僧兵
数日後、一乗院に行っていた光秀がひょっこり現れたのと前後して、松永弾正の急使が柳生の庄を訪れた。
「筒井に動きあり! 柳生但馬守様におかれましては、いつでも動けるよう戦支度をお願い仕る!」
「相分かった」
宗厳に驚きは無かった。
「久秀が病に倒れて京から曲直瀬道三を呼び寄せている」
と喧伝している以上、筒井に動きがあることは想定できていた。そこで弾正が自ら出陣して
「さては我らをおびき寄せるための仮病であったか!」
と動揺させて手痛い反撃を食らわせるのだ。
そしてその一方で、何かの拍子に曲直瀬道三が行方不明になっていることが明らかになった時、
「そういえば松永が仮病を使って筒井をおびき出してたぞ。その時に曲直瀬道三を呼び寄せたとか噂になってたなぁ」
と誰か(・)が呟けば、
「なるほど、仮病に真実味を持たせるために連れて行ったのか」
と納得するのである。
実は、これこそが久秀の本当の目的なのである。非常に回りくどい。だけど損も無い。ついでに筒井を叩ける一石二鳥の策であった。まあ曲直瀬道三にこっそり治療させている三好義興は、治療の甲斐なく死んでしまうのだけど。
もっとも龍興は、夢で知った「三好義興がもうすぐ病死する」ということと、本人から聞いた「久秀が仮病を使っていて、その偽装のために曲直瀬道三の名を利用している」ということしか知らない。筒井が挙兵するという話を聞いて、単純に「筒井を誘うためだったんだな」と納得していたところである。久秀の真の目的が、義興の病を隠すためだとは思ってもみないところだった。
しかしそろそろ堺に戻ろうかと思っていたのに迷惑な話である。南都を横切ることになるので、道中の安全が大変に不安なのだ。かといって北から京を経由するのは本末転倒。幕臣に捕まったら目も当てられない。東に伊賀から北伊勢に抜けるのも不安である。北から琵琶湖沿いに東に抜けて美濃に帰るのが一番穏当であろうが、それでも六角と浅井が対峙する間を抜けることになってしまう。
「いくらか兵をお付けしましょうか?」
宗厳は気を遣ってくれたが、それでは返って筒井勢に狙われかねない。龍興が悩んでいると光秀が懐から書状を取り出した。
「そのことですが、覚慶様より御墨付きを頂いております」
「ほう?」
光秀が差し出した書状には、「この書状を持つ者たちは一乗院門跡たる覚慶に縁のある者なので、通行に関して配慮するように」という内容が書かれていた。一乗院門跡は興福寺別当であり、他の国の守護職に匹敵する地位だ。さらには覚慶が公方の弟であり関白の従兄弟であることも大和の者たちには広く知られている。その覚慶は現時点では筒井にも松永にも(少なくとも明確には)組みしていない。だからこの書状を持つ者を害して覚慶を敵に回すことは、どちらの陣営にとっても絶対に避けねばならないはずだ。
――だからこそ危険な気もするのだが……
劣勢の側が情勢をひっくり返すために、龍興たちを殺して相手方の仕業に見せかけるということもあり得る。……いや、普通ならさすがにそこまで恥知らずな事はしないが、久秀ならやりかねない。……いや、たぶんやる。きっとやるだろう。絶対にやるに違いない。ああ、松永勢が優勢で本当に良かった!
