長島
長らくご無沙汰しています。
前回のあらすじ
龍興は堺で茶の湯修行に明け暮れていたが、本願寺から下妻某が三河に下ったと聞いて三河一向一揆が近いことを悟り、美濃に帰ることにした。
龍興達の乗った船は順調に伊勢湾に入ることが出来たが、美濃を目前にして問題が起こった。
「川船が出ていない?」
美濃に向かう川船が出ていないというのである。長良川を遡上して稲葉山城近くまで向かおうとしていた龍興にとっては誤算であった。
「川の水かさが増えておりまして、とても遡上できなくなっております」
「大雨でも降ったのか?」
「さあ、このあたりはそうでもないのですが、美濃の山で降ったのかもしれませぬ」
「…………」
今は春先で雪融け水が川に流れ込む時期ではある。ここに雨が降れば雪融けも早まって相乗効果で水量が増すのも理解できる。しかし川船が出せぬほどの水量というのは例年にはないことだ。夢の中で長島に身を寄せていた龍興にはこれが異常事態だと分かった。もちろん長島の民にも常ならぬ事だということは分かっているのだろう。しかし龍興だけはその原因に心当たりがあった。
――半兵衛め、本当にやりやがった……!
工事中には敢えて残していた遊水地を、水かさの増えるこの時期に一斉に塞いだのだ。だからこれまで遊水地に流れ込んでいた水が、今は全て河口まで流れて来ている。上流では浚渫して川底を深くした上に堤を強化して洪水を防いでいるが、長島周辺はどうなのだろうか。
「上流では大掛かりな治水施したと聞くが、長島でも何か工事をしたのか?」
「さあ、そういう話は聞きませんねぇ」
「…………」
手つかずということか。それなら梅雨に入って今以上の水量が流れ込めば、長島は水に押し流されることになるだろう。
もちろんこのような恐ろしい策を龍興の許可無く行うのは明らかに越権行為である。……が、半兵衛と信長は龍興が同意している――というか龍興こそが発案者である――と思っているので、今更許可や同意を得ようと思わなかったのだろう。
――いったいどうするべきか……
ぶっちゃけ龍興は長島の一向門徒に気味の悪さを感じているのだが、彼らには行き場を失った龍興を受け入れてくれた恩があった。あくまで夢の中での恩だが、あり得たかもしれない恩である。少なくとも龍興の心の中には確かに存在しているのだ。
――やむを得ぬ。遊水池を潰すか……
今まで通り遊水地に水を流せば、当然川の水量は減るだろう。開拓して農地を増やすはずだったが、長島の民を皆殺しにするのは気が進まないのだ。信長も半兵衛も激怒するに違いないが。
龍興はチラリと光秀を見た。こいつは勘が良いので、これ以上ここに居れば半兵衛と信長(断じて龍興ではない!)が長島を押し流そうとしていることに勘付くかもしれない。
「……十兵衛、お前は馬を借りて稲葉山……いや、清洲城へ向かえ。そして半兵衛を清州城に連れて来い」
信長も怖いが、半兵衛を怒らせると稲葉山城を乗っ取られる可能性がある。稲葉山から遠ざけておくのが吉であろう。
「はっ。右兵衛大夫様は先に清須へ?」
「いや、俺はここで野暮用を済ませてから行く」
長島の命運のかかった野暮である。
「分かりました。ですが……くれぐれも、くれぐれも穏便にお願いします!」
「……? ああ、分かっている」
龍興はおざなりに答えると、願証寺(注1)に向けて歩き出した。
坊主共はさぞや混乱し右往左往しているかと思いきや、願証寺は平穏そのものだった。ひょっとして間違えたかと周りを見回してみるが、伽藍は夢の中の願証寺そのものだ。龍興はすたすたと先を急いだ。坊主どもがどんなに分からず屋であろうと、さすがに美濃守護本人を追い返すことはあるまい。……だが龍興ははたと気付いた。
――む? そういえば面識がある者はいただろうか?
