記録23:森の静寂を裂くもの
足を踏み出すたび、苔の柔らかな感触が靴底に吸い付く。
森の奥深くは風さえ届かず、聞こえるのは自分たちの足音と遠くの水音だけだった。
木漏れ日が枝の間から斜めに差し込み、精霊たちの小さな光を淡く染めていく。
まるで道案内をするかのように、光の粒は俺たちの進行方向に沿って舞い、時折ふっと消え、また現れる。
この静けさの先に、何かがある――そんな予感だけが、胸の奥でじわじわと膨らんでいった。
湿った土と苔の香りが鼻をくすぐり、鳥のさえずりも遠くから聞こえてくる。だが、それらが一切乱れないように、まるで何かに守られているかのような静謐さが辺りを包んでいた。
アルもカグラも何も発さずに進んでいる。過去ならば気まずいと思っていた状況だが、今はこの空間が静寂を求めているように感じられ、黙ってしまう。
進むにつれて木々の間が徐々に開けていき、視界が広がる。
目の前にぽっかりと空いた空間が現れた。そこには、周囲の自然とは明らかに異質な、古びた石碑がひっそりと立っている。
石碑の台座は苔や泥に覆われているものの、何か書いてある面は綺麗に手入れされていて、その異質さはどこか神聖さすら感じられる。
俺たちは足を止め、しばらくの間その異様な空気に飲み込まれていた。
何かを語りかけてくるような、静かな呼び声が聞こえてくる気がした。
「これが、見てもらいたいもの?」
「そう」
圧倒的な存在感にようやく言葉を絞り出すと、アルはなんてことないと言うように石碑に歩み寄った。
人間の感覚が面白いと普段から裸足で過ごすアルだが、今この瞬間は場所のせいなのか、神聖さすら感じてしまう。
空間に臆する俺にアルは黙って手招きをする。早く来いと言っているようだ。
仕方なしに近づくが、思っていたような変なことは起こらない。こういった場所は罠やダンジョンだったりするイメージなのだが。
「タクマは、これ読める?」
そう指さされた石碑には見覚えのある文字――なんてことはなく、全く読めない文字だった。いや、文字というよりも絵と言った方が正しいのかもしれない。
そこに書かれていたのはいくつかの絵が連なったもので、人型のものや人外を思わせる絵が描かれている。ところどころ似た絵が描かれていたり繰り返しのパターンから考えると、この石碑はヒエログリフのような文字だと考えていいだろう。そうだとしても、使われている文字は極端に少ない。ざっとみて20種類あるかないかだろう。
それに意味を推察しようにも何を意図しているのかわからない物ばかりだ。ゆっくり時間をかけて考えていけばわからなくもないが、生憎門外漢だ。解き方にパターンがあるとか、コツとかがあったとしても見当がつかない。
そうやって石碑の文字をまじまじと見つめていると、不意に裾が引っ張られた。
視線をやるとアルが不服そうにこちらを見ていた。質問に答えず熱中していたせいだろう。
「ねぇ、読める?」
「あはは、ごめんごめん!……多分、頑張ったら意味はわかるかもしれないけど、俺には難しいや」
「そう……」
アルは残念そうに肩を落とした。いつも無表情でマイペースなスライムのこんな一面は初めて見たかもしれない。
何かこの石碑に思うことがあるのだろうか?いや、俺と出会うまで世界を視認してこなかった存在がどうしてこんな文明の塊に感じるものがあるというのか。
だが……どうやってアルはこの場所にたどり着いたのだろうか。なにかを探している――?
「おい」
疑問の嵐を遮るように、後ろから聞きなれた声がした。
振り返ると、少し離れた場所からカグラが手招きをしている。まだ新しい謎があるというのだろうか。
自分の好奇心を抑え込み、カグラ方へ近づいていく。
「なにかあったのか?」
「あー……あると言ったらあるし、ないと言ったらないかもしれねぇ」
「どういうことだよ」
よくわからない返答をするカグラを睨みつけると、自分じゃなくてあっちをみろと言いたげに顎を動かした。
しぶしぶ視線をそちらへ動かしても、目の前に広がるのは森ばかりで、なにかおかしい物は見当たらない。
何がおかしいんだと文句を言おうと口を開いたが、カグラの言葉に遮られた。
「あの一帯だけ、精霊が少ない」
カグラの指さす先は深い森の中で、今までの俺だったらなんの変化にも気づかなかっただろう。
だがそこは比較的精霊が多いこの環境の中で異質と言ってよいほどに精霊が見えなかった。
精霊が寄り付かない場所……勝手なイメージだがよくないモノなのではないだろうか。脳内が危険だと知らせて手汗がにじんだ。
そもそも、今この近くには一番気になる謎が残っている。無理に近づく必要もない。
カグラの発見は有意義なものだが、今すぐにいく必要はないだろう。
そう自分を言い聞かせて、振り返ると、そこにいたはずのカグラもアルも居なかった。
まさかと先ほどの場所を見ると、二匹は黙々と目的の場所へと進んでいる。なんて自由な存在なんだ。
未知の場所に三人で乗り込むのと、未知の場所で二人の帰りを待つのではどちらが危険か。そんなこと考える必要もなかった。
「そんな先行くなよ!」
できれば行きたくない!その気持ちを封じ込めて俺は二人のあとを追った。
息を切らしながら二人の背中を追い、鬱蒼とした木々の合間を抜ける。
気がつけば森の色が変わっていた。葉は深く濃い緑に沈み、空気は一層重く、湿り気を帯びている。
足元の苔は肉厚で、踏みしめるたびにじわりと水を含んだ感触が靴底に染みた。
やがて――それは、視界の奥で静かに聳えていた。
巨木。
森の他の木々がまるで子どものように見えるほどの、桁違いの存在感。
幹は人家ほどの幅を持ち、表皮は深い皺を刻んだまま、天を突き抜けるように伸びている。
枝葉は雲を遮り、薄暗いはずの森に、不思議な淡い光を降らせていた。
近づくほどに、心臓の鼓動が速まる。
何もしていないのに、全身が汗ばんでくる。
視線を上げても、頂は見えない。見ようとすれば首が軋むほどだ。
「……これが、精霊が避ける理由か」
自分の声がやけに小さく響いた。
カグラもアルも、巨木を見上げたまま言葉を失っている。
その瞬間、また一筋、淡い光が俺たちの足元を横切った。
けれどそれは、巨木には近づかず、まるで境界線を避けるように方向を変えて消えていった。
理由も、意味も、まだわからない。
ただ――この木の前では、すべての言葉が無力だと本能が告げていた。




