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結婚式の真っ最中、雪山に飛ばされた新婦です

作者: 季エス
掲載日:2026/03/01


 幸せとは、意図も容易く呆気なく砕け散るものである。

 その事をオルベルは嫌という程痛感していた。

 雪山で。

 今現在も白いものがぼとぼとと身に降りかかっている。粉雪等と言う可愛いものではなく、完全に牡丹雪である。積もるのが分かる。いや既に積もっているのだ。オルベルの足元は雪に覆われている。其処をハイヒールで歩いているものだから、濡れそぼって大変な事になっていた。冷たい、寒い、痛い、不快。服装も信じられない程の軽装で、なんと、ドレスである。しかも、雪に負けぬ程白いウェディングドレスだった。

 オルベルはつい先程まで、結婚式の真っ只中だったのだ。

 それが今や、雪山で遭難中である。人生何があるか分からないとは言うものの、幾らなんでも此処までではないだろうと、あらゆるものに文句を吐き捨てたい気持ちで一杯だった。

 当てもなく前進しながら、何故こうなったのかを考える。

 教会から雪山に一瞬で移動したのである。しかも、式の最中に。目の前には夫となる人物がいて、式場には大勢の親族。いや、親族だけではない。友人、知人もいた。

 

「クソが」

 

 小さく吐き捨てる。この上なく着飾った身で、美しく整えた髪に雪を乗せ、真っ赤に塗った唇から白い息と共に。何故今歩いているのかは、分からない。だが、誰の仕業かは分かっている。

 リリスティア・ヴァルグラン・シアナガル・ティアサルウドの仕業である。

 名を思い浮かべるのも忌々しい程の相手であり、女だった。オルベルと同じ女であり、オルベルの夫となる男に懸想していた女である。所謂恋敵であった。しかも、貴族の女だった。オルベルは平民である。特段貧しい家でもなかったが、極普通の食堂の娘であった。其処へある日、運命とも呼べる男が現れた。

 エルヴェル・リアグネス・アヴァル・ナレイアル・エンドール・ユヴァドである。

 最初聞いた時、オルベルは早口言葉かと思ったものである。幾ら何でも長い。だが、覚えたのだ。記憶力は悪くなかった。客の注文を覚えて伝える仕事をしていたからである。その上、結婚するとなれば、この長い苗字、恐らく苗字、何処から何処までが苗字なのかイマイチ把握していないが、己のものにもなる、かも知れないのである。暗記して当然であった。

 エルヴェルは王子である。しかも第一王子だった。普通に考えれば次の国王である。よって更に普通に考えれば、食堂の娘であるオルベルと出会うはずもなかった。だが二人は出会った。単純にエルヴェルが放蕩王子だったからである。庶民の暮らしに憧れを見出すタイプの、為政者に不向きな人間だった。自然に平民の顔をして、隠しきれぬ王子様オーラを振りまきながら食堂に現れたのである。それも何度も。まるで逢瀬を重ねるかの如く、食堂で一番人気のメニュー、月喰狼の香草シチューを頼み続けたのだ。こんな美味いシチューは、王城でも食べれない、等と言って。隠す気ゼロであった。しかしオルベルはそれを冗談だと思っていたのだ。それはそうである。王子が平然と下町の食堂に現れるとは思わない。面に見合ったジョークだな、と、思っていたのだ。エルヴェルは、王子様フェイスの持ち主だった。金髪碧眼、長身痩躯、身形も羽振りもいいわけである。そしていつしか、常連になったのだった。街は平和だった。

 ある日エルヴェルは問うた。

 

「このシチューはどうやって作っているのだ?」

「先ず、月喰狼を狩ります」

 

 隠す事でもないのでオルベルは答えた。何せ料理名が、月喰狼の香草シチューである。

 

「月喰狼とは何処にいるのだ?」

「マデリオセ草原です」

 

 さらりとオルベルは答え、王子は瞠目した。何せマデリオセ草原と言えば、沼も湖もある広大な草原なのだ。しかも、魔物だらけである。冒険者の絶好の狩場であった。王都から多少距離があるとはいえ、危険極まりない場所である。王子であるエルヴェルにとっては、無縁の場所であった。

 

「成程、冒険者に依頼をしているのだな」

「いえ、私が狩っています」

「えっ」

 

 見開いた目を更に大きくしたものだから、そろそろ眼球が落ちそうだな、と、オルベルは思った。だがそれ程に、王子は驚いたのだ。何故なら、相手は魔物である。しかも狼である。食堂の娘が相手をするような生き物では絶対にない。

 

「成程、其方は冒険者でもあるのだな」

「いえ、食堂の娘です」

「意味が分からない」

 

 本当に意味が分からなかったので、更にエルヴェルは問うた。問い続けた。その結果分かった事は、月喰狼は満月の夜にしか現れないレア魔獣であり、勿論凶悪な生き物であり、オルベルは弓の名手であり、何ならシチューに添えられている香草も、草原の奥の方にしか自生していないものであり、複数の高ランク冒険者パーティーからスカウトされているという事だった。

 

「意味が分からない」

 

 エルヴェルはもう一度同じことを言ったのだった。

 ただそれはそうとして、シチューは美味なわけである。その内、このシチューはこのオルベルなる娘が命懸けで作っているのだな、と、解釈するようになり、更に有難がって食すようになった。

 その結果、

 

「オルベル、私の為にこのシチューを生涯作ってはくれないだろうか」

 

