帰蝶
「御方様、お会いしたいという者が参っております」
廊下から掛けられた侍女の声に、帰蝶は首を傾げた。今の彼女は尾張で最も尊い身分の女性である。何者かが彼女との接見を求めれば、まず書状にてやり取りが行われて日時の指定を受けることになる。だが予定は無いはずだだった。
「はて、誰であったかの?」
「明智光秀と名乗っておられます」
その名を聞いて帰蝶は目を剥いて驚いた。
「なんと、十兵衛殿かやっ!? 疾く、ここへ疾くお通しせよっ!」
「は、はいっ! 今直ぐにっ!」
侍女は帰蝶の勢いに驚き、慌てて身を翻した。帰蝶がこれほど声を弾ませたのは桶狭間の戦勝以来のことかもしれない。
しばらくして明智光秀が侍女に連れられてやって来た。意外なことに小ざっぱりとした狩衣に身を包み、供に若侍を一人連れていた。困窮はしていないようだ。
「姫様、お久しゅうございます」
「ほっほっほ、ほんに久しいのう。しかし、この年になって姫と呼ばれるとは思いませんでした」
「いえ、お若いままでございます。一別以来変わっておられません」
「おっほっほっほ、相変わらず十兵衛殿は口が上手い」
道三が討ち死にした長良川の戦いから既に五年、道三側に付いた兄弟や家臣たちの多くが尾張に逃れてきた一方で、同じ境遇の光秀は他国に逃れて連絡も無かった。旅の空で死んでいても不思議ではなかったのだ。それがひょっこり訪ねて来て、しかも生活に苦労している様子も無い。帰蝶がご機嫌になるのも当然のことだった。
そんな和気藹々とした空気の中、どこからかけたたましい足音が近づいてきた。
ドンっドンっドンっドンっ!
これだけ遠慮のない足音をさせられるのは、余人に遠慮しなくて良い立場の人間だけだ。そしてこの清洲城は織田信長の居城であった。
光秀はその場で深々と頭を下げると、ススっと後退った。
「お濃! 男を呼び込んだそうだな!」
あんまりな言葉だったが、帰蝶は笑って応えた。
「人聞きの悪いことを。十兵衛殿は妾の従兄弟ですよ」
信長は断りを入れることもなく部屋に押し入ると、帰蝶の隣にドスンと腰を下ろした。そして光秀を睨みつけた。
「其の方が光秀か!」
「はっ!」
「儂に仕えるか!」
「はっ! ……は?」
勢いで返事をしてしまった光秀だったが、当惑して顔を上げた。
「マムシの秘蔵っ子なのだろう? 儂に仕えよ!」
「……!」
光秀は震えた。正直、心動くところもあった。朝倉では大した仕事を回されるでもなく、微禄で飼い殺しにされていた。それをあの桶狭間の英雄織田信長が、ここまで直裁に仕えよと言ってくれるのだ。それに応えたいと思うのが漢というものであろう。
だが、彼は既に龍興に会ってしまっていた。そして信長に同盟を結ばせるための策を考えて来たのだ。この策が成るか成らぬか、それを確認しないことには一歩も動けなかった。
光秀は再び頭を下げた。
「……大変光栄なお話と存じまするが、今少し御猶予を頂きたく……」
その返事に信長はチッと舌打ちを返した。
「はっきりしない奴だな」
「はっきりはしておりまする」
再び顔を上げた光秀は、じっと信長を見据えた。
「ほう?」
信長も面白そうに見つめ返す。
「斎藤右兵衛大夫様より言伝を預かっておりまする」
龍興の名を聞いて信長の眉がピクリと動いた。
「……申せ」
「右兵衛大夫様は同盟を……美濃と尾張、及び三河。三国の同盟を望まれておりまする」
ピシャリ
信長が手にしていた扇子が床に叩きつけられた。
「同盟の事、漏れておったか」
「はっ! 右兵衛大夫様は御存知でした」
張り詰める空気にも臆せず、光秀は言葉を続けた。
「しかし松平と織田のしこりは大きい。松平元康に限れば、むしろ今川にこそ信頼があるだろう、と」
信長は不機嫌そうに口をへの字に曲げた。
「……松平との同盟、成らぬと申すか」
「いえ、時を掛ければ成るだろうと。ただし、それまでに越後上杉が小田原の囲みを解けば、成らぬだろうと」
光秀の答えに信長は興味深そうに目尻を上げた。
