治水
遅くなりました。
第二章の投稿を開始します。
「よく来たな、龍興」
「叔父上、お元気そうでなによりです」
永禄5年9月、龍興は信長の呼び出しを受け清洲城を訪れていた。
「叔父上、何ぞ知らせがあったとお聞きしましたが?」
「うむ、ついに関白が帰洛したそうだ」
越後上杉と関東諸将による小田原城の包囲は、すでに昨年のうちに解かれていた。そして長尾景虎改め上杉政虎は信濃川中島で武田と激突し、死闘を演じた。その間も関白近衛前久は政虎に代わる旗印として関東に残っていたのだ。しかし北条の逆襲に抗いきれず、ついに軍を解散し失意の内に京に帰ってきたのであった。
残された関東諸将はポカーンとするしかないが、龍興たちには関東の勢力図などどうでも良い。問題は関白近衛前久だ。龍興には彼に会う必要があった。それもできるだけ早い方が良い。そのことは信長にも伝えてあった。
「この期に上洛し、許しを乞うつもりです」
「まあ、滅多なことはなかろうが、十分に気をつけろ」
「はい」
これは重要な案件ではあるが、それだけなら書状で済む。本題はここからであった。
「お主が上洛する前に当面の方針を定めたい。存念を聞こう」
龍興の基本方針は「待ち」だ。六角が観音寺崩れで弱体化するのを待ち、三好が嫡男と当主本人とその兄弟の死去によって弱体化するのを待ち、将軍足利義輝が永禄の変で討たれるのを待つ。黙っていても勝手に弱体化してくれるのだから変に手出ししない方が良いのだが、それを説明できないので説得が難しい。次善はそれらの勢力と(あまり)関係のない伊勢と長島の攻略であった。
「大きな戦は奇妙丸の元服を待ってからが良いでしょう。それまでは一向宗へ対策と伊勢の攻略で留めるべきかと」
「長島か……」
「いえ、まずは三河の門徒です」
「ふむ? 確かに三河も一向門徒の多い地ではあるが、それなら長島の方が多かろう?」
「長島は良くも悪くも要害にして商いの利も多き所にて、外に攻めかかるとなると二の足を踏みましょう」
伊勢長島はもとは七島とも言い、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が合流して出来た巨大な流れの河口に出来た、いくつもの中洲の集合体である。そのため河川水運と海上水運の結節点として莫大な利益を上げていた。しかしそれは、戦となれば物の流れも止まり、経済上の機会損失が馬鹿にならないということでもある。
さらに地形上、攻めるに難く守るに易い要害の地でもある。他から攻められることを恐れて、先んじて攻撃する……という必要性が薄い。ただ閉じこもって守っていれば良いのだ。実際夢の中では織田の攻撃を何度も跳ね返し、その度に大打撃を与えていた。おそらく「織田」の姓を持つ人間を一番多く殺したのは、この長島願証寺であろう。
「だから三河か」
「はい。しかも一向門徒は松平家中にも多うございます」
「一揆となれば謀反もあるか」
実際に夢の中では酷いことになっていた。大勢の松平家家臣が一向一揆に加わったと聞く。龍興もいちいち全員を覚えている訳ではないが、その一人である本多正信とかいう男とは、正信がなぜか松永弾正の家臣となっていた時に遭遇したことがある。実に陰険な感じのおっさんであった。それ以外とは直接会った訳ではないが、一揆後に海路長島に逃れてきた者も多かったという。
「はい、然れど逆もまたあるかと」
「ふむ……家中が落ち着けば一揆も起きぬと?」
「然様。濃尾の兵がいつでも駆け付ける故、御案じあるなと文を認めましょう」
「それが松平家中から門徒に漏れれば、一揆も踏みとどまるか」
「決して勝てぬと分かりましょうからな。必至に坊主どもを説得するでしょう。もっともそれで踏みとどまるかどうかは、坊主次第でしょうが」
