柳生
すごーくお待たせしました
柳生の庄は南都から北東5里(約20Km)ほどの山の中にある。小さな盆地に小さな田畑があり、小さな村がある。しかし人は意外に多い。柳生家当主宗厳の剣名を慕って大和各地から剣の修業に訪れる者も多く、また諸国漫遊の剣客がふらりと立ち寄ることもある。そのおかげで山中の田舎でありながらも全国の情報が集まりやすく、その情報を目的に訪れる客も多かった。
だから旅装束の武士数人がゆっくり歩いてきても誰も警戒しなかった。普通の村なら「あれは誰だ? 盗賊ではあるまいな?」と警戒するところだが、柳生の庄では血に飢えた……もとい、腕を試したい剣客達がわんさか居るのだ。むしろ盗賊の方が遠巻きに避けて通る始末なのだ。だから無警戒のまま武士たちが村の農民たちと挨拶を交わすところまで近づいてきて、そこで初めて彼らが誰だか分かった。
「若、御当主様がお帰りになられましたぞ」
「父上が?」
柳生平助(注1)は小首を傾げた。父の宗厳は旅立つ時に「三月は帰らぬ」と言い置いていた。しかしまだ一月しか経っていない。なんぞ凶事でもあったのかと屋敷まで駆け戻ってみると、父は道場から出てきた門人たちと和やかに挨拶していた。
「父上、お帰りなさいませ」
「うむ、今帰った。皆変わりは無いか?」
「はい。しかし父上は如何したのです? 旅立たれてまだ一月しか経っておりませぬが」
「ああ、その、な、霜台様がな、御病気? に、なられたのだ」
なんだか不審な反応だが、主君が病となれば動揺しても不思議ではない。むしろさっきまで平気な顔をしてた事の方が不思議である。そこでふと、見知らぬ顔があることに気付いた。身なりの良い若者――といっても平助よりも5つほどは年上だが――であった。
「そちらは?」
「ああ、こちらの方は美濃の斎藤……」
「ごほんっ!」
若者が咳払いすると、宗厳がハッとして黙った。
「某は美濃斎藤家に仕える松波庄八郎と申す」
そう言って若者は小さく頭を下げた。なかなか礼儀正しい若者である。
実は柳生の里を訪れる剣客には両極端な者が多い。求道者然とした慇懃な者もいれば、「自分の方が強い。強い方が偉い」と思い上がった無礼者もいる。もっとも、すぐに逃げ出すか礼儀正しくなるのだが。
「私は柳生但馬守が嫡男、平助です」
平助も礼儀正しく応じた。さもなくば父の鉄拳ならぬ木剣が飛んでくるからだ。たまに鉄剣も飛んでくるから尚の事恐ろしい。
「さい……松波殿はしばらく屋敷に逗留なさる。ご案内せよ」
「はい」
平助は庄八郎を連れて屋敷と道場、さらには屋外の修行場を案内した。屋敷は小さな領地にふさわしく小ぢんまりとしたものだった。人を集める時は道場を使うので、それでも困らない。道場の方はざっと30坪(約100㎡)ほどか。その中で門弟たちが地稽古(注2)をしていたが、その人数は数えるほどだった。
「おや? 少ないな」
庄八郎は首を傾げた。先ほど宗厳に挨拶していた門弟たちはもっと多かったからだ。
「皆は外で鍛錬をしています」
「なるほど」
戦は多くが屋外で行われる。それも整地されていない場所がほとんどだ。石に蹴躓いたり、窪みに足を取られたりといったことはザラに起きる。そういった時に慌ててしまわないためにも、普段から屋外で鍛錬を積むのは当然の嗜みでもあった。
「その代わり雨の日には、大変な混み合いになります」
「……なるほど」
実際の戦は雨の日でもあるのだが、そこはそれ。その鍛錬で風邪をひくのも馬鹿らしい。誰だって雨に濡れたくないのだ。
