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公方


 松永屋敷を出て、龍興主従はようやく京での宿としている山崎屋に戻って来た。


「やれやれ、疲れたな。今日はもう休もうか」


と言ってもまだ日は高いので寝るわけではないが、後はゆっくりと過ごしたいところだ。具体的にはこっそり『黄素妙論』を読みたい。

山崎屋の暖簾を潜ろうとしたところで、店の中から話し声が聞こえてきた。どうやら客が来ているようだ。


「おや、では500貫で売れたというのは本当の事でしたか」

「ああ、実際に買った人物から聞いた話だ。それどころか最後の一振りは700貫で売れたそうだ」

「そりゃまた凄い!」


どうやら石切兼房が評判になっているらしい。店に入ると客は身なりの良い武士だった。油屋には似つかわしくない風体である。そう言えばこの客は500貫で買った人物から聞いたと言っていた。つまり小笠原長時の知り合いである。それは三好か幕府の人間ということではなかろうか? こっそり逃げ出そうかと足を止めたところで、龍興に気付いた番頭が顔を綻ばせた。


「あっ、殿様! お帰りやす! こちらのお侍様から殿様のお噂をお聞きしていたところですよ!」


その声に客も振り向く。幸いと言って良いか、龍興も知らない顔だった。……いや、良くない。夢の中でも会っていないということは、幕府側の人間である可能性が高い。三好の方がまだマシだった。


「おお、一色右兵衛大夫様ですな。某は細川兵部大輔と申します。剣名はかねてより聞き及んでおりますぞ」


細川藤孝である。思いっきり公方の側近だった。勘弁してほしい。


「えーと、油の買入ですか?」


「はっはっは、番頭の申す通り面白い御方だ。もちろん、右兵衛大夫様をお呼びに参ったのですよ」


「……公方様ですか?」


「もちろん」


「……室町第に?」


「もちろん」


「……今から?」


「もちろん」


「……明日でいいですか?」


「もちろん、ダメです」


斯くして憐れ龍興は、室町第に招聘されるという武士として至高の名誉を受けることとなった。気分は罪人だけど。

藤孝に案内されて疲れた足を引きずる内に、龍興はふと気付いた。そういえば夢の中では光秀と藤孝は仲が良かったのではなかっただろうか?


「細川殿、確かそこもとは和歌に通じておられたのではありませんでしたか?」


「いやお恥ずかしい。公方様のお側におりますと、どうしても公家の方々との付き合いがありまして。未熟ながらも連歌の会など参加させて頂いております」


なるほど、さもありなん。龍興は絶対に公方には近づくまいと固く誓った。


「この者は明智十兵衛と申しましてな、以前は越前朝倉に仕えておりまして、連歌の会を催したりしておったのですよ」(注1)


そう言って龍興は光秀の背中を押した。


「いえ、所詮は田舎者にて……」


光秀は謙遜しようとしたが藤孝は興味を持ったらしい。多くの公家が下向したという越前一乗谷について質問し、さらには越前の名所に纏わる有名な和歌について寸評したりと盛り上がった。龍興にはついていけない世界である。最初から行きたくなかったが、ますます帰りたくなった。

そうする内についに一行は室町第に着いた。着いてしまった。藤孝の案内でサクサクと警備をくぐり抜け、あっさりと広間に辿り着いた。驚くほどに不用心な構えだ。稲葉山とは言わないが、せめて並の平城くらいの防御力は欲しいところだ。


左右に並ぶ幕臣たちに思わず頭を下げそうになったが、龍興はなんでか相伴衆ということになっていたので我慢した。龍興に頭を下げられると逆に困る人が多そうだ。


幕臣の列の上座の方にいた怖い顔の爺さんにギロリと睨まれたが、誰かと思って家紋を見ると見慣れた武田菱だった。若狭武田……ではないだろうから、おそらくは甲斐武田、つまり武田信虎だろう。国を追い出されたのに相伴衆である。そう考えると龍興の相伴衆も大した価値などないと分かろうものだ。