「では早々に堺に向かうとしよう」
「はっ」
こうして龍興と光秀は二人だけで堺へと向かった。徒歩である。馬を貸してくれる(そして天王寺屋に預けておけばそのうち取りに行く)という申し出もあったが、返って目立ちそうだからと断った。
それから数日、案に相違して二人の旅路は平穏だった。途中の南都も変わった様子もなく、常設の関所以外で止められることも無いまま大和国を抜け河内国に入ろうとしていた。
「右兵衛大夫様……」
「うむ、居るな」
光秀の警告を聞くまでもなく龍興も異変を感じていた。街道の両脇に迫る森から鳥と獣の声が消えていたのだ。二人とも山裾で育っていて狩猟の経験も多いので、その変化には敏感である。その上少人数で放浪していた経験(龍興のは夢の中でだけど)もあるので、野盗に対する警戒も忘れたことはない。
「このあたりは三好方のはずですが……」
「もとは畠山の所領だ。少数なら筒井なり畠山なりの兵が忍んでいても不思議ではあるまい」
厳密に言うと河内の畠山は紀伊の畠山とは対立したりしなかったりするので、どっちが反三好だとか、反三好だけど反筒井だとか、反三好だけど同族争いの方が優先だとか、いろいろ有り得そうなのだが詳しくは覚えていない。というか夢の中で龍興が堺に来たすぐ後には、反三好/親三好ではなく反織田/親織田で語られる時代になったのだ。それ以前の勢力図などわざわざ覚える必要性が無かったのである。
二人が周囲に気を配りながら歩いていくと、その先を塞ぐように十人ほどの僧兵たちが森からぞろぞろと歩み出てきた。
「……盗賊ではないようだな」
龍興は小さく呟いた。それは彼らが僧兵だったからではない。問答無用で矢を射掛けてこなかったからだ。盗賊が身を晒して「命が惜しくば銭を置いて行け」などと言えるのは、相手に抵抗の手段が無い時だけだ。しかるに龍興も十兵衛もこれみよがしに太刀を吊っている。「脅しに屈するくらいならば……!」と全力で抵抗された場合、何人かは死ぬことになる。何も言わずに矢で射殺して身包み剥ぐのが一番安全なのだ。だが彼らはそうしなかった。つまり、場合によっては素通りさせるつもりだということだ。では逆に、素通りさせないのはどういう者か。
――この数ではまとまった兵力を押し止めることもできまい。止められるのは精々が使番(使者)程度か……
そして先に通ってきた関所は松永方の兵が押さえていた。つまり反三好勢力の者はこの街道を通れないのだ。ならばこの僧兵達が標的にしているのは三好か松永の使番ということになる。まあそもそも、僧兵というだけで十中八九は筒井方なのだが。(注1)
「止まれ!」
随分と居丈高に僧兵が叫んだ。虚を突かれて、龍興と光秀は互いに見つめ合った。まさかいきなりこんなに高圧的だとは思っていなかったのだ。
「その方らは何者だっ!?」
そういうお前らは何者だよと言いたいが、龍興は我慢した。龍興の仏僧に対する反発と不信感は根が深いのだが、それでも我慢して敢然と口を開いた。
「……十兵衛、任せた」
投げた。こういう面倒な交渉事は光秀の得意とするところなのだ。(たぶん) 適材適所である。(きっと)
「あー、我らは美濃……一色家の者だ。所用があって興福寺一乗院を訪れた帰路である」
光秀は敢えて一色家を名乗った。美濃守護代でしかない斎藤姓より、幕府の名門たる一色姓の方が通りが良かろうとの判断である。
「一色……? 丹後ではないのか?」
一色家と言えば四職筆頭。でも現在は丹後一国の守護職でしかない。若狭は甲斐武田の分家の分家に与えられ、本貫地のある三河は国人が割拠して、その縁は「三河の守護は一色氏じゃないとダメ!」という嫌がらせのような縛りに残されているだけだ。没落しまくっているが、室町幕府の名門はだいたい没落しまくっているので、一国だけでも保持しているだけマシな方である。
「美濃だ。美濃守護一色右兵衛大夫様の命にて一乗院に参った。その証拠に御門跡様の書付けもある」
十兵衛が開いて見せたお墨付きを見て、僧兵が小さく溢した。
「……怪しい」
龍興も心の中で同意した。そもそも傀儡でもない大名がふらふらと旅をしているんだから怪しくないはずもない。でも一応公務っぽいことはしているのだ。家出して高野山まで行って出家しようとしたどこぞの関東管領よりはマシではないだろうか。もっともこの僧兵は、単に美濃と一色姓が結びつかなかっただけなのだが。
「……しかし我らも忙しい。ここはどうだろう。幾らかお布施があれば、我らは何も見なかったことにしても良いが」
「…………!」
龍興は呆然としてしまった。唐突すぎて話の前後が全く繋がっていない。それなのに自然に堂々とあからさまに賄賂を要求する口ぶりがあまりにも熟れていた。形ばかりとはいえ僧形なのに、もうちょっと体裁を取り繕わなくて良いのだろうか?