一向宗や法華宗は教義が単純で庶民に広く受け容れられている一方で、過激な僧侶が一人いれば簡単に扇動されてしまう。更に統制を外れて大騒ぎになることもしばしばある。天文の錯乱しかり、天文法華の乱しかり。(注1)
だから松平家臣が「勝てないから止めろ」と忠告しても、無視するなり暴走するなりして一揆が起こる可能性は否定できなかった。
「その時は一気に潰すか」
「長島への牽制ともなりましょう」
「しかし、それで長島が大人しくなったとしても、いずれは屈服させねばならんぞ」
「そうですな。武装を解いた上で共存するか、完膚なきまでに叩き潰すか……」
正直に言って龍興にも判断がつきかねた。夢の中で三度に渡った長島合戦の内、龍興自身が参加したのは最初だけだ。それでもその戦ぶりに辟易した。心底うんざりした。だって、全然統制が取れないんだもん。
命令として通じるのは「押せ」と「進め」と「殺せ」だけ。ちなみに命令を出さなくても何かの拍子に勝手に動く。龍興に出来たのは最初の場所取りと簡単な陣地構築だけで、預けられた部隊の指揮は早々に諦めた。だがその結果として普通に勝ってしまった。そしてその被害に青くなったが、それでも他のどの部隊よりもマシだったというオチがつく。味方にするのも敵にするのも遠慮したい相手であった。
「長島を敵とするなら、北伊勢はもちろん海も抑えてからにすべきです」
夢の中でも織田軍は海路を抑えることに失敗したため、二度に渡って攻略に失敗している。そしてその都度織田軍は大被害を受けていた。柴田勝家が負傷し、代わりに殿軍となった氏家卜全が死んだのもこの時だ。
つまり完全に包囲下に置くまでは手を出すべきではない。非常に手間が掛かるが、まともに戦うべき相手ではないのだ。
「半兵衛、どう考える?」
この半兵衛というのは、なぜか龍興に引っ付いてくるようになった竹中半兵衛である。以前は他人を馬鹿にするような態度が露骨で、人前に――というか龍興自身の近くにも――置けなかったのだが、今では人が変わったように謙虚な態度が出来るようになっていた。
稲葉山で行った「試し」のせいなのは明らかだが、まさかこんなことになるとは龍興も思っていなかった。夢の中の状況を再現してやれば半兵衛が十面埋伏陣を考えることは分かっていたのでちょっとからかってやろうと思って催したのだが、何故かあまりに人が集まりすぎたため、「半兵衛が大恥を掻いたら逆恨み(?)されそうだなぁ」と思って情をかけたのが間違いだった。なぜか懐かれて、「竹中家の相続権は弟に譲ってきました。お側においてください!」などと言われては突き放すこともできず、なんとか有効活用できないかといろいろと試している最中なのである。
「右兵衛大夫様のお考えは尤もと思いまするが、長島を放置して北伊勢に進むのはいささか危険ではないかと。また北伊勢は六角に通じるものも多く、場合によっては六角の援軍と対峙することになるやもしれませぬ。もしその時、長島が蜂起すれば……大変なことになるかと」
「長島を攻めるには北伊勢が必要で、北伊勢を攻める前には長島を落としておきたい、か」
難しい話である。……が、実際には観音寺崩れの後ならば六角の援軍はあり得ないので、あと数年待ってれば良いのである。しかし龍興はそれを説明できない。結局、今は待つのが一番なのであった。
「……あるいは、当面の間は領国の治世に努めるのも良いかも知れません」
龍興の苦し紛れの言葉に信長も応じた。
「街道の整備と国境の防衛、あとは港の整備あたりか」
信長らしい発想だった。彼は農業より商業を重視するところがある。というか龍興を含めほとんどの大名が農業に偏り過ぎなのだが。そして農業重視の龍興にとって、農業振興といえば治水と開墾だった。
龍興は夢の中のことを思い出した。織田の攻撃にさらされ続けて余裕の無いなかで、治水について頭を悩ましていた六人衆のことである。
