評定
龍興は半泣きの徳四郎に後片付けを押し付けると、そそくさと自分の部屋に下がった。ちょっと可哀想だが、良い経験だ。まあ、この後片付けの経験が人生で役に立つことはないだろうけど。
「確かに切れたな……」
鉄や石を切れることは分かった。再現もできた。夢の中で直昌の兜を割った経験は、全く、一切、関係なかったが。
「どういう理屈かは分からんが、この力を使えば天下に名を残せる……!」
なにしろ庭石を切り裂いたのだ。兜割りとは訳が違う。今ひとつ使い所が分からないが、凄いことは凄い。
しかし剣豪になれるかというと、そうでもない。
確かに鎧兜の上から斬りつけるだけで致命傷を与えられるだろう。刀同士で打ち合った場合でも、ひょっとしたら相手の刀をスパッと切れるかもしれない。
しかし……である。
龍興の振るう刀を見切られたら?
目にも止まらぬ速さで切りつけられたら?
いや、そもそも鉄砲や弓で撃たれたら?
そもそも龍興は、一人の剣士としてはそれほど強いという訳でもない。自分の剣の腕を磨くより、戦場の空気を読み、相手の意表を突き、相手に実力を発揮させない戦いを心がけてきた。もし一騎打ちなどしようものなら、いままでに何度も死んでいることだろう。……まあ、既に一回は死んでいるのだが。
「せっかく若返ったのだ。今度は本気で剣術を修めてみたいな」
もちろん夢の中でも一通りのことは学んだ。しかしそれだけだ。入れ込むほど剣術に傾倒したわけではない。仮に今龍興が剣術修行をしたいと言ったところで、重臣たちは「大名には先に学ぶことがある」と言うだろう。尤もなことである。
まあ世の中には足利義輝とか北畠具教みたいな剣術狂いの将軍や大名もいるのだが。彼らの末路を知る龍興としては、むしろ反面教師でしかなかった。
「まずは美濃を安定させないとな……」
しばらくして六人衆が集まったという知らせを聞くと、龍興は広間に向かった。平伏して迎えた重臣たちに「楽にしてくれ」と言って頭を上げさせると、何人か意外そうな顔をしていた。そういえば夢を見る前の龍興はやたらと形式張っていたような気がする。スカスカの中身をごまかそうとしていたのだ。だが落魄して流浪して討ち死にした記憶のある今の龍興は、美濃守護の地位に未練はない。虚飾の必要を感じなかった。
「殿、昨日のあの御振る舞いは何でござるかっ!」
まず口火を切ったのは永井隼人正だった。隼人正は義龍との関係がこじれて普段の評定には呼ばれなかったのだが、龍興の母方の祖父であり父方の大叔父(公式)という立場からこの場にいても不思議ではない。当然龍興を養護する立場だと思われていただろうが、敢えて真っ先に龍興を糾弾するよう事前に打ち合わせてあったのだ。
「うむ、済まなかった」
龍興はあっさりと非を認め軽く頭を下げた。そして下げたまま「だが……」と繋いだ。
「それは前もってお前たちに諮らなかったことについてだ。灰を投げたのは、思うところがあっての事だ」
頭を戻すと皆が訝しそうにしていた。
「思うところ……ですと?」
「うむ。ちと長い話になるが聞いて欲しい」
龍興は重臣たちを見回した。そしてその表情を確かめながら、この時点ではまだ誰も知らないはずの情報を開示した。
「三河の徳が……ごほんっ!」
現在の松平元康は数年後には徳川家康を名乗るようになる。まだ誰も知らないが、開示したいのはこの情報ではない。
「……三河の松平が、織田と同盟を結ぼうとしている」
「ばかなっ!?」
「ありえませぬっ!」
重臣たちは驚愕したが、どちらかというと情報の信憑性自体を疑っている様子だった。夢の中では来年一月に同盟が成立した後になって初めて知り、やはり同じような反応を示していた。織田と松平は累代に渡って矛を交える不倶戴天の敵であり、それが同盟するなどとは俄には信じられないことなのだ。だから龍興も「うんうん」と頷いた。