夢の中では大勢の坊主と顔を合わせているが、現実には当主就任の際に挨拶に来た僧くらいしか会っていない。
――あれは誰だっただろうか……?
夢で大勢の坊主の顔と名を知っているからこそ、現実に挨拶に来たのが誰だったか覚えていなかった。それ以外の坊主は龍興の顔など知らないのだから、正直に美濃守護だと名乗ったところで「嘘吐け!」と言われてしまうこと請け合いだ。
――そういえば、証意(願証寺の院主 注2)は考え事をする時に一人で茶室に籠もるとか聞いたな
龍興は茶室の場所も知っている。ならば試しにそちらを訪ねてみようかと考えた。
寺内をすたすたと歩く旅装の武士はそれなりに目立ったのだが、そこは勝手知ったる他人の寺。伽藍の配置は防衛上重要なので龍興の頭の中に入っていた。だから彼の迷いのない足取りに、それを見た坊主は「きっと三河の一揆関係者だな」と早合点してしまったのだった。そんな秘事に関わる者ならば取次なしに奥へと向かうのはむしろ当然のことであり、ただの坊主が関わることはいろんな意味で危険であった。そのため龍興は誰にも咎められることもなく茶室の近くまでやって来ることができた。来れてしまった。だがさすがに茶室の前には坊主が立っていた。
「……どなたか?」
さすがに坊主だけあって言葉は丁寧であったが、その顔には警戒心が溢れ、今にも犬のように唸りだしそうだった。しかし僧兵でもなければ寸鉄帯びぬ丸腰である。まだまだ願証寺は戦の覚悟が出来ていないようであった。
「美濃守護、斎藤右兵衛大夫龍興。証意殿に急ぎお会いしたい」
坊主は一瞬固まった。尾張の斯波や北近江の京極のような名前だけの守護でもなく、名も実もある(はず)の龍興本人が領外の寺(しかもほぼ敵対中)に一人でふらりとやってくるなど想像の埒外だ。その名乗りと常識が坊主頭の中でせめぎ合った結果、至極常識的な誤解が生まれた。
「……右兵衛大夫様の使いの方ですかな?」
「……うむ、某は松波庄八郎。重要で内々の使いだ」
そういう事にした。守護本人というよりはありそうな話である。龍興は太刀と脇差しを鞘ごと坊主に押し付けると、茶室の中に声を掛けた。
「三河の一揆はどうでも良い。足元のことについてお話したい」
しばらく間があったが、やがて障子が細く開いて応えがあった。
「お入りなされ」
「失礼する」
龍興はそう言って濡れ縁から上がろうとしてはたと気づいた。旅装のままで足も汚れていたのだ。手水鉢から柄杓で水を汲んで足にかけると、見張りの坊主が手伝おうかと身じろぎしたが手で制した。本来の身分であれば他人に足を濯がれて当然だが、密使の場合はどうか分からない。分からないから懐から手ぬぐいを出して自分で水を拭き取った。
「お待たせした」
障子を開けると三十歳ほどの坊主が居た。証意だ。夢の中の記憶より幾らか若い。
夢の中で長島願証寺が一揆を起こしたのは4〜5年ほど後のことだ。その時は証意も主戦派の一人として猛り狂っていた印象があるのだが、今はその覇気を感じなかった。
龍興の知る由も無いことだが、現在の証意は死んだ父の跡を継いだばかりで、彼の立場はまだ不確かだったのである。しかも夢で長島が挙兵したのは本山である石山本願寺が兵を挙げた後のことだったが、今は違う。本山は濃尾三の三国から遥かに離れた安全地帯にあるが、長島は三河松平家と同盟を結ぶ尾張織田家と美濃斉藤家に接しているのだ。彼らが長島を敵と見做すことは必定である。あまりにも危険であった。
