無鍔流
龍興が夢の中で柳生の名を耳にしたのは、美濃を追われ堺に身を寄せていた時のことだった。その時聞いたのは、柳生の当主がやたら強いという話と、その強い柳生が新陰流にあっさりやられて弟子になったという話だった。たかが弱小国人、一剣士の話だが、それが大いに話題になるほどに畿内の人々にとっては衝撃的だったのだ。
だからこそ龍興は足を伸ばして柳生の庄に赴いたわけだが、大名だとバレると手加減されるかもしれないと思って偽名を名乗り、いざ修行……というところで、まだ新陰流に弟子入りしていないことが分かってしまった。つまり現時点で柳生で学べる剣術は、数年以内に捨てられるものなのだ。なんだか急にやる気が失せてしまった。
そうなると木刀で打たれて怪我をするのも馬鹿馬鹿しい。そこで平助だ。二回りも三回りも小さい平助なら、木刀で打たれても大した怪我を負うこともないだろう。それに宗厳の英才教育のおかげで色々な流派の型を知っているらしい。龍興自身はそれらを修める気は無いが、将来的には様々な流派の剣客を相手にすることになるかもしれない。ならばその剣筋を知っておくことは悪くあるまいと、平助との打ち合いを申し出たのだ。まあ、打ち合いというより打たれっぱなしの受けっぱなしだったが。
しかしただ受けるばかりではない。常に平助の剣を切るつもりで受け続けた。龍興の剣に反撃は不要。真剣なら相手の剣を切り落としている。さすれば後はどうとでもなろう。しかし平助にはそれが分かろうはずもなく、不思議そうな顔をしていた。
四日目の朝、遠くで樵が木を切る音が聞こえてふと思いたった。そういえば木を切ったことは無いな、と。竹なら何度か切ったこともあるのだが、立木を切るという発想は無かった。思いついた以上、試してみたい。
平助に頼んで樵の下を訪れた。田舎育ちの龍興は山中での決まり事を樵や猟師に習ったためか、妙な遠慮があるのだ。そこで切って良い木を教えてもらい、その中でなるべく固くて太い木を選んだ。その際樵に「なるべく低い位置で切れ」と当然の要求をされてしまったので、彼は正座して切った。変な体勢で切った。それでも切れると思った。そして切り始めて気付いた。この体勢では振り抜け無いぞ、と。
中途半端に一尺ほど切ったところでにっちもさっちもいかず諦めると、平助がまじまじと見つめていた。切る気まんまんだったのにしょぼい結果が恥ずかしいばかりである。そして言われてしまった。「お前は何を考えてるんだ」と。平助は慌てて「どんな剣術を目指しているのか」と言い直したが、本音は先の言葉だろう。あまりにも格好が悪かった。
名誉挽回のために石でも切って見せようかとも思ったが、あれは大道芸だ。やはり剣術を見せるべきだろう。ならば木刀ではなく真剣を切るべきだ。だがそうなると、さすがに宗厳の了解を得ねばなるまい。というか、切っちゃっても良い刀を貰って来ないといけない。
こうして龍興は要らない太刀を無心しに宗厳の下を訪れたのである。
「但馬守殿、少々宜しいか?」
濡れ縁に腰掛けていた宗厳に後ろから声を掛けると、宗厳は慌てて立ち上がろうとしてハッと気付き、取り繕ったように静かに座り直して振り返った。
「これは松波殿、何かございましたかな?」
「平助殿に業前を披露しようと思ったのですが、何ぞ切っても良い太刀など御座らぬか?」
どこの家でもそうだが、戦の後には戦場跡に残された武装を回収することが多い。より正確には兵が回収し、商人や領主が買い取るのだ。そして領主はそれを蔵にしまい込む。いざ籠城となった時には、駆けつけた領民に持たせて戦力化するためだ。この際そういった中の数打ちの鈍らで十分である。
「はて? 太刀ならお持ちではござらぬか?」
「いや、もちろん持ってはおりますがこれは切れませぬ」
龍興の腰の物は石切兼房ではないが、モノとしては同じくらいの銘刀である。市場価格は雲泥の差だが、調達価格は同じくらいなのだ。もちろん石だって切れる。たぶん太刀も。だから一銭にもならないのに台無しにするのは勿体ないのだ。
「え? 鈍らなのですか?」
「いや、切れまするが、勿体ないでしょう?」
