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王子と婚約した聖女は、公爵令嬢に婚約解消を要求される

掲載日:2026/09/29

キーワードに「TS」とありますが、ヒロインの性自認は女です。

1.死霊王ドレッドロード


 魔王城の玉座の間は、墓所の匂いがした。

 黒い霧をまとった骸骨の王――死霊王ドレッドロードが、空洞の眼窩をこちらへ向ける。


「愚かな人間どもよ。我が身は死を超えた。剣も矢も、我には触れ得ぬ」


 勇者ロドリゴ・アルバレスは、身の丈ほどもある大剣を肩に担いで舌打ちした。


「またそれか。斬れねえ相手は、これで三体目だぞ」


 彼が振るった大剣は、確かにドレッドロードの胴を薙いだ。だが刃は霧をすり抜け、床の石畳だけが砕け散った。


「ロドリゴ、下がって!」


 女魔法使いカルメンが杖を掲げ、炎の槍を放つ。霧に穴が開くが、すぐに塞がる。


「魔法も駄目か。イサベラ、聖なる力の出力は上げられないのか!」


 重戦士ディエゴが巨大な盾で瘴気の波を受け止めながら叫んだ。盾を持つ腕が、ぎしぎしと悲鳴を上げている。

 パーティの後方で祈りの詠唱を続けていた聖女イサベラ・モンテロは、額の汗を拭った。


「上げています。でも、私の光は癒しと結界に偏っているんです。あれを消し去るほどの攻撃には、形を与えられない」


 銀の髪が瘴気の風に揺れる。透けるような白い肌に、憂いを含んだ翠の瞳。傾城と謳われる儚げな美貌は、この地獄のような戦場でも損なわれていなかった。

 もっとも、その中身が三十代の元自衛官の男だということを知る者は、この世界にいない。

 前世の頭が、冷静に状況を分析する。


(勝てば、王命の婚約が発効する。だからといって、負ければ全員ここで死ぬ。……選択肢は最初からなかったな。男に抱かれる方が、死ぬよりマシね)


 幸いイサベラは前世の記憶があるだけで、人格的には性自認を含めて女性だ。


(相手は霊体。物理無効、魔法は再生される。ならば必要なのは、質量ではなく純粋なエネルギーの収束)