「それと……治水、ですね」
治水というのはとにかく人手を必要とする。そしてその直接の利益が川沿いの村に集中するので、美濃の国中から人手を集めようとすると不公平感が凄いのだ。実際龍興が育った田舎は山に挟まれた狭い村で、上流の方だから小さな川が流れていただけで水害とは無縁だった。それを「下流の方で堤を作るから工事に来い」と言われて出かけていく村人の足取りの重いこと、重いこと。だからといって場当たり的に特定の地域の中でそこの民を使ってその地域の工事だけしようとすると、さらに面倒くさい問題が起こる。工事した区画は洪水が起きなくなっても、そこで溢れるはずの水が溢れなかったせいで、その下流が今まで以上の被害を受けるのだ。だから下流の村や領主が「工事すんな」と文句を言ってくる。面倒くさい。本当に面倒くさい。やるならやるで文句が出ないように計画的に。それが嫌なら、一気に、全部、力ずくで、無理やりに、解決すべき問題なのである。
夢の中ではそれが出来なかったが、今なら出来るのではないだろうか。信長も巻き込めば下流の尾張から文句を言われることもないだろう。
「せっかく戦が無くなるのです。木曽川、長良川、揖斐川の全域に渡って一気に工事しては如何でしょう?」
「全域だと……? 馬鹿を言うな。費えがいくらになるか想像もつかんわ」
残念ながら信長は否定的であった。やはり計画を練りに練って逐次実行するしかないのだろうか。あまりにも面倒だが、面倒な部分は全部半兵衛に丸投げすれば良いかと龍興も割り切った。
「くっ、くくくくっ……あっはっはっはっ!」
突然の笑い声に龍興がビクッと振り返ると、半兵衛が顔を伏せたまま馬鹿笑いをしていた。人を馬鹿にすることこそ無くなったものの、感情が表に出てしまうのは相変わらずなのだ。だから時々こうやって暴発することがあった。
「半兵衛とやら、何がおかしい」
半兵衛の狂態になれていない信長の声は冷たかった。龍興はヤバいと思って冷や汗を流しかけたが、考えてみれば半兵衛を無礼討ちされてもあんまり困らない気がする。半兵衛と親しい安藤守就や父親の竹中重元も、こんなことがあったと素直に伝えれば、「半兵衛ならあり得る」「切られても仕方ない」と思うだろう。……たぶん。二人には故人を偲んで、彼の最後の仕事(利害調整)の肩代わりをして貰おう。
「失礼仕りました。右兵衛大夫様の悪辣な策に感じ入った次第にて」
酷い言われようである。
「悪辣って、お前……。俺は水害に苦しむ領民のためにも、余裕のある今のうちに一気に工事してはどうかと思っただけだ。決して利害調整が面倒くさいからとかではないぞ!」
龍興の正直な気持ちである。一部正直じゃないが、分かりやすくて返って正直である。
「然様、然様。尾張と美濃の利害関係が生じぬように一気に工事するのですな」
そう言って半兵衛は笑いを収めると低い声で付け足した。
「……伊勢長島は別にして」
伊勢長島は3つの大河が合流して出来た巨大な三角州の中の中洲である。大水の際に3つの大河が溢れること無く河口まで流れ込めば……そこがどうなるかは明らかであった。(注2)
パシンっ!
信長は扇子で勢いよく膝を叩くと、今度は笑い出した。
「くっくっくっく……! 龍興、よう申した。われらは領民あっての領主よ。力を合わせて治水に励もうではないか!」
悪い笑みだった。とても領民のためを思う領主の顔ではない。龍興は今度こそ冷や汗を流した。
「いや、あの、その……うん、頑張りましょう……」
龍興は気にしないことにした。だって龍興は悪くないから。彼はそんなことまで考えてなかったから。結果として伊勢長島が大洪水に見舞われようとも、それはほら、願証寺が真面目に治水に取り組まなかったせいだから!
