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記録01:農学徒、異世界に立つ

初投稿になります。

研究職っぽさを生かしたストーリーを書いていけたらなと思います。

「……っ、ウソだろ……!」


 静まり返ったラボに、自分の声だけが響いた。

 他のメンバーは帰宅し、暗闇となった室内でごうごうと音を鳴らすクリーンベンチ。培養のあれこれをしてるうちに片付けを忘れてしまったんだろうそこには、あるはずのない試料――グリセロールストック――が置かれていた。


 数ヶ月かけて構築した、変異体。

 誰にも使われないよう“私物”として管理していたはずだった。けれど、コン詰めすぎて感覚が麻痺していたのか、使用してすぐにしまわないと死滅する『それ』はすっかり溶けてしまっていた。



「最悪だ……終わった……」


 机に崩れ落ちて、笑いが漏れた。

 修士2年。テーマは植物由来酵素の発現。

 学会発表の締切直前に、教授のお気に入りの生徒のためにこれまでの成果を横取りされた。ふざけるな俺は卒業単位のためだけに学会に出てるんじゃない。

 見返すために毎日昼も夜も、休日すらも無理な再実験を続け、ようやく、条件が揃ってきたところだった。


 精製した酵素ももう底をつきかけ、今回培養する分じゃあ絶対に足りない。

 もう、取り返せない。


 目の奥がじんじんと痛い。

 寝てない、食ってない、正直、何時間ここにいたかも思い出せない。


 ……なんでこんなに必死だったんだっけ。

 誰にも評価されないのに、何を証明したかったんだろう。


 体中の力がすっかりと抜け、ずっしりと重くなっていく。

 世界が、静かに傾く。


 そのまま、視界が闇に飲まれた。



 ---


 草の匂いで目が覚めた。

 目の前に広がるのは狭い研究室の試薬瓶の置かれた真っ白な床――ではなく、立派に育った草種だった。


 土の上にうつ伏せていたらしい。

 頬に当たる感触はしっとり柔らかくひんやりとしていて、そこから広がる空気は、ラボとも、大学ともまるで違う。


「あれ……?」


 起き上がって、あたりを見渡す。

 木々の間から陽が差している。風が吹き抜け、鳥のような声も聞こえた。フィールドワークに来たんだっけ?いやそんな記憶はない。なにより自分の研究はラボ内で完結するものだ。


「夢……?」


 そう思って、目元に手をやった。


 ……メガネが、ない。


「あれ? あれ……?」


 ポケットを探す。ない。

 もう一度顔を擦る。何もかかってない。

 でも――


「見える……?」


 木の葉の輪郭、遠くの枝に止まった虫まで、驚くほどくっきり見える。なんならメガネをかけているときより良く見えている気がする。


「いやいや……そんなバカな」


 夢か、明晰夢か。質感といい空気感といい、やけにリアルな夢だな。

 どっちにしろ、現実じゃないなら何してもいいか。最近寝れてなかったから自然に目が覚めるのはまだ先だろうし、他の学生が来たらどうせ叩き起こされる。旅行だと思えば楽しめるだろう。

 そう思って、ふらふらと歩き出した。


 草の匂いがまだ鼻をくすぐる。

 陽の高さからして、朝方だろうか。

 木々はしっかりと葉を茂らせていて、光の粒がその隙間からこぼれていた。


 とにかく喉が渇く。

 目が覚めたときの混乱はややおさまっていたが、今度は身体が水を求めていた。最後に水分補給したのも何時間前だからわからないし。夢でどれだけ水分を取ろうが喉の乾きが和らぐことはないだろうけど。


「水辺……探すか」


 森の空気は澄んでいて、羽音のようなものが遠くから聞こえてくる。鳥ではない。

 でも、虫とも違う。不気味ではないけど、見慣れない音だ。


 ふと足元の土に気づいた。

 しゃがみ込んで触れてみると、表面は乾いているのに、その下はしっとりしている。

 最初は夜露かと思ったが、量が違う。

 少し考えてから、頭上を見上げた。


「雨上がり……ってわけでもなさそうだな」


 木々の葉はカラカラに乾いている。

 降っていたとしたら、これほど乾くには時間がかかるはずだ。

 となると、この湿り方は地下水……いや、浸透水?


「にしても、こんなディティールの細かい夢ってあるか?」


 地面のわずかな傾斜、苔の密度、植物の種類。

 現実以上に“現実っぽい”。


「……いやいや、まさかな」


 脳裏に、ありふれたフィクションの展開がよぎる。


 異世界転生。

 死んだら知らない場所にいて、チート能力を持って無双するやつ。


「あるわけないだろ……見過ぎだ」


 でもメガネがなくても見える世界、知らない植物、知らない空気。


 思考が先に進む前に、わざと考えるのをやめて歩き出した。


 ――夢だ。

 目が覚めれば、何もかも元通りだろう。

 それまで、少し歩いてみても罰は当たらないはずだ。


 木々の間を進みながら、地面の植生を目で追う。

 湿潤地に多い草本が増えてくる。苔の色も変わってきた。


「……あっち、か」


 直感に近い。

 けれど、フィールドワーク経験もある“農学部出身”の感覚が背中を押す。


 やがて、かすかな水音が聞こえてきた。


 葉をかき分け、草を踏んで進むうち、

 かすかに、流れる音が聞こえた。


 やがて、水音は確かな存在となって耳を打った。

 葉をかき分けた先に、それはあった。


「……マジかよ、ほんとに水場だ」


 開けた空間に、小さな水たまり。いや、小川か。

 水は澄んでいて、底の石まで見える。苔も生えておらず、水質は悪くなさそうだ。

 流速は穏やかで、動植物が生活している形跡もある。

 もちろん直で飲んだら腹を壊しかねない。生息する生き物次第だな。


 と、川に近づいたそのときだった。


 バサリと、向こう側の茂みが揺れた。


「っ……!」


 反射的に後ずさる。


 茂みから現れたのは――ウサギだった。危険性のない小動物と安堵したのも一瞬で、よくよく見ればそれは普通のウサギじゃなかった。耳の間から小さな角が突き出している。それを見逃せば見慣れた愛らしい顔をしているのに。