 こうなったわけである。

 事実上の王子様からの求婚であった。

 オルベルは信じられない程腕っぷしが強い食堂の娘であったが、年頃の夢見る少女である事も事実だった。流石にこの時には王子である事も信じていた。命を懸けて吐くような嘘ではない。不敬にも程がある。

 だが無論事はそう簡単ではなかった。

 何故ならエルヴェルは王子である。定められた相手がいたのだ。所謂婚約者である。それが、リリスティアだった。高位貴族の娘である。縦ロールだ。

 嘗てより定められていた婚約者である貴族の娘を捨て、平民の娘と結婚。

 許されるわけがない。

 普通に考えればそうである。

 だが、先程までオルベルは、結婚式の真っ最中だったのだ。

 つまり、許されたのだった。

 人生何があるか分からないものである。

 式まで挙げたとなれば、流石の元婚約者も諦めるだろう。そうオルベルは思っていた。だが、現実はこうである。諦めるどころか、最後の最後に花嫁を雪山に吹っ飛ばすという滅茶苦茶な事を仕出かしたのだ。全く意味が分からない。お陰でこのザマだ。

 はあはあと、荒い息を吐き出しながらオルベルは歩いている。何方に向かっているのかも分からず。このままでは、凍死確定である。全く意味が分からない。何故この山はずっと雪が降っているのか。そう、ずっと、降っているのだ。止むことはない。此処が何処であるか、オルベルは知っていた。王都の傍にある山である。万年雪が降り積もっている、謎の山。季節問わず、永遠にこれなのだ。神の呪いだとも言われていて、基本的に立ち入ることすら許されていない。だから、誰も助けに来ない。

 

「クソが」

 

 もう一度、吐き捨てた。音は雪に吸い込まれる。

 生き物の気配すらない。

 尤もこの状況で魔物でも出てきたら、本当に詰みである。今オルベルは無手なのだ。

 当てもなく歩き続けていたが、疲労には勝てない。とうとう、足を止めた。このままここで意識を飛ばせば、二度と目覚めないだろう。分かる。分かるのだが、頭が重いのだ。荒い息を吐きながら、近くにあった木に手を置いた。下ばかり見ていたせいで気付かなかった。枯れ木ばかりの雪山で、その木が一本だけ、花を付けていたことに。オルベルが幹に触れた瞬間、はらりと、赤い花弁が落ちた。

 そうして、オルベルは、光に包まれたのだ。

 それはまさに、式場から雪山へと移動した際と同じ現象であった。

 オルベルは一瞬にして、別の場所へと、自分の意志とは無関係に移動したのである。

 ただ、至極残念な事に、移動した先も寒い事に変わりはなかったのだった。

 相変わらずオルベルは雪の中に立っている。呆然と。ただ違うのは、目の前に、家が現れた事である。幻覚だろうか。寒すぎて、頭がおかしくなっているのだろうか。この山は、立ち入ってはいけない筈である。其処に、家がある意味。オルベルは考えようとして、だが、考えている場合ではないと思い至った。

 

「どなたか! どなたかいらっしゃいませんか!」

 

 出来得る限り声を上げ、ドンドンと扉を叩いたのだ。木製の扉だった。呼び鈴は見当たらない。だから、拳を叩きつけるしかなかったのだ。これで応えがなかったら、もう開けるしかない。だってそうしないと、死ぬ。既に死はそこまで迫ってきていた。オルベルは限界だったのだ。

 果たして、願いは届いたのだった。

 微かな音すら立てずに、扉が静かに開いたのだ。

 

「はい、おります」

 

 女性の声だった。見れば扉の隙間から、少女の姿が見える。恐らく警戒しているのだろう。家の中から、オルベルを窺っていた。

 

「ああ、よかった! 助けて今にも死にそうなの!」

 

 尤も思い遣る余裕はなかった。オルベルは必死に縋ったのだ。此処で閉められたら無理矢理にでも抉じ開けるつもりですらいた。その気迫に負けたのか、少女はオルベルを迎え入れたのだった。

 バタン、と、扉が閉まる。

 その音を背に、漸くオルベルは安堵の息を吐いた。まだ死ぬには早そうである。室内は暖かかった。大きな暖炉が見える。まるで外とは別世界だ。

 

「ありがとう」

「奇麗ですね」

 

 礼を言ったのに返って来た言葉は何処かちぐはぐで、オルベルはきょとんとした。だが実際、今日のオルベルは美しかった。婚礼衣装のままである。まさかその衣装のまま雪山に放り出されるとは思わなかったが。家の奥に案内されながら、オルベルは言った。

 

「実は今日、結婚式だったの」

「雪山で?」

「そう、雪山で。いや、そんなわけないでしょ」

「でも此処、雪山ですよ」

「そうなの。そうなんだけど、こう、色々あって」

 

 落ち着いたら、苛立ちが戻って来た。

 席に着きながら、オルベルは息を吐いた。部屋には年季が入った丸いテーブルと、大きな椅子が二つ。こんな所に少女が一人で暮らしているとは考えにくい。恐らく、親のものだろう。父親だろうか。母親だろうか。だが、初対面で聞く事ではない。それよりも、自分の話を聞いて欲しかった。

 鬱憤が溜まっていたのだ。

 

