プロローグ 虚無
──目を覚ますのは、嫌いだ。
自分の本能が赴くままに、目を瞑っていたい。人間だって生き物なんだ、欲求に従って何が悪い。眠い時は眠るし、泣きたい時は泣いて、食べる時は食べる。
それを抑制するとか、苦痛なだけだ。
せっかく本能という便利な機能が付いているのだから、現実の自分自身なんか全て本能に任せ、僕はそこから目を逸らせばいい。
目とか、心とか、余計なものは閉ざしてしまった方がいいんだ。今は何も見たくないし、何も聞きたくない、何も考えたくない。
だから目は覚まさない、僕は『自分の世界』という殻に籠る。罪悪感とか、そういうのは気にしたくない。だってここはもう、僕の──僕だけの世界なんだから。
するとどうだろう、自然と笑みが溢れる。
だって面白いくらいに、全てが楽なんだ。
だから僕は────
「夢の中に逃げるッ!」
そう言って布団に包まった。
包まったの、だが、
「…………じゃねぇだろ──ッッ!」
瞬間、すぐ側にいた金髪の青年が、落雷のような怒号を部屋中に響かせた。
しかし、ここで屈するわけにもいかない。布団に包まった僕は、芋虫のように身体を縮めると、顔だけを外に出して反発。
「いくら兵士だからって、掃除くらいで朝早くに起こされたら眠いんだって。だからヒビキに全てを託す!」
「なぁレイト、副団長に叱られて後悔するのはお前だぜ? そろそろ起きねぇと……」
──確かに一理あるというか、ぐうの音も出ない正論を言われそうだった。なので僕は、彼が言い終える前に言葉を被せて、
「ハイ、僕もう寝てます! 夢の中です! 誰も僕の世界には侵入できませーん!」
子供のように拒絶を貫き通す。何にせよ、これで彼もすぐに諦めることだろう──なんて思った矢先、
「あっ、副団長」
「────ッ!?」
そう呟く青年の声を聞いた瞬間、僕は勢いよく布団を飛び出した。彼の言う『副団長』とは、この世で最も恐ろしいかもしれないような恐ろしい人物だ。
あの男の逆鱗に触れては命が危うい。飛び上がった僕はすぐさま首を回し、そこら中に目を配る。しかし、その場には自分と彼以外の人物が見当たらない事に気付いた。
「おう、やっと起きたな。んじゃ早く準備しろよ、みんな待ってるぜ」
「……って、騙したな!?」
不満は残るが、すっかり目が冴えてしまったらしい。ここは観念して、素直に自分の仕事をするとしよう。
仕事──そう、仕事だ。
僕、伊吹麗翔は、兵士なのだ。
幼馴染二人と異世界転移して、文字も文化もわからない状況。それらを受け入れ、どうにか生活していく為に選んだ道だった。
苦肉の策だったとはいえ、国の危機を脅かす敵と戦って仲間と共に過ごす日々。思いの外、悪くなかった。
現実世界では学業のせいで埋もれてしまっていた剣術や魔法の才能が認められ、兵士としてスピード昇格した僕は、毎日が忙しい。けれど、日本での学生生活よりはずっと充実している。
まぁ、異世界転移するならばこれくらいの優遇はされて当然だろう。元より学業優秀で運動神経抜群の人間だった事もあって、異世界でもいわゆる『天才型』だったらしい。
──さて、そんなわけで。
ゆっくり動いた僕の視界を、日光が白く染めた。それに気付いた僕は外へ顔を向け、
「おぅふ……割と寝過ごしたかなぁコレ。まぁいつもの事だけど」
窓の向こうは突き抜けるように澄んだ深い青が広がっていて、白く冴え渡った日光がその全てを照らしていたのだ。
そんな窓から入る風は涼しげで、滑らかに舞うカーテンもそれを表していた。そんな中で、ふと視界の端に映った時計を見返してみると、
「──ってもう昼の3時、一日中寝てたのかよ僕は!?」
「だから言っただろ……そろそろ起きねえとって」
時計の分針は完全に東を指していて、僕がどれだけ寝過ごしていたのかを冷酷に表現していた。
そこでようやく、ヒビキの言っていた事の重大さに気付く。確かにこれは掃除とか副団長云々よりまずいかもしれない。流石に寝過ぎだ。まるでニートだ。
重い身体を無理にでも動かし、立ち上がる。
