before to you he will seem worthy of your love
夏を盛りとした緑が美しく整えられ、色とりどりの鮮やかな花と調和する屋敷の庭。
直射日光を逃れ、きらめくような艶を魅せるペールブルーのドレスが汚れるのも構わずに、大木の真下にぺたりと座り込む少女がいた。
繊細なレース編みのグローブを左手だけ外して無造作に握り、右手は頼りなくぱたぱたと自らの顔に風を送る。
しかし、手首をどんなに振っても送られてくる風は無いに等しい。
やるだけ無駄な行為、暑さにその虚しさが加わって少女は陰鬱とした表情を浮かべた。
そして歪む頬をつつ、と流れる汗を右の人差し指ですっと拭う。
「…ここにいたのか。夫人が探してたぞ」
少女の寄りかかった大木の裏から、低く不機嫌な男の声がした。
びくと少女の肩が小さく跳ねる。
大木の影からそろそろ上半身を乗り出して少女が後ろを見ると、予想した通りの人物が予想した通りの表情で佇んでいた。
「……真っ先にいねえなと思った所になんでいるんだ。衣装合わせを抜け出して優雅に花見か…おい、伯爵令嬢の癖に地べたに直接座るんじゃねえ。そのドレス高いんだろ…」
「………ヴ、ヴォルフラム」
「…さっさと立て」
「…わ、わかってるわ」
威圧的な声に従い、少女が身動きすると風を孕んでふわっと彼女のドレスが膨らむ。
それはうっとりするような優美さだったが、孕んだ風ごと土と草の汚れを払う為、その膨らみを叩き潰しながら少女は立ち上がった。
長い黒髪はまとめられる前にこっそり抜け出してきたので、はらはらと横から落ちてきて彼女を鬱陶しがらせる。
しかし、顔を隠せるので今のように怒っている男の前に出ていかねばならない時には助かる、と少女は内心で思った。
そんな風にいつも俯き加減でいるから陰気な詰まらない令嬢、と自身が周囲から評されている事も彼女は知っていたが、生まれ持った性格はなかなか変え難い。
さっきから鷹のように鋭い視線が自身の旋毛に刺さっているような錯覚を覚える。
男の方から深い溜め息が聞こえた。
「…何が気に食わなかったのか知らねえが、衣装合わせに夫人が来るのは前から分かってたろうが。遊び半分ですっぽかしていいもんじゃねえ」
「…ごめんなさい」
「抜け出した理由は何だ」
「……」
答えない少女は舌打ちの音を聞いた。
二人の他に誰もいないとしても、伯爵家の令嬢を前にしてはあまりに粗野で無礼な振る舞いだ。
しかし少女は、彼のそんなところが嫌いではなかった。
「…戻る気があるならいい。行くぞ」
「…ええ」
追求を諦めた男が踵を返すと、羽織っていたマントに刺繍された王冠守る一角獣が少女の方を向く。
それは近衛隊の紋章だった。
本来男は近衛隊に所属する騎士で、少し前に伯爵令嬢である少女の専属護衛として借り出されてきたのだった。
近衛隊といえば王直属の精鋭部隊である。
彼の出自来歴は輝かしいものではないが、実力で今の地位まで上り詰めたと聞く。
少女に対しては口の聞き方も態度も最初からぞんざいだったが、少女も伯爵令嬢として質の良い方ではなかったので彼のこんな叱責には萎縮しつつも、むしろ探り合いが不要で気楽な面があった。
短く刈られた黒髪の後頭部をこっそりと熱心に見詰めながら、騎士の後に着いて令嬢も歩き出す。
騎士の背の高さは成人男性として高くも低くもない。
令嬢は女性にしては長身な方だが、ヒールを履いても騎士よりはまだ低かった。
苦手なヒールの足さばきに気を遣いながら歩いている令嬢は、これ程もたついているのに騎士の背中は易々と追えている事に気付いて密かに心を温めた。
互いに無言で庭を過ぎて屋敷に入り、午後の明るい日の差し込む廊下を進む。
真っ直ぐ先まで伸びる廊下の向こうに、おろおろとする侍女が見えてきて令嬢も流石に申し訳なさを感じた。
「…薔薇の季節は終わったと思っていたが」
「…え?」
「ペチュニアが咲いてたんだな」
突然口を開いた騎士とその似合わない内容に驚いて、令嬢は会話を成立させられなかった。
