翔は目覚めを理解する。咳き込みながらも顔を上げてみると、周りは砂埃で覆われていた。
そして床で仰向けになっていた体。ひんやりと冷たい地の感触を体中で味わいながら、何が起こったのか記憶を探ってみる。が、頭がぼんやりとしていて何も考えられそうになかった。
眉間を揉み、軽く頭を振りながらスバルは状況の整理に頭を奔走させる。しかし脳からの返答は、鈍い激痛のみ。
やがて麗翔は考えてもわからないことがわかり、ひとまず立ち上がって、辺りを見渡してみようとした時、ようやく気付いた。
──己の両足が、膝から下まで欠損している事実に。
「あ、あ──ッッ!?」
今までに実感したことは愚か、見たこともない悍ましい傷痕を見つけて、麗翔の喉が驚愕に呻く。麗翔の両足は、瓦礫によって押しつぶされていたのだ。
それによって脚部を千切られた麗翔は泣き叫び、暴れようとする。が、それすらままならなかった。
腹部のやや右側あたりだ。
石柱が、深々と突き刺さっていた。
「い、ひぃぐ、あぁウッッ……!」
気が付けば冷たいと感じていた地面は、煮えたぎるような熱さに支配されていた。己の腹部からドクドクと流れ出る液体によって。
それだけじゃない。本来、左腕にある関節といえば肘と手首を指すだろう。むしろ、そこ以外が曲がるのはおかしい。──麗翔の左腕は、曲がるはずのない箇所が曲がるはずのない方向へ、直角に折れていた。
その先も、爪が割れ、手の甲が裂け、ひどい出血をしている。
麗翔は顔面を握り潰すかのように掴みながら激痛に呻き、苦痛に耐え忍ぶ。いや、もはや耐える事すらできていない。意識が途絶えるのも時間の問題であろう。
周りには建物の残骸と砂煙しか見えない。助けはきっと来ない。ただ泣き叫ぶしかできない。ここでこのまま失血死するのだろう。心の中で言葉を呟くほどの余裕は麗翔になかったが、自然とその思いが麗翔には浮かんでいた。
──が、やがて麗翔の付近に変化が訪れる。
「あ、あぁ…………??」
足音が聞こえた。脚部と砂の擦れる音だ。
麗翔は、死体しか見る事ができなかった今日一日を思い返しながら、ようやく生存者がいたのだと理解した。これまでの人生で最大の苦痛を感じて顔を歪ませながらも、喜びを感じた。
助かる、助かる。自分は助かる。
それだけを思って──
「…………は?」
──瞬間、それは薄まった砂煙から姿を現した。
発達した爪と顎、鋭い眼光、血に飢えたような獣臭さ。
麗翔の記憶で言うならば、それはこの世界で一番最初に出会った狼型の魔獣だ。大きさや質量は、元の世界における大型犬に近しいであろう。シャープな体が繰り出す鋭敏な動きは、鋭利な牙や爪の脅威を底上げし、異世界に来て間もない頃の麗翔達を苦しめたのだったか。
そんな魔獣が、四体も近付いて来ていた。
獲物を前に瞳をぎらつかせ、荒い息をつくその存在を前に、全身がズタズタで逃げる足すら欠損した麗翔が平常心を保てるのだろうか。──そんな訳ない。
明らかな敵意に牙を揺らすそれを前に、麗翔の額を急速に冷や汗が濡らしていく。
「あ、あァア……」
身動きひとつできない麗翔の前で、それは頭を垂れて鼻を鳴らす。そして威嚇しながらもゆっくりと近づく魔獣に、麗翔の心は恐怖の感情一色に染まっていた。
ただでさえ全力疾走して逃げなければ巻くことすらできない魔獣。それは響希の肉を貫き、深々と噛み付いたあの牙を、麗翔に向けているのだ。
──そして、その麗翔は逃げる事は愚か抵抗する気力すら残っていない。ただただ激痛に耐え忍び、呻き声を上げながら迫り来る魔獣に怯えるだけ。