 ロドリゴの腰で、聖剣が鈍く光っていた。

 豪奢な黄金の柄と、宝石をちりばめた鍔。

 ただし、そこから先がない。刀身のない、柄だけの聖剣である。

 本来は勇者の光の魔力で刀身を生み出す代物だが、ロドリゴは魔力を通すのが致命的に下手で、これまでただの重い飾りだった。

 イサベラは決断した。


「ロドリゴさん、その聖剣、お借りします!」

「は? おい待て、それは俺の――」


 返事を待たなかった。

 彼女は地を蹴り、ドレスの裾をたくし上げて駆けると、勇者の腰から聖剣の柄を引ったくった。


「ちょっ、強引すぎるだろ!」

「あとで謝ります!」


 両手で柄を握り、魔力を流し込む。

 柄の奥で何かが噛み合う感触があった。次の瞬間、白金の光が奔流となって噴き出し、長大な光の刃を形作る。

 玉座の間が、真昼のように照らされた。


「……なんだ、その光は」


 ドレッドロードの声に、初めて動揺が混じる。

 イサベラは光の剣を両手で構えた。前世で銃剣道を嗜んでいた頃の、腰の据わった構えである。儚げな聖女の姿と不釣り合いなほど、それは堂に入っていた。


「悪いが、こっちも仕事なんでな」


 無意識に、前世の口調が漏れた。

 踏み込む。光の刃が霧の王を袈裟に斬り下ろす。

 魔王は再生を試みたが、聖なる光はその魔力ごと焼き払っていった。


「馬鹿な……この我が……光に……」


 断末魔とともに、死霊王ドレッドロードは光の粒子に飲まれて崩れ去った。

 静寂が戻る。光の刃がふっと消え、イサベラの手には黄金の柄だけが残った。

 勇者ロドリゴは、口を半開きにしたまま立ち尽くしている。


「……綺麗だ」


 カルメンが額を押さえた。


「そこじゃないでしょ、馬鹿」


2.功績の行き先


 王都への帰路、馬車の中で、イサベラは頭を抱えていた。


「困りました。非常に困りました」

「何が困るのよ、魔王を倒したのに」


 向かいの席で、カルメンが不思議そうに首を傾げる。隣ではディエゴが巨体を縮めて居眠りをしている。


「魔王が倒れた時点で、出立前の王命が発効しました。私は、第二王子殿下の婚約者です」

「ああ、そういえばそうだったわね。魔王討伐が成功したら、って条件つきの」

「はい。ですからこの先、私はもう王家の囲いの中です。……問題は、その囲いの広さと値段なんです」


 イサベラは、窓の外に流れる街道を見つめた。


「魔王を単独で葬った聖女、となれば、王家は私を妃として飾るだけでは済ませません。国防の切り札として、手元から一歩も出さないでしょう」

「……あー。確かに、あの光の剣を見たら、そうなるわね」

「だから……、魔王を倒したのは勇者様ということにしたいんです」

「はあ?」


 窓の外を眺めていたロドリゴが、ぎょっとして振り向いた。


「待て待て。倒したのは君だろう。俺は何もしていない」

「神託で選ばれた勇者が魔王を討った。物語として、これ以上ない筋書きです。国民も納得します。それに聖剣は勇者のもの。私は借りただけ」


 にっこりと聖女の微笑みを向けると、ロドリゴは言葉に詰まった。惚れた弱みである。


「……君が、そう望むなら」

「ありがとうございます。助かります」


 カルメンが小声で囁いた。


「あんた、彼の気持ちを利用してるわよ」

「利用ではありません。適材適所です」

「言い方ぁ……。でも、婚約は変わらないんでしょ? それで何が変わるの?」

「『魔王を倒した聖女』と『勇者に同行した癒し手』では、王家が私に付ける値段が違います。値段が低ければ、その分だけ、婚約解消の交渉の余地が残るかもしれません」

「……あんた、意外とセコいわね」

「現実的と言ってください」


 勇者の気持ちを利用している自覚はあった。イサベラは少しだけ、胸の内でロドリゴに詫びた。

 こうして功績は、強引に勇者へ譲渡された。

 だが、イサベラは知らなかった。

 王都で待つ第二王子が、その婚約を、誰よりも心待ちにしていることを。


3.満面の笑みの王子


 王都は、歓声の海だった。

 凱旋する勇者一行を、民衆が花びらと喝采で迎える。大通りの両脇には人の壁ができ、王城の尖塔からは祝いの旗が翻っていた。

 城門の前で、一人の青年が待っていた。

 金の巻き毛に、澄んだ青い瞳。整った顔立ちに、絵に描いたような王子様然とした笑顔を浮かべている。第二王子アレハンドロ・デ・カスティーリャである。


「ようこそ、我が国の英雄たち。特に――」


 王子は、馬車から降りたイサベラを見つけると、目を輝かせて歩み寄った。


「お待ちしておりました、聖女イサベラ殿。魔王討伐の成功をもって、貴女は正式に我が婚約者です」


 満面の笑みである。

 イサベラの背筋を、冷たいものが走った。


(――ああ。これ、駄目なやつ)


 前世で三十年、男として生きた。男が女を見る目の種類は、嫌というほど知っている。

 王子の視線は、彼女の顔から首筋、胸元、腰の線へと、丁寧に、しかし確実に下りていった。笑顔の下に、下心が満載されている。


(出立前の王命は、『魔王討伐が成った暁には聖女を第二王子の妃とする』だった。討伐成功の時点で、婚約は自動的に発効している。つまりこの男(ひと)は、『国のため』という大義名分の陰で、自分好みの女を確実に手に入れたと思って悦に入っているわけね……)


 内心では盛大にげんなりしていた。

 だが顔には、慈愛に満ちた聖女スマイルを貼り付ける。


「殿下自ら、お出迎えありがとうございます。身に余る光栄です」


 鈴を転がすような声で答えると、王子の顔がとろけた。


「なんと謙虚な。噂に違わぬお方だ」


 背後で、勇者ロドリゴが低く唸った。


「……おい」


 カルメンがその脇腹を肘で突く。


「やめなさい、ここは往来よ」


 ディエゴが黙って首を横に振った。この重戦士は、常に一番冷静である。


4.舞踏会の支度


 国王への謁見で、勇者ロドリゴは莫大な褒賞と「魔王討伐の英雄」の称号を授かった。ロドリゴは終始居心地悪そうにしていたが、儀礼は淡々と進んだ。

 続く凱旋パレードは、王都を一周するのに三時間を要した。イサベラは馬車の上で手を振り続け、頬の筋肉が引きつるのを感じていた。


(自衛隊の観閲式より疲れるわね、これは)


