2話 奪われる日常
──麗翔は声を失っていた。
響希がコンクリートに強く打ちつけられ、そのまま横たわって動かなくなった様を呆然と眺めている。
麗翔は目を見開き呼吸すら忘れて、暗がりに沈む彼の身体を、受け入れ難い現実を前に意識が遠のきそうになっていたのだ。
親友を吹き飛ばされた強い怒りを感じつつも、飢えた野生の肉食動物を前にしたような、はたまた血に飢えた殺人鬼を前にしたような、そんな恐怖に押し潰されそうになる。
そして先程までは形しか見えなかった姿も、はっきりと見えていたのだ。
全身に黒い瘴気のようなものを纏っているが、あくまで形状は人型で、黒いフードに黒いコートを纏い、フードの中で赤く輝く両目。
そして腕は人間の域を超えた化け物のような豪腕となっており、指先の爪も凶器のようにかなり鋭利だ。
その悍ましい姿は、まさに怪物だった。
そう分析した一瞬の間に怪物は首をこちらに向け、すぐに目が合う。
極限状態にあった麗翔には、冷静な思考などできなかった。そして──
強く、歯をくいしばり、顔を上げる。
その時、麗翔の中の怒りが恐怖を越え、切羽詰まった絶望感は爆発的な戦意に変わった。
麗翔は全てを吐き出すような怒号を放って走る。
そしてその怪物の少し手前で強く、前へ左脚を踏み出し、大きく右腕を振りかぶる。
振りかぶられた拳は地面と平行に、大きな軌道を描きながら怪物の顔面に向かって放たれた。
軽い音が鳴り、拳は怪物に直撃する。
だが、そのパンチは全くもって効いている様子がなかった。ゲームばかりしていて、部活もサボり気味な男の軽い拳だからであろう。
よって腕は呆気なく──鬼の形相でこちらを見つめる怪物の手に掴まれ、右腕の自由は奪われてしまった。
「くっ……そ!!」
引き剥がそうにも怪物の怪力は凄まじく、とても同じくらいの身長の人型生物とは思えないものだ。
そのまま腕を力強く握られ、そこからさらに強く捻られる。
「────ッッ!?」
バキバキと骨が捻れ、砕けるような音と共に、声すら凍るほどの激痛が魂にすら届きそうなくらい強く響いた。
「ぁあッぐ……ッッ」
腕が粉砕されたような激痛に麗翔は喘ぐ。削れそうなくらい強く歯を食いしばり、その場にうずくまり、目からは自然と涙が流れてくる。
横たわりながらも、横目で怪物の方を見ると、怪物は既にその凶器のような腕を振り上げ、追撃をする体制になっていた。
その凶器が振り下ろされ、麗翔の肉体は真っ二つに切断される────と、そう思った瞬間だった。
怪物の背後に、影が見えた。影は近付くにつれて鮮明な色を見せ、半目でも気が付くくらい目立つ金色が見えた時、すぐに全てがはっきりとわかった。
それはレンガを片手に持ち、振りかぶる響希の姿だったのだ。
「うおおおおお──ッ!!」
響希は大声と共にレンガを振り回し、遠心力のままに怪物の頭部にそれを直撃させた。
鈍い音が響き、怪物はその場に倒れこむ。
それでもなお響希は怪物に馬乗りになって、レンガで何度も怪物の頭部を打ち、叩き、殴り、撲る。
「はぁ、はぁ……」
響希は息が切れた頃、怪物から力が抜けて動かなくなったのを察知してから攻撃を止めた。
「響希……」
少し安心したように、麗翔はその名前を呼んだ。しかし響希の頭部からは出血しており、鼻血もだらだらと流れ出ていた。
そして麗翔も立ち上がろうと、右腕を地につける、だが──
「痛……ッ」
「無理すんなって、とりあえず警察にでも電話しとくか?」
「……ごめん」
麗翔は、何もできなかった罪悪感から目を右に逸らした。それを見た響希は、自慢気な表情でニヤリと笑いながら言った。
