五 警告
金曜の夕方、帰宅ラッシュが始まったばかりの駅の雑踏を遠目で見ながら、高原は仲間の警護員の姿を目で追っていた。
改札前の、乗降客でごった返す一角で、葛城が人の波をかわしながら少し緊張した面持ちで、ひとりで立っている。
高原が時計をちらりと見て再び葛城のほうを見たとき、その向こう側から一人の人物が葛城のところまで来て立ち止まったのが見えた。高原は息を飲み込んだ。見覚えのある人物だった。
「大森パトロール社の葛城さんですね。」
目の前の、あまり背の高くない、しかし印象的な大きな目が硬質な輝き方をするごく若い青年を、葛城は冷たさの多く混じった静かな表情で見た。
「偽名で呼び出すのは、失礼ではありませんか?」
「お許しください。」
二人の周囲を、触れ合わんばかりの距離で、膨大な数の人間たちが二人に無関心に通り過ぎていく。
葛城は黙って相手の目から目をそらさず、相手が用件を言うのを待った。
板見は自分より少し背の高い葛城の美しい切れ長の両目を見上げ、礼儀正しく遠慮がちな微笑と共に言った。
「お詫びをふたつ。そして、お知らせをひとつ。今日の、これが用件です。」
「・・・」
「お詫びのひとつめです。京都では、大変失礼をいたしました。我々の分を越えた行動だったと思っています。」
「・・・」
「ふたつめは、その後別の仕事の際には・・・我々の巻き添えにして、貴方がたの大切な新人さんを負傷させてしまったことです。」
「あなたは、どこの誰です?」
「あの新人さんには、借りがあるので、なおのこと申し訳なかったと思っています。私たちのお客様の命を、助けることに、協力してくださったことがありますから。」
葛城は、目の前にいる、折り目正しい野生動物のような青年の大きな目を改めて見た。そして、記憶の中に、その声が蘇っていた。集音マイク越しにスピーカーから聞こえていた、あの、聞きなれぬ声。その宝石のような目と同じように、硬質で、透明な声。
「謝罪しなければならないことは、ほかにもおありだと思いますけれど?」
板見は大きな目をぐっと細めて、くすりと笑った。
「我々のことを思い出していただけて、光栄です。葛城さん。」
そして腕にまきつけていたネックレスのようなチェーンをとり、そのまま葛城へ差し出した。ペンダントトップの代わりに、メモリーが取り付けてあった。
「このデータを、後ほどご覧ください。今日の用件の最後、お知らせについてです。」
葛城の左手首に、ネックレスをからませた。
「端的に申し上げます。今回の警護、お断りになることをお勧めします。」
「・・・・」
「もちろん我々に強制力はありませんし、予定通り警護をされるならそれはそれで、ご自由です。が、その場合は、お互いあまり気持ちの良い結果になりません。」
板見は一礼し、去り際に初めて、名乗った。
「わたくしは、阪元探偵社の、板見と申します。今日はお時間を頂きまして、ありがとうございました。」
雑踏にそのまま紛れてしまった板見が去っていったほうを見ている葛城に、後ろから高原が声をかけた。
「あの茶会でクライアントを襲った奴だ。」
「そうだね。」
金曜の夜、昼間の会社の仕事が終わり予定どおり大森パトロール社の事務所に到着した茂は、比較的鈍い彼にも十分感じられる程度の、事務室内の異様な空気を感じた。
明りがついて人の気配がするのに静まり返っている応接室を覗くと、波多野部長と三人の人間たちが、なにも言わずにソファーに座っている。テーブルの上には、紙資料と、見慣れぬメモリーのつながった携帯端末とが置かれている。
茂がそっと応接室を離れようとすると、波多野が入口のほうを見て言った。
「茂、かまわんよ、お前も入れ。」
空いていた一人掛けのソファーに遠慮がちに腰を下ろす。長椅子には波多野、隣に高原、向かいの並んだ一人掛けソファふたつにはそれぞれ葛城ともう一人、日焼けした男性が座っている。茂は初めて見るが、この人が山添さんだろうと思った。
波多野が茂に説明してくれた。
