青龍明日美は考える。
静かな部屋、伽羅様の使う鉛筆の音だけが聞こえる。
「明日美先生、出来ました!」
伽羅様は嬉しそうに鉛筆を置く、その顔は達成感に満ちていた。
伽羅様の受験勉強を手伝い始め早2ヶ月、勉強の要領を掴んだ彼は驚く程の成長を見せている。
授業の時、私達は先生と呼ばれていた。
本当は呼び捨てでも...
「これは次に来るとき持ってくるわね」
「お願いします」
妄想を振り払い、伽羅様の書き終えた答案用紙を鞄にしまった。
採点は自宅でする、そして間違った所を分析して、次に来た時、なぜ間違ってしまったかを伽羅様に理解して貰うのだ。
「今日はここまでにしましょう」
時計は8時を回っていた、受け持ちは一回3時間と決まっている。
「明日美先生ありがとうございました!」
「はぅ!」
笑顔の伽羅様に奇声が出てしまう、これにはどうしても慣れない。
「ご、ごめんなさい」
「いいの、いいのよ」
しまった顔をする伽羅様だけど、変な声を出した私が悪いんだから。
顔が熱い、また赤くなっているのだろう。
「さて」
伽羅様は机に広げた参考書を本棚に片付け。
綺麗に整頓された部屋。
男の人の部屋に入った事が無かったので最初の授業は全く集中出来なかったけど今は大分慣れてきた。
「学部は決めましたか?」
「そうですね...」
伽羅様は棚から南陵大学のパンフレットを取り出して机に広げた。
最初は『入れたらどこの学部でも構わない』と言っていたけど、今は違う。
合格が夢じゃ無くなって来ている。
「やっぱり経済学部かな」
うんうんと頷く伽羅様。
予想はしていた、お父様も経済学部だった筈だ。
「私も経済学部なの...」
「そうでしたね」
私の独り言に返事をされる。
私は嬉しさより寂しさを禁じ得ない、だって違う大学なのだから。
「やっぱり南陵大学に?」
「ええ」
嬉しそうな笑顔、でも私は...
「先生?」
「何でもないです」
塞ぎ込んでは邪魔になる、そう思うが...
「北陵大学はどうでしょう?」
「はい?」
「な、何でもないです!」
なんて事を聞くの!
伽羅様の大きな瞳が私を映し、息が詰まる。
「僕が北陵大学を目指すには、目標が高過ぎますよ」
「伽羅様?」
伽羅様の答えは意外な物だった、てっきり南陵大学にしか興味が無いとばかり。
「お父様が南陵に行かれたのに?」
意地悪な質問に聞こえてしまうが、聞きたい気持ちが止められない。
「父さんと母さんは南陵大学ですけど、でも最近考えるんです」
「考える?」
「お父さん達は大学で運命の出逢いをしたけど、僕にそんな運命的な出逢いがあるのかなって」
『無いわ!あるもんですか!!私が運命の女なのよ!!!』
心で叫ぶ、当然言えない。
「そうですか」
高鳴る心臓の鼓動を聞かれないように胸を押さえる。
「北陵大学って、どんな大学ですか?」
「ふぇ?」
伽羅様は私を見つめる、まさか興味が?
「そうですね、大学の規模は南陵より小さいです。
でも、キャンパスが学部ごとに分かれてて、1つ1つが充実してますよ」
当たり障りの無い事しか言えない。
「それじゃ優里先生と別なんですか?」
「ええ」
法学部の優里さんは私の経済学部と別キャンパス、でも歩いて30分程の距離だから行き来は出来る。
実際、私と優里さんは伽羅様の勉強方針で何度も会ってるし。
「あの、それじゃ1度...」
「青龍さん、お迎えの車が来てますよ」
意を決し、進路の変更を話そうとしたら扉が開いた。
安奈さんが私を見て首を振る、部屋の外で聞いてたのか。
「ありがとうございました」
「またね!」
玄関で手を振って今日はお別れ、2日したらまた会えるのに寂しい。
「お父様、お待たせしました」
「うむ」
車に乗ると運転席のお父様が静かに頷く。
3ヶ月前、白龍凛様のお陰で伽羅様と出逢い、1年に亘る絶縁を止めた私達親子。
まだギクシャクは残っているが、関係は昔に戻りつつある。
毎回1時間掛け、お父様自ら迎えに来る程だし。
「か、伽羅君の勉強はどうかね?」
「どうとは?」
お父様から伽羅様の名前が出たのは初めて。
少し不快な気持ちになってしまう、やはり両親の不義が未だに赦せないのか。
「その、やはり南陵かね?」
「それが何か?私の主人に不足とでも?」
「いや、家は全く構わないが...」
『主人』自分で言った言葉にまた顔が赤くなる。
お父様から見えてないよね?
「ただ、朱雀家が」
「朱雀家、優里さんですか?」
「そうだよ」
意外な名前に聞き返してしまう。
なぜ優里さんの事が?
「朱雀家は学識者を大勢輩出している家系だ、優里さんも北陵大学だし、伽羅君が南陵...いや別に南陵大学がダメと言う訳じゃないが」
お父様は言い澱むが言わんとする事は分かる。
優里さんもそれは気にしていた、彼女自身は全く問題無いのだが、親族が絡むとなると...
「伽羅君に北陵大学は無理かね?」
「それは...」
無理と答えるのは簡単だ。
しかし私だって本当は伽羅様と一緒の大学に行きたい。
同じキャンパスを歩けたら最高じゃないか!
なんなら1年留年しても構わないくらいだ。
「...モチベーションかな」
もう一押し、何か具体的な物があれば伽羅様の進路変更も見えて来る。
「オープンキャンパスは?」
「オープンキャンパスですか?」
「そうだ、実際に北陵大学に来て雰囲気を体感して貰ったらどうだ?」
「そうですね」
確かにそれは効果的だ、私も去年北陵のオープンキャンパスに行った。
沢山のイベントや学部説明等、収穫は多かった。
なにより、行きたい気持ちが高まったのは間違いなかった。
「お父様ありがとうございます」
「あ、え?明日美?」
狼狽えるお父様。
心から感謝の言葉を言ったのは1年振り。仕方ないか。
「ほら前を向いて」
「あ、ああ」
恥ずかしいので視線を逸らす、お父様の目に光る物が見えた気がした。