二 阪元探偵社
街の中心にある高層ビルに入っている事務所に、土曜の朝から若干の緊張感が漂っていた。
事務室の応接コーナーにふんぞり返るように座っている、長身の無精ひげの男のところに、やはり背の高めの女性がショートカットの茶髪を揺らしながら早足で近づいてきた。
「酒井さん」
「なんや?」
酒井と呼ばれた男性エージェントは、腕組みをして立っている同僚の、健康的な小麦色の肌をした顔を見上げ、ゆるゆるとした関西弁で返事をした。
「空気読んでください、空気。」
「今日は喫煙してへんで。」
「違いますよ。今日は、午前中から社長がお見えになる予定だって、知らないんですか?吉田さんもそのために、今日は早い時間からこちらにいらっしゃってるんですから。」
「ああ、そうやったっけなあ。」
酒井は、ことさらにどうでもよいといった様子で、ゆっくりと立ち上がる。
「めったに来えへんお方やし、たまにお見えになると、だいたいろくなことがない。」
「酒井さん!」
「安心せい、和泉。俺が今まで社長とトラブったことあるか?」
「それは単に社長が寛大だからですよ。」
和泉が酒井を急き立て、自席に追いやった。そのまま、奥のカンファレンスルームへ目をやる。朝から吉田がこもったままだ。会議で使われることがあまりなく、事実上の書庫のようになっている部屋だが、吉田は、なにか考え事をするときは、カンファレンスルームでテーブルに向かって座っているのが常だった。
和泉がそっと覗き込むと、吉田がすぐに振り返った。
「すみません、お邪魔してしまいましたか。」
上司に詫びる和泉に、吉田が静かな微笑みを返す。いつもの地味な白いブラウス、地味なタイトスカート姿のこの上司が、この事務所にいるだけで和泉は何もかもがうまくいく安心感を覚える。同時に、そう思ってしまう自分がいつか少しでも吉田の役に立つ日が来るのかという不安を覚える。
べっ甲色の縁のメガネをかけた、その顔を包むようなセミロングの髪を手で少しよけながら、吉田が椅子の上で体を和泉のほうへ向ける。
「いいえ。ちょうど聞こうと思っていた。」
吉田の手元には、紙の厚い資料と、携帯端末が置かれている。
「はい。」
「今回の案件について、歴代の調査チームの資料、全部あなたのところにも引き継がれたと聞いた。」
「はい。」
「内容は、どのくらい目を通した?」
「紙は全部読みました。電子データはまだです。」
「そう。ならば、わかっているわね。」
「・・・・」
「私が、この案件の、受託を社長に強くお願いした。でも、貴女は、気が進まなければ今回だけは、降りてもいいと私は思っている。」
「え・・・」
「同じことを、酒井が板見にも言うと思うけど、私が貴女にこう言うのは、それとは別の理由。」
「吉田さん、それは、大森パトロール社がらみの案件だから、ですね。」
「そうよ。酒井が言うところの、貴女が呪われているとしか思えないあの会社だからね。一回、パスしてもいいと思う。それに、背景は色々あるとはいえ、今回の仕事の内容自体は、非常に簡単だから。新米のエージェント二人もいれば、できてしまう仕事だもの。」
「吉田さん・・・」
「貴女は、次回以降のもっと技術のいる仕事のために、今回は充電しててもらってもいい。」
「・・・・」
「選択はまかせるけれど。まだ時間はある。どうするか、考えておいて。」
「・・・はい。」
和泉は一礼し、事務室の自席に戻った。
事務所の大きな窓のブラインド越しに、次第に高くなる太陽の光が差し込んでいる。
入口の自動ドアが開く音がして、非常に早足の靴音が事務室へ近づいてきた。
背中合わせに座っている酒井に、和泉が囁く。
「阪元社長ですよ。ちゃんとあいさつしてくださいね。」
「わかってるがな。」
広い事務室へ、この探偵社の社長である阪元航平が、スーツ姿で足早に入ってきた。それぞれの席で社員たちが立ち上がり、挨拶する。
「おはようございます、社長」
「ああ、みんなおはよう。」
阪元は、社長という呼び名から想像するよりは、かなり若い男だ。酒井ほどではないが背が高く、そして酒井とは違い姿勢が良く清潔感ある風体で、口元に涼しげな笑みを浮かべて社員たちの挨拶を受けている。しかし最も特徴があるのは、その金茶色の髪と、明らかに白人系の血が入っている顔立ち、そして深いエメラルドグリーンの両目だ。
「相変わらず、髭剃りのコマーシャルに出てきそうな男やな」
「しっ!聞こえますよ、酒井さん!」
「阪元とかやなくて、マイケルとかジョンソンとかいう名前のほうがぴったりくるやんか。」
「もう・・・!」
和泉があきらめて自分の仕事に戻ると、社長室に入る前に阪元がこちらを振り返り、和泉のほうを向いて言った。
「恭子さんは来ている?ちょっと話がしたい。」
和泉が呼びに行く前に、カンファレンスルームから吉田が出てきて、阪元の後に続いて社長室へと入った。この事務所で吉田を名前で呼ぶのは阪元社長と酒井だけだ。
社長室といっても、簡素な、個人的な書斎のような部屋だ。阪元がいつも座っているのも、部屋の入口側ではなく壁の窓に向かってしつらえられた、すっきりしたデスクに向かう質素な椅子である。
部屋の中央には、それでも一応、小さなテーブルと6つの椅子からなる、打ち合わせスペースがある。
吉田にその椅子のひとつを勧め、阪元は自分もデスクを離れテーブルに向かう椅子に座り、続いて座った吉田のほうを見た。