だが証意は安易に反対できなかった。確かに証意は死んだ父の跡を継いでいたし、長島の門徒はそれを認めていた。しかし、まだ石山の法主から院家の相続を認められていないのだ。言ってしまえば、証意は相続の正式な認可を盾に、無理難題を押し付けられているとも言える状況だったのである。
「旅装のままで失礼致す」
龍興は畳が汚れないように風呂敷を広げその上に座った。作法として正しいか分からないが、気を遣っていることだけは証意にも伝わっただろう。
「まずは一杯、どうぞ」
「ありがたく頂きます」
ずずずと啜った茶はすこぶる渋かった。嫌がらせでわざとやってるのかと思ったが、証意はそういう表情でもない。単に苦みが気にならないほどに深く思い悩んでいるのかもしれなかった。
「ふう、美味しゅうございました」
「どういたしまして」
龍興は作法どおりに茶碗を返しながら、徐に尋ねた。
「ところで下間殿はお立ち寄りになられましたか?」
「……一揆の話はどうでもよかったのでは? 頼旦殿が一揆のために下向されたことは御存じであろう」
――げぇ、下間頼旦(注3)だったのか……
下間頼旦は夢の中で証意と一緒に長島一揆を主導したガッチガチの主戦派であった。目を瞑れば、長刀を振り回しながら「殺せ! 殺せ!」とツバを飛ばして騒いでいる姿が思い浮かぶ。……あれ? ホントに坊主だったかな?
「ごほん、三河の話はどうでも良いのです。それより本山の坊官が長島の有り様を見てどう思ったのか気になったのですよ」
「……というと?」
「このままでは長島は夏まで保ちませぬぞ」
「……!?」
証意は驚いたように龍興を見、ギロリと目を細めた。
「我らを脅すおつもりか……?」
龍興はゆるゆると首を振った。
「脅しというのは何かを要求し、それが叶えられない場合に被害を与えると予告することでしょう? しかし我らは何も求めておりませぬ。そして何も致しませぬ。ただこのままでは被害を受けると忠告しているのです」
「何を言う! 一揆を起こすなと暗に要求しておるではないか!」
「ですから三河の一揆などどうでも良いのです。濃尾の兵3万騎をいつでも援軍に出せるのですから、どうとでもなります」
そうなのだ。何をどう考えても、この状況で一揆を起こすのは分が悪過ぎるのである。濃尾を合わせれば100万石、兵三万は十分にあり得る数だ。安全圏にいる石山本願寺はともかく、濃尾に接する長島願証寺が自身を危険にさらしてまで協力する理由は無い。まあ何らかの利益提供は有るのだろうが、願証寺自体の存続が怪しくなっては本末転倒である。
「……今工事を止めれば大きな被害が出るのでは?」
証意の言葉に龍興は面食らった。梅雨を前に治水工事を中断すれば全てが台無しになる。(注4) なるほど、確かに普通はそうだろう。だが龍興ですら想定していたことを、半兵衛や信長が考慮していないとでも思っていたのだろうか? 思わずふっと苦笑が漏れた。
「……何が可笑しいのですかな?」
「失礼しました。そうですな、今工事を止めれば梅雨の時期には大変な被害が出るでしょう。……この長島に、ですが」
「なにっ!?」
「濃尾の平野とその周囲の山々に降った雨や雪の大半が揖斐川、木曽川、長良川の3つの大河に流れ込みます。工事によって上流での氾濫を防げば、今まで川から溢れていた水も含めて全てが河口に流れ込むのは必定。現に今でも、たいして雨も降っていないのに川船も出せない有様ではありませぬか」
「…………っ!」
証意は目を剥いて呆然とした。水かさが増えていること自体は知っていたのだろう。川船が止まっているのだから当然だ。だがそれと上流で行なわれた工事が結びついていなかったのだ。今初めてその因果関係に気付き、そしてそれがどんな未来を齎すのか悟ったのである。