その後主だった鍛錬場所を案内すると、その度に庄八郎は打ち合う門弟たちをじっと見ていた。
「どうにもいろいろな流派が混じっているように見えるのだが……」
「そうですね。他所で腕を磨いて来た方々はそれぞれ修められた流派が異なりますし、父上自身も富田流(中条流)、京流、新当流(鹿島新當流)を修めています。そうそう、先日お越しになられた林崎様の夢想流も面白い剣でしたよ」
庄八郎は不思議そうに小首を傾げた。
「新陰流は?」
「しんかげりゅう……? 陰流の方なら以前立ち寄られたことがありますが?」
庄八郎はなぜか愕然とした顔を見せた。
「……そ、そうか。まあ、その内に新陰流の剣士と会うこともあるだろう。あるいは創始者本人に。それも数年以内に」(注3)
「どんな流派なのですか? 強いのですか?」
食いついてきた平助に庄八郎は困ったように眉をひそめた。
「いや、それをここで知ることが出来ると思っていたのだが……。まあ、仕方ない。平助殿、地稽古(注2)に付き合って頂けるかな?」
「私で良いのですか?」
なにしろ平助は11歳に過ぎない。体躯も年相応で、並の大人以上の庄八郎とはまさしく大人と子供だ。
「思うところがあってな。様々な流派の太刀を受けてみたい」
「なるほど……そういうことなら!」
平助は木刀を構えると、庄八郎に向かって踏み込んだ。あるいは胴、あるいは突き、あるいは脛。それも父から教えられた富田流、京流、新当流の型で、変幻自在に打ち込んだ。身長が大きく違うので面打ちはさすがに辛いが、逆に脛打ちはとてもやりやすい。平助は体躯も小さければ重みも足らず、剣はとても軽かった。だが、その速度は目を見張るものだった。
しかし庄八郎は丁寧に捌いた。それも避けることなく必ず太刀で受けた。しかも常に刃筋を立てて受けた。まるで平助の木刀を切ろうとするかのように。
「松波殿、その受け方は良くない。刃先で受けては刃が欠けますよ」
「思うところがあってな。今は気にせず打ち込んでくれ」
平助は不審に思いながらも打ち込みを続けた。平助の太刀筋に慣れたのか、龍興の受太刀も次第に無駄が削ぎ落とされていった。しかし太刀に刃先を向けるのは変わらない。変わらないがその違和感も薄れてきた。しかし平助にはその先の反撃への繋ぎがないように見えた。
「松波殿、それでは攻撃に転じることが出来ませぬ。受けたなら弾いて相手の体勢を崩すか、踏み込んで打ち込まねばなりませぬ」
「それも思うところがある。今はこのまま続けてくれ」
「はあ……」
平助はどうにも納得行かないが、庄八郎に迷いの色は見られなかった。受けるだけで十分と言わんばかりだ。
この日庄八郎はひたすら受けに周り、一度たりとも攻撃をしなかった。
二日目、三日目も平助は同じように打ち込み、庄八郎は黙々と受け続けた。
四日目の朝、平助は庄八郎に乞われて村の樵の仕事場を訪れた。
「では、この印のある木は切って構わんのだな?」
「へい。ですがなるだけ低いところさ切ってくだせぇ」
「あい分かった」
一体何をするのかと平助が首を傾げていると、庄八郎は印の付いた木を幾つか見て回り、その内の一本の前に座り込んだ。正座だ。意味が分からない。ひょっとして瞑想でもするのかと思っていると、庄八郎はするりと太刀を抜いてその木に押し当てた。ますます意味が分からない。差し渡し3尺(約90cm)もあろうかという楢の木だ。斧を何百、何千と打ち込まなくては切り倒すことは不可能だろう。やはり瞑想の類かと思った時、急に耳鳴りが聞こえだした。
イィィィィィィ……!