「今回は、恭子さんの迫力に負けたよ。」
「・・・」
「君は、とてもおもしろい人だ。・・・いや、悪い意味じゃないよ。そして改めて、うちに来てもらって本当によかったと思っている。私の思ってもみないことを、言ってくれるからね。」
吉田はまったく表情を変えずに、阪元の深い緑色の目を見ている。
「うちの会社の、それも通常の調査部門ではなく、本体部分に参加してもらったのは、君が明日香の妹だからじゃない。純粋に、君の力が必要だったからだ。でも同時に私は、君が明日香の妹だからこそ、絶対うちには来てくれないだろうなと思っていた。」
「・・・・」
「でも、君は来てくれた。つまり君がいかに、過去の経緯とか因縁とかにこだわらない人間かということは、よくわかっているつもりだよ。」
吉田がかすかに微笑んだ。
深い緑色の目をわずかに細めて、阪元も微笑んだように見えた。
「恭子さん、もう、私が言いたいことが、わかったよね?」
「ターゲットが、わたくしにとってちょっと嫌な人間なのですね?」
「そうだよ。ターゲットがわかった。そして、どうして私が直接恭子さんにこの話をしているかも、わかるよね。」
「他の者に担当させたいのですね?」
「そうだ。君自身の感想はともかく、やはりなるべく、あの警備会社とは直には関わりを持ってほしくないんだ。なるべく、ね。」
「ターゲットが大森パトロール社に警護を依頼したということですか?」
「いや、そうじゃない。依頼すると思われるのは、ダミー屋本人のほうだ。」
「えっ・・・・」
「大胆かつ、不遜。過去の成功は、ときに人間を致命的に自信過剰にするんだね。そしてそれだけ今回の報酬が巨額なんだろう。今度は十年くらい遊んで暮らすつもりかもね。」
少しうつむき加減で、吉田が苦さの混じった笑い方をした。
「わたくし、ついさっき、和泉に同じようなことを言ったばかりです。理由は、ダミー屋の過去の所業であり、今回のことではありませんが・・・・、しかし基本的に同じようなことを、言いました。」
「なるほど」
「でも今、考えが変わりました。わたくしは今回の仕事を、・・うちの会社がずっと断ってきたこの仕事を・・・受諾するべきだと、強く社長に申し上げました。大森政子が失った最初の警護員に関わるケースである、そのことが、うちの会社がこの仕事をしない理由であるなら・・・・うちの会社はいつまでたっても、大森の呪縛から一歩も自由になれないからです。ですから・・・」
「・・・・・。」
「ですから、和泉にも、もうやめろとは言いません。」
「毒を食らわば・・・・かな。そうだね、中途半端が一番いけないのかもね。すまない。余計なことを、言った。」
「いいえ。」
「仕事の内容自体は、簡単だ。」
「はい。」
「新人エージェントでも、二人もいればできるよ。技術的にはね。」
「はい。」
「でも今回のケースは、その持つ意味が、君に担当してもらう意味が、大きい。だからこそ私は怖気づいてもいるよ。」
「はい。」
「逃げると思われたくはないが、最後にひとつ、言っておきたい。」
「・・・・」
「いつでも、中止してかまわない。お客様には、事情を話してある。」
吉田が何か言おうとしたとき、既に阪元は立ち上がり、自分の机に向かって歩きながら右手を軽く挙げ、用件は終わったと告げていた。
社長が昼前に一旦事務所を後にし、ほっとした様子で和泉が続いて出張に出ていく。
酒井は、和泉がいなくなったのを見計らったように、パントリーに入り、探しものをしていたが、板見に見咎められた。
「酒井さん、あれほど和泉さんに、事務所内禁煙と言われているのに、まさか灰皿とか探してませんよね。」
「お前、いつから和泉の手先になったんや。うー、しかも灰皿全部処分されてもうたな、これは。」
最近吉田のもとで働くようになった板見は、背はあまり高くないが、折り目正しくなおかつ野生動物のような空気を持つ、ごく若い青年だ。宝石のような硬質な輝き方をする、とても大きな目が印象的である。酒井は、見た目どおり真面目な、つまり自分とは正反対の性質のこの後輩エージェントと、もう何度目かの仕事をともにしていた。
「そうや、板見。」
「はい。」
「今回の仕事、恭子さんから概要の資料もうもらったよな。」
「頂きました。」
「俺はとりあえず、お前を止めようかと思とったんやけどな。やっぱり、止めるのはやめた。」
「は?」
「さっき和泉が言うとった。恭子さんの許可が出たから、今回、後方支援やけどきっちり参加するってな。」
「和泉さんと俺とを、外そうと思っておられたんですね?酒井さん。」
「そうや。仕事的にはなんも難しいことあらへんけど、そうは言っても相手がちょっと曲者は曲者やからな。」
「・・・・もう、あの茶室でのようなことは絶対ありませんから、大丈夫です。」
板見は大きな目をもっと見開いて、自分よりずっと背の高い先輩を見上げた。
腕組みをして、酒井が、やや長めの黒髪に縁取られたその精悍な顔に少しの笑みを浮かべ、板見の顔を見下ろす。
「まあ・・・大丈夫かな。恭子さん、お前には補助をひとりつけてくれるそうやし。それに今回は俺も近くにおるからな。けど、とりあえず絶対気を抜くな。」
「心配してくださってるんですね、酒井さん。ありがとうございます。」
「いや、お前がヘマしたら、今回は俺がもろ巻き添えになるからや。」
「・・・・。」