しかし騎士は前を向いたまま続ける。
「薔薇のねぇ薔薇園にいるとは思ってなかったから随分探した」
「あ、…ごめんなさい」
「そうじゃねえ……勝手に抜け出されるのは全く困った事だが、探すのも俺の職務の内だろ。…簡単に見つけられると思っていたんだがな」
騎士が何を言いたいのか分からなくて令嬢は混乱する。
「…あたしを、すぐに見つけられなかった事を悔しがっている、の…?」
騎士から返事がなかったのを令嬢は図星だからだと解釈した。
「言付け一つで消えるから、侍女もあちこち回っていねえいねえ騒いでたぞ」
それは令嬢も申し訳なく思うところであった。
侍女が二人に気付いて明るい顔になる。
前を歩く騎士の顔は令嬢には見えない。
探し回っていた、と言う侍女が、今は廊下の前で待っているのは何故なのだろうか、と令嬢は思った。
「……あ、たしは、あなた以外に、見つけられたくないわ…」
騎士は自分が探すからいい、と侍女をここに待たせていたのではないかと令嬢は考える。
二人がかりで探した方が効率が良かっただろうにそうしなかったのは、とまで考えて、令嬢は呟いていた。
令嬢には居たたまれない沈黙が落ちる。
勘違いをしているのかもしれないとどっと彼女はドレスの中で汗を掻いた。
だが、前を歩く彼は少し笑った気がした。
「…俺以外が見つけることが無いように努力しよう。さて、ドレスは似合ってんだ、しっかり務めてこい」
令嬢が思わず立ち止まる。
それに気付いているのかいないのか騎士は先に進み、安堵した様子の侍女と言葉を交わしていた。
「あり、ありがとう…」
侍女は彼女の赤い頬に首を傾げて騎士の顔を見上げ、不審な顔をする。
ぎくしゃくと歩みを再開しながら、令嬢はやっとそれだけ言えた。
「軽々しく礼を仰るな。隠れん坊遊びも程々に。夫人がお待ちかねだ」
侍女の前であるせいか素っ気ない敬語で、重たげな樫製の扉を騎士が示した。
余人の目に無礼と映る挙動なら控えねばならない。
今は令嬢を守る事が職務の騎士だが、彼は個人としての令嬢ではなく国に仕える近衛騎士だ。
令嬢は溜め息を吐いて握り締めていたレースのグローブをはめ直し、夫人の待つ部屋の扉を開いた。
***
「終わったのか?」
「……待っていたの?」
「そうだが?職務だ」
長い時間の後で、令嬢が扉を開いて退室する。
深い溜め息の為に息を溜めようとした彼女だが、すぐ横から低い声が掛かり弾かれたように顔をそちらに向けた。
不機嫌そうに眉を寄せた騎士が尊大に腕を組み、壁に寄りかかっている。
鋭い青い瞳は自身の退屈さを隠しもしない。
彼が待っていてくれた事が嬉しく礼を言いかけて、口を結ぶ。
入室前に軽々しく礼を言うなと彼に言われた事を思い出したからだった。
「…ヴォルフラムはこれから何か予定がある?」
「職務中だからお前の後をついて回る」
「…職務、ですものね」
「職務以外にこんな男について回られたいのか?」
嬉しいけれどあくまで職務なのだ、と自分に言い聞かせていた令嬢の、その更に奥の気持ち、職務でなく共にいれたらどれだけいいか、を見透かして揶揄するような騎士の言い種に令嬢は顔から火が吹き出しそうになった。
くるりと身体の向きを変え、ずんずんと廊下を歩く。
今度は彼がその後につき、従った。
「どこへ行く気だ?」
「……薔薇園に…戻るわ…」
「そうか」
「……ついてこないでって言ったら?」
「ついていくな」
「……職務、ですものね」
「ああ」
背後から令嬢を面白がる気配が伝わってくるのが苛立たしい。
「………いけないかしら?」
「何がだ?」
間を置いての返答だった為か、令嬢の唐突な呟きに騎士が首を傾げた。
「職務じゃなくてもあなたについて来て欲しいと思うのはいけないかしら」
勇気を振り絞って告げた。
令嬢は背後の彼の反応に全身を研ぎ澄ます。
「伯爵閣下の御令嬢の後をそうそうついて回れる立場じゃねぇからな」
なのに騎士から返ってきたのはただの事実の指摘だけだった。