「今日、結婚式だったの」

「さっきも聞きました」

「一日に何度も言いたい台詞だから聞き流して」

「はい、結婚式だったんですね」

「そう、結婚式だったの。でもね、夫となる人には婚約者がいて」

「二股ですか」

「そう、いえ、違うのよ。もうね、解消したのよ。けど、相手の女は納得してなくて」

「ちゃんと清算してから結婚した方がいいですよ」

「そうよね。その通りだわ。拳で決着付けておけばよかった」

「武闘家の方ですか?」

「食堂の娘よ」

「では相手が武闘家の方ですか」

「貴族の娘よ」

「拳以外の解決方法を見出した方がいいと思うんですけど」

「でも私、学がないし、魔法は使えないし、もう、拳か弓しかないじゃない」

「弓の方がいいと思います」

「そうね、戻ったら一矢報いないと気が収まらないわ」

「上手い事言った感じですか」

「うん、違うわ」

 

 ぽつぽつと喋りながら、やっとオルベルは今後の事を考え出した。そう、先ずは戻らなければいけない。そうして、リリスティアに報復する。一矢報いる。弓矢の使い手だから、と、言うわけではなく。

 確かに、婚約者を奪ったのは悪かった。

 でも、求婚してきたのはエルヴェルの方なのだ。まさか、婚約者がいるのに結婚を申し込んでくるとは思わない。そう、先ずは清算すべきだったのだ。いや、した筈である。そうでなければ、結婚式など夢のまた夢だ。でも、リリスティアは納得していなかった。リリスティアだけが。

 はあ、と、オルベルは息を吐いた。頭が痛い。どのように諦めさせればいいのか。やはり、戦うしかないのではないか。でも、魔法を使われたら勝てる気がしない。オルベルは、食堂の娘なのだ。魔獣は倒すが。

 

「私、オルベルと言うの。あなたは?」

「名前はありません」

「なんて?」

「名前はありません」

 

 自己紹介をしたら、理解出来ない言葉が返ってきて、オルベルは眉根を寄せた。生まれて初めて名がない人間に遭遇したのだ。それは驚きもすると言うものだった。

 

「えっ、不便じゃない?」

「いえ、不便ではありません。私が人間を見たのは、オルベルさんが二人目なので」

「えっ」

 

 言いながらオルベルは、椅子を見た。今は二つとも使われているが、きっとその一人とは、椅子の主に違いないのだ。つまり、家族。でも、名がないとはどう言う事だろうか。人の事情に立ち入るべきではない。しかも初対面だ。そう思いながらオルベルは、好奇心を抑えきれなかった。

 

「あなたは、此処で生まれたの?」

「そうですね」

「ご家族は何処に?」

「分かりません」

「えっと、帰ってくるのよね?」

「分かりません」

「えっ、どう言う事? 二人で住んでいるのではないの?」

「前はそうだったのですが、もう、何年も帰ってきていません」

「えっ」

 

 絶句した。つまりこの少女は、一人でこの雪山に暮らしているという事である。自分より年下の少女が。そう、オルベルよりも若く見えた。十五歳程だろうか。尚、オルベルは十九歳である。

 ふと雪景色を思い出し、オルベルは居た堪れなくなった。

 この寒くて静かな世界で、一人きり。それはどんなに寂しい事だろうか。

 

「あのね、私、食堂の娘なの」

「はい、お聞きしました」

「厨房に立つことは余りないけど、料理は人より出来るのよ」

「すごいですね」

「だから、あなたに料理を作って振舞いたいんだけど」

 

 この環境である。きっと、碌な物など食べていないに違いない。

 その思いから、オルベルは申し出たのだ。勿論、御礼の気持ちもあった。何故木に触れたらこの場所に飛んだのかは分からないが、お陰で死なずに済んだのだ。命の恩人である。それに、オルベル自身空腹を感じていた。今まで雪山を彷徨っていたのだ。落ち着いたら、生きる気力が湧いてきたのである。

 

「いえ、食材がありませんので」

「なんて?」

 

 だが返って来たのは、予想だにしない言葉だったのである。

 

「食材がない」

「はい、食材がありません」

「一寸待って、あなた、何を食べて生きているの?」

「水を飲んでいます」

「なんて?」

 

 冗談を言っている空気ではなかった。何より少女は真顔である。普通の事を言っていますという体である。何処が? 理解出来ずにオルベルは顔を顰めた。人間、水だけで生きられる筈がないと知っているからである。食事をしなければ、死ぬのだ。

 何とも言えない表情から、疑っているのが分かったのだろう。少女が席を立った。程なくして、戻って来る。コップを片手に、戻って来たのだった。

 

「水です」

「水ね」

 

 コップを手渡され、オルベルは確認した。どう見ても水である。透明な液体。だが、と、試しに飲んでみた。室内が暖かいから許せるものの、外だったら耐えられなかっただろう。水は、冷えていた。冷たさが、喉を伝って体内に落ちてゆく。

 

「なにこれ」

 

 思わずオルベルは呟いた。

 

「水です」

 

 少女が繰り返す。

 

「水だけど、水じゃないでしょ」

「水です」

 

 頑なに少女は水だという。確かに、どう見ても水なのだ。だが、飲んだオルベルだからこそ分かる。

 これは、水ではない。

 いや、正確には只の水ではない。

 まるで憑りつかれたかのように、オルベルはコップの水を飲み干した。

 水は甘かった。ほんのりと、甘い。しつこい甘さではなく、すっと、身体に染み渡るような甘さで以て、そして、空腹が消えた。いや、それだけではない。感じていた疲労や、身体の不調が悉く消え去ったのだ。

 これは、水ではない。

 いや、もし水であったとしたら、世に広めていいものではない。

 オルベルは危惧した。

 もしこの水が広まったら、食堂が潰れる。

 何故なら空腹が消えてしまうのだ。しかもこの少女が言う事が事実であれば、水だけで生きていける、と、言う事になってしまう。ゾッとした。

 