「あぁ、面倒だ……サボりたいなぁ」
「まぁまぁそう言わず頑張れって」
僕は文句を垂らし、ヒビキに背中を押されながらも部屋の扉へと足を進める。流石に昔からずっと一緒にいた幼馴染なだけあって、彼の頼みには背きたくなかったからだ。
そう思いながら、僕はドアノブに手を伸ばした──その時。
「あれ……?」
ドアノブへと伸ばされた自分の右手が、それを透き通ってすり抜けた事に気がつく。
「え……あ? なんだ、これ」
何度ドアノブを捻ろうとしても、掴もうとしても──その手に金属の触感が伝わる事はなかった。
「────あっ」
しかし、唖然としながら立ち尽くしていたその時、僕の手とは別の力によって突如ドアノブが回転する。静寂を切り裂くように開かれた扉は僕を驚嘆させ、
「あ……だめでしょ、まだ起きちゃ」
そこから現れたのは、淡く金色に輝いた髪を後ろで結び、豊満な肉体を持った少女だった。彼女は一瞬驚いた後、早々に眉を歪ませる。そのまま、いつになく悲哀そうな顔で僕を見つめていた。
「────」
「────」
数秒間の沈黙が続き、お互いに無言で見つめ合っていた。しかし、やがて金髪の少女は小さく溜息をつき、呆れたような顔で口を開いて、
「……何やってるの?」
彼女らしからぬ、暗く沈んだような声で僕に問いかけた。硬直していた僕は、はっと気付いたように目を見開いて、
「今からみんなのところに向かおうとしてたんだけど、なんでかドアノブが掴めなくて」
「…………」
苦笑いでそう言うと、僕の顔に向けられていた彼女の視線は、だんだんと下に逸らされ──気が付けば、ドアノブを透き通った僕の左手へ。
「えっと、どうした……の?」
僕は重苦しい空気を誤魔化すように愛想笑い。そして様子のおかしい彼女に、首を傾げて質問した。
「だって、当たり前でしょう……」
やがて、彼女は大きなため息をつくと、一言。声を震わせて、哀れなものでも見るかのような目で、言い放つ。
「──その腕で、どうやってドアノブを握るの」
「その、うで?」
僕の腕に、一体何の不備があるというのだろうか。ドアノブに触れようとしたら透き通ったのだから、ドアノブに非があるはずだ。
「いや、だから、普通に、こうやって……」
もう一度試してみようと、そこへ手を伸ばしてみる。
円柱を横から掴むのだから、親指とその他の指を大きく離して、包み込むように掴めばいいのだ。
そう、ただそれだけ。
簡単なことだ。まずは手を開いて──、
「あ、れ?」
手とは、どうやって握ればよかったのだろう。
手とは、どうやって開けばよかったのだろう。
手とは、どうやって動かせばいいのだろう。
そんな疑問が浮かぶのも無理はない。
何故なら、
「手って、どこにあったっけ……?」
──僕の肩から伸びる右腕は、途中で消失していたから。
「あ、あぁぁ!?」
その事実に気付いた刹那、先程まで視認できたはずの右腕が一瞬にして消え去った。そこにあるのは肩と上腕のみで、肘から下には腕どころか骨さえ存在していなかったのだ。
腕の断面は血の滲んだ状態で包帯に覆われていて、それだけでも痛々しさが伝わる。それどころか、そうなるに至った記憶が、曖昧だった記憶が次々と蘇る。
僕は驚愕と恐怖と絶望のあまり、腰を抜かして尻餅をついた。現状を認識した途端、視界にあった全ての幻想が吹き飛ぶように消え去っていったのだ。
「ああ、あああああ……ッッ!」
──あぁ。
僕は何を見ていたのだろう──右腕なんてとっくに無かったはずなのに。
僕は何を見ていたのだろう、日光なんて部屋のどこにも差し込まれていない。今は、昼の3時ではなく──深夜の3時なのに。
僕は何を見ていたのだろう、異世界転移してからチート能力や才能なんて──僕には与えられなかったのに。
──そして少女は、尋ねた。
「あと、今さ……誰と喋ってたの?」
「だ、誰って、ここにヒビキがいるだろ……!? ほかに、誰が、いるって……」
「────ヒビキって、だれ?」
あぁ、僕は何を見ていたのだろう。
──ヒビキなんて、どこにもいないじゃないか。