三 依頼
河合茂の労働環境は引き続き劣悪であった。彼が平日昼間に勤める会社で、自分が何かを主張できるような有能な社員でないことは百も承知だが、前回の「副業」で負傷ししばらく会社を休んでいる間に係に新たに発生していた懸案事項について、その後突然に係長から分担割が申し渡されたことは、どうにも承服しがたい事態であった。
係会議の後、自席に戻った茂は、やり場のない怒りをとりあえず斜向かいに座っている怒りの原因へと向けた。
「なんで俺が、お前とペア組まなくっちゃいけないんだよ、三村!」
「俺が知るわけないだろう。それに、迷惑なのはこっちのほうだ。」
三村英一は、いやになるほど整った顔に、これ以上ないほど感じの悪い笑顔をよぎらせ、端末の画面から目を離さずにめんどくさそうに答える。
この入社同期の同僚のことを、茂が気に入らないのは、彼が不愉快なほど才色兼備の完璧な人間だからだけではない。どう考えてもこの会社での仕事は片手間であり、別に持っている本業のほうでも十分優秀であるのに、片手間の仕事においても鳥肌が立つほど有能で、そして傲慢不遜に茂のような一般人を顎で使うからである。
この会社以外での仕事を持っているという意味では、茂も同様であるが、さらに茂の労働条件を悪化させているのは、その茂の副業の場にまでこの三村英一が時々姿を見せることだった。
終業時刻になり、茂はその透けるような色の薄い琥珀色の両目をまじまじと開いて、英一のカラスみたいな真っ黒の髪と同じ漆黒の目をじっと睨みつけた。
英一は無視して帰り支度をしている。
「おい、三村。」
「・・・・なんだ?」
「お前、うちの事務所に来る予定があるなら、事前に言えよな。」
茂のほうを見た英一は、嘲るような微笑を浮かべた。
「ん、最近そういえばちょっと行ってなかったな。今日あたり行くかな。」
「今日か?」
「冗談だ。公演が近いから、夜の稽古は毎日休みなしだ。安心しろ、当分行かないよ。」
「・・・・波多野部長も高原さんも、最近お前があまり遊びに来ないから、淋しいって・・・また是非にって・・・おっしゃっていた。」
「・・・・」
「俺は、伝えたからな!」
茂はカバンを持ってさっと立ち上がり、席を離れる。英一が茂を呼び止めた。
「待て、河合。」
「なんだよ。」
「今日これから、俺じゃないが、親父が事務所へ、うかがう予定だ。昨日の日曜日、俺が電話して波多野さんにアポをとった。」
「三村蒼氏が?」
英一の父は、日本舞踊三村流家元の三村蒼である。茂が土日夜間に警護員として働いている大森パトロール社は、かつて英一の父の依頼で、英一の身辺警護をしたことがある。三村蒼氏と大森パトロール社とは、その時以来の縁だ。
「波多野部長とアポ、ということは・・・」
「そう。警護の仕事の依頼だ。」
茂は全身の毛が逆立つような嫌な予感に包まれた。
「ど、どんな内容の・・・」
「それはクライアントのプライバシーだね。」
「う」
三村家当主の依頼ということは、警護対象はおそらく三村流の関係者である。そして、前回三村英一の身辺警護を担当したのは大森パトロール社の誇る敏腕警護員の、葛城怜だ。三村蒼氏はそのときの葛城の働きに感銘を受けたと聞く。
依頼を受けた警護案件を、どの警護員に担当させるかは、基本的に大森パトロール社側の判断だ。しかし、クライアントが前回と同じ警護員をと申し出た場合、特段の不都合がなければ希望に沿うようにするのも通常である。
つまり、また葛城が担当する可能性が高い。
ということは、茂も担当する可能性がきわめて高い。茂はサブ警護員として引き続き葛城とペアを組んでいる。ペアはもちろん絶対ではないし、警護員の育成のためにあえて変えることもある。が、なるべく基本の組み合わせを変えないことが業務上は望ましい。
したがって、三村家界隈での仕事を、また茂がするはめになるであろう、ということなのだ。
カバンを持って立ったまま固まった茂に、英一が少し声の調子を変えて再び話しかけた。
「河合、お前さ、高原さんに最近会ったか?」
「なんでだよ?」
「高原さんの様子がおかしいと思わないか?」
「なんだよいきなり」
「昨日俺が波多野さんのアポをとるために、大森パトロール社に電話したとき、高原さんが電話に出たんだ。」
「日曜日に警護員が事務所にいるのは、別に珍しいことじゃないよ。」
「いかにボケのお前でも、高原さんが警護員としてどのくらいのレベルの人かは、わかっているよな?」
「はあ?・・・当たり前だろう。大森パトロール社が始まったときから仕事をしていて、これまでのおびただしい警護案件は、たったひとつを除いて全戦全勝。同僚からは人間離れしたガーディアンって言われてる。」