「だよな、そう思うよな。俺もそう思った。だが、事実だ」
「「…………」」
きっぱりと断言すると、皆押し黙った。実のところまだ証拠はない。証拠を見つけるまで待ってると致命的に出遅れる可能性があるので、ここははったりである。
「織田が松平と和睦したいと思うのは理解できまする。しかし松平がそれを受ければ、当然今川は激怒しましょう」
なにしろ桶狭間で前当主の今川義元が討たれているのだ。息子の氏真としては何としても父の仇を討って、今川の健在ぶりを内外に示したいところだ。それなのに一門衆である松平元康が仇敵織田と和睦してしまえば、今川のメンツは丸つぶれである。
「そのとおりだ。だが、今川は動けん。
今関東では越後長尾が10万の大軍を集めて北条を攻めているのだ。北条と婚姻同盟を結ぶ今川としても、これを放置すれば明日は我が身だ。今川は万余の兵を援軍として関東に差し向けていると聞く。あの桶狭間の大敗の後にも関わらず、だぞ?」
この頃長尾景虎(後に政虎→輝虎→謙信)は、関東管領上杉氏の家督を継承して関東に攻め入り、関東管領上杉氏の宿敵であった北条氏を攻撃していた。越後兵に加えて関東一円から続々と兵が集まり、北条氏の本拠小田原城を包囲した時には総勢10万を号していた。実際に河越夜戦では関東管領側は8万の兵を集めたのだから、尻馬に乗った関東諸家が大軍を送り出せば10万くらいいても不思議ではない。まあ、その河越夜戦では上杉の大軍がボロ負けしてるんだけど。
一方今川は、桶狭間の戦いで今川義元だけでなく随伴していた重臣や有力国人までもが大勢犠牲になっている。つまり軍の首脳や部隊指揮官がごっそり死んでしまったのだ。これは兵の損耗以上に軍組織を弱体化させている。なにしろ彼らは、戦場で兵を指揮するだけでなく、農村から兵を集めて組織化し、武装や補給品を揃えて輸送するなど、それぞれの所領の軍政をも司っていたからである。それが突然いなくなれば、戦場に兵を送り出すことさえも覚束ない。それなのに一万以上の援軍を組織して関東に送っているのである。
「つまり今川から松平への援軍は無い、と?」
「うむ。今川が松平に期待していることは、関東を片付けている間の時間稼ぎだ。むしろ中途半端な援軍を三河に送って『今川軍が織田軍にまた負けた』という風聞が立つ方が拙い」
むしろ援軍を送らずに松平だけが負ける方がマシなのである。そうであれば「やっぱり今川の助けが必要だ」という流れに持っていける。(もっとも今はその助けを出せないわけだが)
「……なるほど。しかし松平にしてみれば溜まったものではありませんな」
もともと松平は独立した勢力だった。織田に圧されて立ち行かなくなったので、仕方なく今川の傘下に入ったのだ。それなのにこの扱いでは、報奨なしで殿軍を押し付けられたようなものである。
「ものは考えようだ。今川に援軍を出す余裕が無いのなら、逆に今川を裏切っても追討の軍が送られてくるはずもなかろう?」
「なるほど。そう考えれば自立の好機でもございますな」
もちろん裏切られたことに逆上した今川が無理をして軍勢を送ってくる可能性もある。だがそれで逆上するくらいなら、最初から織田に逆上していてくれというのが松平の本音だろう。
「九分九厘、同盟は成るだろう。時間の問題だ。そして同盟が結ばれれば、織田の全軍が美濃に向けられることになる。
昔の織田軍とは違うぞ。桶狭間以降、信長の威光は尾張の隅々にまで及んでいる」
重臣たちは苦い顔でうなった。龍興の言葉は認め難くも認めざるを得ない。
「……ん? それはそれとして、葬式の件とはどんな関係が?」
「ああ、そういえば。どうなのです?」