「今日、事務所へ、怜あてに差出人の分からないメッセージが届いた。いや、正確には差出人は偽名・・・朝比奈和人を名乗っていた。重要な用件があるからと、時間と場所を指定しての呼び出しだ。念のため晶生を一緒に行かせたが。相手は自分たちが阪元探偵社の人間だと言ってこのメモリーを怜に渡した。そして、これがその内容だ。」
「これは、佐藤裕太さんの・・・今回の我々のクライアントについての・・・資料ですね。」
「全体は膨大な量だが、要点を数枚にまとめてもある。少なくとも数年をかけて調査されたものだ。結論は、佐藤裕太は、升川厚と同一人物である、というものだ。」
「ますかわ、あつし?」
「大森パトロール社が始まってすぐに殉職した、朝比奈警護員が、最後の警護案件で警護した、クライアントだ。」
「・・・・!」
「顔も名前も役所の届け出関係も全部変えている。同様に、朝比奈の警護案件発生の数年前以前、さらに第三の別の人物として生活していた証拠も、確認されている。」
「そんな・・・」
茂は高原の顔を見た。黙ってテーブルの上の資料を見ているその横顔は、茂の目からは恐ろしいほど平静に見えた。
「メモリに入っていた情報は、要するにそれだけの内容だ。この事実だけを、根拠資料とともに示しているだけのものだ。つまり阪元探偵社は、朝比奈和人のケースを十分理解し、我々に、単純な、メッセージを伝えている。」
「・・・朝比奈さんが殉職する原因をつくった人間を・・・・・いや、警護員という存在を犯罪に利用した人間を、我々が警護しようとしているのだという・・・・」
「そう、そしてそんなことはやめなさい、ということだな。」
茂は喉が詰まったようになり、波多野の顔をじっと見た。波多野はメモリーにつながったネックレスのチェーンを見ながら、苦々しく笑った。
「ご親切なことだ。」
山添が、顔を上げて波多野を見て、咳き込むように言った。
「佐藤に・・・升川に、このまま予定通り行動させましょう、波多野さん。犯罪行為に至らせましょう。そうすれば、警察に逮捕させることができる。」
「だめだ。」
波多野は間髪を入れずその選択肢を禁じた。
「わかっているとは思うが。」
山添の顔を、半ば厳しく、しかし半ば労わるような表情で見ながら、波多野は言った。
「そういうことをしたければ、うちではなく他の会社へ行って、やれ。」
「・・・・すみません。」
茂は、山添もそうであるが、高原と葛城が、さらに驚くほど冷静なのを見て、逆に当惑さえしていた。
高原はテーブル上の資料から引き続き目を離さず黙っている。葛城もほぼ同様である。
「阪元探偵社がうちにご親切なアドバイスをしてくれた理由は、佐藤つまり升川が彼らのターゲットだからだろうな。うちが警護を降りれば、手間がひとつ省ける。」
波多野は、葛城の顔を見た。テーブルに向かって黙っていた葛城は、少し顔を上げて波多野を見た。
「考えは、決まったよな?怜。」
「はい。今回の警護依頼は、警護契約上の告知義務違反であることが、強く推定されます。・・・契約解除します。」
「そうだな。メイン警護員にも異存がないなら、明日朝いちばんに、警護依頼人へ説明する。納得されない場合は、当社事由による解除扱いにしてもいい。必ず、断るよ。」
「はい。」
茂は、昨日の木曜日の夕方、警護依頼人の三村蒼勝の自宅で、蒼勝と警護対象者の佐藤裕太に会ったときのことを思い出していた。
写真では痩せて神経質そうだった佐藤は、しかし実際に見ると目鼻立ちの整った柔和な印象の男だった。佐藤よりやや上の年代の蒼勝は、佐藤がかつての自分と同様にかなり遅く日本舞踊を始めたこと、会社でも優秀であることなどを、自慢げに語った。蒼勝はあまり他人の意見を聞かなさそうな傲慢な性格である印象だったが、しかし少なくとも佐藤を弟子としてそして部下として、高く買っていることはよく伝わってきた。
茂は胃のあたりに、激しい憎悪が湧き上がるのを感じた。
そしてふいに茂は、前回の治賀良太の警護のことが、頭に蘇ってきた。
あの、監禁された部屋のスピーカーから聞こえてきた、和泉の乾いた声。
殺害します、という、明瞭な言葉。
「波多野さん。」