「吹っ飛ばされた時、コンクリートがムカついたからそこに頭突きかましてやっただけだわ、こんなん痛くねーって。まぁ、コンクリートにもその怪物にも勝ったから今のところ、今日の俺は無敗だな!」
それが麗翔を励ますために言ったであろう強がりだということは、麗翔にもすぐわかった。落ち込んでいる事を響希は望まないとも。だから──
「なんだよ、それ」
微笑みながら、右腕の痛みを堪えて涙目になりつつも、そう答えた。
その様子を見た響希は安心したように笑い、警察と電話を始めた。
その間に麗翔は痛みを堪えて細い目になるが、自然と目線の先には先程の怪物が映った。
どうして人を襲う怪物が、この平和な筈の世界にいるのだろうかと、疑問に思う。
「マンガの世界じゃあるまいし……」
そんな独り言をボソリと呟く麗翔を脇目に見ながら、響希は電話を続けた。ひとまず事はこれで片付いた、早く家でゲームがしたいと、響希がそう思った時だった。
全てはそこで終わらなかったのだ。
「────響希!!」
咄嗟にその状況を察知した麗翔は、反射的に彼の名前を呼んだ。
「──ん?」
だが、もう全てが遅かった。
「うしろ──」
その刹那、響希は背後から腹部をぶち抜かれた。
「がッ……!」
倒したハズの怪物は、より夥しい量の、漆の如く真っ黒な瘴気を纏って襲ってきたのだ。
響希は突然すぎる急襲に、回避は愚か防御をする余地もなかった。
そのまま無残に投げ飛ばされ、受け身をとる力も出す事はできず、その地面には大量の鮮血が大きな川のように流れた。
麗翔は唖然としている。どうするべきかの判断が追いつかなかったのだ。もっとも、今まで平和に過ごしてきた一般人からすれば当然であろう。
だが、同じ一般人であるハズの響希は、それでも麗翔に気を向けた。
「逃げ、ろ……早くッ!!」
響希は最期の力を振り絞り全力で、ぶち抜かれたハズの腹部から声を出すように大声を放った────つもりだったのだろうが、もう既に掠れた声しか麗翔の耳には届かなかった。
しかしその声はしっかりと麗翔に届いていた。麗翔は顔を上げ、激痛を堪えながら、立ち上がる。
先程までの情けない目つきは一転し、覚悟を決めた表情となる。
しかし麗翔は、響希が最後の力で言い放った「逃げろ」を無視してでも、響希を助けるべきだと思った。
皮肉なことに、その言葉は麗翔に勇気を与えたのだ。自分の身よりも人の身を心配した響希の心は、根性は、魂は、麗翔の胸に強く届いた。
そして麗翔は最大の警戒心を向けつつ、怪物を睨む。
──正面戦闘は愚か、恐らくどんな手を使っても奴には勝てない。
まずは先程持てなかった冷静さを持ち、その上で今何をすべきかを明確にする。
──戦う必要なんてない。生き延びればいいんだ、きっと響希もまだ間に合う……!
そして麗翔は、下にある砂を左手で雑に掴み、ポケットに入れる。そして少し大きな石を拾った。
「ふッ──!!」
麗翔は声を出しながら、その石を怪物に向かって思い切り投げた。その後すぐに、響希のいる方向に走り出す。
放たれた石は放物線を描いて怪物に向かって進むが、その豪腕に軽く粉砕される。
すると麗翔が驚く間もなく、怪物は凄まじい速度で麗翔に近付いていった。
すぐに麗翔の身体は怪物の豪腕によって掴まれ、動きを封じられてしまう。
「ぐ……っ」
高く突き上げられ、握られ、締め上げられる。
やがて全身の骨が粉砕される──その前に、麗翔は先程ポケットにしまった砂を、怪物の目元を狙って勢いよく放った。
すると怪物は麗翔から手を離し、目を抑えて怯んだのだ。
────今だ!!