「ねえ、あなた」

 

 幾分早口で話しかけた。

 

「此処から一緒に出ない?」

「えっ」

 

 それは深く考えた末の言葉ではなかった。何故か咄嗟に、この水を広めない為には、この少女を此処から引き剥がすのが一番だと思ったのだ。オルベルはこのような水の存在を知らない。つまり、此処にしかないのではないか。もしかすると、誰も立ち入ってはいけない、と、言う理由の一つがこの水なのではないか。そんな風に思ったのである。

 

「だって、ずっと此処にいるんでしょう」

「確かに私は、此処から出たことはありませんか」

「えっ、一度も?」

「はい、一度も」

「生まれてから?」

「はい」

「えっ、この部屋でずっと一人で水飲んで生きてるって事?」

「いえ、元々は二人だったので」

「今は?」

「一人でこの部屋で水飲んで生きてます」

 

 何かおかしいですかと言わんばかりの口調だったが、異常でしかなかった。少なくとも、オルベルにとってはそうである。こんな静かな部屋で、一人で、水を飲んで暮らす。一体何が楽しいと言うのか。

 オルベルなら気が狂うかもしれない。

 

「私ね、今日結婚式だったの」

「はい、結婚式だったんですね」

「これも何かの縁よ。参列して頂戴」

「でももう、終わってません?」

「花嫁が不在なのよ? 終わらせないわ」

 

 そして、憎いあの貴族の娘に一泡吹かせるのだ。その為には絶対に戻らないといけないのである。

 

「雪山を下りるわ。だからあの、悪いんだけど、防寒出来る物を貸してくれない?」

 

 そう、本日のオルベルときたら、ウェディングドレスである。足元はハイヒールだ。雪の中を行くにも、山を歩くにも全く適していなかったのだった。

 

「歩いていくんですか?」

「魔法使えないもの」

 

 オルベルは只の食堂の娘である。魔法は使えない。魔獣を狩ることは出来るが。

 ふと少女が黙り込んだ。何やら考えているようである。防寒具の在処でも思い出しているのだろうか。いや、そもそもないのかもしれない。何故なら部屋から出たことがないらしいので。その場合どうしたものか。流石にこの軽装で外に出るのは自殺行為だ。オルベルも黙り込んだ。

 

「あの、何とかできるかもしれません」

「えっ、防寒具作れるの?」

「えっ?」

「えっ?」

 

 二人は同じ言葉を吐いて、見詰め合った。どうにも、噛み合っていない事を察した。

 

「魔法陣があるんです」

「魔法陣。聞いた事があるわ」

「紙に描いたものがあって、其処に乗って、行先を念じれば転移出来ます」

「私、魔法使えないのに?」

「私、魔法使えます」

「使ってくれるの?」

「結婚式に参列させて下さるんでしょう?」

 

 平然と少女が言う。オルベルは目を丸くし、そして、少女を抱き締めた。

 

「最前列で、私とエルヴェルのキスを見届けて頂戴!」

 

 どうにも雪山に再突入することなく、王都へと戻る事が叶いそうであった。

 早く早くと、急かしては悪いだろうと、口には出さず内心で唱えながら、オルベルは少女の行動を見ていた。何処からか持ち出した、古ぼけて色褪せた紙を広げる。赤いインクで、全く理解出来ない図が描いてあった。恐らく、これが魔法陣とやらだろう。人が二人立って乗るのがやっと、そう言う大きさだった。まず、少女が乗った。

 

「さあ、オルベルさん」

「ねえ、手を繋いでくれる?」

 

 つい今し方まで、早く早くと急かしていたのに、急に目の前にきたら怖くなった。転移とか、ハッキリ言って意味が分からない。でも今日だけでオルベルは、二度も転移しているのだ。全部人の力によって。そして、三度目もそうだ。オルベルは魔法が使えないのだから。せめて変な目に遭ったとして、一人でなければまだマシ。そのつもりで、頼んだのだった。

 

「いいですよ。私、他人と手を繋ぐの初めてです」

「まあ、そうなの」

「はい、不思議ですね」

「私にとっては魔法の方がずっと不思議だけど。ねえ、これ、どうやって式場に戻るの?」

「オルベルさんが想像するんですよ。私は知らないので」

「私が想像するだけで、転移するの?」

「はい、私は力を貸すだけです。オルベルさんの想像力が欠如していたら、失敗します」

「急に怖い事言うの止めてくれない?」

「自信がなければ、場所ではなく、人を思い浮かべて下さい」

「人」

「人です」

 

 言われて浮かんだのは、当然ながらエルヴェルだった。

 夫となる男である。

 そして、ある意味全ての元凶だった。エルヴェルがきちんとしていたなら、オルベルはこんな目に遭っていないのだ。でも、オルベルはエルヴェルを恨んでいなかった。結婚すると決めた相手である。多少の過ちや間違いは許そう。許す。許せるかな。許さないとな。いや、許す必要ある? 気持ちが揺らいだ時だった。

 光が、床から放たれたのだ。

 いや、正しくは、紙が光ったのである。古ぼけ、色褪せた紙が神々しく光ったのだった。思わずオルベルは見惚れ、

 

「オルベル!」

 

 ハッと、意識が戻ったのは名を呼ばれた時だった。

 

「……エルヴェル」

 

 ぼんやりと呟く。あの、最後に見た時のまま、正装姿だった。

 

「エルヴェル!」

 

