「自分の人生は既に決まっている。」という話。
大切な人との関係の終わりが決定的となった日の夜、
僕は日付が変わっても寝付けずにいた。
きっかけは僕の不用意な発言だった。
理知的な彼女は、怒りを抑えて僕の真意を聞いてくれたのに、
焦った僕はそれにうまく答えられずに誤魔化してしまった。
呆れた彼女と僕との距離はどんどんと離れていき、
ついにその日、二人の関係は終わりを迎えた。
後悔ばかりだ。何気ない日常の日々に突如として楔が打ち込まれ、「この日を境に僕たちは・・・」と嫌でも思い出してしまう。
あれから1週間、
あれから2週間、
負の記念日とでも言おうか。
「もしもあの日に戻れるなら。」という、これまで冷笑していたラブソングの歌詞も、今なら痛いほど感じてしまう。
もしもあの日に戻れるなら。
いや、SFでよくある「記憶が残った状態でタイムリープ」とは違うんだ。
あの日に戻ったとしても、僕は同じ失態を犯し、同じ結末になるだろう。
もっと前に戻っても、
たとえ、生まれた日にまで遡ったとしても、
僕は全く同じ人生を歩み、また彼女と出会い、またこの日を迎えてしまう。
映画「ゴッドファーザー」を何度見直しても、内容に変化がないように。
同じ人生を何度繰り返しても、同じ結末になるのだ。
そこまで考えていて、はたと気づいた。
これは過去だけでなく、未来に対しても同じことが言えるはずだ。
10年前の過去に戻ったとしても、10年後のこの日を迎えることが確定しているのならば、
今日この日から始めて、20年後、30年後、40年後のとある未来を迎えることは確定している。
映画「ゴットファーザー」の開始10分の時点で、既に2時間55分のストーリーが決まっているように、
僕の人生は既に結末まで決まっている。
哲学やスピリチュアルの分野で、「決定論」「運命論」と呼ばれるものだ。
今、身に染みて理解した。
近い考え方として「ラプラスの悪魔」というものがある。
例えば、時速60キロで走り続けると、60キロ先の目的地には1時間後に到着する、という未来が分かるだろう。
それを発展させて、この世界のすべての原理、原則、法則を分かっているという前提に立てば、未来のすべてが分かるという考え方だ。(もっとも、量子のゆらぎのような不確定な物質があることが分かっており、ラプラスの悪魔は現代では否定する派閥が優勢である。)
自分の未来は既に確定しており、あとはそれに向かって突き進んでいくだけの人生。
今までは、本なんかで「運命論」に触れたとしても、「まあ、論理的に考えたらそうなんだろうけどさ・・・」と考えるだけであったが、今回の一件で身に染みて理解してしまった。
さあ、どうしよう。
僕はとんでもないことを理解してしまった。
今まで自分の力で人生を切り開いている感覚だったが、
俳優が自分の力で物語を動かしていると思っているようなものだ。
圧倒的な無力感に襲われている。
ニーチェは、
人生に起こるすべての出来事、特に苦しみや辛いことも含めて、そのすべてをあたかも自らが選び取ったものとして受け入れ、愛せ。
というようなこと言った。(運命愛)
カミュは、
不条理を受け入れるのではなく、シーシュポスのように世界に反抗せよ。
というようなことを言った。(シーシュポスの神話)
だが、ニーチェやカミュのような実存主義チックな解決策ではどうしようもないほど、自分の無力さに押しつぶされそうである。
このような思考回路がぐるぐると頭の中を巡り、絶望に打ちひしがれながら眠りについたのは、空が明るくなる頃だった。
結局数時間しか眠れなかった。
今、寝不足の目をこすりながら、このエッセイを残す。
絶望の天敵は時間だ。
僕のこの絶望も、時が経つにつれて忘れ去り、いつもの日常に戻って行くだろう。
「どうしようもないことで悩んでんな。」「中二病みたい。」と自分が恥ずかしくなるかもしれない。
だからこそ、忘れる前に、一夜限りの僕の回想録を、ここに記す。