「……ま、まさか、それを狙っての工事であったのか!?」
証意が目を剥いて龍興を睨んだ。その凶相は龍興が知る5年後の証意を彷彿とさせた。だが龍興は落ち着いたままじっと証意を見つめ返した。
「狙ってはいません」
本当のことである。龍興は狙ってはいなかった。龍興は。実際に計画を練った半兵衛と信長はどうだか知らんけど。
「ただし想定はしました。民百姓のための治水工事を邪魔する者が現れることを」
「……っ!」
まさに今それを口にしたばかりの証意には言い返すことができなかった。
「だから我々は美濃と尾張の総力を挙げて工事を急ぎました。それはあなた方にも伝えたはずです。工事の詳細も隠してはいません。雇い入れた人夫からあなた方も聞き及んでいるはずです」
それはそうだ。全ては後で批難されるのを避けるため、敢えてやっていたのだから。
「そ、それは……。だが、それならそうとはっきり言ってくれれば……!」
龍興は「ふっ」と小さく嗤った。
「守護不入を建前に我らの干渉を拒絶していたのはそちらでありましょう。我らは最大限配慮していたはずです」
そして龍興はふうと溜め息を吐くと、声を低く吐き捨てた。
「……一揆に気を取られて治水を疎かにしたのはあなた方だ」
「…………」
証意はぐっと唇を嚙みしめた。それが龍興達への敵意なのか、それとも危険に気付かなかった己への悔悟なのかは分からない。だが少なからず心は揺れているはずだ。憎しみや怒りばかりではない。ここだ。龍興はすかさず救いの手を差し伸べた。
「……しかし、このまま長島の民が水底へ沈むのは我らにとっても後味が悪い。長島の治水も急ぎ行うとして、我らの方でも手を打ちましょう」
「ま、まことかっ!?」
証意は目を剥いて驚いた。三河一揆の事がバレているというのに、まさに敵対しようとしている美濃の者が譲歩してくれるとは思わなかったのだ。まあ確かに、龍興じゃなかったら譲歩しなかっただろうし、龍興がそうする理由も龍興以外からは完全に謎であったが。
「遊水池にもう一度水を流しましょう。本当は水を抜いて農地にする予定だったのですが……」
龍興は首を振った。それはもう実に残念そうに、そして恩着せがましく。ただでさえ利のない事をするのだから、せめて何かの譲歩を引き出したいのだ。
「おお、それはありがたい!」
「長島の民を守るためには、遊水池を溜め池としてより多くの水を蓄えられるようにしなくては。それに梅雨までに工事を終わらせる必要があります。しかしここまでの工事でも大変な費えでして……」
「それなら費用は我らが出しましょう! 人手も用意しましょうぞ!」
そう言って証意は龍興の手を取って深々と頭を垂れた。
「長島の全ての民に代わって、深く感謝致しまする」
馬を貸してくれた上に証意自ら山門まで来て見送るという厚遇を受けながら、龍興は無事に願証寺を出た。事情を知らない僧たちに胡乱な目を向けられたが、後々龍興のホントの身分を知れば納得するだろう。……逆に証意がビックリするだろうけど。 すぐに龍興は清須に向かった。
追加工事の費用はせしめたものの、だからといって長島を無力化するという(半兵衛と信長にとっての)本来の目的を断念することには変わりが無い。しかも放っておけばそうなるというのに、わざわざ止めようというのだ。完全に龍興の我が儘である。
「何と言って説得しようか……」
