42話 全テガ狂ウ
気が付けば、カノンは無我夢中に走っていた。
あれからどれくらいの時間が経っただろう。
いつの間にか日差しは大きく西側へ傾いていて、地を塗り込めたように不気味な夕焼けで一面が覆われている。
「はぁ……っ、はぁ……!」
そんな中でカノンは、息が切れ、膝が笑い、流れる汗が顎を伝い、心の中をぐちゃぐちゃにしながら──それでも立ち止まることができずに走り続ける。
過去を知ってしまった事で、既に次々と最悪な記憶が蘇ってきている。それも思い返すだけで心の臓が竦み上がり、言葉にできない悲しみが去来する。
今まで、この恐ろしい苦痛の数々にどうやって耐えてきたのだろう、どんな精神力で学校生活を過ごしてきたのだろう。
平穏な生活を送っている今だからこそ、それが理解できない。思えば当時の自分にとって、それが当然だと思っていたのだろう。本当に訳がわからない。
家にも、学校にも、彼女の居場所なんてありはしなかったのだ。家族は虐待を、学校はいじめを、隠蔽したがるのだから。
けれど、それでも、妹だけは違う。
葵だけはカノンを好きでいてくれる。カノンを愛してくれている。カノンを認めてくれている。
──早く、今すぐ、葵に会いたい。
もはやそれだけが、カノンの生きる理由だった。
* * * * * * * * *
やがて、そこは自宅の前だ。
息切れは続くが、ここに来て当時の記憶がどんどん思い出せてきた。確かこの日は、そう──いつも通り学校で虐められ、葵のために数ヶ月間貯め続けた金を失い、悲しさと悔しさで心が壊れそうになりながら、家まで全力疾走してきたのだ。
それにしても、ここに至るまでの全てを思い出したにも関わらず──この後、どうなるのかは未だに思い出せない。
ともかく、この自宅の扉を開ければ葵がいるはずだ。このぐちゃぐちゃになった心を癒せるのは、葵だけ。今すぐにでも玄関をぶち破って帰宅し、葵に会いたい。
──ハズ、なのに。
どうしてだろうか、この先に進んではいけない気がした。
そこは自分の家なのに、そこには葵がいるのに、帰宅するために全力で走って来たのに。
何故だか、一歩が踏み出せない。カノンの第六感としか言えない何かが「進むな」と警告しているのだ。──しかし、そんな胸騒ぎはどうでもいいのかもしれない。
そうだ、今すぐにでも葵に会いたいのだ。
抱きしめて、笑いあって、何もかもを忘れたい。
そう思ったカノンは、ゆっくりと扉まで進む。
ドアノブを捻り、心なしかいつも以上に重く感じる扉を引いて、その中へ──
「…………?」
直後にして、カノンはすぐさま異変に気付いた。玄関の靴置き場は、いつもならカノンか葵のどちらかが整頓していたハズだが──ありえないほど乱雑に散らかっている。
にも関わらず、葵のいつも履いている靴があった。ならば間違いなく、既に帰宅しているはずだ。
「────っ!?」
しかしその瞬間、カノンは見つけてしまった。葵の靴と、その隣には同じく乱雑に置かれた父親の靴──つまり、あの男も帰宅しているのだ。
そして、ありえないくらい散らかったこの玄関。
──何やら胸騒ぎがする。これまでのそれとは比にならない何かが、起こっているのかもしれないと。
カノンの家は一軒家だ。部屋も決して少なくはない。まずはトイレに洗面所と、近くの部屋から調べてみる。しかし、何もない。
正直に言えば、そこから全く何の気配がない事は分かっているのだ。しかし、リビングの方は違った。そこに一歩近づくだけでも、空気の重さが悍ましいくらいに増える。
まるでカノンの脳そのものが、近づくなと警報を放っているかのように。
──でも、だからこそ行かなければならない。
よたよたと、上体をふらつかせながら重い足取りで進んでいく。引きつった半泣きの顔で、少しずつリビングの扉へと近付いていく。
と、不意にカノンは足を滑らせ────ずるり、と足下が滑ったことに気付いた瞬間にはもう遅かった。周りには転倒を防げるものはなにもなく、勢いあまって肩口から思い切り地面に落ちる。
痛みが脳をつんざき、カノンは呻くような声を喉の奥で爆発させ、反射的に浮かんできた涙を瞳の端に溜めながら、転んだ原因を求めて足下を睨む。
──立ち上がろうと床に手を付けた時、べっとりと赤い血が付着した。
「あ、あぁ、何が、どうなって……」
何が起きたのか、わからない。理解できない、理解したくない。それでも身体は、自然とリビングの方へ進み始めていた。ふらふらと足を引きずり、亀のように。
その先に、何が待っているのか、わからないまま。わかりたくないと思ったまま、わからなくてはならないと思っていながら、駆け出す勇気を持てないまま。
