酒と女
美濃の政は、六人の重臣ーー六人衆が執っている。彼らは義龍が健在だった頃ですら大きな権限を与えられていた。……というか、道三の独裁体制に対する反感から多くの国人衆が義龍に付いたのであり、義龍としては彼らに配慮せざるを得なかったのである。
そしてその上で義龍が病に倒れたのだから、六人衆の裁量が大きくなるのは当然のことであった。
当然、新当主の龍興にも実権はない。というか、六人衆には龍興に実権を与えるつもりが無かった。ただそれは、己の権力を譲りたくないという利己的なものだけとは言い切れなかった。庶子として育てられた龍興には、大名となるのにふさわしい教育が敢えて施されていなかったのだ。
これは家督を巡って親兄弟と殺し合った義龍が、自分の息子達には同じ轍を踏ませまいとしてわざとそうしたのだろう。だから龍興は長子でありながら僻地に追いやられ、一介の武士として育てられていたのだ。将来は小城の1つも与えられ、一介の国人として弟に仕えることになるはずだった。彼自身、それに満足してもいた。
だが嫡子である弟が夭折し、父の様態も悪化して次子の誕生も期待できない状況になり、突如として龍興が稲葉山城に呼び寄せられた。それから詰め込むように様々なことを教えられたが、一朝一夕で身につくものではない。だから今の龍興に独裁権力を与えようなどと考える者は、龍興自身も含めて一人もいなかったのである。
龍興の血筋など三代前は京の油商人である。美濃に根付く土岐氏に比べれば軽輩な上に新参なのだが、先代義龍が幕府から守護の地位と名門一色の姓を賜った結果、たとえ神輿でも今更別の血筋に乗り換えるのは障りがあった。龍興にはただ血を次代につなぐことだけが期待されていたのだ。
しかし、葬儀で見た夢のせいで龍興は変わった。
まず……下戸になった。
屋敷に帰ったら(父親の葬式の日だというのに)普通に晩酌が出てきたのだが、匂いを嗅いだだけでダメだった。
夢の中では「さすがはマムシの孫」と称え(?)られるほどの蟒蛇っぷりだったのだが、美濃を失った時に酒を受け付けなくなったのだ。そしてその記憶を持つ今の彼も、なぜか酒を受け付けなくなっていた。
それだけではない。「もう良い、寝る」と言って寝所に行ったら、若い女が襦袢1枚で待っていたのだ。そしてしなだれかかってきた。そして龍興の腕を胸の間に挟んできたのだ。あまつさえその腕を自らの…… いや、それはどうでもいい。
確かに昨日まではいろんな家から女を差し出されては抱いていた。この女もそうなのだろう。父親の葬式の日だけど、だからこそさっさと子供を作れということなのだろう。理解できる。同意する。大賛成だ。
それにその女はかなりの美人だった。結構好みだった。龍興の好みを理解した良い人選だった。素晴らしい! でも……ダメだった。勃たなかった。
夢の中で家臣や国人たちに裏切られて以来ダメになったのだ。そしてその記憶を持つ今の彼も……ダメらしい。
喪に服したいと言って女を下がらせると、龍興は一人落ち込んだ。
確かに夢の中ではいろんな女を抱いた。いろんな楽しみ方もした。むしろ楽しみ尽くした。時には3人まとめてとか、姉ま……いや、なんでもない。今更そんなことはどうでも良い。いや大変良かったのだが、今は良くない。特に良くないのは、それを思い出しても彼の体がピクリともしないことだ。
酒があっても酒をのめない。
女がいても女を抱けない。
「なんということだ……」
酒はまだいい。だがさっさと跡継ぎを作るよう期待されているのに女を抱かないのはまずい。夢の中でも子供はできなかったので女を抱いても孕まない気がするのだが、抱きさえしないのは非常にまずい。そして夢の中では死ぬまでの5年間ずっとそうだったのだから、治る見込みもない。
「養子でも取るか……」
正直に言って龍興は、自身が大名には向いていないという自覚があった。流浪の年月で培ったのも、いわば小部隊を率いる傭兵隊長としての経験と技能に過ぎない。だから美濃守護の座を下りることに抵抗は無い。むしろ自由に生きたい。曽祖父(注1)のように一介の武士として一から身を立てたい、という思いがあった。だから年上の養子を取って即座に当主の座を譲ることにすら抵抗がなかった。
「爺様の弟ということになってる長井の血筋では皆が納得しないだろうし、爺様についた叔父たちの血筋でも難しい。土岐の血筋なら家格の上では問題ないが、混乱は必至だ」
龍興の他に候補がいないのだ。だからこそ彼が引っ張り出されてきた訳だが、唯一期待された子種の方が突如ダメになってしまったのである。
「それくらいならいっそ……」
言いかけて龍興ははっと息を飲んだ。龍興の従兄弟であり、家格の面でも問題なく、彼を龍興の跡取りにすれば織田に負けることは決してない。
そんな人物がいたのである。
「……合従策で勝てなかったのだ、採るべきは連衡策であろう」
注1 曽祖父 松波庄五郎
龍興の曽祖父……というか、斎藤道三の父はもともと今日で油商人をやってた人です。
「うん? 油商人やってたのでは道三でしょ?」と思った人もいるでしょう。
はい、そうです。かつては斎藤道三と混同されていました。司馬遼太郎著『国盗り物語』でも道三自身が油商人でした。
しかしその後、資料が発見されて定説が変わりました。松波庄五郎という人が別にいて、その人が 油売りの山崎屋庄五郎 → 武士の松波庄五郎 → (中略)→ 養子入りして 長井新左衛門尉 になったらしい……と。この時点で城持ちには成り上がってたっぽい。
それを子の道三が引き継いで、さらに斎藤家に養子入りして守護代に。さらに守護を追放して事実上の大名にまで成り上がったわけです。
道三の活躍(?)もヤバい感じですが、一介の商人から城持ちにまで成り上がった庄五郎さんもなかなかです。比較対象としては……武田の高坂弾正とか? あ、でもあっちはお尻の具合が……げふんげふんっ!
あ、ちなみにこの庄五郎さん、油売りの前は法華宗の坊主だったそうな。さらに生家は北面の武士の家系(自称)だとか。
いや、ほくめんのぶしって……。身分ロンダリングもここに極まれりって感じです。