伴天連
室町第を出た龍興は、今度こそ本当に疲れていた。
「疲れた。帰って寝たい。でもダメだ。今日の内に京を発つぞ」
「ええっ!? 右兵衛大夫様、いったい何があったのですか?」
龍興は心配そうな十兵衛にどう説明したものかと悩んだ。だが悩んでいる時間も惜しい。我に返った義輝が何らかの報復を企む可能性があるのだ。最悪の場合刺客を放ってくるかもしれない。
「公方を怒らせたかもしれん。だから逃げる!」
「何をやっているのですかっ!」
いつもは礼儀正しい光秀も、非常事態を前にして遠慮が無くなったようだ。
「大丈夫だ! 数年で怒りは解ける!」
なにしろ本人が殺されるのだから確実だ。さすがに怨霊になってまで追ってくるほどには怒ってないと信じたい。
「その数年が大変なのでしょう!?」
「俺は間違って……いや、非難される謂れはないっ!」
「間違ってないと言おうとして止めましたね? それって、間違ってるって認めたようなものですよね?」
的確な指摘である。実際龍興がやっているのはほとんど詐欺だし、義輝が言ってたことも実はだいたい間違っていなかった。ただ龍興や小笠原長時に対する態度に腹が立ったというだけである。
「五月蝿い! とにかく今は急ぐのだ!」
言い争いつつも二人は足早に山崎屋に向かっていた。しかし途中の辻を曲がったところで二人はぎょっとして足を止めた。汚らしい襤褸をまとった異様な風体の男たちが立っていたのだ。
「な、なにやつ……!」
異人を初めて見た光秀が龍興をかばって前に歩み出ようとしたところで、逆に龍興が袖を引いて止めた。相手は懐かしい人物であった。
「フロイス伴天連!」(注1)
呼びかけられた男は大きな目をさらに見開いた。
「ハイ、ワタシハ、Fróis、デス。アナタ、ドナタサマ、デスカ?」
「私は斎藤右兵衛大夫。そなた達のことは堺で聞き及んだ」
嘘ではない。夢の中では信長の上洛の少し前に堺で彼らのことを聞いていた。というか何度も会っていたのである。
そして彼らの神の教えも聞いて、改宗しようか迷っている間に信長の上洛戦が始まってしまった。その後は戦に次ぐ戦で堺を離れ、それきりになってしまっていたのだ。
「ソウ、デスカ。サイトサマ、ヨロシケレバ、ワタシト、ハナシ、シマセヌカ?」
まだ誰も信徒がいない京で、フロイスたちはひたすらに疎外感を感じていた。そんなところにひょっこり現れたのが龍興である。道端でバッタリと会ったばかりなのに、とても親しげであった。身なりも良く護衛も連れているところから見て良家の子息だ。是非力添えを願いたかった。だが龍興はバッサリと断った。
「それは願ってもないこと! ……だが、今は急いで京を離れなくてはいかぬ」
「オー、ザンネン、デス」
目に見えてしょんぼりするフロイスに、龍興は笑顔を見せた。
「大丈夫、そなた方の神は、ちゃんとそなた方を見ている」
フロイスは再び大きく目を見開くと、ニコリと笑って会釈した。
「アリガト、ゴザイマス。アナタサマニモ、カミノ、ゴカゴノ、アランコトヲ」
こうして龍興はフロイスたちと別れた。会いたくない人々には会わされ、会いたい人物とは禄に話す時間も取れない。上手くいかないものである。
龍興と伴天連たちとのやりとりを聞いていた光秀は、龍興の親しげな振る舞いに戸惑いを覚えていた。彼は南蛮人を見るのは初めてだった。日の本や大陸の人間とは明らかに異なっていて、妖怪や鬼の類と言われても納得してしまいそうだ。しかし、彼と同様にはじめて南蛮人を見たはずの龍興は、平然と会話していたのだ。
「……右兵衛大夫様は、よくあのような者達と普通に話せますね?」
「……俺は兵部大輔と和歌の話で盛り上がれる十兵衛の方が凄いと思う」
心底嫌そうな顔をする龍興に笑いがこみ上げた。龍興は余裕があるから泰然自若としていられるのだ。だから南蛮人に対しても鷹揚に振る舞える。和歌だってそうだ。心に余裕が無ければ良い歌は詠めない。……龍興は余裕があっても詠めないようだけど。
ようやく山崎屋に辿り着くと、またもや客が来ていた。商売繁盛で結構なことである。
「そこで太刀を一振りすると石灯籠がずんばらりんとなってな。公方様もあっけにとられておられたわ」
「うひゃー、そりゃあ凄い」
