1話 当たり前の日々
高校一年生の青年、伊吹麗翔は、一言で表せば特徴の薄い人間だ。都立中堅校で中の下あたりの成績、運動部という事もあり身体能力は中の上あたりだろうが、高校の中で目立つ場面はない。
中学校ではバスケ部だったものの、高校では関東大会レベルのバスケ部の気迫に負け、適当に選んだテニス部。要するに活力が無ければ根気強さも無い、気が弱くて頼りない男である。
そんな麗翔に1つ特徴を上げるならば、ゲームやアニメが好きな人見知りということだが──現代の日本においてそれはもはや特徴としてはなり得ない。最近の若者とはそんなものだろう。
「おはよう、やっと起きたの?」
「……昨日夜更かししすぎた」
「体に悪いから今回限りにしてね? もうこんな時間だけど、とりあえず昼ごはん食べなさい。夕食は少し遅めにしといてあげる」
「あぁ、ごめん」
そんな麗翔はいつも通りリビングに入ると、洗濯物を畳んでいる麗翔の母親、伊吹美咲がすぐに声をかけてきた。そして麗翔も気怠げな声で返答して食卓に着く。
「休日だからって夕方まで寝てる人は初めて見たんだけど、何……どんだけいい夢見てたの?」
隣でイタズラっ子のように微笑んで嫌味を言う少女は、来週で14歳になる妹の、伊吹璃菜だった。
確かに窓から外を見れば、朱色に染まった夕焼けが空を覆っている。何故こんなに寝起きが悪かったのだろうと、不可解な疑問は浮かぶが──それほど気になってはいない。そんな日もあるだろう。
なので麗翔はハイハイと適当な返事をしてオムライスの一部を口に入れるが、急にそれを見た璃菜は自慢気な表情でニヤリと笑い、誇らしげに口を開いた。
「それ、美味しいでしょ? ねぇ、ねぇ美味しいでしょ? 今日それ作ったのあたしなんだよね。感想はないのかなぁ?」
「卵の殻が入ってる」
「歯ごたえあるじゃん」
「そういう問題じゃないんだけど……!?」
兄妹二人して朝からコントのような会話を繰り広げると、その会話に笑い終えた妹が続けて話し出した。
「冗談冗談。にしても学校じゃ静かで友達少ないくせに、家だといつでも面白い反応するよね」
「友達くらいすぐにたくさん作ってくるから……」
璃菜のからかいに対して、できるかもわからない宣言をし、無理矢理その話を終わらせる。すると璃菜は思い出したように顔を上げると、麗翔へ向けて言った。
「今日、ヒビキさんの家泊まってくんでしょ? この前あたしが行った校外学習のお土産、渡しといてよ」
「はいはい」
そんな日常会話を済ませ、妹の頼みを雑な返事で受ける。やけに寝起きが悪かったこと以外は何も変わらず、何の違和感もない──ほのぼのとして心地の良い、そんな日だった。
やがて麗翔は食事を終えると、すぐに部屋を出る。
見慣れた廊下を進み、玄関の段差に腰かけたところで、
「もう行くの?」
「うん、昨日準備しといたから」
ついてきた母の質問に答えると、麗翔は前を向く。
するとリビング奥の方からドタドタと荒々しい足音が響き、呼び止めるように高らかな声を上げながら妹の璃菜が走り込んできた。
「ヒビキさんへのお土産、ちゃんと持ったね!?」
「ホラ、ちゃんと持ってる」
「うむ、よろしーい!」
そそっかしい妹を見て思わず小さな笑いが出てしまう。それを見た璃菜は、いかにも満足気な表情を向けた。
そして麗翔は二人に背を向け、扉のドアノブに手をかける。しかしそこで思い出したように振り向いて、一つだけ、忘れそうになった大切な言葉を言った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「いってらー」
麗翔がそう言うと母も妹も同時に言葉を返して、手を振りながら二人を見送る。
いつもいつでも昔から変わらない、優しく温かい家族の笑顔を見て、麗翔は快く外へ出ていく。
ただただ温かい、ただそれだけ。
何も変わらない、これが麗翔の日常だった。
* * * * * * * * *
太陽の消えた夜の街に麗翔は一人立っていた。
車のライト、街灯の明かり、店の光などが街を照らし、夜でも朝と大差のない交差点の近くで壁に寄りかかる。
そんな場所で麗翔は、高校は違うものの数少ない友人の中の幼馴染である、金野響希からの連絡を待っていたのだ。
ぼんやりとスマホを眺めながら彼のメッセージを待っていると、すぐに通知が届いた。
『もうすぐ着く。でも1丁目の店、売り切れてるみたいだ』
『まじで!?発売日にヒビキの家で徹夜するって予定がああああ!!』
