四 準備
翌水曜日、深夜まで葛城と二人で事務所で事前準備を続け、そして木曜早朝に再び事務所に到着した茂はさすがに仕事場でもあくびを我慢できず、給湯室で冷たい水で顔を洗った。
朝が弱い葛城はもっと眠そうだった。
冷蔵庫から麦茶のピッチャーを出している葛城へ、茂が顔をタオルで拭きながら話しかける。
「葛城さんは、警護の準備に、どんな小さなことも絶対に手を抜かないですよね。・・・当たり前のことなのかもしれませんが、俺はいつも、やっぱりすごいと思ってしまいます。」
葛城は棚からグラスを出しながら、茂のほうを振り返って笑った。
「ははは、でも睡眠不足になって仕事に支障が出たらなんにもならないんですけどね。」
昨夜、葛城は、波多野を通じてクライアントから提供された追加資料を全て携帯端末へ入力し、地図データと合せてひとつの警護資料にまとめた後、現地の地勢、旅館の詳細情報、交通手段と往来者の動き、気象情報、そして公演と出演者および招待者に関する情報を、全て処理していた。葛城の準備のやり方にかなり慣れてきた茂が手伝っても、それは、三日間程度しかない準備日数でこなすには、夜中までかかる作業だった。
「俺、運転代わりましょうか?」
「ありがとうございます、でも茂さんだって睡眠時間は同じわけですから。」
「いつか俺・・メイン警護員をできる日が来たら、やっぱり絶対に、葛城さんみたいに緻密な準備を、やっていきます。」
「それは、頼もしいです。」
「研修で、講師の先生が言ってました。・・・”警護の本番は、学校で言えばテストの本番。警護の質は、本番が始まるまでの準備段階で、全て決まっている。”」
グラスの麦茶を一口飲み、葛城は茂のほうを見て、ふっと顔を笑顔から真面目なものに変えた。
「茂さん・・・なんだか、私に優しくしてくれてます?」
「えっ・・・?」
二人は事務所の車に乗り、葛城の運転で、土曜日の警護予定現場へ向かった。
車窓の外はあまり良い天候ではない。
「本番は晴れるといいですね。」
運転席で前を向いたまま、葛城が言う。
曇り空から落ちてくる雨粒が激しく窓に当たっては次々と後方へ流されていく。
茂は、葛城の横顔をついじっと見てしまう。それはもちろん、初めて会ったときとは違い、葛城の美貌が原因ではない。
ワイパーのスピードを変えながら、葛城は口だけで少しだけ、微笑んだ。
高速を降り、山道を少し走ると、背後に森が迫る木々の間に埋もれるように、その旅館は大きな建物を潜めていた。車寄せに停めた事務所の車から二人が降りると、出てきた旅館の人間は既に事情を知っており、目立たぬように二人を敷地左手奥の能舞台へ案内してくれた。
小降りになってきた雨に二人は傘を畳み、目の前の方形の舞台の前に広がる空間の、それほど広大ではないのに不思議な広がりを感じさせる空気に、しばらくそのまま圧倒されるように立っていた。
舞台の背後の森は、どこまで続くのか、ここからはまったく分からない。そして平面図を見てわかってはいたが、客席へのアプローチはほぼ三百六十度である。
「公演会場での警護というより、大きな都市公園というのが、近いイメージですね。」
「はい・・・。非常に会場面積は限られているのに、閉鎖的なものを期待してはダメそうですね。」
たっぷり二時間余りをかけて、二人は、目と紙とレンズで、警護現場の状況を把握し記録した。
旅館の人間たちは協力的で、当日の照明の位置や、出演者の控室からの動線、舞台を見ることができる客室の位置まで教えてくれたため、それでも予想よりずっと短時間だった。
確認作業を全て終え、丁寧に礼を言って旅館スタッフたちが本業へ戻っていくのを見送り、二人も能舞台に背を向ける。
ふと、葛城が立ち止まり、茂のほうを見た。
「茂さん、一昨日の夜・・・なぜあんなに顔色が悪かったんですか?」
「え?」
葛城はその尋常ならざる美貌の顔で、さらになぜか伊達メガネまで外して、茂の目を凝視した。
茂は思わず一歩下がった。
「理由がありますよね。教えてください。」
「そ、それは・・・・」
十数秒間の沈黙の後、葛城は申し訳なさそうに、微笑した。
「茂さんは・・・嘘をつけない人ですね。波多野部長も、そうですけれど。」
「・・・・・」
「どこまで、聞きました?」
茂は、葛城の、懇願と迷いとが入り混じったような、その目を見て、もはやその追求からは逃れられないと思った。
「多分、全部だと、思います・・・・。」
「話してもらえますか?」
太陽が次第に高くなり、雲の間から細い光が順に連なるように、能舞台の湿った屋根や柱、そして床に届き始めている。
「俺に、先週金曜日、波多野部長が、大森パトロール社ができた経緯について、話してくださったんです。」
「はい。」
「その最後に、俺が、高原さんや葛城さんは、大森社長が前にいた会社からのメンバーですかと、尋ねました。そうではない、とのことでしたが、そのとき、高原さんたちと一緒に大森パトロール社に入られた、朝比奈さんという警護員さんが、殉職されたとうかがいました。」