なんだか既視感を覚える光景に、とっさに足を止めたがもう遅かった。龍興に気付いた番頭がニコリと笑って声をかけた。
「あ、殿様! おかえりなさいまし! またお侍様から殿様のお話をお聞きしておったのですよ!」
振り返った客はやはり細川藤孝だった。思わず腰の刀に手が伸びる。
「お待ちを! 我らにお怒りになるのは当然のことなれど、どうか許して頂きたい!」
土間だと言うのに片膝を着いて頭を下げる藤孝に、龍興がぎょっとして一歩下がると光秀にぶつかった。
「……許すも何もない。私は太刀を拝領し、うっかり灯籠を壊してしまったので、その償いとして拝領した太刀を手放した。それだけのことです」
嘘ではない。どうやったらうっかりで灯籠を壊せるのかは謎だが、だいたい間違いではない。
「……それで宜しいと?」
「宜しいもなにもありませぬ。ただそれだけのことです」
藤孝は何やらしばらく思案していたようだが、やがて一つため息を吐くと笑顔に戻った。
「分かりました、公方様にはそうお伝えします」
取り敢えずこれで身の危険は無くなったと見て良いだろう。龍興は内心で安堵しつつも一つ頷くだけに留めた。
「しかし私は過分な酬いを得てしまいました。何かお返ししなければ釣り合いが取れません」
これは石灯籠を直す費用として500貫の太刀を押しつけたことだろう。しかしそれを言うなら、龍興は500貫の太刀を大した理由もなく拝領しているのだ。巡り巡っているだけである。
それにもしここで藤孝に何かを貰ったとしても、傍目には義輝に貰ったように見えるだろう。そして世間は義輝と龍興の距離近づいたと見る。結果として三好は龍興たちを警戒することになる……かもしれない。面倒な話だ。
だが謝絶したら謝絶したで、「謝ってやったのに拒絶するのか!?」と義輝がまた腹を立てるかもしれない。だから義輝には何かをさせて「謝罪が受け容れられた」と満足感を与えつつ、傍目にはそれによって龍興が何も利益を得ていないという形が望ましかった。
「……では、伴天連たちに便宜を図って頂けませぬか?」
「ばてれん?」
「今京に来ておる南蛮人です。伴天連というのは南蛮の教えに従う坊主のことです」
「はぁ……」
藤孝はどうにもピンと来ていないようだ。それがどうして龍興へのお返しになるのか分からないのだろう。まあ確かに、特にお返しにならないんだけど。
「かつて鑑真和上は日の本に佛の教えを伝えようとして5回も渡航に失敗し、遂には失明されました。それでも和上は志を折らず、ついには日の本にお越しになり、ありがたい教えを広められました」(注2)
「唐招提寺ですな」
「然様」
龍興は坊主に不信感を持ってはいるが、中には尊敬すべき人物もいるということは知っている。特に玄奘や鑑真は業績が分かりやすくて良い。まあどっちも大陸の人だけど。
「伴天連たちは彼らの神の教えを伝えるべく遠く南蛮の地からやってきました。その遠さは、鑑真和上が六度に渡って試みた渡海の総計よりも遥かに遠いのです」
まあ、正確には知らないんだけど。しかし夢の中で見せられた地球儀によれば、軽く10倍はあるのではなかろうか。
「私は彼らの神の教えを知りませぬが、彼らの身なりの貧しさはその教えの中に清貧の教えがあるからだと聞き及びます。かつてこの日の本にも貧しい身なりで衆に交わり尊き悟りを拓いた聖が幾人もおられました。しかし今の仏僧は袈裟の色と僧衣の綺羅びやかさを競うばかり。それに慣れた衆生も教えの尊さを袈裟の色で測るありさまです」
龍興の偏見に満ちた批判に藤孝も深く頷いた。大した徳もない覚慶(後の足利義昭)を興福寺一乗院門跡にしてるのは、まさにその堕落の1つだと思うのだが口にはしなかった。
「重ねて言いますが、私は彼らの教えを知りません。しかし彼らの姿勢は尊敬に値すると思います。なにとぞ公方様へのおとりなしをお願いしたいと願う次第です」
「……なるほど」
龍興の批判を幕府への批判とは受け取っていない藤孝は大きく頷いた。
「分かりました、一度その伴天連に会ってみましょう」
「お願い致す」
