41話 封じられし記憶
それから時間が経って麗翔との談話はお開きとなり、気が付けばもう就寝時間となっている。それでも彼女は──カノンは、全く眠る事ができなかった。
灯りは消え、真っ暗な部屋を微かに照らすのはカーテンから溢れた月光のみ。そしてカノンは、ふかふかのベッドに潜り込んで冷たいシーツの感触を味わっていた。
それでもこの事実は、彼女の睡眠を阻害するかのように脳内を埋め尽くし、暴れ回っている。とはいえ、それも仕方ないと言えるくらいの状況だ。何せ、
──自分は、この世界の人間じゃない。
突如として、麗翔にそれを知らされたカノン。
勿論そんな話を聞いて驚かない訳がない。彼女もそれを聞いた直後は、あまりの衝撃に困惑し、今以上に唖然としながら麗翔の話を聞いていたのだ。
けれども記憶喪失で、何もかもがわからないカノンに否定できる根拠などない。むしろ彼女にとっては、肯定する判断材料の方が多いまでである。
だとすれば、やはり自分は異世界人なのかという結論に至る。しかしそれならそれで、どうして自分が異世界転移とやらをしなければならなかったのか。
麗翔の言葉を全て信じるなら、カノンは本来『日本』という国で生活していたという。
「これが読めるか」と麗翔に問われ、紙に書かれた文字を見せられたりもした。それは一ヶ月間この国、エリシム王国で暮らしてきたカノンには全く縁も所縁もない文字だった。
──そのハズなのに、何故か読めてしまったのだ。何の変哲も無い紙に堂々と書かれた『かのん』という文字を。麗翔が『日本語』と称した、不思議な文字を。
『かのん』
──なんて、一体誰がこんな名前を付けたのだろう。というか名前の由来は愚か、どういった名付け方で名前を決めるのかすらわからない。まず『日本』とやらの文化が何も思い出せない。
この字は何なのだ、この単語は何なのだ。
そもそも、どうして自分は『カノン』という自分の名前だけは初めから覚えていたのだ。それだけ大切なものだったのだろうか。
母親は死に、父親は荒れ狂っている。
そんな中で大切なものなんて──
いや、あった。あったはずだ。断片的に過去を見れた、あの時の夢でも──カノンは幼い少女を抱きしめ続けたのだ。自分を『お姉ちゃん』と呼び、慕う、泣き虫の少女を。
たった一人の姉妹である妹、葵を。
──ここまで思い出せた。きっとまだ、思い出せるはずだ。
そしてあの時、麗翔は言った。
『悪い記憶を思い出しただけで、きっとそれ以上にたくさん……楽しかったこと、幸せだったこと。たくさんあったと思うよ』
──と。そして今はカノンも、そう思っている。
そう思って、そう信じて、彼女は目を閉じた。
今なら眠りの中で、夢の中で、再び過去の記憶を見れるかもしれない。もしそれで全部を思い出せれば。忘却の彼方へと消え去った幸せな記憶を、再び取り戻せれば。
あの草原で、あの花畑で、姉妹二人で。
笑って、過ごした、あの時のように──
────きっとまた、笑える。
* * * * * * * * *
「──起立」
前の方から、ふと気怠げな声が聞こえた。その瞬間、直後にして鉄が木を擦るような音が揃いも揃って響き渡る。
何事かと、辺りを見回してみた。
そこにあった景色は、人間と人間と──ひたすら人間だ。ぱっと見で四十人近くいるだろうか、それにしても何故だか全員、同じ黒服を着こなしている。
そんな彼らが、誰が放ったかもわからない「起立」の一言で、多少の時差はありつつも立ち上がったのだ。右も左も、前も後ろも、全員が全員同じ動きをする。これには自分も、見よう見まねで同じ動きをするしかなかった。
──立ち上がり、頭を下げ、席に座る。
しかしその行動には、どこか手慣れたようなもの懐かしさを感じた。さらに、それだけじゃない。白い壁と木製の床に囲まれたこの空間にまで、不思議な既視感を覚える。
何もかもがわからない、理解できない。
そのはずなのに、何故か知っている。
この場所は、この人達は、この時間は、何なのだ。
──が、やがて気が付けば、先程の暗い空気は消え去っていて。その大きな部屋にいる黒服の少年少女達は、それぞれのグループを作り、塊となって賑やかな談話を始めていた。
しかしどういう事だろう。周りの誰もが複数人で集まっている中、自分は一人で静かに座っている。
そこで気付く。
これは、またしても過去の記憶を体現した夢なのだろうかと。ただの夢だと思えばそれまでかもしれないが、明らかに既視感と懐古感を感じる光景だ。そして何より、以前と違うのはこれが一人称視点であること。だからこそ、何もかもにそんな感覚を抱いているのだ。