「…そう。あなたはこの職務が苦痛?」
この年上の男から、ちっとも自分への感情を引き出せない苛立ちが珍しく令嬢を饒舌にさせる。
「とんでもない。こんな重役を任されてむしろ嬉しいくらいだ」
嘘だ、と令嬢は思ってカッとした。
伯爵令嬢。しかし、本邸に引き取られたばかりの愛人の娘の専属護衛が重役な筈がない事くらい想像出来る。
「…お父様から腕が立つと聞いたから是非にとあたしが言ったの…」
令嬢は嘘を吐いた。
はりぼてのようなものを持ち上げられるくらいなら尊大に振る舞ってやりたかった。
彼女が父親と顔を合わせたのは屋敷に引き取られた日だけだった。
専属護衛について父にわざわざ意見を求められた事はない。
「直々に俺を選んだと?」
「ええ……そう…」
「ありがたいことだ」
騎士の応答には皮肉の色が強かった。
揺るがない騎士に、反応見たさにみじめな嘘を吐いた事を令嬢はすぐに後悔した。
廊下の途中で彼女は立ち止まる。
騎士もその後ろで立ち止まった。
「…………嘘よ。あたしは自分の護衛を直々に名指しで選べる立場じゃないわ…」
「ああ」
「自分に専属の護衛がつく話もあなたを紹介される時に初めて聞いたの…」
「そんな顔だったな」
「あたしは大事な娘じゃないから、こんな……隣の国に婚約者が出来なければ、わざわざ近衛隊からあなたを借りてまで護衛なんてつかなかったと思う…」
「ああ」
騎士の相槌に揺らぎはない。
令嬢はまた歩き出した。
「………やっぱり部屋へ戻るわ……今日の護衛はここまでで結構…」
「……」
言い捨てて令嬢が先に進む。
後ろから騎士がついてくる気配は無かった。
***
「……あたしに専属護衛がつくの?」
「ああ。あんたの傍に不審な者を近づけないようにするのが俺の仕事だ」
「……そんな人、いるのかしら?」
「知らん」
「もし…そういう人が近づいてきたらどうするの…?」
「その時のために俺達は日々剣の腕を鍛えている」
「……殺すの?」
「殺さない、とは言いきれねえな。あんたの命にも関わるかもしれない事だ」
「…………」
「…まあわざわざあんたの命を狙う者なんざそうはいないって意見には同意するが」
「そう…。今まで護衛なんていなかったのに…急におかしな話ね…」
「そう可笑しくもねえだろ。隣国の貴族との婚約が決まればそれなりの警戒はされるべきだ、ヒルデガルド嬢」
「結婚おめでとう」
***
夜更け、ヒルデガルド嬢の居室の扉を小さく叩く音に、騎士は意識を集中させる。
音は内側から聞こえた。
居室へ続く扉の前で警護をしていた騎士・ヴォルフラムは溜め息を吐いて向こうに声を掛けた。
「…なんだ?」
「…こんな夜中なのに起きているのね。今日の護衛は結構、と言った筈だけれど」
「仮眠はしている。何かあったのか」
「……何も、……休憩の邪魔をしたかしら…ごめんなさい」
「構わねえが。……どうかしたのか。声が変だぞ」
重厚な扉の内から聞こえてくるヒルデガルド嬢の声はいつもと少し違って聞こえ、ヴォルフラムは警戒の表情に変わった。
腰に帯びた剣の柄に手をかけるが、室内にヒルデガルド嬢の他の気配は感じられず戸惑いが強くなる。
「…こちらへ、来てもらえますか?」
珍しい令嬢の敬語に騎士の眉が寄せられるが、それ以上に彼はその内容に不快感と怒気を露わにした。
「……何を言い出すかと思えば。馬鹿を言うな。未婚の伯爵令嬢の部屋に夜中易々と入れるか」
「………そうね、ごめんなさい…」
ますます持って彼女の様子が可笑しい。
自分は正論を言ったしヒルデガルド嬢も納得を見せたのに、ヴォルフラムは気が立つ一方だった。
苛立たしげに自身の黒髪を掻き回して舌打ちをした。
「…………命令」
「…え?」
「令嬢本人の命であるならば、どうだか知らねえが。但し、命じた以上責任は取れよ」
詭弁だ、とヴォルフラムは思った。
いかに気風の緩やかな国であれど、命じられたからのこのこ貴族令嬢の部屋に入りました、で済む程甘くはないだろう。