「ん、なんだ?茂。」
「我々が警護する予定だった明日の公演で、阪元探偵社は、佐藤つまり升川を・・・・」
「・・・・」
「殺害、するということですよね。おそらく。」
茂の言葉が発せられると同時に、応接室の空気がさっと変わり、発言した茂自身が一番驚いた。
葛城が、茂のほうを見た。葛城のその顔は、表情は、例えるならばいきなり初対面の人間から「お前、死ねよ」と言われたらこうなるだろう、というようなものだった。
声さえ出ない、それはとっさの許容範囲を超えた驚愕だった。
高原も、そして山添も、視線こそ茂へ向けてはいなかったが、ほぼ同じ表情になっていた。
「あ、あの・・・」
この場にいる誰もがわかりきっていることを、言葉にしただけである。
なぜ先輩警護員たちがこういう反応を示すのか、茂には理解困難だった。
この後の、わずか一分間弱の沈黙は、茂にとっては世の終わり程度に永遠のものに感じられた。
再び最初に口を開いたのは、葛城だった。
「波多野さん。警護の契約は、解除しないで・・・もらっても、いいですか・・・・?」
声がかすれていた。
波多野はまだ黙ったまま、葛城が、人形のように整った顔をほぼ真下に向けたまま言うのを、聞いていた。
「・・・お願いします。」
そして、波多野が大きなため息とともに、答えた。
「わかった。」
茂が当惑している間に、波多野と先輩警護員たちの話題が速やかに明日の警護のことに移っていた。殺害のリスクが極めて現実的であることから、高原と山添も現場に行くことを望み、波多野が了解した。
話し合いが全て終わり、先輩警護員たちが部屋を出ていき、波多野も腰を上げたとき、茂はようやく少し頭が冷静になっていた。
「は、波多野さん。」
「なんだ?」
立ち上がって波多野の顔を見ながら、茂は口籠りながら、言った。
「俺、まずいことを、言ったんでしょうか?」
波多野は茂の様子がかなり深刻なのが意外なように、メタルフレームのメガネの縁を少し上げた。
「ああ、まあ、ある意味、まずいことを言ったな。」
「やっぱり・・・」
「なに全身で罪悪感感じてるんだ?茂」
「・・・・」
「あいつらが、自分で至った結論だ。別に、お前のせいじゃないよ。」
「・・・ならいいんですが・・・・」
「先輩を心配するのはいいが、罪の意識まで感じるようになったら、行きすぎだ。」
「はい。」
「人間の悩みとか迷いとかってのは、結局、本人たちにしか分からないことが大部分なんだから。」
「・・・・はい。」
「それより自分のことを振り返ってみろ、茂。」
「え・・・」
「近くに、不義理をしている友達がいるんじゃないのか?」
「・・・・」
「うちの大事なクライアント兼コンサルタントさんだよ。」
「三村ですか?あいつに、俺が不義理って・・・・?」
波多野はにやにやしながら茂の顔を下目づかいに見た。
大森パトロール社を後にした金曜日の夜、葛城と山添はそれぞれ、自宅に戻った後、それぞれの車とオートバイで、夜の高速道路へ出ていった。
そして波多野と高原は、それぞれ、別々の人間へ電話をかけていた。
波多野は、事務所の電話の短縮ダイヤルで。
そして高原は、夜道を歩きながら、携帯電話をかけていた。
三回コールして、出なかったら切ろう、と高原は思った。三回目に、相手が電話に出た。
夜中にもかかわらず、英一は車で自宅と駅の間に横たわる大きな都市公園の駐車場まで来てくれた。
車から降りてきた英一を、先に着いていた高原が、会釈して出迎えた。
「三村さん、公演前に、本当に申し訳ありません。」
「いいえ、実は俺も、できれば大森パトロールさんとお話したいと思っていたところでした。」
二人は、芝生に埋め込まれた照明が木々をライトアップする、広大な公園内へ少し入り、噴水前の石段で足を止め、英一は手すりに背を軽くもたれるようにして高原の言葉を待った。高原は英一に斜めに向き合う位置で、まっすぐの姿勢で立ち、英一の顔を見た。
「明日の警護ですが、私も現地に行きます。佐藤様の殺害の危険がきわめて高いと思われるからです。」
「佐藤の、ですか?蒼勝ではなく?」
