光秀2
十兵衛が来た。稲葉山にやって来た。
使者はさくっと帰って来て「来るって言ってました(意訳)」と伝えていたのだが、本人は今まで世話になってた朝倉に挨拶をしたりなんやらで半月ほど遅れてきた。
詳しい話を聞く前に引き払って来るとは見上げた覚悟である。そして涼しい顔で礼装に身を包むその姿は、とても窮乏している身には見えなかった。
「御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ上げ奉ります」
後に信長にも足利義昭にも重用され、異例の出世を遂げるだけはある。そう思わせる雰囲気があった。
「……流石だな」
「は?」
「いや、面を上げてくれ」
「はっ」
十兵衛はそう言いながらも顔を上げない。礼法である。
「いいから、面を上げよ」
「はっ」
やっと上げられた顔を見ると、そこにはまだ若いが世慣れた顔があった。顔面がピクリとも動かないが、それでいて見苦しくもない。
「そなたには織田家への使者になってもらいたい。表向きは叔母上のご機嫌伺いだ」
帰蝶の母は明智家の出で、帰蝶と光秀は従兄弟の関係になる。一色家(斎藤家)から離れていたこともあり、光秀が帰蝶を訪ねるのになんの違和感も障害もないはずだ。
「して、織田にはどのような申し入れをなさるのでございましょう? やはり和議を?」
「いや、同盟だ」
一瞬、光秀の姿勢が固まった。
「……いきなりそれは難しいかと」
口振りこそたどたどしいが、光秀の顔はやはり微動だにしていない。礼を失すること無く不同意を示していた。龍興には真似できない所作である。
ともあれ、光秀を納得させられないで信長を納得させられる訳もない。
「今、織田と松平の間で同盟締結の動きがある」
「なんとっ!?」
鉄面皮の十兵衛が動揺すると、龍興はちょっと嬉しくなった。
「今川が関東に掛かりっきりだからな。もともと三河の国人衆は今川に反発を持っている。その上支援もしてくれんとなれば、織田に靡くのも仕方あるまい」
「されど松平にとっては織田も不倶戴天の敵。今川のことは置いても、同盟など結べるものでしょうか?」
常識的な反応である。ついでなので龍興は夢の中で得た知識を披露した。
「面目を保つ方法はある。とくが……ごほんっ! 松平元康は幼少の砌、織田の人質になっていたことがある。知っているか?」
「聞いたことはございます」
今川に出したはずの人質が家臣に裏切られて織田に送られるというあまりにも衝撃的な(かつ、訳が分からない)出来事は、直接関係ない美濃でも広く知られていた。(注1)
「これはあまり知られていないことだが、当時のうつけ殿は松平の若君を遊びに引っ張り出していたらしい」
「…………」
光秀はわずかに目を剥くと、すぐに視線を床に落とした。さすがに光秀もそんなことまでは知らなかったらしい。
普通、いくら嫡男とはいえ敵対勢力からの人質を勝手に連れ出して遊ぶなど許されることではない。万一逃げられたり、事故にあったり、野盗にでも襲われて殺されでもしたら、松平との戦いが再発しかねなかったのだ。だが連れ出すのがうつけの若殿なら、皆が「仕方ない」と見過ごしたことだろう。うつけ殿はそのうつけ振りを隠れ蓑にして、隣国の世子に目をかけていたのだ。(……たぶん)
「……なるほど。道三公が目をかけるわけですな」
実はこの信長と元康の子供の頃の話は、清洲同盟が成立した後に盛んに吹聴された話である。彼らはこのガッチガチの利害関係を「幼い頃の友誼」という美談で包み隠したかったのだ。……主に不満を抱える家臣に対して。
龍興も夢の中のその噂で知ったのだが、同盟成立前のこの時点でそんなことを知っている者は多くない。若かりしうつけ殿の遊びに付き合っていた者たちは「そんなことは大したことじゃない」と思っていたし、現在同盟の交渉をしている者たちはそんなことを知る由もない。例外は信長と元康、そして彼らの幼い頃からの側近たちだけであった。……龍興以外では。
「元康個人としてみれば、信長より氏真の方がよほど親しみがあるだろうがな」
なにしろ元康にとって今川氏真はともに太原雪斎に学んだ兄弟弟子であり、妻の従兄弟でもあったのだ。子供の頃にちょっと遊んだだけの信長よりよほど親しみを持っていただろう。
「そうかもしれません。しかし一度も会ったことのない相手よりは、随分と敷居が低くなりましょう」
それもまた事実である。そして現実の利益を前にしては不都合な方の事実は黙殺されるわけだ。
「やはり同盟は成ると思うか?」
「確かなことは分かりかねますが、成ったとしてもおかしくないかと」
龍興は重臣たちに目を向けた。苦い顔をしていたが異論を唱える者はいなかった。
「であれば、美濃としては座して待つことは滅びを意味する」
「そこで、むしろこちらから同盟を申し出る……と?」
「そうだ」
光秀は能面のまま声を落とした。