「ふむ、では……」
龍興の驚愕を置いてきぼりにして、光秀も自然に金子を取り出そうとしていた。これまた吃驚である。
「十兵衛っ!」
龍興は思わず制止の声を上げてしまったが、冷静に考えて小銭を惜しんで命を賭けるのは馬鹿げていた。この場にいる僧兵10人だけならともかく、恐らく森には弓兵が潜んでいる。龍興なら必ずそうする。切り合うには分が悪いだろう。ここは平和的に解決したいところだ。
「……それだけでは少なかろう。追加で500貫を進呈しよう」
「は?」
あり得ない金額に僧兵が唖然としている隙に、龍興は僅かに腰を落とすと右手を太刀の柄に添えた。
キンッ
次の瞬間、僧兵の持つ薙刀の刃が半分になっていた。
「なっ!?」
「えっ!?」
林崎夢想流抜刀術……モドキである。林崎甚助にコツを教えてもらって指導を受けたので、それなりに様になっていた。もちろん甚助とは比較にもならない速度だが、抜刀術自体が珍しいので初見の相手なら意表を突くには十分だ。また抜刀の瞬間に深く集中することで、自然と耳鳴りも起きるようになっていた。受太刀と違って耳鳴りが一瞬で済むので、疲労も格段に少ないという利点があった。
その速度と鋼の刃が真っ二つになるという結果に、僧兵たちは敵意より何より驚愕が上回った。初見の光秀までもが驚愕している内に、龍興はささっと納刀して戦うつもりが無いことを示した……つもりだ。まあ、納刀していても全く油断できないことは既に示しちゃった訳だが。
「どうだ? 室町の公方様は俺の一振りに500貫の値を付けたぞ」
正確には500貫の値が付いた石切兼房を突き返……もとい、下賜されたのである。もっとも石灯籠の修理代という名目で細川藤孝に押し付けてきたのだけど。
「まだ足りぬというのであれば……ふむ、10人か。あと5000貫分くれてやっても良いぞ?」
そう言って左手で鯉口を切ると、僧兵は慌てて首を横に振った。
「いやいや、結構! もう十分です!」
僧兵たちが数を頼みに襲い掛かれば、龍興たちを殺すことは出来るかもしれない。でも確実に何人かは死ぬのだ。特に龍興の眼の前にいるこの僧兵は絶対に死ぬ。あっと言う間もなく死ぬ。ひょっとしたら全員死ぬかもしれない。そもそも龍興たちは敵でもなんでもないのに!
しかしここで龍興達がドヤ顔で去っていけば、危機を脱した僧兵たちが後ろから矢を射てくる可能性もある。だから龍興は僧兵たちに金子以外の土産を持たせて、松永方ではないことを証明することにした。
「お主らに良いことを教えてやろう。松永のクソジジイならピンピンしているぞ。まったく、仮病に真実味を持たせるために曲直瀬道三まで連れて来るとは迷惑千万! 京の貴顕に病人が出たらどうするつもりなのかっ!」
これは身を守るためである。仕方なく漏らした秘密である。決して久秀への意趣返しではないのである。
「そ、それは真かっ!?」
「戦をすれば嫌でも分かるさ。本人が手薬練引いて出陣してくるからな」
その言葉を聞いて真実味を感じたのか、僧兵たちはこそこそと相談してから慌てて森の中に消えていった。どこに向かったのかは分からないが、松永方に見つからないように山中を歩いていくのかと思えばご苦労なことである。案の定、龍興たちが河内国に向かっても後ろから矢が飛んでくることも無かった。
「右兵衛大夫様、よろしかったのですか?」
光秀が心配そうな顔をしていた。龍興も少し後悔があった。
「うむ、やはり皆殺しにすべきだったかな……」
「いえいえ、そうではなく! ……霜台(松永久秀)殿の仮病を筒井方に教えたことです」
「え、そっち?」
龍興は首を傾げた。
「松永や三好は敵でもないが味方でもない。口止めもされておらぬ。問題なかろう」
「そうは仰いますが、もし右兵衛大夫様が漏らしたとバレれば、霜台殿はお怒りになりましょう」
あの僧兵たちが龍興たちのことを黙っている理由もないので、薙刀の刃を切り落とした美濃の武芸者の話も広まるだろう。少なくとも柳生宗厳には誰のことかバレバレである。
「もう筒井は動き出しているのだ、それを咎めて攻め込むには十分な理由だろう」
だから仮病は既に目的を達しているのだ。今暴露したところで(そんなには)影響はない……はずだ。たぶん。
「曲直瀬殿の件でも悪し様に罵っておられましたが……」
「事実だろ? どの道バレる事なんだから、早いか遅いかだ」
