やかん
「私は今から生を消極的に肯定する」
「それって否定するのと余り変わらないのでは?」
「まぁ、そうかもしれない……。でも私のそれには蜜が、指にからみつくように甘い蜜が滴り落ちているはずだ」
「はぁ……そうですか」
「私はそのことを確信している。やかんが甲高い音を立てて沸騰している間だけは」
「今火、止めちゃいましたけど……」
「では宣言を撤回しよう。私はその事に疑義を抱いている」
「えっと……君のその言説の拠り所は、やかんが沸騰しているかどうか、なんだよね? 」
「そう。それが何か問題でも? 」
「いや、聞いた事ないけどね。やかんが沸騰している間だけ生を消極的に肯定し、そうでなければそれを撤回するなんて」
「うんうん。そうでしょう? 今私もそっくりそのまま同じことを思っている。何故彼はそう信じているのか。さっぱり分からないよ」
「じゃあ何で? 」
「う〜ん。忘れちゃった」
「はっ? ついさっきのことなのに? 」
「そういうこともあるよ。過去の私は他者よりも遠い。何なら君の方が近いよ」
「えっ? はっ? えっ? 」
「思い出してみてよ。やかんから甲高い音が響いている間だけ生を消極的に肯定できる理由を」
「いや、分かるわけないよ。私は君じゃないんだから」
「そうか、そうだよね……」
「そうだよ」
「……やかん、ね」
「やかんがどうしたのさ」
「いや、ちょっと思い出してきた。輪郭がぼやけるんだよね。その音を聞いていると。境界が薄れていって、ぼや〜って掠れていくんだ。あっという間に物が溶け出していくんだ。色が抜け落ち、物の被膜が剥がれ落ちる。形は崩れ、床がぱっくりと口を開け始める。天井と床は混じり合っていく。水に溶けた絵の具みたいにさ。じわ〜って広がっていって、そしていつの間にか消えてしまっているんだ。私はその痕跡を、いつもその痕跡の事を勝手にしっぽと呼んでいるんだけど、それはさておき、そのしっぽを捕まえてみようとする。けれど、いつもするりするりとかわされてしまう。私は物悲しい気持ちになってその様子をじっと眺めているんだ。そのうちに甲高い音が私を呼び出す。私は重い腰を上げて戻っていくのさ。そして火を止める。スイッチオフ。これで終わりってね。やかんは重しなんだ。深く潜るための。でもそれと同時に合図でもあるんだ」
「……合図? 」
「やかんには質感があり、重みがあるよね? その口が始動すると世界が真っ二つに割れるんだ。そしてそこに歪みが姿を現す。我々はそこにやかんを見出す。そのつるつるとした表面に。そのぽっかりと空いた空間の隅に。生の重みはやかんの重みときっかり等価だ。やかんは象徴的なシンボルなんだ。それは我々に重みとその広がりを与えてくれる」
「……」
「目的地へずんずんと足を進めている時と、目的地もなしにふらふらとさまよい歩いている時の差分。やかんとはその差分そのものだ。やかんは目的や理由、進むべき方向、そして時間を必要としない。やかんに必要なのは火だけ。チラチラと揺れ動き、消えていく青白い火。それだけだ。それが私をどこか別の場所へ運んでいく。そして重い足を引きずり長い旅路の果てにようやくたどり着いた地が他ならぬこの場所であるということを知らしめる。我々はどこかへ行くためにこの場所へ留まり、この場所に留まるためにどこかへと向かう。逆説的な仕方でもって。やかんは、ひいてはやかんの音はその発露なんだ」




