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仮面の醜女は謎が好き ~後宮に売られた元令嬢の薬師録~  作者: 楠木 悠衣


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第1話 仮面と死体と、うるさい蚊

「また刺された」


左手首の赤い点を眺めながら、私は小さくため息をついた。


後宮の夏は、蚊が多い。蓮池が近いせいだ。夜中じゅうあのしつこい羽音が続き、どれだけ艾葉がいようの煙を焚いても、翌朝には必ずこうして新しい赤い点が増えている。


刺された箇所をぼんやり見つめながら、私は洗濯物の籠を担ぎ直した。今日も仕事だ。後宮の雑役女として生きる私の一日は、夜明け前から始まる。洗濯、掃除、薪割り、水汲み。考えることといえば、今日の飯は何かということと、今夜は蚊帳の隙間をちゃんと閉められるかどうかということくらいだ。


それで十分だと、私は本気でそう思っている。


叔父上・朱明遠はよく言っていた。「玲花、知識は刃だ。使い方を間違えれば、自分を傷つける」と。


 私はその言葉を聞いて、ふうんと思った。そして半年後、その知識を使って自分の顔をただれさせた。叔父上の言う通り、知識で自分を傷つけた。ただし計画的に、意図的に。


 叔父上が外つ国から持ち帰った特殊化粧の術——本来は劇団が舞台で用いる、傷や火傷を本物そっくりに見せるための技だ。蜜蝋とにかわと顔料を組み合わせ、皮膚の質感を模倣する。そこに薬学で学んだ炎症に似た発赤の再現を組み合わせれば、素人目には本物の火傷にしか見えない顔が完成する。


 令嬢には美しさが必要だった。使い道のない令嬢は、叔父の家へ追い出された。叔父の家へ来てからは自由だったけれど、薬を届けた帰り道、近道をしたのが失敗だった。

「玲花、急いで」


廊下の向こうから春鈴が、ひそひそと声をかけてくる。彼女の顔は蒼白だった。


碧珠妃へきじゅひ様の花庭に……死体が出たって」


あ、またか。


心の中だけでそうつぶやいた。


後宮というのは不思議なところだ。外から見れば、皇帝の妃たちが優雅に暮らす桃源郷のように見えるだろう。しかし実際には、限られた寵愛と地位をめぐって、水面下でさまざまなことが起きている。毒を盛られる人間もいれば、突然消える人間もいる。私が来てから半年で、これで三度目の変死だった。


「見に行ってはだめよ、玲花」


春鈴は心配そうに私の袖を引いた。彼女はやさしい人だ。本心から私の身を案じてくれている。でも。


「洗濯物の取り込みを頼まれているの。碧珠妃様の花庭の近くに干してあるから」


これは嘘ではない。干し場は本当に花庭の近くにある。ちょっとだけ寄り道するかもしれないけど、それとこれとは別の話だ。


花庭というのは名前の通り、碧珠妃が花を育てている小さな庭だ。白い牡丹と紫の菊が並び、中央に小さな蓮池がある。今年の蓮はまだ蕾で、満開になるのはもう少し先の話だ。


人垣の隙間から見えたのは、水に濡れた緋色の衣と、動かなくなった若い女の人だった。


侍女だ。歳は私と変わらないか、少し上くらい。仰向けに横たわり、目を閉じている。周囲には白い蓮の花びらが、美しく散らばっていた。


「溺死かしら」


誰かがそう言った。蓮池は浅い。深いところでも腰くらいまでしかない。溺れるには不自然な深さだ。けれど、水に落ちて頭を打てば——という話もある。


私は洗濯物を抱えたまま、少しだけ前に進んだ。視線をすっと走らせる。


——蓮の花びら。


白くて、綺麗に揃っていた。まるで誰かがわざわざ飾ったみたいに。


でも今年の蓮はまだ蕾だ。つまりあの花びらは、花庭から散ったものではない。


どこから来たのか。誰が散らしたのか。


「そこ、民女は近づかぬように」


声に振り向くと、黒い官服を着た男が立っていた。


二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。引き締まった体格に、整った顔立ち。ただし、表情がまるでない。彫刻に目と鼻と口をつけたような、感情の読めない顔だった。


「後廷察士の蒼暁天だ。この一帯は立ち入り禁止とする」


後廷察士。後宮で起きた変死や不審な事件を調べる役職だ。皇帝に直接報告する権限を持つという。私はひとつ頷いて、踵を返した。用事は済んだ、そういう顔をして。


でも頭の中は、忙しく動いていた。


蓮池の水深は腰くらい。溺れるには浅い。ならば気絶させられたか。遺体の体勢は仰向けで、手は体の横に揃えられていた。本当に溺れたなら、もがいた痕がつくはず——衣が乱れているか、爪に何かが残っているか。遠くて確認できなかったけれど。


そして白い蓮の花びら。あれは誰かが「見せるため」に散らした。美しく死んだように見せるために。


つまりこれは——


「ずいぶん落ち着いているな」


声をかけられて、私は立ち止まった。振り向くと、さっきの察士——蒼暁天がいた。いつの間についてきたのだろう。足音がまったく聞こえなかった。


「民女でありながら、死体を見ても取り乱さなかった」


彼は静かにそう言った。感情のない声だったが、何かを探るような目で私を見ていた。正確には、私の仮面を——仮面の奥を。


「……醜い顔に免疫がついてからは、怖いものが減りました」


私は仮面に手を触れながら答えた。作り話だけど、あながち嘘でもない。


「仮面の下が怖いのか」


「ええ。これがなければ、誰もそばに来てくれませんから」


沈黙があった。察士は何も言わなかった。ただじっと、私の仮面を見ていた。


「名は」


「朱玲花と申します」


「玲花……」


彼は短くその名を繰り返した。何か考えているような間があって、それから静かに言った。


「また用がある。どこにいる」


「雑役女の棟に」


「わかった」


それだけ言って、彼は踵を返した。長い黒髪が翻る。私はその背中を見送りながら、こっそりため息をついた。


目立ちたくない。本当に、目立ちたくない。


でもどうしても気になってしまう。あの蓮の花びらは誰が散らしたのか。あの侍女は誰に殺されたのか。そして何のために。


叔父上は昔そう言っていた。「お前は謎を見ると放っておけない性分だ」と。


まったくその通りだと、私は思う。


困ったことに。


「……あと蚊にも、もう刺されたくない」


誰も聞いていないのに小声でそうつぶやいて、私は洗濯物を抱えて歩き続けた。仮面の下で、頭は既に動き始めていた。


今日も後宮は、静かに、複雑に、回っていく。

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