夢の中でフロイスたちに会ったのは、永禄の変で布教の許可が撤回され堺の町に逼塞していた時のことだ。だから今のところは、放っておいても特に問題無いのだとは思う。しかしここで義輝に働きかけておけば、フロイスたちは龍興に感謝し、義輝はなんか良いことしたような気分になる……と思う。たぶん。義輝にはそれで満足してほしい。そして龍興のことは忘れてほしい。三好にしても、こんなことで龍興を危険視したりはしないだろう。
その後藤孝が店から出て行くと、龍興達も荷物をまとめて京を発った。直接の身の危険は無くなったとはいえ、義輝に懐かれたら困るということには変わりないのだ。
京の町を出てしばらくして、龍興は振り返った。
「次に京に来るのは何年後かな?」
その時は大軍を率いての上洛戦となる。京で会った人々も、あるいは敵にあるいは味方にと二分されていることだろう。今は繊細な釣り合いの元に仮初めの平和が齎されているのに過ぎない。
「願わくば、今はひとときの微睡みを」
龍興はいい加減本当に疲れ果てた重い足を引きずって歩き出した。
それから十日ほど後のこと、その日義輝が謁見したのは貧相な服装の異相の男達だった。
「クボサマニ、オカレマシテハ、オハツニ、ギョイヲ、エマス。ワタシハ、Luís Fróis、デス」
片言の言葉に幾人かの幕臣が失笑していた。汚らしい身なりに眉をしかめる者もいた。仮にも征夷大将軍たる自分が会わねばならぬ相手だとは義輝にも思えなかった。だが藤孝は是非にも会うべきだと言って連れて来たのだ。
義輝はすっと庭に目を向けた。そこには切り崩れた石灯籠がある。しばらく灯籠の残骸を見ていた義輝は、再びフロイスに視線を向けた。
「遠く南蛮の地よりよくぞ参られた。さあ、余に話を聞かせてくれ」
ルイス・フロイスの『日本史』によると、足利義輝は容貌魁偉なる偉丈夫で、とても理知的で決断力に優れた人物だったとされる。そしてキリストの教えに甚く感銘を受け、快くフロイスたちに布教の許可を与えたという。
その際彼は何の要求もせず、「見返りなら既に得ている」と発言したとも。フロイスはこれを「神が何らかの形で彼に啓示を与えたのだ」と解釈している。(注3)
注1 伴天連
バテレンとはキリスト教(カトリック)の聖職者のことです。ポルトガル語のpadre(神父)に由来します。単なるキリスト教徒は切支丹ですね。
実は最初に来たザビエルは1551年に堺経由で京に入ってますが、町は荒廃しているし将軍もいない(近江に逃亡中)しで、何もしないで帰りました。
その次は1560年のガスパル・ヴィレラで、この時は義輝の許可を貰って教会も建てています。
ルイス・フロイスがやってきたのは1565年ですが、すぐに永禄の変が起こって許可が取り消しになって追放されます。その後しばらく堺にいるのですが、その後上洛した信長に接近して再び許可を得るのです。
まあ、それは良いのですが……
そう、つまり1562年の時点ではフロイスは京にいないし、布教許可はすでに出ているのです。
ご都合主義ですって? その通りですが何か?(開き直り)
注2 鑑真和上
インドの独立運動家……ではなく、唐の僧侶です。遣唐使(と一緒に唐に渡った坊さん)に唆されて日本に向けて密出国を試みます。(言い方ぁ……)
しかし5回に渡って渡航失敗します。まあ、そのうち3回は弟子の裏切りなんですけど。しかし2回は遭難です。本人は失明します。仲間(唆した坊さん)も死にます。それでも再チャレンジ! 遣唐使船に密航(ただし副使の許可有り)して、ついに日本にたどり着いて大歓迎されます。
そして出来たお寺が唐招提寺。そのまんまの名前のお寺です。
注3 日本史
宣教師といえばフランシスコ・ザビエルに次いで有名なのがルイス・フロイスです。本人が日本語を習得していて、信長をはじめいろんな大名・武将に頻繁に挨拶に行ってるせいか異常に情報通だったりします。その報告書や書簡をまとめたのが『日本史』です。
なにしろこの当時は日本に長期滞在する外国人がほとんどいません。(正確には、九州西岸には和冦をやってる中国人なら結構いましたけど)
だからこの『日本史』は一次資料としてとても貴重です。まあ、ほとんどが他人から聞いた話だし、ゴリゴリのカソリック信者なので偏見ありまくりなのですけどね。
義輝の評価についてはもちろん創作です。永禄の変については裏の事情的なことを書いてますけどね。