 夜、王宮では祝賀舞踏会が開かれる。

 イサベラには、専用の控え室が与えられた。大きな姿見のある広い部屋で、侍女が数人がかりで身支度を整えてくれることになっている。


「聖女様、お召し替えを」


 侍女たちが持ってきたのは、淡い翡翠色のドレスだった。豪華だが、身体の線を強調する仕立てである。


(また窮屈そうなデザインね……)


 イサベラは平民出身だ。聖女となった後もずっと法衣で過ごしていて、ドレスには縁が無かった。

 だがたとえダンスをしなくても、法衣で舞踏会というわけにもいかないことは分かっている。

 彼女は諦めて、旅装を脱いだ。

 コルセットの紐を締め直す間、イサベラは天井を見上げて心を無にしていた。これが初めてではないが、他人に着替えの世話をされるのは未だに慣れない。

 だから、侍女がいったん席を外した時、まだ下着姿だったにもかかわらず、イサベラは気を弛めてしまった。

 気を抜いていなければ、強い霊感を持つ彼女は自分に迫る災難を見逃しはしなかっただろう。

 それはちょうど、そんなタイミングだった。

 控え室の扉が、乱暴に開かれた。


5.公爵令嬢の乱入


「失礼しますわ」


 凛とした声とともに、三人の令嬢がなだれ込んでくる。

 先頭に立つのは、亜麻色の髪を高く結い上げた、気位の高そうな少女だった。眉は鋭く、唇は薄い。鮮やかな深紅のドレスをまとっている。

 公爵令嬢ヴァレンティナ・ロハス。曾祖父が先々代の国王、父は王国屈指の野心家として知られる公爵である。

 その後ろに、取り巻きが二人。伯爵令嬢ベアトリスと、伯爵令嬢ルシア。どちらも公爵派閥の伯爵家の娘だ。


「え……」


 イサベラは、咄嗟に両腕で身体を隠した。

 下着姿のまま、扉の前に立つ三人と向き合う形になる。


「あら、まだお支度の途中でしたのね」


 ヴァレンティナは、悪びれもせずに言った。


「ちょうどよろしいわ。二人きり――ではありませんけれど、お話ししたいことがありますの」

「あの、着替えが終わってからでは……」

「いいえ。今すぐ、はっきりさせておきたいのです」


 ヴァレンティナは、つかつかと歩み寄り、イサベラの正面で立ち止まった。背筋を伸ばし、まっすぐに彼女を見据える。


「聖女イサベラ。あなた、第二王子殿下との婚約を、お断りなさい」


 直球だった。


(……ああ、これは、あれか)


 イサベラの頭の中で、前世で読んだネット小説のいくつかが閃いた。婚約者の座を巡って、令嬢が新参者に詰め寄る場面。


(悪役令嬢というやつね。実物は初めて見た)


 妙に冷静になってしまった。


「なぜ、私が、断らなければならないのでしょう」


 あくまで穏やかに問い返す。


「決まっていますわ。王子妃は、由緒ある家の娘が務めるべきものです」


 ヴァレンティナの声は、氷のように硬かった。


「平民の、しかも一介の聖女ごときに、王家の血筋を継ぐ資格などありません」


 すかさず取り巻きの一人、ベアトリスが声を上げる。


「そうですわ! 玉の輿を狙って、勇者様の一行に紛れ込んだのでしょう?」


 もう一人のルシアも続けた。


「卑しい平民が、殿下に色目を使って。恥を知りなさい」


 二人の声は甲高く、遠慮がなかった。

 イサベラは、無言のまま二人を見つめた。

 罵声を浴びながら、彼女は奇妙な感想を抱いていた。


(――いや、待って。私は玉の輿など狙っていないし、婚約も望んでいない。むしろ、こちらが言いたいことを、この子たちが代わりに言ってくれているようなものでは?)