 戻って来た。戻れた。その安堵から、オルベルの目に涙が浮かんだ。強がっていたが、やはり、不安だったのだ。恐ろしくもあった。急に寒い雪の中に飛ばされ、本当は怖かった。でも今、こうして戻ってこれたのだ。場所は、教会だった。飛ばされた時と同じ、式の最中から時間が止まっているみたいだった。

 愛しい伴侶へと向かい、駆け寄る。

 

「どうして生きているの!」

 

 その時だった。

 参列者の席から、聞き捨てならぬ台詞が飛んできたのだ。

 咄嗟にオルベルは足を止め、そして、其方を睨みつけたのだった。

 

「やはりあなただったのね、リリスティア!」

 

 結婚式は急遽女同士の戦いに早変わりしていた。リリスティアと呼ばれた、元第一王子の婚約者である高位貴族の娘は、まるで花嫁に対抗するかの如く真っ白いドレスであった。今すぐにでも式を挙げられますと言わんばかりである。誰か止めるべきである。

 

「幾ら何でも殺そうとするなんて酷いわよ!」

「死んでないじゃない!」

「殺そうとするのが酷いって言ってんの!」

「大体何でこんな短時間で生きて戻ってきてんのよ! セントアンダ雪山に飛ばしたのよ!」

 

 滅茶苦茶自白である。耳にした周囲の人間がギョッとした。普通に犯罪である。しかし同時に恐れもした。特定の人間を、行った事も無いであろう場所に転移させる。天才の所業である。そしてその行った事も無いであろう雪山から生きて戻って来る。端的に言って、化け物である。

 ドレスを身に纏った怖い女が二人もいる、ある意味異空間である。

 

「あの、キスはいつしますか」

 

 そこで更に空気を読まない女の登場である。

 オルベルを保護し、此処まで連れてきた少女である。しれっと、最前列に座っていた。

 

「えっ、誰?」

「名前は無いのですが怪しい者ではありません」

 

 残念ながら怪しさしかなかった。今現在、少女を全面的に信じているのは、オルベルだけである。

 

「彼女は私の命の恩人よ。雪山で保護してくれて、此処まで連れて来てくれたの」

「えっ、雪山に住んでるって事?」

「そうですね」

「犯罪者じゃないの」

「えっ」

「だって、セントアンダ雪山って、立ち入り禁止じゃないの。犯罪よ」

「その立ち入り禁止の山に人を飛ばして殺そうとした人に言われましても」

「なんですって!?」

 

 全くの事実であるが、言われリリスティアはいきり立った。人間図星を突かれると痛いものである。怒った女性は怖い。それも、凄腕の魔法使いともなれば尚である。しかもこの貴族の娘、殺意の有無は別として、平民を傷つけることに躊躇がないのだ。

 リリスティアは少女を睨みつけ、鋭い視線を飛ばした。

 だが、飛ばしたのはそれだけではなかった。空中に、尖った氷の塊が現れたのだ。殺傷能力があり過ぎる物質である。当たったが最後、死ぬ。しかも一つだけではなかった。複数の氷の塊が浮いている。尖端が向いている先は、勿論少女である。結婚式が、殺戮現場に早変わり。

 止めなさい、落ち着きなさい、そう、周囲から声が飛ぶ。だが、近付こうにもリリスティアの周りは氷が浮いている。近付けない。何時尖端が自分の方を向くのか分からないのだ。すると少女は立ち上がり、人のいない方へと歩き出した。参列者の中にいては、他にも犠牲者が出る。それを案じての事だった。尤も結果として向かった先は、新郎新婦の近くであるが。何故なら、一番人が少ないのは其処である。

 

「ちょ、えっ」

 

 オルベルとエルヴェルが慌てるも、誰もが無視した。矛先が自分でなければ、一先ず安心である。誰だって我が身が可愛いのだ。

 

「謝るなら今よ」

「ごめんなさい」

 

 少女は素直に謝った。謝罪を受け、リリスティアが笑みを浮かべた。

 

「許さないわ!」

 

 誤り損である。

 これだから貴族の娘は嫌なのよ、と、オルベルは内心で悪態を突いた。そうして、少女の元へと向かったのだ。命の恩人である。庇わなければいけないと思ったのだ。同時に複数の魔法が飛んだ。無傷とはいかないかも知れないが、他の魔法を当てる事で相殺する考えである。オルベルは魔法が使えないが、伴侶であるエルヴェルは違う。仮にも王子である。それなりの腕前だった。だがそれよりもっと上がいた。

 

「なんですって」

 

 呆然と、リリスティアが呟いた。

 自らが発した魔法が全て、消え去ったのだ。

 それも、当たって消えたのだった。見えない壁に当たって、消失。目の前で起きた信じられない現象を前に、誰もが呆けた。変わらなかったのは、少女だけである。

 

「オルベルさん、私魔法使いなんです」

 

 何処か自慢げに言った。

 成程、確かに魔法使いである。天才であるリリスティアの魔法を、意図も容易く消し去る、そんな腕前の魔法使いである。世界って広いな。オルベルは現実逃避気味に思ったのだった。

 兎に角、無事なら、まあ、それでいいか。

 無傷の少女を前に、オルベルは安堵の息を吐いた。命の恩人が目の前で死ぬのは流石に嫌である。

 気遣わし気に少女を見るオルベルに、此方も少女を守ろうとした新郎が近付き、そっと背を撫でた。ただし、目は、元婚約者へと向いていた。

 

「リリスティア、何故こんな事を?」

 

 声は小さく、だが、ハッキリと誰の耳にも届いた。言い逃れを許さない、強い響きがあった。真っ直ぐに問われ、貴族の娘が唇を噛んだ。

 