いろいろ考えながらも良案が思い浮かばず、そうこうするうちに清洲城に辿り着いてしまった。龍興が清洲を訪れるのは久しぶりだが、十兵衛の先触れもあってすんなりと本丸御殿まで通されてしまった。そして待ち時間も無くすぐさま信長との面会である。余人には羨望されそうな好待遇なのだが、龍興本人は刑場に引き出される罪人の気分であった。なんか室町第に連行された時のようである。
「龍興、よう参った。元気そうだな」
信長は機嫌良さそうなにこやかな表情だったが、これがすぐに般若のごとき表情になるとを思うと龍興は身の竦む思いである。
「お、叔父上にも、お変わりなく……」
「叔父上は止めろ。お主、お濃のことを義姉と呼んでおるそうではないか。儂のことも義兄と呼べ」
この気安い振る舞いが、今の龍興には逆に恐かった。だが勿論、断ることもできない。
「叔……義兄上、長らく留守にしておりましたが、ただいま京より戻りました」
「京というより堺であろう? 随分とゆっくりしておったものよ」
龍興が美濃の政を放棄して堺で趣味に没頭していたことも、信長にしてみれば「わざと」そうしていたように見える。この間に信長は治水工事にかこつけて美濃の国人達と書状をやりとりし、あるいは直接面会することで相互理解を深めていた。いわば龍興公認の元で調略していたようなものだ。国人達の方も、やがて(事実上の)主君となる信長と繋がりを得ることに積極的で、この調略は順調に進んでいた。別に現主君の龍興を裏切るわけでもないのだから、誰にとっても抵抗は少なかろうというものだ。
「書状でお伝えしたとおり、関白殿下並びに太閤殿下の許しは得られました。予定通り10年間に渡り毎年500貫の銭を収めることになりました」
これは既定のことなので、予め信長も承知していたことである。
「うむ。これで朝廷工作もやりやすくなろう」
「……されど、公方様には目を付けられたかもしれませぬ」
言わない訳にはいかないので言ってみたものの、信長は意外な反応を見せた。爆笑したのである。
「ハッハッハ! 石灯籠を切ったそうだな! たいそう話題になっておるそうではないか!」
信長は嬉しそうだが、実際に公方の魔の手(=細川藤孝)から逃げ回った龍興には面白くないことだ。
「……止むに止まれず」
「どうしたら止むを得ず石灯籠を切らねばならなくなるのだ?」
「……公方に石切兼房を突き返されては、値が下がってしまいます」
「くっくっく! さすがじゃ! その商魂、見上げたものよ!」
信長は御機嫌だが、その直前に(自分から望んだこととはいえ)近衛家に4500貫の借金(正確には賠償金)を負った龍興にしてみれば冗談では済まされない話である。龍興は石切兼房を高値で売りさばく必要があったのだ。それを台無しにしようとした義輝が悪いのであって、龍興は悪くない。赤松某みたいに公方を殺さなかっただけ、むしろ褒められてしかるべきなのである。……あ、一応褒められてはいるのか。
「ところで、長島の件ですが……」
「うむ。半兵衛はなかなかやりおるの。上手く進んでおるわ」
やっぱり信長は長島を押し流す気マンマンのようだ。これは言い辛い。長島を生かしてもし戦になれば、夢の中のように無茶苦茶な被害を受けるのだろう。そうなったら龍興は恨まれるかもしれない。
だがその未来を知るのは龍興一人である。信長にしてみれば現状では可能性の一つに過ぎない。それなのに問答無用に長島の民を皆殺しにするのは間違っている気がした。
龍興は手を付いて額を床につけた。
「伏してお願い致します。なんとか長島を生かして頂けないでしょうか」
「……ナニ?」
信長の声には冷気が宿っていた。表情は見えない。見たくない。だって恐いから!