突如幕臣達が一斉に平伏したので龍興もそれに倣うと、静かな足音とともに誰かが広間に入ってきた。


「そなたが一色龍興か」


機嫌の悪そうな声であった。光秀に教えられた礼法にも適っていない。


「はっ、公方様にはお初にお目にかかります。一色右兵衛大夫龍興にございます」


「なぜ余のもとに顔を出さなんだ」


「はっ、お恥ずかしい話ですが、此度の上洛は祖父の不始末を近衛家にお詫びするためのものでした。もし朝廷や幕府にご挨拶に伺いますと、近衛家の方々には『ついでに謝罪に来た』と捉えられかねません。そのため此度は、敢えて幕府にも朝廷(・・)にも挨拶は見合わせる予定でした」


近衛家を立てるためだと主張しつつ、幕府だけでなく朝廷にも行ってませんよ、と言い訳をしてみた。たとえ室町公方といえども母と妻の実家である近衛家と帝のおわす朝廷だけは立てなくてはならない……はずだ。


「……何の話だ? 近衛家なら母上の実家だ。余にも知る資格があろう」


なるほど尤もである。しかし「正義が謀反を起こしかけていた」という話にしているので、近衛家にとってはある種の醜聞でもある。親戚とはいっても別家の人間に知らせるかどうかは近衛家次第だ。


「申し訳ありません。某にはそれを判断する資格がございません。どうぞ近衛家に御問い合わせ頂きたく存じます」


龍興にそう断られると、義輝は露骨に不機嫌そうな顔を見せて黙った。普通に考えれば公方の不興を買うのは得策ではないが、どうせ義輝は数年後に死ぬのだ。むしろ彼に気に入られたら三好に目をつけられそうで怖い。


「……まあ、それは分かった。だが本題は別だ」


不機嫌なまま義輝が背後に目を向けると、小姓が一振りの太刀を持ってきた。抜かずとも分かる。龍興はその拵えに見覚えがあった。堺で小笠原長時に売った――というか弓と交換した――石切兼房だった。どうやら小笠原長時はさっさと義輝に献上したらしい。彼はあの太刀を古今無双の名刀だと信じていたが、そもそも刀に対しての執着はそれほど無い。その点義輝は剣術狂いで刀剣の蒐集家でもあるから、旧領復帰のための陳情のついでに献上していったのだろう。


「おぬし、この程度の刀を500貫で売ったそうだな?」


残念ながら、石切兼房は義輝のお眼鏡には適わなかったようである。


「はっ、小笠原殿にお売り致しました」


実際には銭のやり取りはしていないのだが、ここは長時のためにも売ったことにしておきたい。


「信濃守は弓矢に長じると聞くが、刀術のたぐいは余程向かぬと見える。況してやこのような数打ちの太刀になけなしの500貫を費やすような愚か者だとはな」


「…………」


長時とは夢の中でもそれほど親しかったわけではない。気位も高いし世代も違うしで、とっつきにくいおっさんだった。しかし、国を追われた元大名という立場の近さから親近感も感じていた。それを悪しざまに罵られ、旧領復帰のためのせめてもの献上品まで馬鹿にされるのを見て、わずかに怒りが沸いてきた。


「……この太刀は要らぬと、そうおっしゃるのですな。しからばそれは某が頂いておきましょう」


「そうだな、おぬしの差料さしりょうなどその程度で十分だ」


義輝は侮蔑の意思もあらわに吐き捨て、龍興に向かって太刀を放り投げた。公方と言えどあまりに無礼な振る舞いだ。あえて龍興を怒らせようとしているのだろうか? だとしても気に食わない。龍興のことを馬鹿にするのは構わない。実際に詐欺みたいなことをしている自覚もある。だが、関の刀を馬鹿にされるのは許せなかった。こんなことが世に広まれば、もう誰も高額で買ってくれなくなるではないか!