「ふむ、上杉は勝てぬと?」
「右兵衛大夫様は、いずれ武田が動く、と」
信長は少し考え込みながら扇子の先で床をトントンと叩いた。
「……信濃か?」
「はっ。それに加え越中の一向門徒を動かすのではないかと。本願寺の宗主(顕如)と武田徳栄軒(信玄)は相婿の間柄ですので」
「…………」
尾張の隣の伊勢長島には浄土真宗本願寺派の一大拠点願証寺がある。経済的にも繁栄するこの長島は、織田にとっては大いなる脅威でもあり、美味そうな餌でもある。常にこの願正寺の動向に気を配っていた信長は、当然武田信玄と本願寺顕如の関係も把握していた。だからこそ彼は、武田に対して礼を欠かしたことは無い。(注2)
「早急に同盟を纏めねば、松平は再び今川の傘下に戻る。更には長島が敵に回る、ということか?」
「はっ! 御賢察、恐れ入ります。加えて申しますれば、美濃と尾張が同盟すると聞けば、松平も慌てて同盟に加わるものと思われまする」
斎藤と同盟を結べば松平にとっては脅威だ。同盟にも弾みがつく。
斎藤と結ばねば松平とも同盟を結べぬかもしれず、加えて伊勢長島の一向門徒が敵に回り、斎藤を含めて三方を敵に囲まれる。同盟を結んだ方が良いのは明らかだ。……とはいえ、同盟を結べば美濃は手に入らない。そして道三以降斎藤の家は曲者揃いであった。(帰蝶を含む)
「斎藤との同盟は一度一方的に破られておる。簡単には信じられぬ」
「右兵衛大夫様もその点は案じておられます。そこで織田家の御嫡男を養子に頂き、右兵衛大夫様の従姉妹姫と娶せた上で跡継ぎにしたいと仰せです」
「何っ……!?」
事実上の乗っ取りである。後に伊勢の有力勢力三家に息子や弟を養子入りさせて乗っ取る信長だが、この時点で互角の相手から戦いも無しにこれほどの譲歩を申し出てくるとは予想外だった。
「……いや、やはり信じられぬ。帰蝶の時も嫁いで来た後に手切れとなったのだ。まして今度はこちらが嫡男を差し出すのだぞ」
「然様でございますか……」
光秀はがっくりと肩を落とした。そして悄然とした声音で声を絞り出した。
「もし……もし仮に、右兵衛大夫様がこの場に来て、直接申し上げれば信じて頂けましたか?」
「……そうだな。危険を押して龍興本人が来ていたら、信じてやったかもしれん」
もちろん信長にそんな気は無かった。龍興本人が来る訳が無いのだから、無意味な仮定だと思って適当に合わせたのである。「もし俺が天下を取ったら、お前には100万石やろう」くらいの、たぶん全国の大名が日常的に吐いている空手形だ。
だがその言葉を聞いた光秀は露骨に安堵の表情を見せた。
「それは宜しゅうございました。この光秀、肩の荷がおりましてございまする」
「……?」
その言葉を理解できない信長と帰蝶が首を傾げる中、意外な声が響き渡った。
「うむ、大儀であったぞ、十兵衛!」
信長と帰蝶がぎょっとして、その言葉を言い放った人物に目を向けた。光秀の背後、ずっと頭を下げ続けていた若侍が顔を上げて笑っていた。
「叔父上、叔母上、御初に御目に掛かります。斎藤右兵衛大夫龍興に御座います」
一瞬唖然とした信長と帰蝶が光秀に目を向けると、彼は深々と頭を下げて顔を伏せていた。
謀られたと悟った信長がかっとして怒声を上げる寸前、帰蝶が膝を叩いて笑い転げた。
「おほほほほほほっ! 大した肝の太さじゃ、兄上とは似ても似つかぬ!」
気勢を削がれた信長は、ふてくされつつも平静を装った。
「……で、あるか」
「私の覚悟は御理解頂けましたか?」
「……軽々しく敵地に赴くとは、大名の振る舞いではないな」
チクリと皮肉を放つ信長に対して、龍興は悪びれなかった。
「いや、まったく! 私はもともと父の後を継ぐはずではなかったのです。私に美濃の太守は荷が重い。是非とも奇妙丸殿に押し付けたいところです!」
「おほほほほほほっ!」
ますます声が高くなった帰蝶は、もはや顔を上げることも出来ずにバンバンと平手で床を叩いていた。