「長島には無辜の民も大勢住んでおります。問答無用で押し流せば、必ずや悪評が流れましょう」
「罪は治水を疎かにした願証寺にある。そうではないか?」
そうだ。表向きはそうだ。信長や半兵衛の意図はともかく、表向きはただの治水工事なのだ。だから工事内容は隠すどころか積極的に開示している。それどころか「こういう工事するから物品を売ってくれ」とこちらから教えて、「銭を払うから工事に従事しろ」と一向門徒を雇い入れたりまでしている。だから危険に気付かない願証寺がマヌケなのだ。少なくともそう言い張ることは出来る。
「そうです。しかし瑕疵が誰にあろうとも、無辜の民が死ぬことに変わりありませぬ!」
「……まさかお主が、そのように甘えたことを言うとは思わなんだわ」
呆れか、怒りか、信長の声は平坦だった。それだけにぶり返しが恐ろしい。せめてここに帰蝶がいれば、信長を宥めてくれたかもしれないのだが。……いや、あの人は笑うか煽るかのような気もするが。
龍興が平伏し信長が黙り込む中、小姓がやってきて信長に告げた。
「竹中半兵衛殿がお越しになられました」
「通せ」
一言である。不機嫌の表れであった。ヤバい。
やがて半兵衛がやって来て口上を述べようとしたが、それも手で制した。超絶不機嫌の表れである。ヤバい。明らかにヤバい!
「半兵衛、龍興が長島を生かせと申しておる」
「……それは、どういう事でございましょう?」
半兵衛の声にも戸惑いと不満の色があった。ヤバーい! 龍興は慌てて説明(あるいは釈明)をした。
「証意は銭も人手も出すと言っておる。遊水池に堤を設けて溜め池とし、川の水量を調整するのだ!」
そう、追加の出費は無いのだ! それで堪えてくれ!
「…………っ!」
半兵衛は信じられない物を見たかのように瞠目し、やがて瘧のようにワナワナと震えだした。そして彼はがばりと勢いよく……平伏した。
「申し訳ありませんっっ!!」
「「…………」」
何を謝っているのか全く分からず、信長と龍興は思わず見つめ合った。
「某はてっきり長島に洪水を起こして無力化する策だとばかり思っておりました! まさか、まさか……首輪を付けて丸ごと手に入れるおつもりでしたとわっ!」
――は? 何言ってんの、コイツ?
内心でポカーンとする龍興を余所に、信長は膝を打った。
「なるほど! 溜め池の水を解き放てば、長島はいつでも水に沈めることが出来る! 生かさず殺さず、我らの自由に出来るということか!」
「ええぇぇぇ……」
龍興はドン引きである。いや、もともと問答無用で皆殺しにする酷い策だったんだけど、「いつでも殺せるんだぞ?」と脅して奴隷にするのも同じくらい酷い。善良で無垢で無辜な龍興が呻くのも当然のことであろう。だが龍興の呻きも半兵衛と信長には同意の応えと受け取られた。
「見事じゃ龍興! そうよな、無辜の民が水害に苦しむことはなんとしても避けねばならん!」
くっくっくと漏れ出るその笑みは、とても民の幸せを願う領主のものとは思えなかった。だから、だから龍興は意を決してこう答えたのである。
「そ、そうですねー」
だって龍興はそんなこと考えてなかったから! それに願証寺が大人しくしてれば誰もが幸せでいられるのだから!
こうしてこれまで遊水池となっていた大小12カ所に堤を作り溜め池にすることになった。しかも長島願証寺の銭で。
梅雨までの完成を目指す願証寺は銭に糸目を付けず、広く濃尾の民を数多く高値で雇い入れた。
おかげで工事はなんとか水量が増える前に終わり、長島が水底に沈むことは回避された。ついでに雇われた濃尾の民は大いに潤うことになったし、おかげで願証寺は三河の一揆を支援する余力を失った。
この工事の間に三河で一向一揆があったそうだが、龍興が援軍を出すまでもなくあっという間に終わってしまった。一揆の知らせを聞いて、「どこにどれくらい援軍を送れば良いのか?」と問い合わせの使者を送ったら、その使者が国境に着いたときにはもう終わっていたという。
内情を聞くに、期待されていた長島願証寺からの支援が拒絶されたことで、もともと蜂起の必要性に疑問を抱いていた坊主や門徒たちがさっさと離脱したらしい。彼らにしてみれば、「法主の一族である証意ですら協力しないのだから、自分たちが従う必要などない」と言うわけだ。だって初めから負け確定なんだもん。
そのため残った主戦派も「本山に言われたから仕方無く……」という形ばかりの蜂起となってしまった。蜂起と同時に岡崎に使者を送り、予め知らされていた(一向門徒でもある)松平家家臣との間で台本通りの交渉を行ない、申し訳程度の税の減免を勝ち取って(そしてその裏では荘園内への立ち入りの権利や綿花売買の利権で松平家に大きく譲歩して)一滴の血も流れぬままに筵旗を降ろしたという。これらの裏事情も一向門徒でもある家臣からダダ漏れで、ホクホク顔の松平元康は長島願証寺に支援を中止させた事について丁重な感謝状を送ってきた。
巡り巡って、何が何だか分らないうちに事態は全て収束してしまった。龍興としては全く想定外の流れである。彼は思わず呟いた。
「情けは人のためならず」
いやまあ善意の連鎖というよりは途中から打算だらけだったんだけど、結果として不幸になった人はあんまりいないんじゃないだろうか?