「殿下」

 

 オルベルに向かっていた時とは違い、静かに発した。強い眼差しを返しながら。

 

「わたくし、何か間違っておりましょうか」

「少なくとも、人を殺すのは違う。これ以上、私の妻を傷つけないでくれ」

「ですが殿下、その者が王太子妃となるのは間違っておりましょう!」

 

 まるで、血でも吐くのではないかと言う程の訴えであった。

 リリスティアには絶対の自信があった。己が間違っていないという自信である。オルベルは、平民である。しかもしがない食堂の娘だ。本来であれば、側室にすらなれない立場である。王子と結婚など許されるはずがない。王太子妃となるのは己だ。その為に生きてきた。その為に、あらゆる努力をしてきたのだ。今更捨てられるわけもない。例えエルヴェルが己を捨てても、リリスティアはこの地位を、その先を捨てられない。他の生き方を知らないのだ。

 教会は静まり返っている。

 その静寂を破ったのは、やはり、本日の新郎新婦だった。

 

「いや、私は王にはならないが」

「私は王太子妃にはなりませんが」

「えっ」

「えっ」

「えっ」

 

 再び、沈黙が場を支配した。

 エルヴェルとオルベルは顔を顰め、リリスティアは呆けている。何を言われたのか分からない。そう言う顔だった。

 

「いや、其方には前も言ったはずだが」

「御冗談ではなかったのですか」

「何故そのような詰まらない冗談を言わねばならんのだ」

「だって、王太子を辞めるなんて、そんな馬鹿げた事……」

「馬鹿げておらん。オルベルと一緒になるためだ」

「いや、馬鹿げてます」

「現にこうして式を挙げているではないか」

「つまり、殿下は平民になられるという事ですか」

「そうだな」

「全く理解出来ません」

「だろうな」

「頭大丈夫ですか」

「まだ位は返上しておらぬのでな、不敬罪が適用されるぞ」

「だったらそのまま王太子としてわたくしと添い遂げて下されば良いではありませんか!」

「平気で人を殺そうとする娘はちょっと……」

「そりゃそうだわ」

 

 オルベルの呟きは、恐らく聞いた大多数の同意であった。

 何せこの高位貴族の娘、他人を傷つける事に躊躇いが無いのである。ある意味為政者向きであった。

 

「でしたら何故、平民に落ちるというのにこのように立派な式を挙げているのですか!」

 

 新郎新婦に何を言っても無駄だと悟ったのか、矛先はその親へと向いた。突然、息子の元婚約者に強い視線を送られ、国王夫妻は動揺した。尤も其処は国のトップである。表に出す事無く、静かに見返したのである。

 

「それは、例え平民になろうとも、その門出を祝うのは悪い事ではあるまい」

「もう少し質素にするとかありますよね!?」

「質素ではないか。国外の来賓もおらぬ」

「王家主導で行ってる時点でおかしくありません!?」

「息子だし」

 

 最終的にそこである。喧嘩別れしたわけでもなければ、罰でもなく、望んで平民になると言っている息子の門出である。祝って当然であった。しかもこの国王夫妻、既に胃袋を掴まれていた。無論最初から諸手を上げて賛成していたわけではないのだ。だが、月喰狼の香草シチューは、国王夫妻の考えを変えるに十分な美味さであった。ただそれだけ。美味いは正義だった。

 

「でしたら、この国の未来はどうなるのですか!?」

「私がおります」

 

 国王との会話に口を挟む者が出てきた。本来であれば、不敬である。だが、そうはならなかった。

 

「殿下……」

 

 その者もまた、王族だったからである。

 

「兄上が退いた以上、私が跡を継ぎます。それではいけませんか、リリスティア嬢」

「殿下……」

 

 凛々しく、真っ直ぐな物言いだった。それでも、リリスティアは困惑したのだ。何故なら彼女の目には、第二王子など今の今まで映っていなかったからである。寧ろその存在自体、軽視していた。何故なら第一王子の婚約者だったのだ。その下など、気にもかけていなかったのだ。

 

「そして、あなたさえよければ、私と婚約を」

「殿下……」

 

 リリスティアは困惑していた。嬉しさよりも先ず、困っていたのだ。伸ばされた手を、取ることが出来ない。理由は簡単だった。好意の有無ではない。

 単純に、王子の手が自分より小さいのだ。

 何なら背も低いし、もしかしたら声だって、リリスティアの方が低いかもしれなかった。

 今までリリスティアが気にもかけてこなかった理由。それは単に、十二歳も年下だからである。リリスティアは二十二歳。第二王子は、十歳だった。子供である。結婚以前に子供である。

 

「そのような事を言って、殿下もわたくしをお捨てになるんでしょう」

 

 取り敢えず遠回しに断った。流石にリリスティアだって、誰でもいいわけではないのだ。エルヴェルは年も近いし、その上第一王子だから良かった。幾ら次の王とは言え、子供はちょっと、範囲外である。人間を傷つける事は厭わない癖に、そう言う倫理観は持ち合わせていたのだった。

 

「いいえ、リリスティア嬢、今此処で誓っても構いません。生涯、あなただけを愛すると。物心ついた頃より、あなたの事をずっと見ておりました」

 