『距離は少し遠いけど、隣街の店でも行ってみるか』
『りょー』
すると奇妙なスタンプが送信されてくるが、麗翔は引きつった顔をしながらも無視。何の話かといえば、この日は彼らの待ち望んでいたゲームの発売日──つまり、そういうことだ。
現実の様子など関係なく、ただそのゲームで強い方が格上という単純でわかりやすい世界。努力とプレイヤースキルさえあれば何でも上手くいく世界。
そして何より、ファンタジックで夢のある世界。
思えばそういった魅力に惹かれて好きになったゲームだったが、自分もそんな世界に生まれることができればなと、麗翔は何となく思った。──なんて、ただの妄想に過ぎないが。
そんな他愛もない事を考えていると、やがて遠くで聞き慣れた大きな声が耳に届く。
「おーい!」
声の主の方へ顔を向ければ、鮮やかな金色の短髪を靡かせ、健やかな腿で自転車のペダルを回す青年が見えた。
麗翔はすぐに響希だと気付き手を振ると、彼も手を振り返し、麗翔の前で緩やかなブレーキをかける。
「久しぶり、相変わらずわかりやすい髪の毛だね」
「今の時代、金髪なんてうじゃうじゃいるけどな」
お互いに忙しくしばらく会っていなかったが、久しぶりに再会をしても変わらない友情関係がそこにあった。
昔からずっと変わらない親友。それも一つの、当たり前の日常だった。
「じゃあ、行くか」
響希はそう言って、麗翔の歩行速度に合わせてゆっくりと自転車のペダルを漕いだ。
* * * * * * * * *
「なあ、あれ聞いた?」
ゲームを買い終え金野家へ向かう最中、薄暗い公園を通ったところで響希は唐突に質問をした。
「あれって?」
「この辺で殺害事件があって父親と次女が死亡……そんで14歳の長女が行方不明らしい。しかも犯人どころか凶器も不明で、なのにその場一面が血塗れだと」
「あぁこの辺なの? ちょうどこの公園も街灯が消えかけだから薄暗くて不気味だけど、この付近でそんな事が起こってるっていうと……なんか早く帰りたくなってくる」
「ホント、てかこの街さ、変な騒ぎみたいのよく起こるよなぁ……ホラ、何年か前に保育園が爆発したろ? それも原因不明のままだし」
「僕は全く記憶に残ってないけど……まぁ確かに不気味だね、犯人が今回の事件と関係があるなら早く捕まって欲しいかな」
そう言って麗翔は歩きながらも呆然と空を見上げる。特に理由があった訳ではないが、何となく考え込んでいたのだ。
謎の保育園爆発事件と謎の夫婦殺害事件。
まるで幽霊の所業というような不気味さだ。とはいえ幽霊でもなければ現代の日本の技術を駆使しても犯人や凶器が不明な殺人事件を起こせる筈がない。
魔法なんてものがあるのなら別だが、そんなファンタジーな幻想を抱くのは子供だけだろう。
と、そんな事を考えていると響希は言葉を返してきた。
「本当やべーよなぁ、今さっき知ってビックリした」
「それ、去年のニュースだけど」
麗翔は呆れた風にそう答えると、響希は顔文字のように間抜けな顔をして驚いた。その後、彼はコホンと小さな咳払いをして言いつつ、スマホで最新のニュースを検索した。
「俺、情報に疎いのかな。んじゃあ最近のニュースって何だろうな? えっと、なになに……日本でも新たに発見された、しん──」
ゆっくりと自転車を漕ぎながら、難しい顔をしてスマホの文字を読み上げる響希。しかし、その全てを読み終える前に、事は起こった。
「……ん?」
二人の進行方向には、人型の"何か"がいた。形だけ見れば普通の人間と同じだが、それは暗闇よりも黒く浮き上がり、立っていたのだ。
そして、得体の知れない謎の殺気に、麗翔と響希はぞくりという寒気を感じた。
「なんだあれ……」
第六感としか言いようのない神経が危険を感じて、特に根拠もばい警戒心が全身に伝わり、彼らの身体は弦のよう硬直する。
すぐに頬を汗が伝い、微かに目を細めた瞬間、麗翔は違和感を感じた。
先に立っていた漆黒の『何か』が、こちらに向かって来ていたのだ。
「──え?」
それは、麗翔が疑問と驚きを兼ねた小さな声を上げる間に、凄まじい速度で近付き、はっきりとした形を見せた。
人型ではあるが、その両腕はさっきまでの腕とは変形した豪腕となり、麗翔の右側へ。
「────ッ」
そのまま『それ』は響希へと迫り、彼は自転車から降りる暇もなく、声を出す余裕すら与える事なく、響希のまさに目の前へ。
────瞬間、響希は為す術もなく吹き飛んだ。