「もっとも、下間頼旦には無茶苦茶恨まれてそうだなぁ……」
目を瞑れば薙刀を振り回して暴れる彼の姿が目に浮かぶようである。実際に立ち会ったら簡単に勝てると思うんだけど、殺したら殺したでなんか理不尽に呪われそうである。
「殿、摂津の荒木様から文が届いております」
「うむ」
堺より帰ってきて以来、時折荒木村重から文が届くようになった。近衛前久や今井宗久、十河孫六郎などからも届くが、やはり多額の銭を渡しただけあって村重が一番筆まめである。
「そうか、三好義興が死んだか……」
夢の通りである。龍興にとっては一面識も無い相手だが、別に恨みがあるわけでもないので悲しんで見せるくらいの配慮はあった。
「ふむふむ、孫六郎殿が養嗣子に……って、ええええぇっ!?」
三好義興が病死したのは夢の通りだった。十河孫六郎が三好本家の跡継ぎになったのも夢の通りだ。問題はその後だ。
「三好長慶が……管領代(注5)だとぉ!?」
時代の流れが、龍興の見た夢とは違う方向へと流れ始めていた。
注1 願証寺
長島にある浄土真宗本願寺派のお寺です。初代は本願寺8世蓮如の6男蓮淳です。
蓮如といえば本願寺派中興の祖です。……っていうか、蓮如以前は本願寺派って浄土真宗の中ではどマイナーだったんですよ。現代人からすると、「浄土真宗=本願寺派」くらいの印象がありますけどね。
メジャーなところは大谷派とイチロー派でした。……間違えました。大谷派と高田派です。
高田派は親鸞聖人が生前に夢のお告げに基づいて建立した専修寺が中心となっています。親鸞に名指しで寺を託された弟子の系譜です。
そして大谷派には親鸞が京で入滅(つまり死亡)した後に遺骸を祀った大谷廟堂があります。え? 大谷派は東本願寺だろうって? いや、この時点では大谷派は本願寺派とは別物で、やっぱり親鸞の弟子の系譜なんですよ。
対して本願寺派は親鸞の血のつながった子孫の系譜。各地で割拠する諸派を糾合しようとして……ポシャりました。だって坊主の世界で釈迦でもない人の子孫って言ってもねぇ?
しかーし、そこに蓮如が登場します。まず蓮如は普通に大谷派の宗主になりました。そしてその後に親父が死んで本願寺派の宗主にもなったのです。
つまり、真面目に勤務して東証一部上場の大手菓子メーカーの社長に就任した後に、実家の(伝統はあるけど潰れる寸前の)和菓子屋も相続した感じ?
そしてなんか一体化しちゃいます。和菓子屋従業員は大歓喜ですね!
そいでもってこの蓮如、以前紹介した堺幕府にも関わってますが、加賀の一向一揆に関わっています。最初は例によって加賀守護富樫家の内輪もめだったんですけど、そこに介入してきた高田派と組んだ相手方とガチバトル。いや、それって単に高田派と戦いたかっただけでは? そして勝ったら勝ったで味方にも危険視されて(いや、当然でしょ?)、今度は守護家とバトル! それにも勝っちゃったので加賀一国が転がり込みました。ヤッタネ!