 物心ついた頃はヤベェだろ。素直な感想だった。何せ、十二歳差である。当時三歳だったとして、十五歳に懸想したとなれば、恐怖すら覚えた。寧ろ気の迷いと言って欲しい所である。リリスティアは今苦悩していた。断るのも不味いが、了承するのはもっと不味い気がする。もし男女反対だとしたらどうだろうか。二十二歳の男性が、十歳の女児に手を出す。アウト。ドアウトである。犯罪待ったなし。このままでは自分が雪山に行く羽目になる。何か、話が有耶無耶になる出来事は起きないだろうか。いっそもう一度魔法を平民の女どもに打ち込んでやろうか。

 まさかそのような願いが届いたわけでもないだろうに、突然、建物が大きく揺れた。

 教会のステンドグラスに罅が入る。咄嗟にエルヴェルは、オルベルを庇った。リリスティアは、未だ自分は何もしていないと焦り、謎の少女はある一点を見ていた。そう、その視線の先で変化が起きた。

 何やら空中に黒い渦が生まれたのだ。

 まるで悪しきものが誕生する、その瞬間を目の当たりにしているようだった。

 それ程に禍々しく、そして、段々と大きくなった。あらゆるものを呑み込まんとするかのように。だが実際には呑み込んだのではなく、吐き出したのだった。その黒い渦の真ん中から、人が現れたのだ。そして、宙に浮いたまま、教会の中を見下ろした。

 

「何やら、防御魔法の発動を感知したが」

「先生!」

 

 独り言ともとれる呟きを聞き、少女が呼んだ。どうやら、知り合いらしい。魔法使いの知り合いって、やっぱり普通じゃないんだな、と、エルヴェルの腕の中でオルベルは思ったのだ。

 

「娘よ。何事か」

「結婚式です」

「えー!!」

 

 突然の大声に、聞いた人間が目を丸くした。それまで威厳たっぷりに話していたのに、急に声を張り上げたのだ。しかも、あたふたしながら、地に足を付けたのだった。そのまま、少女の肩を両手で掴んだのである。

 

「誰と? いつの間に? ちょっ、呼んでよ! 聞いてないんだけど!?」

「だって先生ずっと帰って来ないし」

「いや、流石に娘の結婚式には帰りますけど!?」

「私の結婚式じゃなくて、オルベルさんの結婚式です」

「えっ、誰?」

「あっ、私です」

 

 名を呼ばれたものだから、あんまり関わりたくないな、と、思いながらオルベルは答えた。ギロ、と、謎の男の視線が向く。随分と背が高い男だった。全身真っ黒の服を着て、真っ黒の髪に真っ黒の目をした男だった。

 

「お前の結婚式ではないのだね?」

「はい、違います」

「先に言いなさい!」

「先生が勝手に早とちりしました」

「そうだけど!」

 

 あっさり認めた。

 一体何だろうこの二人は。

 そろそろ誰かが口を挟まないと、どうにもずっと自分たちの世界を形成し続ける気がする。それは流石にまずい。大体今日の主役は新郎新婦なのだ。ポッと出の怪しい二人組ではないのである。

 

「あの、実は私、お嬢様に助けて頂いて……」

 

 おずおずと、オルベルが告げた。何だかちょっとヤバそうな人なので、先に言うべき事は言っておいた方がいい気がしたのだ。

 

「え! 人助け! お前が!」

「そうです」

「親がいなくても子は育つって本当なんだ……」

「普通の親は子を何年も放置しないと思いますが……」

 

 何年も一人で暮らしていた、と、直に少女から聞いたオルベルが小声で言ったものの、奇麗に無視された。そもそも、子に名もつけぬ親などいない。

 

「それであの、何方様でしょうか」

 

 どうにも誰も聞きそうにないので、代表してオルベルは尋ねた。恐らく誰もが聞きたがっている筈で、だが、何となく口を挟み辛かったのだ。

 すると男は今度は無視しなかった。

 それどころか、得意げな顔をすると、又しても宙に浮いたのである。ごう、と、風が吹いた。室内なのに、吹き抜けたのだ。浮いた男の背後に、またしても黒い渦が現れた。まるで、黒い太陽を背負っているようにも見えた。

 

「我こそは、暗黒の魔術師、万象解読者にして不老不死の体現者、バラドナ・リュラオス・エダルオ・リオタルド・レイアル・フィアセラールである」

 

 バッ、と、音がして、鳥もいなければ翼もないのに、黒い羽根が舞った。

 呑まれたように場は静まり返り、そして全員が口を閉ざし、思った。

 誰?

 これである。

 残念ながらこの場にいる誰の頭にも存在しない人物だったのである。

 流石に空気が可笑しい事に本人も気付いたのか、顔を顰め、見下ろし言った。

 

「御存じない?」

 

 正直に頷く。

 

「えっ、誰も? 嘘? 伝説だよ?」

 

 恐らく伝説と言うのは、自称する物ではないのだ。

 

「騙された! 私の事未来永劫語り継ぐって言ったのに!」

 

 声を荒げたその瞬間、突風が吹き荒れた。教会の中を風が囂々と音を立て、あらゆるものを吹き飛ばさんと駆け抜けた。パリン、パリン、と、甲高い音がする。ガラスが割れているのだ。何とも恐ろしい。このままでは、人が飛ぶのも時間の問題だ。既に長椅子は動いている。

 止めなければ!