事が明るみに出ればヒルデガルド嬢が何と言おうと自身が責を負わされることは想像に難くない。
出世にさほど興味はなくとも、折角登り詰めた地位を捨てる気も罪人になる気も自分には無い。
「………命、…よ。来て、…」
振り絞るような声が耳に入る。
馬鹿馬鹿しいと切り捨てるべきだった。
なのにヴォルフラムはもう扉を開けて中に滑り込んでいた。
「失礼する………っ?!」
室内に異変は無かった。
ただヒルデガルド嬢が寝間着姿にショールを、子供のように頭から被って扉のすぐ前に佇んでいただけだった。
それは予想通りだが、ヴォルフラムが驚いたのは彼女の黒い瞳が濡れていた事にだった。
「泣いて…んのか?」
「ごめんなさい…真夜中に……」
「どうした。どこか具合が悪いのか」
「いいえ………、夢、を…」
たかだか夢を見てこうもヴォルフラムを騒がせたのが気不味いのか、ヒルデガルド嬢はいつも以上に俯いて細く喋る。
普段ならヴォルフラムも額に青筋を浮かべていたかもしれないが、思い描いていた杞憂のどれも外れた事で今は安堵の気持ちが強かった。
「ああ…夢見て泣く年じゃねえだろ。何やってんだ」
「………ごめんなさい。……ねえ」
気の抜けた軽口を叩いてヴォルフラムは未だ剣の柄にかかっていた手を下ろす。
今すぐ部屋を出れば大事にもなるまいと背後の扉の向こうの気配を探った。
ヒルデガルド嬢が言葉を探す素振りに気付かず、空返事で返したヴォルフラムは次の伯爵令嬢の発言に盛大に固まる。
「……抱き……しめて…」
扉のノブを掴み損ねて鉄製の籠手とぶつかり、がちゃがちゃと煩い音が響いてしまった。
外の廊下にも聞こえてしまったかもしれない。
密かに部屋を出なければならないのに大きな音を立ててしまったヴォルフラムは、だがそれどころでなく唖然として真っ赤な顔をしたヒルデガルド嬢を凝視する。
「……何考えてんだ」
恫喝にも似た低い問いにヒルデガルド嬢の返事は無い。
無視をして部屋を出ようとヴォルフラムは彼女に背を向けるが、マントを軽く引かれる感覚に唇をひきつらせる。
「……結婚……する、夢を…」
「……あ?」
「……隣国に……」
「…ああ、婚約者とか。それが怖い夢か?」
マントを振り払おうと掲げかけたヴォルフラムの手が、ヒルデガルド嬢の声を聞いて少し降りた。
「…あたしが決めた結婚じゃないわ…国交の為…で、……あたしのお母様が隣の国の人だから、出世したいお父様が推して、…選ばれただけ…」
ヴォルフラムのマントをぎゅっと掴み、自身の胸の方へ寄せながらヒルデガルド嬢は呟き続けた。
「あたしは喋るのも上手じゃないしそんなに綺麗でもないから……どうしても必要とされて、役立って嫁ぐなら決心も出来るわ…でも…………」
政治的に見ても自身の結婚がさして重要でない事をヒルデガルドは知っていた。
形だけは整えられているが伯爵の愛人の娘なりの、に過ぎない事を知っていた。
自然とヒルデガルドの身体は扉に手を掛けたヴォルフラムの方へ傾く。
「…好きな人にそうとも告げられないで……、彼から祝福の言葉を…貰う夢で…」
夢の内容を思い出したヒルデガルドの目には、再度涙が盛り上がる。
本人にもそこまでとの自覚もなく、彼女にとって飾らない、自身を利用しようとしない彼が側にいる事は心の支えだった。
「…あの人からは、何を、どんな言葉を貰っても嬉しいと思っていた…でも、結婚の祝福の言葉は………少しも嬉しくなかった…」
ヒルデガルドの涙は本人の手で雑に拭われ、鼻を啜る音もする。
ヴォルフラムは部屋の扉に彫り込まれた見事な彫刻を眺めて見上げる。
「……ここまで馬鹿で考え無しとは思わなかった」
「ごめんなさい…」
「お前の事じゃねえ」
「…え」
今度こそマントを掴む彼女の手を払って彼が動いた。
ヒルデガルドの視界で揺れるマントが翻る。
扉が開いてヴォルフラムが出て行くのだとヒルデガルドは思った。
潤む彼女の瞳に今マントに描かれた近衛隊の紋章でなく、徽章が映っている理由はよく分からない。