例えば自分が今座っている席。そしてそこに置かれた自分の机。見たことがある、知っている、覚えている。
そうだ、確かこの机の中には、物を入れるスペースがあった。そこに向かって手を伸ばす、予想通りあった、中に何かが入っている。
「そうだ。教科書、勉強……学校。学校!」
やがて、そこでわかった。この中にはノートや教科書が入っているのだ。そしてこの場所は学校、その中の教室。自分たちは将来に向けて勉強する人間、生徒である。同世代の人間と同じ場で教育を受け、社会性や協調性を養い、その中で特に仲良くなったものを友人という。
「覚えてる、思い出した! 学校、学校……!」
思い出した喜びと、学校という楽しそうな場所への期待からだろうか──気付けばカノンの顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
勉強に部活に行事に、友人達と多くの事を成し遂げる、それが学校だ。だが、まず学校とは学習の場。第一に多く学ぶのは、やはり学問について。
自分はその学問──国語、数学、理科、社会、英語などの学業を修め、やがてこの学校を卒業する存在なのだ。
そう、例えばこのノートには、昨日の授業の内容が──
「…………え?」
──はて、何を勘違いしていたのだろう。
そんなもの、どこにも無かった。
「これ、は……」
そこにあったのは学問でも何でもない。ただ乱雑に書かれた汚い字が、くしゃくしゃになったノートの至る所に散らばっているだけ。
まず大胆に『死ね』という文字が中央を陣取っていて、その周りにはあからさまな暴言の嵐。とりあえず目につく限り、
『学校来んな』『病みすぎ気持ち悪い』『リスカ女』『死にたいなら死ねばいいじゃん』『自分可哀想アピール乙』『ドM』『腹黒ブス』『マジキチ』『根暗』『ゴミ』
といった内容のものである。
気が付けば自分の机にも、椅子にも、似たような誹謗が散りばめられていた。
確かに何故だか、肌の露出した腕や脚など、自分の身体中には数々の痣や切り傷が存在している。そのまま唖然としながら必死に状況を整理しようとするが、思考が追いつかない。
と、そんな中で。
「──あぁ、やっと気付いたよ。あのバカ」
二つほど後ろの席だろうか、そんな声が吐き捨てられた。そして、まるでわざと聞こえるように言い放ったかのような陰口は、この心を深く突き刺していく。
やがて、その辺りにいた複数の女子は嘲笑うように、
「やっぱ反応薄くね? ウケる」
「次何するぅ? どうせ何やっても抵抗しないし、もっと派手にやっちゃえばいいじゃん!」
「そだねぇ。ホント早く消えればいいのに、気持ち悪い」
彼女らは、そう言った。
それが耳に入っているも、自分は反応できない。反応してはいけないと、脳が警告している。反応すればもっと楽しまれる、けれど抵抗したって変わる様子でもない。
もう、自分はそういう存在になってしまっているのだろう。ならば二度と変わるまい。
どう足掻いたって──
「あうっ……」
「ゴッメーン、邪魔だったからぶつかっちゃったぁ!」
自分は椅子に座っていただけにも関わらず、その女子は何の前触れもなくぶつかってきた。唖然としていたカノンは、そこでようやく我に帰る。
ぶつかられた衝撃で、机に置いてあった鞄から財布が飛び出したからだ。その瞬間、彼女は思い出す。
──確かこの日は、妹である葵の誕生日だ。
そのプレゼントを買うため、数ヶ月前から父親の財布にあるお金を少しずつ、地道に盗み取っていたのだ。お小遣いは愚か、まともに食事すら与えられないカノンが買い物をするには、それしかなかったから。
そんな、バレたら冗談抜きで殺されるかもしれないというリスクを背負ってでも──葵には姉らしい事をしてあげたかったのだ。
しかし、そんな想いのこもった財布だなんて微塵も知らない女子は、それを見つけた瞬間に不敵な笑みを浮かべ、言い放つ。
「あ、てか今日さぁ、友達とカラオケいくのよ。そんなわけだから、ちぃーっと金借りてくねぇ〜」
「そ、それは……!」
「別にいいじゃぁん、アタシたち友達でしょう? ──カノンちゃん」
抵抗しようと立ち上がるも、直後に突き飛ばされて為すすべなし。
もはや家どころか、学校にさえ。
彼女には居場所などなかったのだ。
──でも、まだ大丈夫。
だって葵、あなたさえいれば、それでいい。他には何も、いらない。あなたといれば、どんな地獄でも耐えられる。私の望みは、あなたと共に生きること。
あなたの存在だけが──私の生きる理由。