「勿体ない?」
宗厳は訝しそうに眉をひそめた。
「……一体何を切るのですか? 刃毀れするような物ですか?」
龍興はやれやれと溜息を吐いた。
「ですから太刀を切るのです。さっきから切っても良い太刀は無いかと言っておるではないですか。鈍らでも錆刀でも構いませぬ。あと、刃毀れさせる気も毛頭ありませぬ」
何かを太刀で切るのではなく、太刀をばっさり切ろうと言うのだ。ようやくそれに気づいて、宗厳は唖然とした。
「ぷっ、ふふふふっ」
突如笑い声が上がった。龍興が首を伸ばすと、障子の影に湯飲みを持った若い武士が座っていた。どうやら龍興が来る前に宗厳と話をしていたようだ。
「これは失礼。お話中のところを割り込んでしまったようだ」
「いえ、こちらこそ笑ってしまってすみません」
互いに頭を下げ合うと、宗厳が互いを紹介した。
「松波殿、こちらは出羽から来られた林崎殿です。林崎殿、こちらは美濃の松波殿だ」
それを聞いて龍興は首を捻った。林崎といえば平助に聞いた記憶があった。
「もしや夢想流の?」(注1)
それを聞いて林崎が顔を綻ばせた。自分が興した流派が知られていることが嬉しいのだ。
「おお、ご存知か! 某は林崎甚助と申す」
「某は松波庄八郎と申す。林崎殿のことは平助殿に聞き申した。何やら面白き剣術をお使いになるとか」
林崎は露骨にがっかりした。前に柳生の庄を訪れたことがあるのだから、平助は夢想流を知っていて当然である。
「林崎殿、その面白き剣術を松波殿に披露されてはいかがかな?」
宗厳に揶揄されたと思った勘助は一瞬不満げな顔を見せたが、宗厳の顔を見て表情を改めた。宗厳は笑っていなかった。松波が如何なる人物かは分からぬが、技を見せるに値するということなのだろう。
「……いいでしょう」
「松波殿、鈍ら刀を用意しましょう。其許も林崎殿に技をお見せしてはいかがでしょう?」
「ええ、構いません」
宗厳が家人に命じて鈍ら刀を用意している間に、勘助が技を披露することになった。
勘助は庭に降りると藁束から少し離れたところで僅かに腰を低くした。そして鯉口を切って柄に右手を添える。一瞬の静寂。
「えっ?」
龍興が瞬きした瞬間、藁束は既に切り飛ばされていた。そして呆然と見つめる中、ぽさりと藁束が落ちた。神速の抜刀、それが夢想流だった。
ーーこれは確かに面白いっ!
考えてみれば龍興は、立ち会った相手が鞘から刀を抜くところを見たことがほとんどない。戦場では相手は大抵既に抜いていた。せいぜい槍使いが戦いの中で槍を失い、やむを得ず太刀を抜いた時くらいか。その時も抜き打ちで切りかかってくるようなことは一度として無かった。もし戦場で甚助に出会ったら、手も無く殺されていたかもしれない。
龍興は威儀を正すと勘助に頭を下げた。
「林崎殿、御見逸れ致した。それと謝罪致す。松波というのは偽りの……と申すか、曽祖父の名乗っていた姓でして。本当の名は斎藤右兵衛大夫龍興と申す」
「はあ、斎藤殿ですか」
出羽の生まれだけあって勘助は龍興の名を聞いてもピンときていないようだった。宗厳がそっと注釈を入れた。
「美濃の国の守護様です」
「「えっ!?」」
驚きの声の一つは龍興の背後から上がった。平助だった。甚助の妙技に見入っている間にやって来たのか、龍興は全く気付いていなかった。
だが宗厳は当然のように気付いていて、家人が持ってきた黒鞘の太刀を差し出した。
「ちょうど良いところに来たな、平助。その太刀を持って右兵衛大夫様と立ち会いなさい」
突然のことに平助は目を剥いた。
「し、真剣ではありませぬかっ?」
平助が尻込みするのも当然である。彼は初陣前どころか元服もしていないのだから、当然ながら真剣で切りあったことなど無いのだ。龍興は安心させるように声をかけた。
「安心して良い。これまで通りこちらからは打ち込まない」
「しかしっ!」
平助は自分の身を案じただけではない。うっかり龍興を切ってしまわないかと心配なのだ。なにしろ今しがた一国の守護だと知ったばかりなのである。
「どうせ鈍らだ、死にはせん。そうだな……もし俺に傷を付けたら1000貫で召し抱えてやろう」