ヴォルフラムは扉に背を向けていた。
扉を開けて出て行くのがお互いの為に一番良いとヴォルフラムは理解していた。
泣いている彼女が正面にいる。
考える前に両腕が伸びていた。
ヒルデガルドは女性にしては長身な方だが、ヴォルフラムよりはまだ低かった。
実際には鼻がちょうど彼の肩の上に来るだけの差。
彼女はそれを初めて知った。
近衛隊の制服は優美に見えるけれど触れてみると布地が固い事も、強そうには見えなかった彼の身体も触れれば固くて鍛えられているとすぐに分かる事も。
力強い腕の中に身を預けながら、ヒルデガルドは逃がすまいとヴォルフラムを強く抱き締め返した。
ややあってから、ヴォルフラムが静かすぎるヒルデガルドの様子を不審に思って伺う。
「…………おい」
いつの間にやらすうすうと安らかな寝息を立てていたヒルデガルドにヴォルフラムは大いに呆れた。
「………ふ、…くっ」
けれど呆れの後には大いに可笑しくなる。
ヒルデガルドを起こさないよう笑い声を殺しながらそっと彼女を抱え上げ、寝室まで運んだ。
空は白み、窓の外で軽やかに小鳥達が鳴き始める。
「………ん……」
「…おはよう」
早朝、伯爵令嬢の寝室には覚醒直前の寝ぼけた声と短い挨拶の声の二つがあった。
「…………ぁ?…ああ」
起きた方は状況把握が追い付かなかったようで、一瞬驚愕の顔で挨拶した方を見た。
しかしそれもほんの一瞬で、目を擦りながら温かい床を離れる。
「…お目覚めかしら?」
ヒルデガルドは慎重に、起き抜けのヴォルフラムを観察した。
二人が自分のベッドの同じ枕の上で寝ていたと理解した時の彼女の衝撃は筆舌に尽くし難かった。
「ああ、夜明かししちまった。悪かったな」
しかしヴォルフラムには、彼女が味わった口から心臓が飛び出すような驚愕の片鱗も見えない。
ヒルデガルドが自力でベッドに入った記憶が無い以上、ヴォルフラムが連れて来た事は間違い無い。
であれば、同じベッドで寝ている理由も彼の選択に因るものであろうが、未婚の、伯爵令嬢の部屋に入室する事も渋っていた昨夜と比べて開き直りも落ち着きも過ぎてやしないかと、ついさっきまで一人パニック絶頂にだったヒルデガルドは悔しく思った。
「いえ……何も謝る事はしてないわ……、…よね?」
「護衛対象の起床前に支度を済ませておくのは常識だ」
しれっと答えるヴォルフラムをヒルデガルドはじっと見つめるが、聞きたいのはそんな事ではない。
着衣にも身体にも何の異常も無さそうではあるが、実際のところどうなのか経験の無いヒルデガルドには判別出来ない。
しかしヒルデガルドは、それとなく振ってもこの微妙に意地の悪い男は求める答えを簡単に返してくれないと遅まきに悟った。
「…そうじゃなくて…あ……」
しかし何と切り出したものか言葉を探していたヒルデガルドだが、不意にベッドから起き上がってヴォルフラムの元へ歩み寄った。
「寝癖…」
「……」
何かと視線で尋ねる彼の黒髪に手を伸ばし、梳く。
ヴォルフラムの髪が整うと互いに見つめ合って沈黙が降りる。
「し、支度が出来たら黙って出て行けばいいと思うの…あたしには付きっきりの侍女もいないからきっと誰にも分からないわ…。あなたがいつも近くにいるくらい、で…」
たった今の自身の行為を省みて赤面し、早口で喋り出すヒルデガルドだがその発言に更に赤くなる事になった。
耳まで染めて黙って俯くヒルデガルドを余所に、ヴォルフラムも彼女に背を向け、着々と身だしなみを整える。
指摘をされれば恥ずかしくなるだろうが何と言われないのも寂しいと、ヒルデガルドは自身の感情を勝手と思った。
「……ねえ」
「なんだ?」
「あなたは何も言わないけれど、…あたしに何も聞く事もしないのね…」
「何をだ」
「…………あたしの、す、…好きな…人は…とか」
「………はっ。馬鹿かお前は」
振り向いたヴォルフラムは、心の底から馬鹿にしきった表情と声でヒルデガルドに答える。
「見てれば分かる」
素っ気なさすぎて、逆に奥に存在する感情が見え隠れするような声だった。