「はい。」
「それから・・・月曜日、改めて俺から波多野さんにお願いしました。先週、高原さんにどんなことがあったのか、教えてくださいと、お願いしました。」
「・・・・」
「全部、教えてくださいました。船上での警護のこと、そしてその後・・数年経って、今、高原さんと山添さんが至られた結論のことも。」
「そうですか。」
葛城は一度うつむき、それからまた顔を上げ、茂の背後で日の光を浴びる能舞台を改めて眺めた。
「晶生も私も、朝比奈さんとは殆ど一緒に仕事をしたことはありませんでした。大森パトロール社の業務が始まってすぐに、彼は亡くなりましたから。会社が出発したばかりのときに警護員が犠牲になり、衝撃を受けたことは覚えていますが、同時に、それが警護員という仕事なんだと、納得さえしました。」
「・・・・はい」
「しかし今回、高い可能性で判った事実は、警護員という仕事そのものを、危うくするものだと思います。」
「・・・はい。」
「本当にお恥ずかしい話ですが、我々、先輩として行先を示さなければならない立場であるにも関わらず、この問題について整理をつけるには、少しかかるかもしれません。」
「・・・・」
「茂さんは、我々のことを、心配してくださったんですね。一昨日から、ずっと、なんだかおかしいなと思っていました。でも、これは我々の責任で乗り越えるべき話ですから、茂さんが悩むようなことじゃないんですよ。茂さんは茂さんが警護員になった日からのことだけ、考えていてください。」
「葛城さん・・・・。」
茂はこみ上げるような口惜しさを感じた。
どうしてこの先輩警護員は、ここまで、自らを制御することができるのだろう。
どうしてなのか。
「・・・・茂さん?」
「月曜に、三村が言っていたんです。日曜日事務所に奴が電話したとき、明らかに高原さんの反応が異常だったって。そして、波多野さんも同じことをおっしゃっていました。・・・そして、葛城さんも、俺がいつもと違う様子だということに、すぐに気づきました。なのに俺は、いつも俺は、皆に心配してもらうばっかりで、自分は人の気持ちに気づくことさえできない。三村に怒られましたが、奴の言うとおりです。」
「・・・・・」
うつむく茂を、葛城がじっと見ている。
「・・・すみません。」
「いいえ、茂さん。」
そして、葛城は今まで茂が見たどんな笑顔より、温かくそして静かな笑顔で、言った。
「・・・こんなことを言っても信じてはもらえないかもしれませんが、私も晶生も、後輩警護員が・・・茂さんが、元気で嬉しそうにしているのを見るだけで、先輩として何よりしあわせなんですよ。私たちの心配なんかして悲しそうにしている顔を見るのは、何より悲しいことなんですよ。わかってもらえますか?」
「・・・・葛城さん・・・」
「・・・そうですね、茂さんがいつか、先輩と呼ばれるような立場になったとき、わかるのかもしれませんが。心配するのは先輩の仕事です。後輩の仕事は、元気でいてそして先輩を頼ることですよ。それに・・・」
葛城はふいに、いたずらっぽい顔になった。
「それに、先輩として後輩にあまりみっともないところを注目されたくないですからね。そういう意味でも、心配なんて、いらないんですよ。」
「・・・・」
茂は、こんな先輩たちを、これからも全力で心配しようと心に誓った。
葛城は踵を返し、茂の先に立って歩き始めた。
「行きましょう。今日はクライアント宅を訪ねる予定ですが、ここの下見が予定より早く終わりましたから、少し事務所で仮眠もできそうですね。」
街の中心にある高層ビルの事務室に、夕日が大きな窓のブラインド越しに深々と差し込んでいたが、やがてスタッフたちが帰宅しいなくなるのと同時に、夜の闇が広々とした事務室を覆っていく。
しかし、事務所奥の、個人の書斎のような社長室には夕暮れ時から再び明りが灯っていた。
明りが漏れる扉の外で、吉田はしばらく佇んでいた。それは待っているようでもあり、ためらっているようでもあった。
しばらくして、ようやく吉田は社長室の扉をノックした。
「どうぞ、恭子さん。」
よく通るすっきりとした声が、中からすぐに返ってきた。
「失礼します。」
阪元は、今週二度目に会う、自社の最も頼りにする女性エージェントを、デスクの椅子から立ち上がって出迎えた。
部屋の中央にあるテーブル脇の椅子に阪元が座っても、吉田は立ったままだ。
「どうした?」
「一点、お許しを頂きたいことがあり、参りました。」
「なんだか、思いつめた顔だね。」
吉田の表情は一見いつもと変わらないが、この探偵社の社長である阪元には彼女の様子がほかの人間よりも分かるようだった。
部屋には、抑えた音量で、音楽が流れていた。女声の声楽曲だった。
「・・・・。」
「音楽、気になるなら切るよ。」
「いいえ。・・・・ペルゴレージですか。」
「ああ。」
曲は終盤に入っていた。