「…………!」
平助は息を呑んだ。彼は柳生の嫡男だ。順当に行けば父の跡を継ぐことになる。しかし柳生の領地は小さく、農地は更に狭い。特に米は豊作でも5000石に届かない。だから兵も少なく、父の宗厳は少年時代を筒井の人質として過ごした。もっとも宗厳は筒井の下で数々の流派の剣を学びながら、三好が進出して来るや否や筒井を裏切って松永の傘下に加わった訳だが。筒井はいい面の皮である。
そして今でこそ松永が優勢だが、まだ安泰と言い切れるほどではない。興福寺や東大寺という大刹がどちらにつくかで情勢は変わるし、それは朝廷や幕府の意向によるところも大きい。何かの拍子に情勢が一転する恐れは常に有った。そしてその時、筒井は柳生に容赦をしないだろう。
だから、大和の外に――それも筒井どころか三好すら影響力を持たない遠国に――領地を持つことは、柳生一族にとって大きな意味を持っていた。
一方で龍興は1000貫も払うつもりはなかった。というか、確実に勝てると思っていた。ここ数日の鍛錬で平助の太刀筋を見切ったという自信があったし、同時に平助を「万が一にも殺しちゃったら仕官の話も消えるから、致命的な部分への攻撃は避けよう」と誘導する意味もあった。せこいと言う勿れ、これもまた軍略である。それでも実現するのが大変な「一万石(の領地を)やる」ではなく、刀剣売買でなんとか捻出できそうな「銭1000貫(の禄)で召し抱える」と言ったのは誠意と言えるかもしれない。
二人は向かい合うと互いに剣を抜き、正眼(中段)に構えた。龍興は防御のため、平助は迷いのためだ。どこにどう攻撃するか、平助は迷った。しかしそれは責められない。龍興が反撃しないと宣言しているのだから、平助は迷っても良いのだ。更には一手で決める必要も無い。少なくとも平助はそう考えていた。
イィィィィィィ……!
「くっ……!」
先ほどと同じ唐突な耳鳴りと頭痛だった。しかしいくら龍興からの攻撃が無いからといって、立会の最中に蹲ることも出来ない。だから平助は決断を先送りし、ただ龍興の反応を見るためだけに牽制の小手打ちを放った。
ーー来たっ!
龍興は自らの太刀で、平助の太刀の腹を優しく撫でた。清須での参の太刀は刃こぼれしてしまった。だから今回は叩きつけたりせず、それでいて引きは素早く、鋭く。
キンッ
その様は傍から見れば、僅かに弾いて剣先を逸らしたかのようだった。だがその一合で決着はついていた。
「……某の負けです」
平助は呆然と呟いた。大した衝撃も感じないまま刀身が半分になっていた。いくら鈍らと言っても、人を殺せる強さは持っている。それが綺麗に折れていた。いや、切れていたのだ。傍らで見守っていた甚助も呆然としていた。目の前で「太刀を切る」と聞いていても、こんなに簡単に切り飛ばせるとは思ってもみなかったのである。
ただ宗厳だけは膝を打って喜んだ。彼だけは堺での奉納の噂と室町第での石灯籠の件を聞いていたので、「太刀を切る」と聞いて「え? ひょっとして清洲同盟の参の太刀って本当だったのか?」と期待していたのである。
だが静かに納刀した龍興はがっくりと肩を落とした。
「いや、俺の負けだ」
「……え?」
龍興は稽古着の右袖をつまんだ。そこはざっくりと切り裂かれ、僅かに血が滲んでいた。
「不覚……! 切っ先が飛んでいく先を考えていなかったっ!」
「「「…………」」」
木刀の稽古では実際に相手の木刀を切るわけではないから、そこまで想定出来なかったのである。龍興は一人だけ別の次元で戦い、勝手に敗北してしまったのだった。
「ぷっ、あははははっ!」
「くくくくっ……!」
勘助と宗厳は笑いだし、龍興は憮然とし、平助はまだ呆然としていた。
「……約束は守る。1000貫で召し抱えよう。ただし、元服してからだ。それと相応の家臣を連れて来られよ。あるいは門弟や剣客たちに声をかけて家臣にするのも宜しかろう」