もともとその糾弾をしていたのだ。ごまかされまいと重臣たちの視線が龍興に集まった。
「うむ。昨日の件は噂としてすぐに尾張にまで伝わるだろう。だからな、俺は信長に、いや、叔父上に憧れていることにする!」
「「「はあぁ!?」」」
織田信長が父親の葬儀で位牌に向かって灰を投げつけたという逸話は美濃でも有名な話である。当時はその奇行をもって「うつけ」と評されていたのだが、桶狭間の一件で彼への評価は逆転していた。だから織田と敵対している美濃の大名でなければ……例えば北近江の浅井長政であれば、信長に憧れて父親の位牌に灰を投げつけても不思議ではない。うん、本当に不思議ではない。長政も父親とは確執があったことだし。
「今ならまだ松平がゴネている。ここに俺から圧力を掛けて三国同盟にするのだ」
「バカバカしい! 道三殿の国譲り状がある以上、あちらは譲りませぬぞ!」
国譲り状というのは、祖父道三が死ぬ間際に「美濃のことは娘婿の信長に委ねる!」と書き残したとかいうものである。本物かどうかは非常に怪しいが、義龍への嫌がらせ目的で書いていても不思議じゃないと思わせるのが道三である。可能性がある以上、織田家としては十分に大義名分にできた。仮に織田が同盟を受け入れたとしても、それをテコにして条件闘争を仕掛けてくることは間違いない。
「そこは秘策がある。完全に対等、考えようによってはこちらが有利とも言える」
「……それはどのような?」
龍興の秘策である。一晩考え、これしかないと思い定めた。
「織田家の嫡男奇妙丸(注1)を、我が養嗣子とする」
「「……は?」」
養嗣子とは養子にして嗣子、つまり跡継ぎにする前提で貰ってきた養子のことである。
「そ、それでは御家の乗っ取りではござりませぬかっ!?」
もっともな反応である。
夢の中でも信長は、屈服させた有力国人の家に息子や弟を養嗣子として送り込むことでなし崩し的に併合するという手段を取っている。
伊勢の長野氏(織田信包)、神戸氏(織田信孝)、北畠氏(織田信雄)などである。そして北畠氏は族滅に近い滅び方をしていた。まあ、あれは北畠の方にも問題があると思うけど。
「しかしな、そうなれば奇妙丸は稲葉山城に入ることになる。周りを固めるのはお前たちだ。奇妙丸にしてみれば、尾張の者たちよりもお前たちに親しみを覚えるようになるだろう」
「いやいやいや、織田家も若君だけを送ってくるわけではありますまい! 織田の重臣の専横を許すだけでは!?」
「そこはそれ、叔母上に後見してもらう」
これが龍興第二の秘策である。
「叔母上様、ですか?」
「信長の正室にして奇妙丸の養母、帰蝶叔母上だ」
「「「ああ……」」」
皆微妙な顔をした。なにしろ斎藤家と織田家の同盟の証として嫁いだのに、兄である義龍が全部ひっくり返してしまっているのだ。そしてそれに加担したのが、彼ら六人衆(と永井隼人正)である。
だが逆に言えば、道三の失脚とともに存在意義を喪失していた帰蝶にとって、龍興が示した方針は何よりも嬉しいはずである。過去を水に流して協力を取り付けることは不可能ではないだろう。この代替わりはその好機でもある。
「そこで爺、2つほど欲しいものがあるんだが」
「2つ? ……何ですかな?」
「まずは末の孫娘をくれまいか」
「は? 末のはまだ2歳だぞ? お前の嫁には幼すぎるだろう」
「違う違う、俺の養女にして奇妙丸と娶せる。奇妙丸は確か3つか4つほどのはずだ」
「ああ、それなら年回りは悪くないが……」
通常、他家から養嗣子を迎える場合には、その正室に自分の娘なり親族の娘を据えるものだ。つまりは婿養子である。奇妙丸は帰蝶の養子になってはいるものの、斎藤家の血は一滴も流れていない。だから龍興と父方でも母方でも血の繋がる長井家の娘を娶せることは妥当なことである。信長も六人衆も文句を付けようがないだろう。