「しかしそれでは、織田家に旨味がございません。
恐れながら右兵衛大夫様はまだ若年にして実績もございません。一方織田上総介様は、桶狭間の武名が天下に鳴り響いております。この上三河との同盟がなれば、いずれ美濃を平定するのも容易い……と考えるのではないでしょうか」
随分失礼な物言いである。横に並ぶ重臣たちが憮然とした顔を並べた。だが龍興は我が意を得たりと膝を打った。
「で、あろうな。俺もそう思うわ!」
重臣たちはますます苦い表情になった。そんな重臣たちの顔をちらちら伺いながら、光秀が呻いた。
「……では、どうなさるので?」
「で、あるからな、俺は養子を取る」
「養子、でございますか?」
「そうだ。それも養嗣子だ。織田の嫡男を俺の跡継ぎにする」
光秀は目を丸くした。そしてちらりと重臣たちに目を向けながら、声をひそめる。
「そ、それは……よろしいのですか?」
それでは事実上の降伏である。先行きが暗いとはいえ、まだ美濃は負けていないのだ。それどころか兵力で言えば五分と五分。将棋で言えばようやく序盤が終わった頃だ。実際に龍興の夢の中では、稲葉山城が陥落するまでここからさらに7年かかっていた。
「奇妙丸は帰蝶叔母上の義理の息子だ。つまり俺の従兄弟でもある。
従兄弟を養子に取る。おかしな事ではあるまい?」
光秀は顔を伏せながら考え込んだ。
確かに理屈は通らなくもない。一色家の面子も保たれるだろう。実際重臣たちは不満を顕にしつつも龍興に従っている。
では織田家の側はどうか?
まだ十分に争える状態からの譲歩だ。冷遇すれば今後織田家に降る者は激減するだろう。逆に厚遇すれば、今後織田家と敵対した者たちは戦う前に選択肢の1つとして降伏考えるかもしれない。厚遇した方が良い。先ず隗より始めよ(注2)、だ。
しかし隗はそれなりに名の通った人物であった。昭王が相談するくらいには信頼されてもいた。
然るに、龍興は違う。守護という立場と美濃一万五千騎という力は十分である。しかし信頼が無い。若輩の上に父殺しの義龍の子、そして何よりマムシの孫なのだ。裏切らない保証はどこにもなかった。
「右兵衛大夫様の御覚悟のほど、然と承りました。
されど織田は受けぬと思われまする」
「……なに?」
ここに来てようやく龍興が顔色を変えた。彼にしてみれば最大限の譲歩をしているつもりである。織田には得はあっても何一つ損は無い。一兵も損ずること無く領土を倍増し、兵も倍増できるのだから断る理由などあろうはずもない。
「織田家にはこちらの覚悟を見せる必要があるでしょう」
「奇妙丸を養嗣子にするので十分ではないか?」
龍興は首をひねった。これで譲歩が足りないというのなら、もうどうしようもない。
「いえ、それはでは片手落ちです。家督を継承するまではただの人質とも取れます」
「ああ、そうか……」
まず最初に信じてもらう必要があるのだ。なにしろ斎藤には婚姻同盟を反故にした前科がある。龍興としてはむしろ守護の地位を押し付けたいと思っていたので、返って気付くことが出来なかった。
「……ならば考えがある。お主にも手伝ってもらうぞ?」
注1 織田の人質
本来竹千代(のちの家康)は人質として今川に送られるはずでした。そしてその役目を仰せつかったのは戸田康光という国人でした。この人がなぜかいきなり裏切って、竹千代を織田に連れていきます。
ちなみにこの人、実は広忠(家康の父親)の後妻の父だったりします。つまり彼は、嫡男の竹千代を亡き者にして自分の孫を……あれ? 孫が生まれてない? え? じゃあ、なんでこんなことしたのさっ!?
ちなみにこの後、トサカにきた今川に攻めれて戸田氏は滅亡します。……え? マジで? こんなことをやらかしておきながら、今川に攻められることを想定してなかったの!?
謎です。戦国時代最大のミステリーかもしれません。理解不能さが最大級なだけで、解けてもたいして嬉しくない謎ですが。
実は戸田康光じゃなくてその家臣が勝手にやって、ついでに織田に高跳びしてた……とかなら納得できるんですけどね。
注2 先ず隗より始めよ
故事成語です。
燕の昭王が食客の郭隗に「優秀な人材欲しいわー。どうしたらええと思う?」と聞きました。そこで郭隗は「では私を厚遇してください。私みたいな凡庸な者でも厚遇して貰えると聞けば、才ある者は挙って王の下に集まりましょう」と答えました。
すると各地から優秀な人材が続々と押し寄せます。
「あいつがこれだけ貰ってるなら、俺はその倍くれ」
「俺なら3倍は欲しい」
「俺は10倍だ!」
こうして燕は人件費高騰により破産しました。 ……嘘です。
人件費については優秀な人材が優秀な技術により優秀な結果を出したのでしょう。なぜか財政破綻せずに国力を取り戻しました。
そこから転じて「事を始めるには、自分からやりださなければならない」という意味に……って、あれ? 意味変わってません?