 龍興はすっと目を細めて周囲に目を走らせた。義輝をはじめ側近の何人かは鹿島新當流の達人のはずだ。しかし恐ろしさを感じない。彼らは実際に戦場で太刀を振るった事など無いのではあるまいか? むしろ武田信虎が龍興の気配の変化に反応している節がある。だがまあジジイだし、龍興が義輝に切りかかっても障害にはならないだろう。むろん義輝も手も無く切り捨てられるままではあるまい。だが手元に脇差ししか無い以上、一太刀目は受けようとする。だが、受けると分かっているなら切るだけだ。龍興なら脇差しごと真っ二つに切ることが出来る。そうすれば龍興の剣名と石切兼房の切れ味は歴史に刻まれることになるだろう。


――だが、迷惑がかかるな


さすがに将軍殺しはまずい。三好もそれで大いに苦労することになる。それをわざわざ龍興が殺してやるのも癪だ。


――脇差しだけ切って義輝は生かしておくか?


それはそれで怒り狂った義輝が電撃的に三好と和解して美濃に攻めてくる可能性すらある。忘れてはならない。義輝はつい数年前まで細川晴元と協力関係にあった男なのだ。その無軌道振りは計り知れない。


――仕方ない、穏便に行くか


龍興はすっと庭に目を向けた。そこには手頃な石灯籠があった。手前には藤孝達幕臣が並んでいた。


「ところで兵部大輔殿、そこのお庭の燈籠はさぞや値の張るものでしょうな」


突然話を振られた藤孝は狼狽えた。


「……え? ええ、まあ、それなりにはするかと」


「ふむ、500貫で足りますかな?」


「はぁ!? いや、いくらなんでもそれほどには掛からぬかと……」


「なるほど」


龍興は一つ頷くと太刀を持ってすっと立ち上がった。一呼吸遅れて数人が龍興を警戒する。遅い。これが戦なら、龍興はまず小柄(注2)を投げていた。それで義輝が死んじゃったら石切兼房の出番が無いのでやらないけど。


龍興は僅かに呆れつつもくるりと向きを変え、縁側に向けて歩き出した。驚く幕臣の列をかき分けつつ庭に飛び降りる。そして石切兼房を抜き放つと深く集中した。大見得を切る以上、時間をかけてはならない。


ぃぃぃぃ……


深く、深く、深く。この世にはただ、己と、剣と、そしてこの石燈籠があるのみ。己は剣と一体となり、剣は石灯籠と一体となる。龍興はそっと刃先を石灯籠に当てた。



義輝と幕臣たちが見守る中、龍興の振るった刃はあっさりと石灯籠を分断した。袈裟に切られた石灯籠が音もなくズルリと滑り、地に落ちて初めてドスンと音を立てた。


誰もが死に絶えたかのような静寂の中で、龍興がカチャリと納刀してはじめて皆が息することを思い出した。誰もが唖然として口も開けない中で、龍興の声があっけらかんと響き渡った。


「いやあ、手が滑った。兵部大輔殿、申し訳ないが手持ちがない。この太刀を堺の天王寺屋に持っていけば500貫にはなりましょう。この灯籠の修繕を頼めますかな?」


呆然としていた藤孝は、はっと我に返った。


「え、ええ。って、ええっ!? いや、ですからそんなには必要ありません!」


そうは言っても、龍興としては持って帰る訳にもいかない。公方が要らないと言って突き返した事実が残ってしまうからだ。受け取ろうとしない藤孝を無視して縁台に太刀を置くと、唖然と立ち尽くす義輝に目を向けた。