「それとな、明智の城を手放して欲しい」
「明智城じゃと? なんでまた、あんなところを」
明智城は名前の通り土岐氏の支族、明智一族の城である。長良川合戦の折に道三側についたために隼人正が城を奪い取っていた。しかし山間の鄙びた小城であり、領地もさして大きくはない。
「越前に明智十兵衛という者がいる。明智一族の当主で、帰蝶叔母上の母方の従兄弟でもある」
「ほう、城で釣って仲介させるか」
「そうだ」
そう答えながらも龍興は、それ以上のことを考えていた。夢の中で明智十兵衛光秀は信長配下の出世頭であったし、永禄の変の後に足利義昭(当時の名は覚慶)を大和から助け出したことで、義昭に対する影響力も持っていた。
どう考えても恩を売って仲良くしておくに如くはない。というか現状では義龍の子である龍興まで恨まれているはずなので、出世する前に関係を改善しておきたいのである。
「各々不満もあれば不安もあるだろう。だがここで同盟を結べば織田家は飛躍する。
考えてもみろ、濃尾(美濃と尾張)を合わせれば100万石を超えるのだ。六角も今川も落ち目の今、近隣に伍する勢力はない。十年後にどこまで大きくなっていると思う?」
「「「…………」」」
皆黙り込んで其々に想像を巡らせた。きっと伊勢と近江を飲み込んで200万石を超える大勢力になった様子でも思い受けべているのだろう。だが龍興の頭の中にはそれ以上に巨大になった織田家の記憶がある。しかもそれは、龍興が7年に渡って美濃併合を阻止した結果としての10年後だ。逆に龍興がその覇道に協力すれば、どれほどまでに大きくなっていることだろうか?
「今のうちだ。今のうちなのだ! お前たちは俺に仕える代わりに奇妙丸に仕えよ。ひょっとすると、天下人になるかもしれんぞ?」
可能性として示しながらも、龍興はそれを確信していた。龍興は労せずして天下人の|(義理の)父となるのだ!(注2)
注 奇妙丸
信長の長子ですが、正室帰蝶の子ではなく側室吉乃の子でした。
とはいえ、帰蝶には子が無く、吉乃は側室たちの中では家柄も(比較的に)良く、嫡子扱いでした。まあ龍興の父の義龍も実は庶子ですしね。庶子は庶子でも母親の筋目が良いとこういうこともあります。
ただ奇妙丸の場合、帰蝶の養子にもなっています。これは織田家の嫡男という立場だけでなく、「美濃斎藤家の子孫」という形式を整えるためだったのでしょう。例の「国譲り状」の関係です。
そんな訳で龍興と奇妙丸は血はつながっていませんが、義理の従兄弟ということになるのです。
ちなみに信長の子どもの名前ですが、これは完全に思いつきで決めたみたいです。
長男(後の信忠)は奇妙丸。サルっぽくて奇妙な顔に見えたから(ヒドイ理由だ……)
次男(後の信雄)は茶筅丸。なんとなく茶道具の茶筅を連想しちゃったので(どういう状況だよ……)
三男(後の信孝)は三七。 生まれたときから髪型が七三分けだったから……かもしれない
現代なら平気で悪魔くんとか名付けそう。
なにしろ信玄の「オレサマは天台座主ダゾ(嘘)」という煽り(?)に、「なにおう!? 俺なんか第六天魔王だもんね!」とか返しちゃう(フロイス談)くらいですからね!
注2 天下人
織田信忠(奇妙丸)は天下人になる前に本能寺の変で死にます。いやまあ、死んだのは二条城ですけど。
当然ながら、本能寺の変は朝倉氏滅亡のずっと後のことです。
龍興は朝倉氏滅亡時に死んでいるので、本能寺の変で奇妙丸(信忠)も死んじゃうことを知りません。
史実についてはわざわざ解説の必要もないほどに知られてることですが、重要なのは「龍興はそれを知らない」ということです。