「・・・三村さん、そう、思われましたか?」
「ええ。俺は蒼勝がどんな人間かよく知りませんが、教授仲間の評判を聞くと、佐藤より蒼勝のほうが、よほど命を狙われそうな人間ですね。それで、今回の警護のことは、機会があれば大森パトロールさんに状況をうかがってみたいなと思っていたところです。」
「佐藤様を狙っているのは、阪元探偵社です。」
「・・・えっ」
「そして、三村さんや蒼風樹さんの想像どおり、今回そもそも命を狙われたのは、蒼勝氏です。」
「では、蒼勝を殺そうとしているのは、誰なんですか?」
「佐藤氏だと、思われます。」
「それは・・・・いったい、どういうことですか?」
「佐藤氏は、殺人を職業としている人間・・・いわゆる殺し屋ですね、そういう商売の人間だと思われます。それも、数年に一度、大きな案件を受託して、巨額の報酬を得る。つまり、基本的に複数の人間からの依頼と報酬とを受け、しかも指定された場面での難易度の高い殺人を請け負います。ですから依頼人の動機は怨恨が主です。」
「・・・・」
「佐藤氏は、明日の殺人のために、数年前から蒼勝氏に接近したと思われます。公演の場で蒼勝氏を殺してほしいという、依頼人たちのニーズに完璧に応えるために。彼は、蒼勝氏に一番近いところにいて、そして、自分への襲撃事件という舞台を活用して、自分の手で蒼勝氏を殺害するつもりだと思われます。」
「それは・・・・」
「同様の手口で、我々の同僚がかつて、利用されました。そして今回、その犯人と、佐藤氏とが、同一人物であることをつきとめたのは、阪元探偵社です。顔も名前もすっかり変えていましたが。」
「それは、誰かが佐藤の殺害を阪元探偵社に依頼したということですね?」
「おそらく、我々の同僚が利用されたあのとき殺害された被害者の、ご遺族でしょう。」
「同じ警備会社の警護員を、また利用するというのは、恐ろしく無謀なことに思えますが。」
「はい。私もこれが、何かの間違いであることを、願ってはいます。」
高原はいったん口をつぐんだ。そして浅くため息をつき、一礼した。
「警護ご依頼人にもお話ししづらいことでしたが、三村家のどなたかには、お耳に入れたいと、勝手に思い・・・お話ししてしまいました。申し訳ありません。」
英一は改めて高原の顔を見た。日曜日に電話したときの、彼の異常な様子の理由は分かった気がしたが、新たに分からないことができた。
「・・・高原さん」
「はい?」
「高原さんたちは、佐藤の・・・いえ、犯罪者かもしれないこの男の、警護を、お断りにはならないのですね。」
「・・・・」
「すみません。愚かな質問だということは、わかっています。お答えも、わかっているつもりです。」
英一は、この質問をしてはいけなかったと思ったが、しかし意外なことに、高原の様子は、質問をされるのを心底待っていたかのように見えた。
「・・・・愚かな質問などではありません・・・・。とても普通の、そしてとても良いご質問です。」
「・・・・」
「我々、バカじゃないかと、お思いでしょうね。」
「・・・・確かに、思います。」
「・・・・」
英一は、今はもうはっきりと、高原の知的な目の奥の、訴えるようなものを理解していた。
「高原さんたちは、迷ってはおられない。しかし、迷っておられる。・・・俺に、なにか、良い意見を言うような能力があればよいのにと思いますよ。でも、何も言ってはあげられない。申し訳ないと、思います。」
「三村さん・・・」
そして英一は、背筋をまっすぐに伸ばして立ち、高原の目を見て微笑した。
「どんなことがあっても、我々は貴方がたを信頼していますよ。蒼も、蒼風樹も、そして俺も。」
高原はかすかにうつむき、そして何かをこらえるように、じっと黙っていた。
ずいぶん長い間、そのまま黙っている高原を、英一はまっすぐに見つめていた。
夜更けの空から、冷えた空気が木々を抜けて降りてくる。
ふいに高原が、顔をあげて、英一に言った。
「依頼を受けたわけではありませんが、我々に・・・・蒼勝氏の警護を、させて頂けたらと、思います。」