「そうだ。葛城さんよりさらに上だ。頭脳も技術も、おそらくお前のとこの会社だけじゃなく、日本中探してもあのクラスの人はめったにいないんじゃないかね。」
「そうだよ。」
「その高原さんが・・・・昨日俺が電話したとき、俺の話を、まったく理解しなかった。」
「え?」
「親父が波多野さんに会いたいこと、そして依頼したい内容の概略・・・これだけのことを、俺が話して、そして、三度も同じ話を聞き返された。」
「・・・・・」
「メモを取っている様子もあったが、明らかに、上の空だった。」
「そんな・・・・」
「周囲が騒がしい様子もなかった。何か気を逸らせる要素がありそうだったわけでもない。」
「・・・・・」
「俺は今まで何度かしかあの人と話していないが、あの人がこういう様子なのが、どのくらい異常なことかくらいは分かる。」
「・・・・・」
茂は背筋から血の気が引くような思いで、急いで最近の高原の様子を思い浮かべていた。最後に会ったのは・・・先週の、何曜日だったか。金曜日に波多野部長に呼び出された、あの日は高原は事務所にはいなかった。いつ、いったい、何があったのか。
「河合、お前も、今日はいつもと少し様子が違っていたから、朝から、この話をお前にしようかどうか迷ったんだが。」
英一は、少しためらった後、言葉をつないだ。
「高原さんも葛城さんも、先輩として、後輩のお前をよく面倒みてくれているんじゃないか?お前も、いつも心配してもらうばかりじゃなく、たまには、先輩のことを心配してあげてもいいんじゃないのかね?」
茂が会社を後にし、同じ最寄駅だが駅の反対側にある、大森パトロール社の事務所に着いたとき、ちょうど応接室では波多野営業部長が来客と面談しているところだった。ときどき波多野の大きな笑い声が聞こえてくる。
応接室の扉は閉まっている。事務員の池田さんによれば、波多野部長と三村蒼氏は、もうかれこれ一時間くらい話しているらしい。
するとようやく応接室の扉が開き、波多野と三村蒼氏とが事務所内を横切ってこちらへ歩いてきた。茂が三村蒼氏へ一礼する。三村蒼氏が嬉しそうに茂のほうを見た。
「やあ、河合さんですな。お久しぶりです!」
ジャケットにスラックスという洋装だと、三村蒼氏は舞の家元にはとても見えず、単なるふつうのおじさんだ。
「今回、また葛城さんと河合さんにご担当していただけたらと、お願いしていたところですよ。ご都合が合えばうれしいですな。うちの真木さんが、また河合さんの愛らしい女装姿が見たいといつも言ってますが、こちらは無理だと言ってあります。」
波多野と三村蒼氏が楽しそうに笑う。茂は理性を総動員して営業スマイルをつくる。
三村蒼氏を見送った後、波多野は振り返り、その似合わないメタルフレームのメガネ越しに、茂の顔を見て言った。
「驚いてないところを見ると、英一さんに聞いたか?」
「はい。今日、ご依頼にみえると・・・」
「聞いてのとおり、葛城とお前をご指名だ。内容的に、問題はないと思うが、明日、改めて話す。葛城も一緒に。」
「はい。」
「・・・・どうした?」
「あの・・・今日は、高原さんは事務所にはみえていないですよね?」
「そうだな。昨日の日曜日に詰めていたし、今日は警護業務が夜から入っているから。」
「だ、大丈夫でしょうか・・・」
「何がだ?」
「今日の、その警護業務です。」
「・・・・お前、よくわかったな。確かに、今日の仕事、別の奴に交代させようかと思ったよ、俺も。」
「そうなんですね。」
「でもあいつもプロだ。大丈夫だよ。」
「はい。・・・・三村が、三村英一ですが・・・あいつが、昨日電話したとき高原さんの様子がおかしかったって言っていたんです。」
「なるほど。」
茂はしばらくためらった後、思い切って言葉を出した。
「あの、波多野さん、お尋ねさせてください。なにが、あったんですか?高原さん。」
「内容を詳しくお前が知っておく必要は、ないよ。」
「・・・・俺、高原さんには、今までさんざんお世話になったし、ご迷惑もかけました。信じられないくらい、ご面倒をかけました。なのに、いつも高原さんは俺にすごく優しくしてくださいます。確かに、高原さんは先輩で、俺は後輩でまだまだ新米でしかありません。でも、同時に、俺も大森パトロール社の同じ社員です。高原さんを心配しても、いいですよね?」
「まあ、それは、そうだが」
「俺、麦茶とってきます」
波多野は苦笑した。
事務員の池田さんが応接室のグラスを片づけテーブルを拭いていると、波多野と、それに続いて麦茶のピッチャーとグラスふたつを持った茂が、入ってきた。