 さらに跳ねる姿を観察すれば、前足が妙に発達していて、踏み込むごとに筋肉が隆起する。


「やば……まさか、魔物……?そんなわけ……」


 夢だろうが現実だろうが、あれに襲われたら命はない。

 こっちは丸腰だ。研究者なんてのは、武器を握るよりピペット握る方が得意だ。そんな繊細な動作今はためにもならない。

 それに知力では優れていても武力は並以下だ。最近持った重いものなんて大量培養用のフラスコ程度だぞ。


 静かに身を引く――が、足場は砂利だ。

 音を出さずに逃げるなんてとても無理な話で。

 砂利を踏みつける微かな音にウサギの耳が勢いよく立ち上がった。


「っ……!」


 ウサギのような魔物がこちらを振り返る。

 目が合った。空気が張り詰める。

 ――目つきが変わった。愛玩動物としてなお馳せる真っ黒な瞳は真っ赤に変貌し、捕食者の形相になった。

 どういうことだよ。ウサギは被捕食動物だろ!


 ウサギの足がこれまでよりも深く踏み込まれ、そして……跳ねた。


 こっちに向かって、殺気を孕んだ突進。


「やば……っ!」


 咄嗟に転がるように地面に伏せる。

 怪我は確定、死ぬ可能性もある。というか、夢で死んだらどうなるんだ?飛び起きるのか?というか、死ぬ前に起きろよ!俺!

 バクバクと激しく主張する心臓の音だけが響いて、衝撃を覚悟して目をつむった。


 その瞬間だった。


「……!?」


 上空から何かが落ちた。

 ぬちゃり、とした音とともに、魔物の体が止まった。


 おそるおそる目を開いて見れば、それは――スライムだった。

 透明色で、光を反射して白く輝くゼリー状の体がぬるりと魔物に覆いかぶさっている。


「は……?」


 魔物は暴れ、筋肉の発達した後ろ足を物凄い力を込めて動かして、スライムを引き剥がそうとするが、すでに遅い。

 スライムは身体の一部を刃のように変形させて食い込み、

 そのまま魔物を引きずり倒した。


 じわじわと、魔物の動きが止まっていく。

 魔物から出た真っ赤な血液がスライムの中にじんわりと広がったと思えば、その体は沈み込み、完全にスライムの体内へと吸収されていって、一度は真っ赤に染まったスライムも元通り透明な姿になった。


 ……静寂。


 スライムは何事もなかったかのように、丸くなってその場に留まっている。

 こちらに攻撃してくる様子もない。

 というか、そもそもこっちを見てもいない。あれはたまたま魔物を捕食しただけ……?


「……俺は助かった、のか?」


 汗が背を伝う。今になって足が震えてきた。


 しばらく動けなかったが、やがて喉の渇きを思い出した。

 スライムはこちらを一瞥することもなく、ぽよん、と小さく揺れて座っている。……消化してるのか?いや元通りになっていたし、スライムは消化が早いと聞くからもう動けると思うんだけど……いや、夢の世界の生き物を分析するのはやめよう。無意味だ。

 それより俺の可愛い大腸菌のことを考えたほうが有意義だろう。


「……襲ってこないなら、水、飲ませてもらうぞ」


 聞いてるかはわからないが年の為声をかける。通じないとわかっていてもそこらへんの鳥や猫に声をかけるのと同じだ。

 聞いてるのか聞いてないのかふるりと揺れるスライムを横目に、そっと川辺に近づき、観察する。

 岩の大きさや形からすると、上流のようだ。そもそも生き物が視認できないから水質汚濁については判断できないが……まあ口を潤す程度なら問題ないだろう。

 軽く手のひらに掬い、口に含むと少し乾きが落ち着いた。


「ん……?」


 そのとき、ふと水面に映る自分の姿が目に入った。


「……だれだこれ」


 メガネのない顔、見慣れない髪の色。明るい、緑というか青というか……俺はブリーチなんて一度もしたことないぞ?それに色も好みなわけじゃない。

 輪郭も肌の色も、微妙に違う。なんなら目の色もおかしく見える……

 それに――妙に若い。十代後半、下手したら高校生に見えなくもない。


「いやいやいやいや、夢だろ? 夢……だよな?」


 自分に言い聞かせるように呟いた。

 夢なら自分の理想の姿になるのではないか?という仮設が浮かんだが、現時点でそれは否定されてる。もし、これが夢の世界ならの話だが。


「まさか、本当に異世界なのか……?」


 巷で大流行のフィクションの世界を体験してるという興奮と、未知の世界の未知の場所に一人放り出された恐怖で体が震えた。

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