おかげで反体制派とのレッテルを貼られ(いや、実際そうじゃん!?)、時の将軍足利義尚に討伐されそうになります。が、なんやかんや幕府内で揉めてる間に義尚が病死。全ては有耶無耶になります。ヤッタネ!
一応蓮如は責任を取って(あるいはただ逃亡しただけ?)隠居しますが、跡を継いだのは5男の実如。6男蓮淳は同母弟で、子ども同士が結婚してたりするとても親しい血族だったのです。
だから蓮淳が長島に配置されて伊勢・美濃・尾張の統括となるのも当然ですね。なにしろ高田派の本拠の専修寺が伊勢にあることを考えると、かなり重要な拠点ですから。(完全に武家の発想)
注2 証意
願証寺の4代目。
長島一向一揆の際の院主です。もちろんガッチガチのタカ派。
そして一回目の一揆の後に暗殺されます。南無南無。
そして11歳の息子が5代目になりました。うーん、転生者設定のチベット仏教でも11歳なら修行してると思いますよ?
注3 下間頼旦
本願寺の暴漢……もとい、坊官です。伊勢長島の一向一揆の際には、本山の命を受けて一揆を主導しました。
ガッチガチのタカ派。いや、下間一族でハト派なんて知らんけど。
そして下間頼旦と言えばゴールドライタンです。……いや、全然関係無いんですけど。でも「らいたん」と聞くとゴールドライタンを思い出す人はいるはず! ……いるよね?
ちなみにゴールドライタンは往年の子供向けアニメのキャラで、異世界からやって来た侵略者をやっつける、異世界からやって来た戦士です。ついでに異世界で戦ってくんないかな?
ともかく彼は巨大な箱形ロボットなのですが、普段はライターに偽装しています。もちろんゴールド。めっちゃ成金センスの金ピカライターです。たぶんガス式。
そんなヤクザか成金しか持ってなさそうなライターを現地協力者の少年に持たせて偽装(?)してるのです。めっちゃ悪目立ちしそうじゃね?
でもね、私は思うのです。下間頼旦には成金ライターが似合いそうだな、と。
注4 治水工事の失敗
治水&開墾工事が中断中に大失敗しちゃった例があります。田沼意次の印旛沼開拓です。
利根川を東京湾じゃなくて太平洋側に曲げちゃえという、巨大プロジェクトでもありました。
めっちゃ大工事だったんですが、飢饉が重なって資金が枯渇。一時中断してる間に大洪水で堤が崩壊して全てが泡と消えました……。
もし5年前にやっとけば、新田で出来たコメで飢饉の被害が抑えられて、田沼意次は教科書に悪口書かれなくて済んだ……かもしれない。
注5 管領代
文字通り管領の代理です。管領職は将軍就任時に補任されるのが通例だったそうで、途中で管領が死んだり病気引退したりすると管領代を任命して事実上の管領にしたそうな。当然三管領(細川、斯波、畠山)家の当主がなるわけです。しかし例外もあって、管領の細川高国がいるのに大内義興を管領代にしたり、細川晴元が管領なのに六角定頼を管領代にしたことがあります。
大内義興は将軍職から追放された足利義尹(義稙)をもう一度将軍にした人ですし、六角定頼は三好に負けて都落ちしてた義晴、義輝を庇護してた人です。
まあ、名誉職なんでしょうけど、三管領家以外の人からしたら最高峰の名誉なわけです。
ちなみに、似たようなのに副将軍がありますが、足利直義、今川範政、斯波義寛とさすがに足利一門が補任されています。まあ、織田信長も打診されて断ってるんですけどね。あと実は毛利輝元も補任されてたりもします。……まあ、幕府自体が崩壊した後ですけどね。