「あらあら、なんだかさっきより、もっと長いお話になりそうですね。私はではこれで、失礼しますね。」
「はい・・・。お疲れ様でした、池田さん。」
翌日、火曜日の夜、大森パトロール社の事務所に着いた葛城は、出迎えた茂の顔を見て開口一番に、こう言った。
「茂さん、・・・今日は帰ったほうがいいんじゃないですか?ものすごく顔色悪いですよ。」
「あ、いえその、大丈夫です・・・俺は。」
「?」
常人離れした美しい両目を不思議そうに少し見開いて、葛城が茂を見る。この、有能かつやはり優しい先輩警護員の様子は、普段と変わりがなかった。
応接室へ二人が入ると、波多野はもうテーブルの上に書類を広げていた。紙の書類の一番上にはにクライアントの概略、そして携帯端末には写真が表示されている。
「今回の警護依頼人は、三村蒼勝氏。日本舞踊三村流の師範だ。ご紹介は三村流家元の三村蒼氏。二人は従兄弟同士だ。」
「・・・こちらが、警護対象ですか?」
「そうだ。」
端末の写真ファイルに映っている、二人の和服の人間のうちひとりを波多野が指差した。痩せた中年男性で、緊張した面持ちでこちらを見ている。
「これが、警護対象の佐藤裕太氏だ。三村蒼勝氏の弟子であり、同時の、蒼勝氏が経営する会社の社員でもある。」
「警護は・・・一日だけなんですね。」
「○○県○○郡・・・これ、旅館ですか。」
「そう、次の土曜日、つまり四日後ということになるが、三村流の恒例の野外公演で、開始から終了までの間だ。」
「時刻は・・・夕方から夜にかけてですね。」
「もう察しがついているとは思うが、脅迫状が送られてきている。そして実際に、一か月前と、二週間前との二回、佐藤氏は不審者の襲撃を受けている。一回目は未遂だったが、二回目は軽傷とはいえ負傷された。」
「凶器は・・・もしかして、これですか。」
茂が紙資料の何枚目かにあった、血糊のついた刃物の写真を指す。
「二回目の襲撃の後で、脅迫状と一緒に佐藤氏の自宅へ郵送されてきたものだそうだ。その下に写しがついている。名取公演の場で必ず殺す、とある。」
「なとり、って、何ですか?」
「茂、お前最初の普通の警護で三村家を担当したのに、そんなことも知らんのか。日本舞踊の弟子が、一人前になって先生と同じ苗字をもらうことだ。」
「三村流の・・・お家元は出られないようですが、蒼陽さん、蒼風樹さん、そして・・蒼英さんつまり英一さんも出られるんですね。」
「宗家の若手が出る、恒例の野外公演だそうだ。舞台は人里離れた山間の温泉旅館にくっついてつくられた、能舞台だ。警護は、ちょっとやっかいかもしれない。」
「そうですね。」
「しかも、これも察しがついているだろうが、ロープロファイル警護とのご指定だ。警護がついていることは、極力、周囲に悟られないようにしなければならない。」
一番下についていた、現地の案内図面を見ながら、旅館の敷地の広さに茂はやや呆然となった。
葛城が、波多野の次の言葉を待っている。
「そうだな、怜。肝心なことを言ってなかった。」
「襲撃犯に心当たりは、ないのですね?クライアントは。」
「ああ。ただし、動機は多少想像できる、と、依頼人の三村蒼勝氏は言っていた。佐藤氏は、蒼勝氏が経営する会社で、佐藤氏から破格の厚遇を受けている。佐藤氏に良くない感情を持つ人間は正直言って多いとのことだ。佐藤氏と出世争いをして蒼勝氏が事実上解雇した人間も何人もいる。それから、三村蒼氏のほうから聞いたが、実際、三村蒼勝氏の経営は有能だがかなりワンマンらしい。」
「犯人が、同じ会社の社員かもと社員、あるいは・・・それに頼まれた人間の可能性があるということですね。」
「名取公演の場を襲撃の舞台にしてきたのは、もともと三村蒼勝氏と佐藤氏の縁が、舞だったことからだろう、とのことだ。」
茂は、初めて葛城とペアを組んだ、あの三村英一の警護案件のことを思い出していた。公演で見た、いくつもの、この世ならぬ夢幻のような舞のことも。そして、三村流のそうそうたる若手舞踏家たちの舞をまた多少なりとも間近にできるのが、少し嬉しい自分に驚いていた。同時に、そうした公演の場を、犯罪の場に指定してくる犯人へ、心の底からの憎悪を感じた。
波多野が茂のほうを見る。
「おい、茂、木曜日に、昼間のほうの会社休めるか?」
「え、あ・・・はい、大丈夫だと思います。」
「現地を、二人で下見してこい。事務所の車を使え。」
「はい。」
「了解しました!」
「仕事なんだから、温泉とかのんびり入ってるんじゃないぞ、茂」
「わかってます!」