その後しばらくして、尾張、美濃両国において、共同で大規模な治水工事が行われる旨が発表された。そしてその工事に関わる消耗品、道具類、人夫の一部は銭を対価にして伊勢長島にも発注された。……後々になって「我らに知らせずに工事したせいで被害が出た!」と文句を言われないための布石である。彼らは信長たちの真意も知らず、快く注文を受けたという。
注1 天文の錯乱 天文法華の乱
天文の錯乱 享禄〜天文年間に起こった浄土真宗本願寺派の門徒による暴走です。
天文法華の乱 天文年間に起こった法華宗(日蓮宗)vs比叡山のガチバトルです。
どっちもアレですが、とくに天文の錯乱はホンマに酷い。
当時の畿内情勢はホンマに訳わからんのですが、ざっくり言って将軍家と細川家がそれぞれ御家争いしてました。まあ、この時代はだいたいいつもしてますが。
室町幕府 将軍:足利義晴 管領:細川高国 支持者:浦上村宗とか
これに対して、堺幕府(!)なんてものがありました。
堺幕府 将軍:足利義維 管領:細川晴元 支持者:三好元長、蓮如とか
で、堺幕府側が大勝ち(大物崩れ)して、細川高国はと捕まって処刑されます。まあ、ここまでは良い。
これで細川晴元の勝利は確定したわけですが、彼はこう考えます。「あれ? 将軍は足利義晴でも良くね?」
そして細川晴元と足利義晴の電撃的な和睦! ラブ&ピースです!
当然、足利義維や三好元長は怒ります。彼らは愛と平和の敵となりました。ここで晴元の宗教アタックが炸裂します。
蓮如と組んで一向一揆を扇動して、宿敵である法華宗の熱心な信者でもある三好元長をぬっ殺したのです。もちろんついでに法華宗の寺も焼きました。
「仏敵って言っても簡単だったな」
「俺ら最強じゃね?」
「じゃ、もう一丁行っとく?」
「いーねー!」
ってことで、以降一揆はあっちこっち浄土真宗本願寺派以外の寺を襲撃したのです。奈良まで行って興福寺を焼いたりしたんだってさ。興福寺は藤原氏の菩提寺なんだけど……
晴元「おい蓮如、やりすぎだ」
蓮如「いや、もう何言っても無理っす」
晴元「じゃあお前も敵な」
ということで宗教アタック第二シーズン。
目には目を、歯には歯を、狂信者には狂信者を!
幕府公認で法華宗門徒が一向宗に宣戦布告、山科本願寺を焼き討ちしました。めでたし、めでたし。
晴元さいてーだな……
なんかね、時代劇とか時代小説とかで信長に攻められた石山本願寺が降伏を決定するシーンで、「迫害を受けて山科本願寺を焼かれた我々には、他に行くところがなかったのだ!」的なことを言ってるのがあった気がするんですが……
「自業自得じゃボケっ!」
と、信長は言って良いと思います。
そして天文法華の乱は、法華宗と比叡山の宗教問答……? いや、単なる民事裁判の判決に不服だった比叡山が、究極の鎮護国家理論を炸裂させた事件です。
即ち、「ちから いず ぱわー」。全国に号令をかけて10万とも15万とも言われる兵を集めたのです。これが、これこそが厳しい修行の果に啓かれた悟りの境地なのです! 嘘だろ、おい……
で、問題の法華宗の門徒は京の町人に多かったので、盛大なる市街戦が行われ、京の大半が消失しました。応仁の乱より被害が大きかったんだってさ。めでたし、めでたし。
……え? この内容で天文「法華」の乱なのかって?
ほら、連続殺人事件は被害者の方が事件名になるじゃないですか。それと同じですよ、たぶん。
注2 河口の治水
このあたりの川の流れが定まったのは、江戸時代に大工事をした時だそうです。逆にいえばそれまでは自然任せに近かったのでしょう。
だからかこの辺りは輪中地帯といって、村が堤防でぐるりと囲まれていました。今でも「なんでこんな所に堤防が?」と思わせる所に残ってたりします。まあ、道路が貫通してるので治水の意味は1mmもありませんが。
ちなみにその大工事をしたのは、なんと、薩摩藩です。
……なんで?
いや、天下普請というやつですよ。名古屋城を作る時にもいろんな藩に命令して工事を請け負わせましたが、この時は薩摩藩だけ。工事地域は下流域だけですが、それでも工事は難航を極め、何十万両もの大金が融けて消えたとか。総責任者の家老は工事完了を見届けて腹を切ったそうです。なんまんだぶ。
幕末期に薩摩藩が幕府絶対潰すマンになっちゃった一因なのは確かだと思います。