「それでは公方様、某は引き上げさせて頂きます」


「あ? ああ……」


呆然と呟いたその言葉を許しと受け取ったことにして、龍興はさっさと室町第を後にした。



 龍興が去った後、義輝は石燈籠の切断面をマジマジと観察していた。まるでかんなでもかけたように真っ平らで引っかかりがない。割られたのではない。明らかに切られていた。


「これほどの技、お師匠でも出来るとは思えぬ……」


義輝の剣の師である塚原卜伝は、とかく伝説・逸話の多い人物である。しかし割り箸で飛ぶ蝿をつまんでみせたり、素手で暴漢を何十人も転がしたりはしても、石を切ったという話は聞いたことがない。おそらく兜を割ることくらいは出来るだろうが、切ることは出来ないのではないだろうか。況してや灯籠ほどの石を切ることなど出来るとは思えなかった。


先祖から継承された天下の名剣に囲まれている義輝は、刀剣の鑑識眼に優れていた。だから石切兼房が並の銘刀に過ぎぬと簡単に看破していた。それ故に小笠原長時は騙されたのだと思ったのだ。それは当然、騙された長時の評価も下げる。このような男に守護の地位は過ぎたるものだと。

そして騙した龍興の信用はもっと下がった。信じられない者を味方にしても仕方ない。だから義輝は最初から龍興を味方として見ていなかった。


しかし、龍興は出来ぬはずのことをあっさりとやってのけた。


――あれは太刀の力ではない。あの者の技だ。


剣術にも刀剣の鑑識にも通じるからこそ、義輝は正解へと辿り着いた。そして悔いた。敵にすべきでない男を敵にしてしまったことを。


「……藤孝、その太刀、余に献上せよ」


「はっ」


「その太刀にふさわしいのは、他でもなく余であったわ」


龍興が灯籠を切った今でも、義輝は石切兼房を評価しているわけではない。自分はこの程度だと自戒のためにこうというのである。


「それからな、灯籠はそのままにせよ」


「は? しかしこのままでは用を足しませぬが……」


灯明を置く部分は地に落ちて斜めになっている。このままでは油皿を置くことすら出来ないだろう。


「構わぬ。この方が良く見えようぞ」


この灯籠を見る度に今日の過ちを思い出すことができるのなら、初めて会う人物を予断を持って評価せず、じっくり見極めることができるかもしれない。

二度と同じ過ちを犯さなくて済むのなら、ただの灯籠よりも余程役に立つと言うものだった。



この日以降、室町第を訪れた者達は必ずこの石灯籠を目にして驚嘆することとなった。そしてこの灯籠の逸話と義輝が石切兼房を帯刀していることが広く知れ渡ると、堺の天王寺屋には更に多くの客が詰めかけることとなった。

注1 明智光秀の連歌会


光秀が越前にいた頃、猟官活動のために連歌会を催すことになりました。しかし先立つものが無い。そこで妻の熙子は髪を売って連歌会の資金を手に入れました。まさに内助の功! 

……というか、素直に「金がない」って教えた方が良かったのでは? 家計の逼迫を知らないままにいい加減な計画を立てる方が拙いと思いますけどね。


注2 小柄こづか


小柄というのは日本刀の鞘の部分に収納できる小さな刃物です。もちろん小柄が付いてない鞘もありますが、普通の侍が持ってる普通の刀(というか鞘)に小柄が付いてても不思議じゃないくらいにはメジャーです。少なくとも手裏剣を持ってるよりは普通。

だから時代劇なんかで、どこからともなく出てきて相手の手首に刺さる投擲武器はたぶんコレ。

私はずっと懐に小刀を忍ばせているのだと思ってましたが、鞘に小柄が付いてるのなら納得です。

もっとも、小柄は武器というよりペーパーナイフやカッター的な使い方が多かったようですが。


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― 新着の感想 ―
[一言] 斎藤さんの後世の異名は剣豪大名とか石切り大名ですかね。それにしても、ここまで派手に石でできた灯篭を真っ二つにすると剣豪の名をほしいままにしてそうですな。 信長の野望シリーズで足利義輝が特殊能…
[一言] なんて言うか「弘法筆を選ばず」だな。だから義輝が後悔してるし
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