「来るな、来るな、来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るなァ……ッッ!」
最後の方には声を裏返しながらも、麗翔はただひたすらに懇願を連呼する。魔獣が言葉の通じる相手だとわかっていながらも、涙を流して顔を歪ませ、声だけで必死に抵抗する。
だが、それで魔獣達が素直に足を止めるはずもない。ゆっくり、ゆっくりと、牙という凶器が麗翔に迫り来る。
そういえば麗翔が元の世界で、最初に命を落とす直前。彼の頭にあったのは来世への期待、そして『死ぬ事や家族との別れに対する悲しみ』だったか。
が、今は違う。麗翔が今こうして死を覚悟しなければならない状況に至ったこの時、麗翔の脳内は恐怖で埋め尽くされていた。悲しみも、怒りも、そんなものはどこにもない。
ただただ、痛くて、恐かった。
「来るなって言ってるだろッッ!?」
すでに魔獣が麗翔の眼前まで迫っていた時。それでも麗翔は泣き喚き、声が枯れて裏返っても、必死にそう叫んでいた。
──やがて、魔獣が口を大きく開けた。
牙はやはり鋭利で、細かく並んだその数は人間以上のものだ。それが、今まさに麗翔の顔を喰い千切ろうと迫っている。
「消えろ、消えろ、消えろ、クッソ、ああ、やめ、来るな、来るな……来るなァ!」
いつ来る、いつ食べる、いつ死ぬ、いつ終わる、いつ解放される。もう何もわからない。ただ、全てを忘れられるように、全てを意識から遠ざけるために、麗翔は気が狂って精神がぶっ壊れるまで叫ぶしかできない。
「来る──────」
だが、麗翔がそれを言い切る事はできなかった。
魔獣はゆっくりと麗翔の頭部を口に入れる。すぐに彼の視界は赤黒く染まった。同時に牙が肉を貫き、頭蓋骨を砕き、神経に届く。
苦しい、苦しい、苦しい。
視覚も、聴覚も、味覚も、嗅覚も食いちぎられた。残るは激痛という触覚のみ。自分の顔がどうなっているかもわからない、呼吸ができているかもわからない。生きているかもわからない。
けれど、苦しい。誰かが『痛みを感じるのは生きている証』だと言った。それもそうだろう。この痛みを感じる限り、麗翔は生き続けているのだ。早く終わりたい、早く死にたい。そんな思いが麗翔を埋め尽くす。
だが、それでも麗翔は現状が理解できない。感覚も何もかもがぶっ壊れたせいか、生と死の区別がつかない。今自分は死んでいるのだろうか、生きているのだろうか。
死んでいるならここはどこなのだろうか、生きているなら自分はいつ死ぬのだろうか、自分は今どういう状態なのだろうか。いつ死ぬ、いつ死ぬのだろうか。いつ死ぬのだろうか。いつ死ぬ、いつ死ぬ、いつ死ぬいつ死ぬ、いつ死ぬ、いつ死ぬ、いつ死ぬ、いつ死ぬ、いつ死ぬ???
とにかく、今こうして存在している事が苦痛でしかない。早く消えたい、今すぐ消えたい。もはやそれだけが麗翔の望みだった。
きっとこの感覚は、理解してはいけない。
理解すれば、今以上の苦痛が麗翔を襲うから。
薄白い眼球に牙を突き刺され、掬い上げられる黒い瞳。鼻は骨やその下の口ごと嚙りとられ、口との境目がどこだかもわからなくなった。髪の毛や頭皮が、使い古したホウキのようにむしりとられ、その中身がどばどばと零れ落ちていく。
普通の生活をしている者なら、まず体験する事のない苦痛だろう。いや、それはもう「苦痛」などという安っぽい単語一つでは到底表す事ができないほどのものだ。
だが気が付けば、そんな感覚は既に遠く彼方へ消えてしまったらしい。何故だろうか。──考えるまでもない、答えは一つだった。
泣き叫び、踠き、苦しみ、発狂した、その末────伊吹麗翔は、語るまでもなく無惨に。
もう、息絶えてしまったのだから。