 だが、そんなことは口にできない。

 ヴァレンティナが、さらに詰め寄る。


「あなたが身を引けば、殿下も私も、それぞれの務めを果たせます。それが王国のためです」


 その声には、不思議な硬さがあった。感情よりも義務を語る響きである。

 イサベラは、ふと気付いた。

 この少女は、王子に恋をしているわけではない。目に浮かぶのは、恋の熱ではなく、何かを背負っている者の張り詰めた光だった。


(家のため、か。父親に言い含められた、貴族の娘の務めというやつ?)


 自分より年下の、まだ少女と呼べる年頃の娘が、自分の意志ではなく、親に刷り込まれた「務め」のために動いている。

 それに気付いてしまうと、怒る気にはなれなかった。むしろ、少し気の毒に思えてきた。

 もっとも、下着姿のまま詰め寄られている現状は、あまり気の毒がっていられる状況ではないのだが。


「ヴァレンティナ様」


 イサベラは、穏やかに口を開いた。


「私も、婚約を望んでいるわけでは――」


 その時である。


6.二人の乱入者


「そこまでだ、ヴァレンティナ!」


 扉が、再び乱暴に開け放たれた。

 金の巻き毛を振り乱して飛び込んできたのは、第二王子アレハンドロ。その後ろからは、宮中にもかかわらず大剣を背負ったままの勇者ロドリゴが、ずかずかと入ってくる。


「殿下……!?」


 ヴァレンティナが振り返り、目を見開く。


「聖女殿への無礼、聞かせてもらった。彼女は父上が認めた我が婚約者だ。それを、貴様は身分を盾に貶めようとした」


 王子が声を張り上げる。


「ヴァレンティナ・ロハス。その不敬、断罪に値する!」


 その傍らで、勇者ロドリゴは、令嬢たちには目もくれず、まっすぐイサベラのもとへ歩み寄った。


「イサベラ! 大丈夫か!」


 そして、ようやく気付いた。

 彼女が、下着姿であることに。


「……あ」


 ロドリゴの顔が、瞬時に真っ赤になった。


「す、すまん、俺は、その」


 慌てて目を逸らし――かと思えば、次の瞬間には、なぜか堂々と胸を張って言い放った。


「イサベラ、厄介事に巻き込まれるのはもう十分だろう! この際、王家だの貴族だのは全部避けて、俺の嫁になれ!」

「はい?」


 イサベラの思考が、停止した。


「勇者殿、何を仰る!」


 王子が割り込む。


「聖女殿は私の婚約者だ。横から掻っ攫うような真似は許さん」

「婚約者だと? 王命で決めた話だろう。本人の意思はどうなんだ!」

「そ、それは……国のための婚約だ。彼女もそれを理解している」

「理解と納得は違うだろうが!」


 二人の男が、イサベラの目の前で言い争いを始めた。

 公爵令嬢ヴァレンティナは、断罪を宣告された姿勢のまま、ぽかんと口を開けて固まっている。取り巻きの二人も、状況を飲み込めずに顔を見合わせていた。

 完全に、令嬢たちはそっちのけである。


「聖女殿! 貴女は私の婚約を、まさか解消するなどとは言いませんね!」


 王子が、イサベラの手を取ろうとして詰め寄る。


「婚約解消は認めません。国のためにも、私のためにも!」

「イサベラ、こんな男の言うことなど聞くな。俺と来い。魔獣も貴族も、全部俺が斬り払ってやる」


 ロドリゴも反対側から迫る。

 二人の視線が、下着姿のイサベラの身体を、ちらちらと掠めていく。

 王子は、そのたびに顔を赤らめては、慌てて視線を戻す。

 勇者は、露骨に目を泳がせながら、それでも手を伸ばしてくる。

 イサベラは、硬直していた。

 下着姿。男が二人。至近距離。求婚と婚約の押し付け合い。

 前世で、三十年間、男として生きてきた記憶が、一気に押し寄せた。記憶だけでなく意識まで、前世と今生が入り交じる。


(見るな、近寄るな、触るな――)