麗翔は全力で走る。速く走れるフォームなんて考える余裕はない。ただがむしゃらに走って、血塗れた響希の元へ辿り着く。
そのまま響希を引きずり、近くにあった誰かも知れない人の家の塀の奥にその身を持ち上げて放った。
そして麗翔も塀の奥に身を潜めようとした、その時。
鈍く、大きな音が聞こえた。
背後に視線を向けると、怪物は一直線に麗翔の方へ向かって来るのが見える。今の音は、こちらに向かう際に地面を強く蹴り上げた音だったのだろう。
そして怪物は指先から伸びる、凶器のように鋭利な爪を振りかぶって横に大きく振り回したのだ。
「うッ──!?」
麗翔は咄嗟に、塀とは反対方向に飛び上がり、回避する。
────が、麗翔は突然の脱力感を浴びて不意にバランスが崩れる。そのまま着地できずに後ろへ倒れこみ、地面に転がってしまった。
それでも攻撃は回避できたと、ほんの一瞬だけ気が抜ける。一命は取り留めたと、そう思った──直後。
「は……?」
麗翔の制服は広く横に切り裂かれ、その中に隠れた腹部もまた鋭い裂傷が刻まれていた。
同時に身体を焼き尽くすような熱と共に大量の鮮血が流れ出ている。そして服の奥から姿を露わにした桃色の血肉を見たことで、その痛々しさはより倍増させられた。
やがて、すぐに地面は真っ赤に染まっていく。
「あ……ぁあああッッ──!!」
──これ、助からないんじゃないか……?
痛みに気付いた瞬間、直感でそれがわかるほどの失血量だった。絶望した麗翔は仰向けになり、滝のような涙を流す。
「痛ッ……あ、ク……ソッ……」
怪物は無言でこちらを見つめてくる。何の目的があるのかはわからないが、麗翔はそれすらどうでも良くなるくらいの恐怖を感じていた。
「どう……して、こんな」
刻々と迫る「死」への恐怖が、腹部を締め付ける激痛と共に麗翔の全身に響き渡っていたのだ。
「僕が、何したって……」
──僕が何したっていうんだ。
気が付けば、もはや麗翔は迫り来る死を察していた。とはいえこの夥しい失血量と痛々しくぶちまけられた自らの肉片、誰が見ても死を覚悟するだろう。
やがて麗翔の脳内では、これまでの人生にあった未練の数々が脳内で流れていた。
「今までの何がァッ、何がいけなかったんだよ! なあ……こんなにぃ、なるなら、もっとちゃんと、生きておけば、クソッ……まだ、死にたく、ない、死にたくない……」
まさに死にかけといえる荒げた涙声がその場に響いていた。怒りも悲しみも何もかもをどこかにぶつける。それでも近くにある明かりの見えない家からは、助けが来ることもない。
けれど、どうしても死にたくないのだ。
痛くて、痛くて、地獄のような苦痛なのだ。
「死んで、たまる────」
そんな麗翔が途中で言葉を止めたのは、視界に恐怖の対象が現れたからだ。怪物が、再びこちらに向かってトドメを刺そうと静かに歩いてくる。
やがてもうどうしようもない状況を前に、麗翔はただ自分の心の叫びを放っていた。
「誰か、助け……」
そうやって叶いようもない願いを、思うがままの望みを、虫の息で弱々しく言った。
そして段々と呼吸が苦しくなってきた。
「母ぁ……さん、父さん……璃菜。最期に、顔を、頼む、から……」
血とともに激流のような涙が流れ、大好きだった温かい家族にもう一度会いたいという強い感情が、もう二度と会えないという絶望、そして悲しみと共に、溢れてくる。
「家事……だって、ちゃんと手伝うッ! 勉強だって真面目にやるからぁ……親孝行を、して……さぁ。璃菜だって……喜ぶ顔、見たくて、来週、誕生日で……プレゼントだって買ってきたんだよ……ッ!」
行ってきますと言ったきり帰ってこなかった自分を思って、死体として永遠に眠りもう二度と動かなくなった自分を見て、家族は何を思うのだろうか。
そう考えると胸がじーんと締め付けられ、全身全霊で、叫んだ。
「まだぁ……別れだって、言えてないだろうがァアアッ」
慟哭が喉を引き裂くくらいの大声で、声が少し裏返りつつも、必死に叫んだ。
「来世は、きっと、勉強にしっかり……取り組んで、スポーツもできて、友達に、たくさん……囲まれぇ、て……今みたいなぁ、家族にぃ……」
欲望のままに来世への願いを、呼吸すらまともにできなくなったボロボロの体で叫び出す。
しかし、その願望の全てを言い終える前に、意識は段々と雲のように不鮮明になっていく。
そして不鮮明な視界の中で、怪物が腕を振り上げた瞬間────伊吹麗翔の意識は、途切れた。