「ぐっ!」
平助が耳を押さえて蹲っている内にその耳鳴りは聞こえなくなった。
「いったい何が……?」
初めての経験に平助が困惑していると、庄八郎がゆっくりと立ち上がった。
「あまり太い木はダメか……」
庄八郎はなぜかげっそりと憔悴した様子であった。何がしたかったのかと問おうとして、平助はぎょっと目を見張った。
「ま、松波殿。その木は?」
先ほど庄八郎が太刀を当てていた楢の木が、一尺ほど切れていたのだ。視点を切り口まで下げてみると光が見えた。表面だけではない。反対側まで切れている。
「いや、恥ずかしいところを見せてしまったな。切れるかと思ったのだが、やはり太い木は難しいようだ」
「は? いや、そういう問題では……」
なるほど細い木より太い木の方が難しいのは確かだろう。問題は太さ一尺の木だって普通は切れないということなのだが。
「やはり薪割りから始めるべきだったか……?」
「…………」
正気とは思えない発言なのだが、実際に出来そうなところを見ると本気かもしれない。
「……松波殿はいったい何を考えておられるのですか?」
「うん?」
「すみません、こう言うべきでした。松波殿はどのような剣を目指しておられるのですか?」
庄八郎は腕を組んで考える素振りを見せた。
「……ふむ、実際にやってみせるか」
庄八郎は平助を連れて柳生家の屋敷に戻った。
注 平助
後の柳生厳勝
柳生宗厳の長男で(本作の龍興と違って)ちゃんと嫡男扱いされてたんだけど、筒井との戦で大怪我をして後継ぎから外されます。きっと膝に矢を受けちゃったのでしょう。
しかし「この役立たずめ! お前など柳生の庄から追放だ!」的なイベントは発生しませんでした。むしろ後年、秀吉に隠し田がバレて柳生一族全員が柳生の庄から追放されたりするんですけどね。
まあともかく厳勝は冷遇されたわけでもないようで、息子の利厳もお爺ちゃんの宗厳に可愛がられます。……主に体育会系な意味で。竹刀でビシバシって感じで。で、無事に剣術バカに育ち、後に尾張藩の剣術指南役になります。尾張柳生ってヤツですね。
厳勝の幼名が分からなかったので、利厳の仮名だか通称だかの平助を流用しています。
注2 地稽古
地稽古というのは、柔道や空手で言うところの乱取り稽古です。つまり1:1で有効打をカウントしないエンドレスな試合形式。江戸時代ものの時代劇で道場でやってるのは大概コレ。でも江戸時代なら竹刀が広まってるからなんですよね。竹刀は上泉信綱が発案し、新陰流とともに伝播するので、この時点ではまだ柳生でも木刀を使ってます。
竹刀でやる分にはケガもしないので実戦的な地稽古はとても効率的なのですが、木刀でやると高い頻度で障害の残る怪我をします。例え完治するものでも、怪我をしてる間に戦が起こったら何のための修行なのか分かったものではありません。だからたぶん、木刀ではあんまり地稽古はしないんじゃないかなぁ。師匠が弟子に対して「自由に打ち込んでこい」とか舐めプするのは別ですが。
注4 柳生新陰流
柳生といえば新陰流という印象がありますが、それは柳生宗矩(柳生厳勝の弟)が江戸幕府の将軍家剣術指南役になって有名になったからです。その時点では新陰流なんですよ。ついでにいうと、剣術指南とは別に諜報活動の元締め的な役割もこなしていました。この剣術+隠密というあまりにもおいしそうなネタに、数々の妄そ……フィクション作品が生み出されました。そして宗矩の嫡男の十兵衛は、若い頃ニートだった(家光と喧嘩して出仕停止になってた)ので経歴に11年もの空白期間がありました。だからフィクションでは「実は裏でこんなことをしてたんやで」とばかりに地方に飛ばされて隠密働きさせられて、やばくなったら剣術で切り抜けるのです。大名の若様が、自分でスパイ活動して、最後には暴力無双。完璧です。
そんな無敵感あふれる柳生さん家ですが、実はコテンパンに負けたことがあります。それが新陰流。上野の長野氏傘下の国人上泉信綱が拓いた流派です。ただし武将としては主君が死んで武田に負けてしまいます。そこで「もうええわ」とばかりに家督を息子に譲って自分は甥っ子を連れて剣術修行の旅に出ました。鹿島に行ったらええんとちゃうかと思うところですが、京に向かいます。その途中になぜか大和に立ち寄ってしまったのです。(永禄6年 1563年)
宗厳は当然のように挑戦します。相手は信綱の甥で門弟の疋田文五郎(景兼)。しかしあっさりと三タテ。立会の最中に「その構えは悪しゅうござる」とか指導まで入る始末。プライドをバッキボキに折られた宗厳はその場で信綱に弟子入したのです。……まあ、宗厳はもともとその辺の節操は無いんですけどね。
とはいえそれまでに習得した幾つもの流派がありますから、信綱の新陰流をベースにいくらかカスタマイズしたのが柳生新陰流として後世まで伝えられるのです。