 男としての感覚が、「この状況は最悪だ」と全力で叫ぶ。

 女としての感覚が、「今すぐここから消えたい」と悲鳴を上げる。


 二つの感覚が混ざり合い、彼女の内側で、何かが、ぷつりと切れた。


7.閃光


「――いい加減にしてください!!」


 悲鳴だった。

 いつもの澄んだ聖女の声ではなく、裏返り、震え、涙交じりの、叫びだった。


「何が婚約ですか! 何がお嫁さんですか! 私は物じゃありません!」


 イサベラは、両腕で身体を庇いながら、後ずさった。


「殿下も殿下です! 人が着替えている部屋に、ノックもなしに入ってくるなんて! 勇者様も! あなたたち、常識というものはないんですか!」


 王子が、うろたえた。


「ち、違う、聖女殿、私は貴女を救おうと――」

「救う前に、まず出ていってください! それから、見ないでください! こっちを見ないで!」


 ロドリゴが、おろおろと手を挙げる。


「い、いや、俺は見てない、見てないぞ、ちょっとしか――」

「見てるじゃないですか!!」


 涙が、翠の瞳に滲んだ。

 声が震え、身体が震え、そして、その震えが、身の内の魔力を暴発させた。

 彼女は、右手を前に突き出した。


「もう、二人とも――出ていってええぇぇっ!!」


 白光が、爆ぜた。

 聖女の光魔法。それは、二日前に死霊王を焼き払った、あの浄化の力の、余波である。

 しかも今回は、聖女が全魔力を込め、しかも指向性を与えて放った。

 狙いは、王子と勇者。二人の男の顔面へ、真正面から。

 閃光が、控え室を満たす。

 窓のガラスが震え、燭台の炎が一斉に揺れた。

 光が収まった時、床には、二人の男が仰向けに倒れていた。

 第二王子アレハンドロ・デ・カスティーリャ。

 勇者ロドリゴ・アルバレス。

 どちらも、白目を剥き、口を半開きにして、完全に気絶している。

 静寂が、部屋を包んだ。

 イサベラは、荒い息をつきながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 やがて、我に返る。


「あっ」


 王子を、気絶させてしまった。

 それも、王家の人間を、閃光魔法で。


「……やってしまった」


 小さく呟く。

 その視線の先で、公爵令嬢ヴァレンティナと、取り巻きの二人が、彫像のように固まっていた。

 三人とも、口をぽかんと開けたまま、倒れた王子と、涙目の聖女を、交互に見つめている。


「あ、あの……」


 ヴァレンティナが、震える声を絞り出した。


「聖女様は……その……殿下を……」


「……気絶させて、しまいましたね」


 イサベラは、力なく頷いた。

 ベアトリスが、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。


「ど、どうしましょう……不敬罪では……」

「私たちが騒ぎを起こしたせいで……」


 ルシアも、青ざめている。

 ヴァレンティナだけは、辛うじて立っていたが、膝が小刻みに震えていた。

 イサベラは、ため息をついて、彼女たちに向き直った。


「ご心配なく。私が責任を取ります」


 それから、少し迷って、付け加える。


「それと、先ほどのお話ですが。私は、殿下との婚約を、望んでおりません。ですから、ヴァレンティナ様のお気持ちが、もし本当に王子妃を望むものなら、応援はできませんが、邪魔もしません。ただ――」