もともと龍興は、剣術の達人を美濃に呼びたいと考えていたのだ。現時点での平助では全然足りないが、柳生の嫡男が分家(?)を作るなら相応の家臣・門弟が付いてくることになるだろう。ならばそれで満足するしかない。ついでに、松永弾正の側近である宗厳との伝手を作っておくことは、将来の謀反に備えて重要な意味を持つ……かもしれない。
「おお、では平助殿、その折には某も家臣にお加え下され」
「林崎殿っ!?」
甚助が茶化すと平助が目に見えて狼狽えた。それが可笑しくて宗厳と龍興は笑ってしまった。
「しかし、ここに右兵衛大夫様と林崎殿が揃うとは運命的なものを感じますな」
「はて?」
妙なことを言い出した宗厳に甚助と龍興は首を傾げた。
「片や相手に何もさせないままに斬り伏せる神速の抜刀術。片や相手の攻撃を待ち、その刃をそっと切り落とす鋼断ちの妙技。どちらも二の太刀要らず。だがとても対照的です」
なるほど、と龍興は頷いた。夢想流は受太刀を許さぬ速さこそが真髄。逆に龍興のそれは打ち合ってこそ。互いに天敵であり、一刀で決着が付くのも同じだ。
「して、右兵衛大夫様。流派の名は何と仰るのですかな?」
「流派?」
「斯の如き剣術は既存のどのような流派にもありませぬ。ならば新たな流派として名付けるのが常道かと」
「ふむ……」
流派と言われても、龍興自身がどうやってるのか分からないのである。弟子も取れない以上、この先もずっと龍興一人の流派であろう。だから流派名など考えたことも無かった。
「名が無くばそのうち勝手に斎藤流とか美濃流とか呼ばれるようになりますぞ?」
「むう……」
それはつまらない。もっと気の利いた、名前を聞けば「なるほど」と思うような名前が望ましい。
「むむむむ……」
ーー鋼断ち……斬鉄流? いやいや、直截に過ぎる。もっと回りくどく、しかし他に無い特徴を示すような……
ふと龍興は、他の門弟、剣客達の稽古を思い出した。素振りや型稽古をしていた者はともかくとして、地稽古では妙に鍔迫り合いが多かった気がする。
多いと言っても比較対象は夢の中での戦だから、相手の刀をわざと甲冑や兜で受けるという技もある。というか避けきれなかったけどたまたま固いところに当たって助かった、ということはよくある。龍興も夢の中で経験があった。その点稽古では、獲物が木刀である代わりに防具が無い。まともに受ければ痛いし骨を折る可能性も高いのだ。実戦よりも刀で受けようとするのは当然であろう。そしてその延長で鍔迫り合いが増えるのだ。
――その点俺の剣は、鍔迫り合いになった時点で勝っている
真剣なら相手の刃を断っている。だから鍔迫り合いが無い。いやそもそも、鍔そのものも要らない。
「決め申した。某の流派の名は……」
後に柳生宗厳は龍興の剣術についてこう記している。
「打ち合えば忽ち相手の刃を切り落とす。故に鍔要らず。是則、無鍔流也」
注1 林崎 夢想流
この当時、林崎勘助なる人物が興した夢想流という剣術があります。なんだか厨二ちっくな流派名ですが、それもそのはず。なんと、あの居合術の、元祖で本家で真打ちな人なのです。
父親が坂一雲斎(坂上主膳)とかいうおっさんに闇討ちされてしまい、その仇討ちのために修行して編み出したのが夢想流の抜刀術です。世の剣客は戦で武功を挙げて出世することを目標にしていたので、剣なり槍なりを構えて臨戦態勢の相手と戦うことが前提でした。しかし勘助は闇討ちされた父親の仇討ちなので、闇討ち上等、騙し討ち上等なわけです。通行人のふりをして通りがかりにバッサリでOK。傍目にはほとんど辻斬りですけどね。
実際にはどういう形で殺したのか分かりませんが、とにかく数年で本懐を遂げます。この時19歳。成人ではありますが、まだまだ若い。そこで武者修行の旅に出ます。……べ、べつに坂一雲斎の遺族や仲間達の報復が怖かったんじゃないんだからねっ!
この修行の旅の途中で弟子を取って技を伝え、その弟子や孫弟子が居合術の新たな流派を興します。
また旅の途中で鹿島に立ち寄り、塚原卜伝に一之太刀を授けられたとも。……どう考えても居合術とは別な気がしますが。
まあ、抜刀技を避けられちゃった時に「今のはただ抜刀しただけだから! 次のが初太刀、一之太刀だから!」と言い訳できるかもしれません。