「失礼をしたお詫びに、いくつか手土産を用意しました」
「ほう? 手ぶらのようだが?」
「持って運べぬものです。
まずは稲葉山の二の丸曲輪です。家老と兵をお入れください」
奇妙丸と側近の住処として、独立した城か、ある程度自衛能力のある曲輪は最低限必要なところだ。二の丸ならまずは順当なところであろう。斎藤側からみても、居城の内部に織田の兵を入れるということは相当な譲歩である。
「あとは墨俣の城もお譲りします。あそこがあれば後詰めも容易いでしょう」
墨俣は揖斐川と長良川の間、織田側から見れば長良川の浅瀬を渡った先にある。ここより下流では2つの川が合流して水量が増すため、徒歩での渡河が困難になる。
もし墨俣に城があればそれを橋頭堡としていつでも長良川を渡河して西美濃に打って出ることが出来、同時に西美濃から稲葉山への増援を遮断することができる。戦略上の要地と言えるだろう。
信長にしてみれば、欲しい。くれるというなら是非欲しい。しかし問題があった。墨俣に城など無いのである。
「墨俣の……城だと? そんなものがあったか……?」
「はい。昨夜作りました」
「「…………」」
今度こそ訳が分からないとばかりに沈黙した信長と帰蝶が光秀に目を向けると、それを察した光秀が顔を伏せたまま答えた。
「先に材木を加工しておき、上流から材木を流しました。それを墨俣で受け取り、組み立てたのです。……一夜のうちに」
「……………………で、あるか」
長い沈黙の後に、信長が呻くように答えた。
「しかし、おいそれとは信じられぬ。今から人を遣って確かめさせよう」
「それには及びません。今頃は御当家の木下藤吉郎殿が受け取っておられることかと」
「猿が? なぜ奴が……?」
眉をひそめる信長に対して、龍興は忍び笑いを漏らした。
「築城を請け負った川並衆の蜂須賀小六と前野小右衛門に織田家に知り合いがいないか聞いたところ、木下殿とは縁がある(注1)とのことでして。それで騙して呼び出しました。今頃は慌てふためいてここに向かっていることでしょう」
「おほほほほほほっ!」
再び帰蝶が笑い転げると、今度ばかりは信長も頬を緩めた。
ここまで言うのなら本当に城を築いたのだろう。それに墨俣というのは2つの河川に挟まれた狭い土地だし、度々水害に襲われる難治の地でもある。斎藤にしてみれば、差し出しても惜しくはない土地ということだ。
……織田と戦わないのであれば、の話だが。
「で、あるか」
ここに至って信長は、龍興が本気で同盟を望んでいることを確信できたのだった。
注1 蜂須賀小六と木下藤吉郎
秀吉が放浪してた時、金が無くて橋で寝てたら通りかかった蜂須賀小六に頭を蹴られたそうです。そして恐れることもなく「人の頭を蹴るとは無礼じゃろーが!」と突っかかったとか。それが二人の運命的な出会いだったそうです。
……が、冷静に考えましょう。その当時に木製の橋がかかってることはほとんどありません。徒歩でも簡単に渡れる小川程度ならそうでもないでしょうが、大抵は戦で焼かれるか、焼かれる恐れがあるので架けません。
万が一橋が架かっていたとしても、街灯も無いのに高確率で人が通る橋の上で寝るってどういう事やねん。完全に当たり屋ですよ。
まさか……そこまで見抜いた上で、「こやつ、こんな商売を思い付くとは目端が利くな!」という理由で一目置いたってこと?
注2 信長の贈り物
信長は最終的に武田をボロクソに負かして滅ぼしますが、それまでは非っ常〜に慎重に振る舞っていました。
本拠地岐阜城のすぐ近く、東濃まで影響下に置いてましたからね。いきなり攻めてこられては大変です。
それで贈り物を絶やさなかったのですが、信玄は「どうせ上辺だけやろ?」と言って贈り物の入ってた漆器の箱の角を切り落します。
しかし案に相違してその切れ目には見事な漆が7層も…… 「さ、最高級品ではないかっ!」
こうして信玄は、せっかくの高価な箱を壊しちゃったことを後悔したと言います。(違う)