 

「誰が! 誰が言ったんですか!」

 

 風に負けんばかりの大声を出したのは、オルベルだった。声の大きさには自信があった。賑わっている食堂で、声を張らねばならぬからだ。すると、風が止んだ。す、と、何事もなかったかのように静まり返った。尤も室内は滅茶苦茶である。

 男が口を開いた。

 

「この国の王が」

 

 その瞬間一斉に視線が向いた。今この場に、いるからである。この国の王が。

 

「父上」

「父上」

「陛下」

 

 寧ろ視線だけでなく声も飛んだ。だが、見られ呼ばれた王は、思い切り首を横に振ったのだ。

 

「知らぬ! 身に覚えがない!」

 

 完全に疚しい事がある時の否定の仕方であるが、事実であった。本当に王は関与していなかったのだ。

 

「そう、その男ではない。嘗ての王だ。見よ、此処に書いてある」

 

 今一番胸を撫で下ろしているのは、王だろう。だから、王以外の全員が見たのだ。男が用意した紙である。但し小さすぎて、全員は見えなかった。精々内容を確認できたのは、近くにいる三人。新郎新婦と、娘と呼ばれた少女だけである。

 端的に書いてある内容を要約すると、王国の一部であった山を、魔術師に譲渡する事。この契約は、血を以て結ばれ、王家が続く限り有効である。そう言う内容であった。別に、未来永劫魔術師の恐ろしさを語り継ぐ、と、言った事は書いていなかった。

 

「あの、この山、と、言うのは、セントアンダ雪山ですか」

 

 尋ねたのは、王子であるエルヴェルだった。男は頷いた。

 

「今はそのような名で呼ばれているのか。そう、あの山だ。元々は雪山ではなかった。私がそうした。誰も入って来られないように、万年雪で覆われているように魔法をかけたのだ」

「その、とても言い難いのですが、この王家、滅んでます」

「えっ」

 

 王子の一言に、男は呆けて目を丸くし、そして、自らが持つ紙を見たのだ。尤も見たところで、何が変わるわけでもなく、また、そのような嘘を王子が付く理由もなかった。

 

「えっ、滅んだ?」

「はい」

「えっ、いつ?」

「三百年ほど前です」

「そんなに!?」

「先生、三百年も気付かないのはまずくないですか」

「生まれて十五年の赤ちゃんは黙りなさい」

 

 最低でも三百年以上生きているらしい人間からすれば、十五年など赤子である。ただ、男の方も成熟しているとは言い難かった。それ程長い間生きているとは思えぬ程、気落ちしているのが分かるのだ。何せ、契約は無効である。王家が続く限り、と、書いてある以上、もう終わっているのだ。

 

「出ていくか、この国を滅ぼさないと駄目か……」

 

 そうして、落ち込んだままとんでもないことを呟いたのだった。

 聞こえてしまった全員がギョッとした。そのような理由で消されては堪ったものではない。一同は咄嗟にリリスティアを見た。魔法で対抗できそうなのは、この天才だけだと思ったのだ。だが見られたリリスティアは、大きく首を横に振ったのだった。結論、無理。リリスティアが駄目なら、もう方法は一つしかない。

 

「そのまま住んで頂いて構いませんどうぞそのまま山は保有していてください!」

 

 山を譲る以外にはないのだ。

 

「えっ、いいの?」

 

 国王の一言に、魔術師は目を丸くした。いいも何も、他に方法はないのだ。滅ぼされるか、山を手放すか。どう考えても山を手放す一択である。そもそも、年がら年中雪が降り続く、未開の地である。今現在既に立ち入り禁止なのだ。つまり、何も変わりはないのである。

 

「よかったですね、先生」

「うむ。話が通じる王で助かった」

「前は通じない王様だったんですか」

「うむ。指を切り落として、その血で署名して貰ったのだ」

 

 国王の表情が死んだ。危ない。指を無くす所だったかもしれない。リリスティアと言い、この魔術師と言い、基本魔法使いは人の心がない、と、思っているが、国王も魔法使いである。

 

「では娘よ、そろそろ帰るとするか」

「でも先生は帰らないじゃないですか」

「何じゃ、帰りたくはないのか」

「此処へ来たら、賑やかなのっていいなって思いまして」

「そうか。では、暫く居座るがよい。お主ら、構わぬかな?」

「えっ」

 

 この状況で、誰がノーと言えるだろうか。言った瞬間、国が亡びる可能性があるのだ。誰が預かるか、誰に押し付けるかは別として、全員が震える声でイエスを告げた。どうか自分の所には来ませんようにと祈りながら。

 

「あの、オルベルさん」

「な、なぁに?」

 

 まさかお世話になりますと言うのではあるまいか。お世話になりますと言え。様々な心の声が飛び交う中、少女は言った。

 

「誓いのキスは未だですか」

「えっ」

 

 今オルベルは、過去の自分を呪っていた。「最前列で、私とエルヴェルのキスを見届けて頂戴!」そう言ったのだ。確かに言ったのだ。間違いなく言ったのだ。だってあの時は本心だったのだ。心の底から感謝していたし、まさかこのような展開になるなど思いもしない。この状況で誓いのキス? 正気か?

 だが、これまた否を唱える状況ではなかった。

 オルベルは深く息を吐いた。周囲が静まり返っている。嫌という程視線を感じる。痛いくらいに。ええい、女は度胸だ。オルベルは眼光を鋭くした。まるで、月喰狼をその目に捉えた時のように。オルベルは食堂の娘である。だが、王子からの求婚に応えるくらいには、肝が据わった女だった。因みに腕っぷしも王子より強い。何より料理が美味い。普通の女より、何もかもが備わっていた。誓いというより、最早これは覚悟である。そう示すかのよう、自らベールを捲ると、エルヴェルの胸倉を乱暴に掴み引き寄せ、それこそ少女の目の前で、お熱いのを一発ぶちかましてやったのだった。

 


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