「実際に、先日社長がおっしゃっておられたとおりになりました。」
「そうだね。その悪いニュースは私も聞いたよ。不遜にして、大胆・・・というより、無謀と言っていいね。愚かな奴だ。」
吉田は一瞬ためらった後、意を決したように言った。
「大森パトロール社に、警告してもいいでしょうか?」
阪元は、あまり驚いてはいなかったがそれでも目を少し丸くして吉田を見返した。
「・・・恭子さん、それはもちろん構わないけれど、多分、やぶ蛇になるよ。」
「わかっています。」
阪元は少しだけ嬉しそうな表情をその深いエメラルドグリーンの両目によぎらせた。
「恭子さんが理詰めでものを言わないのは、珍しいけど楽しい。」
「申し訳ありません。」
「フェアに、やりたいんだね?」
吉田が、少しうつむいた。
部屋に流れる女声声楽曲が、曲の終わりまで来て、再び曲の冒頭へ戻り演奏が始まる。
阪元は、少し斜に吉田の顔を見て、そして今度ははっきりと、微笑した。
「明日香が、よく聴いていた曲だね。ペルゴレージの、Stabat mater dolorosa。」
曲は二人の女声が絡み合うように奏でられていく。
Stabat mater dolorosa
iuxta Crucem lacrimosa,
dum pendebat Filius.
Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.
O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!
Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.
Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?
Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?
吉田はゆっくりと目を閉じ、そして再び目の前の上司のほうを見て、一礼した。
「明日の夕方、実施いたします。許可をくださいまして、ありがとうございました。」
「今回の仕事で、多分一番大切なことは、成功することではなく、納得することだ。お客様もそうであるし、そして、我々もね。」
「・・・・失礼いたします。」
吉田は部屋を出て行った。
あまり大きくはないが明るい日本家屋の客間で、英一が着流し姿で、言葉で地歌を口ずさみながら舞っていた。
床の間を背にして、背の低い痩せた女性がやはり和服姿で正座し、英一を見守っている。英一の兄の許嫁の、三村蒼風樹だった。
舞終わり、英一が扇子を畳において一礼すると、蒼風樹は首をかしげてちょっと困った顔をした。
「英一。家元に見てもらった後、わざわざ私にも見てほしいって、今回なにか仕上がりがそんなに心配なの?」
「とりあえず、コメントをくれよ、美樹。」
英一が蒼風樹を本名で呼ぶ。
「・・・・完璧だけど。」
「本当か?」
「不安と言えば、これでまた貴方のファンが増えて、さらに弟子が増えて、貴方が過労死するんじゃないかってことくらいね。」
「心配してくれてありがとう。」
蒼風樹は、もう一礼して立ち上がろうとする、目の前の長身の美男子・・・三村流宗家の超人気舞踏家を、呼び止めた。
「英一、今度の公演で、大森パトロールさんの警護が入ると聞いたけれど、警護をされるのはお弟子さんなんですって?」
「親父に聞いたのか?」
「家元に聞いた淳也に聞いたの。」
淳也とは、英一の兄である三村蒼淳の本名だ。
「弟子に警護がつくと何か問題あるか?」
「いえ、最初、警護がついたのが蒼勝さん本人かと思っていたから。」
「美樹は、蒼勝と知り合いだっけ?」
「教授たちの噂で聞いたことがあるわ。遅くに始められてあのスピードで師範になられたのは本当にすごいけれど、でも本業のほうではずいぶん評判が悪いそうよ。」
「・・・・」
「まあ、いずれにせよ、あの大森パトロールさんがいらっしゃるなら、なにがあっても安心だわね。私、もちろんもう二度とお邪魔したりはしない。」
蒼風樹は、前に大森パトロール社が英一を警護したとき、彼を襲撃犯からより確実に守ろうと、知り合いのつてで阪元探偵社にその保護を依頼したことがあり、そのときに大森パトロール社の葛城が負傷したことを、ずっと引け目に感じている様子だ。
「あのボケの河合がサブ警護員らしいから、予断を許さない状況ではあるけどね。」
蒼風樹は笑いながら英一をたしなめたが、ふっと、今思い出したように、話題を変えた。
「あのね、英一。」
「?」
「私たち、来年春に、結婚することにした。」
「・・・・・」
「今度の公演が終わったら家元に淳也が話すことになっているんだけど、貴方には一番最初に報告しておきたくて。」
「そうか、おめでとう。」
「婚約期間がずいぶん長かったから、なんだか実感わかないけどね。」
微笑む英一の顔を見ながら、蒼風樹はなぜか複雑な表情をしていた。