引きずるように、縋りつくように、拠り所となる少女の名を呼びながら、カノンはゆっくりと進み──やがて、扉に手をかけた。
扉の目前。そこは立っているだけでも、気分が悪くなるくらい息苦しい場所だ。ここですらこんな状況なのに、中はどうなっているのか。「人らしき気配」というものが一切感じられないリビング内の状況が知りたい。
そんな事を考えながら、ゆっくり、ゆっくりと、扉を開き──
「………………あぁ」
葵はうつ伏せになり、静かに佇んでいた。
──赤黒くなった血を、頭から床に撒き散らして。
* * * * * * * * *
「なん、で……」
もはやその場所は、ただの地獄へ様変わりしていた。
ビールの缶、インスタント食品の空箱、煙草の吸殻と。そんなものが部屋中に、まるで吹きだまりか何かみたいに散らばっている。
脚がべっきりと折れたテーブルは倒れ込み、割れた皿などが無造作に転がっている。
──そして、ぴくりとも動かなくなった血塗れの妹。
うつ伏せに倒れる彼女は顔を地に伏していて、カノンにはその顔を見る勇気がなかった。もはや抱きしめることもできず、触れることもできず、ただただ葵の前で崩れ落ちることしかできない。
ただ、こみ上げてくる感情のままに涙を流すしかない。
膝をつき、呆然と地獄の光景を見続けるカノンは、やがてぼんやりと顔を上げる。ふと、その場の空気に違和感を感じたのだ。
第六感としか言えない何かが警告を上げ、カノンは咄嗟に扉の方へ顔を向けると、
「────あ」
男が、いた。
前髪をオールバックにかき上げ、シワの多い顔でこちらを睨みつける──父親だ。
どうして父親は、険しい顔をしつつも焦っていないのだろう。間違いなく、血塗れとなって眠る実の娘が視界に入っているはずなのに。葵が、こんなになっているのに──
「…………」
恐かった。恐ろしかった。
その可能性すら、考えたくなかった。その可能性を頭に思い浮かべてしまえば、ましてや口にしてしまえば、それが現実になってしまいそうで恐ろしかった。
「なんで、葵が、葵を……早く、病院に……」
最低だった、最悪だった。理解したくないけど、理解していた。しかし、愛しい少女の死因について最悪な可能性を口にするくらいならば、それで自分の心すら壊してしまうぐらいならば、もっと別の事を考えたい。
もう絶対に助からないと、素人でもわかるくらい流血した妹を助けようとするフリをして、その彼女の安否を心配する言葉を紡いで、自分の心を騙し、精神を正常に保つダシにしようとしている。
その先に、男が何を答えるのか、衣服を赤いシミで大胆に汚した父親が何を答えるのか──
わからないまま。わかりたくないと思ったまま、わからなくてはならないと思っていながら、全てを理解する勇気を持てないまま。
彼の答えを待っていた。
彼が何かを言うまでは、まだ、何もわからな──
「──見ちまったんなら、仕方ねぇよな」
男は、赤黒く染められた金属バットを持ち上げた。
「何を、言って……」
まだ、わからない。
まだ、理解できない。
まだ、それが死ぬ程つまらないブラックジョークの可能性だってあるから──
「本気で殺すつもりはなかった、でももういいんだ。俺はな、いらなかったんだよ……始めから」
「…………」
男は、鬼の形相で話し始めた。
「俺の妻は、優秀な弁護士だった。高卒の俺よりも遥かに金を稼いだ……だから、こんな一軒家が買えた。だが、あいつはもういない」
「…………」
「残されたのは、ギャーギャーと騒音みてぇに泣き喚くうるせぇガキと……いつだって無言で無表情な何考えてるかもわからねぇ不気味なガキ。そんなお前らが、俺の人生を狂わせたんだ」
もう、カノンは何も考えられないでいた。
父親の言葉も、何もかも彼女には届かない。
やがて彼女自身も心を塞ぎ、五感から入る全ての情報を断ち切ろうとする──ハズだった。
「お前の母親はお前が殺したんだ」
「────?」
彼が何を言っているのか、またしても理解できなかった。確かに母の死因こそ知らなかったものの、そんなはずがない。ましてや母親が亡くなったのはカノンが4歳の時──親殺しなんてありえない。
カノンはそう思い、呆然と父親を見つめると、
「母親とお前が出かけていた時だ……お前は不用意に道路へ飛び出した。母親は咄嗟にお前を突き飛ばし……即死した」
「────」
いやだ、その話も理解したくない。
いやだ、そんな事あるわけない。
いやだ、いやだいやだいやだ。
ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。
理解しちゃダメだ、事実を知ったらダメだ、父親を見るな、耳を塞げ、心を閉ざせ。
でも、できない。もはや脳が勝手に情報を整理してしまう。心は、脳に抗えなかった。
要するに、カノンの性格がここまで歪み、無言と真顔しかできなくなったのは父親の影響だろう。しかし、そんな父親は妻の死という悲劇から、酒に呑まれて豹変した。そしてその『妻』を殺したのは、娘であるカノン自身だった。
──その結果、最愛の妹である葵は死んだ。
自分のせいで母親が死に、自分のせいで妹が殺された。葵を殺したのは、父親と自分自身だったのだ。
それでも何故だろう、表情が変わらない。
涙すら出ない、怒りも悲しみも感じない。
ただの『虚無』だけが、心を支配していた。
しかし父親は、そんな自分に歩み寄ってくる。
──血塗れの金属バッドを掴みながら。
「だから……もういい、お前も死んでくれ」
父親はそう言い放ち、静かに、ゆっくりと近付いてくる。
──ダメだ、ダメだ。
この悲壮の全てを無かった事にしたい。何もかもをやり直したい。何もかもを消したい。何もかもをぶっ壊したい。何もかもをぶっ潰したい。
「あ、あ、あぁ……」
カノンはグチャグチャになった心を必死に抑えながら、顔を上げる。父親との距離がどんどん近付いていた。
しかし彼女は、そこで初めて、表情を変える。父親に見せる初めての表情にしては最悪のものだろう、絶望に満ち溢れた、半泣き顔。
それも、恐怖なんて並大抵な気持ちの表れではない。でも、それを説明できるくらいハッキリとした鮮明な心は持っていない。心の中の、何もかもがグチャグチャなんだ。
葵を殺したのは、今目の前にいるこの男。しかしその原因を作ったのは紛れも無い自分自身。ならばこの混沌と化した自分の心は、この感情は、何に向ければいいのだろう。何にぶつければいいのだろう。
今、自分は何を考えているのだろう。
今、自分はどんな心情なのだろう。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
──今、自分は何をしようとしているのだろう。
わからない、わからない。
わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。
やがて、父親はカノンの目前まで辿り着いた。
「じゃあな……」
そして、父親は赤黒く染まった鈍器を振り被る。カノンの頭部だけを睨みつけていた。そこに一撃をぶち込んで風船のように叩き殺すつもりなのだろう。
もはやカノンは、別にここで死んでも良いとすら思えた。
けれど、それでも──
狂乱する心が、暴走する心が、爆発する心が。
もう抑えられそうにない。
だってもう、自分が何を考えているのかとか、そういう次元じゃない。自分が何者なのか、それすらわからなくなってきた。気が付けば自分の体は眩い光を放っていた。その光は炎のようにカノンを包み込み、身体中から溢れ出るように膨れ上がっていく。
「う、あ…………」
しかし驚愕する父親の姿はカノンの目に入らない。カノンは目も心も含め全てを閉ざして、瞼の裏側だけを──自分の心みたいに真っ暗な闇しか見ていなかったから。
やがて彼女は何もかもを、その身に任せた。
そこにある全てを壊し、全てを殺し、全てが朽ち果てようと、もうどうでもいい。どうでもいいんだ。
だってもう、何もわからない────
「────ッッ」
彼女が目を覚ました時、部屋は真っ赤に染まっていた。そして、無残に生き絶えた死体が一つ増えている。──父親だ。
皮や肉片が飛び散り、内臓や血管、眼球なども所々に散乱している。返り血のせいで自分もその側にある葵の身体まで赤黒くなっていた。一体何が起こったのだろう。
「あぁ……そうか」
──いや、返り血だなんて。
自分で返り血だとわかってしまったんだ、自分で死体だとわかってしまったんだ。何が起こったかなんて考えるまでもない。
そうだ、これは夢という世界に映された自分の記憶。だからこそわかる、自覚がなかったとはいえ、元々自分には大きな魔力があった。きっとそれが、感情とともに暴発でもしたのだろう。
ここで完全に、自分の心が壊れた。それに伴って記憶の全てが吹き飛んだ。ここからどうして異世界なんて場所に行ったかはわからないが、自分の中にある封印されし過去は──記憶は、蘇ってしまったらしい。
そうだった、自分が殺したんだった。
妹も、母親も、父親も。みんな、自分が。
家族全員、みんな──
ミンナ、私ガ、殺シタ。