 彼女は、真っ直ぐにヴァレンティナを見た。


「――『あれ』でいいのですか? ご自身の意志で、選んでくださいね」


 ヴァレンティナの目が、大きく見開かれた。

 誰かに、そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。


8.女教皇と王妃


 騒ぎを聞きつけて、控え室の外には人が集まり始めていた。

 やがて、人垣が二つに割れ、二人の女性が現れた。

 一人は、純白の祭服をまとった老婦人。教会の頂点に立つ女教皇イネス猊下である。

 もう一人は、深い紫のドレスに身を包んだ、気品ある中年の女性。王妃マルガリータ陛下。第二王子の母である。

 二人は、部屋の中の光景を、無言で見渡した。

 床に転がる、気絶した王子と勇者。

 下着姿の上から、慌ててガウンを羽織った聖女。

 凍りついた公爵令嬢と、腰を抜かした取り巻き二人。

 沈黙が、数秒続いた。


「……状況は、大体分かりました」


 最初に口を開いたのは、王妃だった。

 声は静かだが、その底には、抑え込まれた怒りが煮えていた。


「聖女イサベラ。まず、あなたに謝罪を。愚息と、勇者殿が、たいへん失礼なことを」

「い、いえ、王妃陛下……」

「謝らなくてよいのです。あなたは、被害者ですから」


 王妃は、倒れた息子を、氷のような目で見下ろした。


「アレハンドロ。目を覚ましたら、話があります」


 続いて、女教皇イネスが、穏やかな、しかし有無を言わせない声で言った。


「聖女は、教会の宝でもあります。それを、下着姿の控え室に押し入り、脅かすなど、神への冒涜に等しい行いです」


 彼女は、ゆっくりと目を閉じ、それから開いた。


「王家と教会は、この件について、共同で裁定を下します。異論はございませんね、王妃陛下」

「ええ、異論などありません」


 二人の女性は、互いに頷き合った。

 こうして、裁定は、その夜のうちに下された。

 第二王子アレハンドロは、聖女への無礼、および王命を盾にした婚約の強要により、三か月の蟄居を命じられた。その間、婚約の件は白紙に戻され、聖女の意思を尊重した上で改めて協議されることとなった。

 公爵令嬢ヴァレンティナは、聖女の控え室への無断侵入、および暴言により、同じく蟄居。加えて、彼女の父である公爵にも、娘に野心を吹き込んだ件で、厳重な訓戒が下された。

 勇者ロドリゴは、聖女への無礼な言動と、乱入の罪により、無償での魔獣退治を命じられた。期間は、半年。場所は、王国の辺境に残る魔獣の巣窟。


「……半年か」


 目を覚まして、その裁定を聞かされたロドリゴは、遠い目をした。


「魔王を倒した英雄が、魔獣退治とは……」

「そもそも、魔王を倒したのは、あなたではありませんけどね」


 カルメンが、冷ややかに指摘した。


「ぐっ」


 ディエゴが、無言で、勇者の肩をぽんと叩いた。

 彼の顔には、珍しく、微かな笑みが浮かんでいた。


9.その後


 舞踏会は、予定通り、開かれた。

 ただし、主役の一人である第二王子と、勇者は欠席。聖女だけが、静かに、淡い翡翠色のドレスをまとって、会場の隅に佇んでいた。

 遠くの窓辺に、ヴァレンティナの姿はなかった。蟄居の身では、出席できるはずもない。

 イサベラは、グラスを傾けながら、ぼんやりと思った。


(あの子は、結局、何を望んでいたんだろう)


 王子妃の座か。それとも、父親に認められることか。あるいは、まだ、自分でも分からないのか。

 いつか、彼女が、自分の意志で、何かを選べるようになればいい。

 そんなことを考えていると、隣に、カルメンが並んだ。


「お疲れさま」

「ええ、本当に」

「でも、すっきりしたでしょ、あの閃光」


 カルメンは、いたずらっぽく笑った。


「ほんの少しだけ」


 イサベラも、よく似た微笑みで答えた。

 その後ろで、重戦士ディエゴが、黙って、二人分のグラスを差し出した。


「ありがとう、ディエゴ」

「……ああ」


 ディエゴとカルメンは、自然に、肩を寄せ合って立った。

 この二人はパーティの中で、誰よりも早く、誰よりも静かに、互いを選んでいた。


(羨ましい、とは、少し違うわね)


 イサベラは、二人を見ながら、そう思った。

 前世の記憶を持つ自分には、まだ、結婚というものがどうにも遠い。

 男だった前世を忘れられない、女として生きる今生の自分。

 その間に、答えが見つかるのは、いつのことだろう。

 だが、少なくとも、今夜は、誰にも、選択を押し付けられずに済んだ。

 それだけで、十分だった。

 窓の外では、王都の夜空に、祝いの花火が、次々と打ち上がっていた。

 イサベラは、ふっと微笑んで、グラスを掲げた。


「魔王討伐と、私の平穏な明日に」


 小さく呟いた乾杯の言葉は、花火の音に紛れて、誰にも届かなかった。

 ただ、傍らの重戦士と魔法使いだけが、静かに、グラスを合わせてくれた。

今回はコメディに挑戦してみました。

魔法有りのナーロッパものです。


連載中の『婚約破棄された伯爵令嬢が、ゲームしか取り柄のない平民の俺に「助けてください」と言ってきた――ただ足が速いだけなんですが、なぜかヒーロー扱いされています――』(https://ncode.syosetu.com/n1318mu/)もよろしくお願いします。

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