「あんたが俺を好いてる事くらい」
その瞬間、ヒルデガルドは羞恥も忘れて小さくなる。
婚約者を持つ身で護衛に懸想する浅ましさ、身分の違い、自身の幼稚さをヒルデガルドは急に自覚した。
これまで探ろうとしても伝えようとしても、のらくらとはぐらかすばかりだったヴォルフラムの明確な言葉には、それだけの重さがあった。
ヒルデガルドはヴォルフラムから目を逸らし、ベッドの方へ戻って掴んだショールを昨夜のように頭から被って小さくうずくまった。
何時までも寝間着姿を晒しているのも恥ずかしくなったが、流石に同室にヴォルフラムがいる状態で朝支度をする気にはなれない。
「……昨夜から…いえ、もっと前からずっと、あたしはあなたを煩わせてるわね…ごめんなさい」
「ああ、だから軽々しく謝るな。…俺も悪かった。こうなりたくなかったんなら早くそう仕向けりゃ良かったんだ」
「……考え無しのあたしが悪いだけ…あなたが謝る必要は無いわ…」
覚悟していてもヴォルフラムに厭われるような台詞は、やはりヒルデガルドの胸の内を抉る。
ヒルデガルドは今すぐベッドに伏して泣きたいのを堪えた。
「お前こそ、何故いつもそんなに謝る」
「……迷惑を…いつもかけてしまうから……あたしが…、あなたがあたしに仕える立場だから……、はっきりと逆らえないのよ…ね……」
ヴォルフラムの立場になって事を考えてみれば最低だ、とヒルデガルドは改めて思った。
しかしそれでも彼が好きという自分の心が変わらなくて、ヴォルフラムがいなければヒルデガルドは自分の顔を殴りつけたかった。
「一度しか言わねえぞ」
長い沈黙の後でヴォルフラムが口を開く。
ヒルデガルドは思わずベッドの上で居住まいを正した。
背を向けていたヴォルフラムの方に向き直ろうとして驚く。
いつの間にかヴォルフラムはベッドに小さくなるヒルデガルドをすぐ側で見下ろしていた。
「好きだ。俺の気持ちは職務とも身分とも関係が無い」
「………」
「………」
「………」
「なんだ…………、後悔してるか」
「違うっ!」
固まって動かないヒルデガルドを何と思ったのかヴォルフラムが自嘲気味に唇を歪めるが、ヒルデガルドは即座に叫ぶ。
「好き、好き……っ…あなたが…」
ショールを放ってヒルデガルドは子供のように両手をヴォルフラムに伸ばす。
ヴォルフラムは丁寧にそんなヒルデガルドを抱き返した。
ヒルデガルドの長い黒髪に初めて意図して触れたヴォルフラムは、巷で恋人同士がする様を思い出してそろそろと撫でてみる。
「…ずっとこうしたいと思っていた」
思った以上の心地良さに、ヴォルフラムは表情を緩めて呟いた。
「ヒルダ」
突然に名前を愛称で呼ばれ、ヒルデガルドはぱっと顔を上げ、ヴォルフラムを見上げる。
長い前髪を払う指が優しい。
視界を遮るものもなく、彼女の目にはヴォルフラムだけが映っていた。
近くとも触れられない場所でずっと見ていた青い目が近付き、彼女は教えられずとも潤んだ目を閉じる。
そして二人は唇で触れ合った。
You must love him, ere to you he will seem worthy of your love.
「自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ」
-William Wordsworth-
ヒルデガルド-Hildegard-
伯爵令嬢。黒髪黒目。雰囲気暗め。性格は引っ込み思案。
父親は伯爵、母親はその愛人で隣国の士爵の娘であるが既に亡い。伯爵領の隅にある屋敷で細々と暮らしていたが、一年前に王都本邸に引き取られた。
隣国の伯爵の次男(軍人)と婚約している。
ヴォルフラム-Wolfram-
近衛騎士。黒髪青目。目つき悪い。性格は良くない、面倒臭がり。ヒルデガルドの婚約が決まった際、箔をつけたい伯爵が娘の護衛に近衛騎士を一人貸してくれと要請した結果、派遣された。
ヒルダからの想いには早々に気付いて流していたが…