龍興は久秀が本当に曲直瀬道三を呼び寄せていると思っていたのだ。仮病だということは本人が出陣すればバレることなのだし、そうなれば医聖とまで呼ばれる名医を謀略に利用したとして非難を受けるのは当然であろう。もっとも本当は、曲直瀬道三は摂津の芥川山城で三好義興の治療をしているのだけど。
二人はその後誰に邪魔されることもなく河内国に入り、ついでに関所で筒井方の僧兵が出たと告げ口をしておき、順調に堺に辿り着くことが出来た。
この後大和では、筒井氏がかつての居城筒井城を取り戻そうと挙兵したものの、病に伏していたはずの松永久秀が満を持して出陣、筒井勢を大いに破った。その後捕虜にした僧兵を尋問したところ、美濃の剣客が「弾正の病は仮病である」と語っていたことが分かった。それを聞いた久秀と側近の柳生宗厳は視線を合わせて渋い顔になった。だがその剣客が「医聖を謀略に用いるは不実なり」と大いに憤ったと聞いて、久秀は呵々と大笑した。
事情を知らぬ者たちが不思議そうに首を傾げる中、宗厳は唸りながら「是ぞ虚実なり」とだけ語ったという。
最後の段落について質問が来そうなので前もって解説しておきます。
久秀の主目的は三好義興の病を隠すことで、そのため曲直瀬道三が治療に当たってることを隠そうとしています。そして龍興が三好義興の病(と、その治療に曲直瀬道三が当たっていること)を知りながら好意から黙っていてくれてると思ってます。(実際には龍興は曲直瀬道三の関わりは知らない)
そして「龍興が仮病をバラした」と聞いて敵に回ったかと渋い顔をしたものの、「久秀が仮病のために曲直瀬道三を連れ出してる」という嘘だと分かってるはずの偽情報に怒ってみせたと聞いて、「本当に信じ込ませたい嘘を筒井方に刷り込んだのだな」と誤解しています。
うーん、ややこしい。本文でさらっと伝わらないということは、偏に私の力不足です。
注1 筒井氏
筒井氏といえば筒井順慶が有名です。なぜ有名かといえば……あれ? 何した人だっけ? えーと、松永久秀と争いました。そして(松永久秀の対抗馬としてなぜか足利義昭に)所領を安堵されました。その後(松永久秀が文字通り自爆したので)大和の国主として認められました。うーん、微妙。
そんなわけで筒井氏なんてただの国人だろうと思っていたのですが、実は、ちょっとアレな国人でした。……間違えました、レアな国人でした。もともと筒井氏は興福寺の僧兵の棟梁という凄いのかしょぼいのか良く分からん立場だったのです。うーん、微妙。僧兵といえば比叡山延暦寺とか根来寺が有名どころですが、そこの僧兵の代表の名前なんて知らんでしょ? え、本願寺の下間一族? あれらは僧兵というより指揮官ですから。むしろ今川の太原雪斎に近いのではないかと。
ともかく筒井氏とかの興福寺僧兵団は荘園の管理していました。普通の公家や神社なら適当な武士を代官に立てて済ませるようなところを、子飼いの僧兵にやらせてたのです。雇った武士団に横領されるのが怖かったんでしょうね。
しかしこの興福寺、ただの寺ではなく大和国の守護所(と同等)でもありました。つまり興福寺別当は大和の守護職に匹敵します。そして別当職には一条院門跡か大乗院門跡がなります。そうなると当然、室町幕府恒例の内ゲバが起こります。ホント懲りないね……。
この時筒井氏は一条院に付き大乗院には(筒井氏と似たような立場の)番条氏が付きますが、この抗争で筒井氏は番条氏を下し、後に家臣化します。
……うん、これって拙いパターンですよね。上が同族(?)争いしている間に、下は権力(と戦力と生産力)を集約しちゃった訳です。他の国なら下剋上待ったなし。でも、筒井がどう頑張っても興福寺のトップにはなれないのですよ。そもそも高位の公家じゃないと門跡になれないので。そして門跡の地位は世襲ではありません。だって妻帯しないから。次の門跡は京の人間が京で任命されるのです。僧兵が寺に踏み入って門跡を傀儡化しても、京で次の門跡を任命されてしまえば正当性は霧散します。下剋上は無理です。
しかしいかに筒井氏が「興福寺」内で絶大な戦力を抱えていようと、「大和国」には他にいくらでも国人がいたわけで、普通にそれらと抗争して拡大しました。柳生もその一つですね。
結論としては、発祥が多少ユニークで寺の予算で配下の兵隊を養うことが出来るだけの普通(?)の国人という理解でOKでしょう。
ただ興福寺(特に一条院)と筒井氏の関係性が良くわかりません。「一定の年貢と上納金を持って来れば何しててもOK」くらいだと思うんですけどね。