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粘膜特急  作者: 佐野和哉
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4.肉の記憶

 2015年。冬。大阪、御堂筋。千日前通と御堂筋の交差点の高架下。無数の歩行者と自転車が行き交う人、人、人いきれの中に居た

 ここにいる人たちは殆どがみんな全くの他人で、お互いの顔も名前も知らないのに、みんな似たような見た目をしている。男の人は男の人っぽく。女の人は女の人らしく。幾ら着飾って身なりを整えたり派手にしたりしても、その人の属性や性別は隠せない。隠すつもりも、違和感も覚えず生きていられる人って、きっとみんなそうなんだと思う

 だからこの無数の人間の群れも、単なる他人の集まり。煩わしく邪魔くさい、そこら辺をウロウロされるだけの障害物。だけど人間同士だから壊したりちぎったりはしないだけ

 敵でも味方でもない、単なる人間の形をした肉塊が無数に存在する生活

 嗚呼。なんて幸せなんだろう


 私は生まれたころから男の子だったけど、自分と言うものに目覚めてからは女の子として過ごしてきた。そして私は私に誰かが勝手に貼りつけた物珍しさというメッキを、今度は勝手にひとしきり剥がされた後で男の子からも女の子からも敵だと思われて過ごすことになる。いつ、どこの集団に居ても結局最後はそうだった

 味方になってくれる子もいる。だけど男の子は私を触れるジェネリック女の子としか見てくれなかったし、女の子は私を仲間に入れて理解を示すことで周囲へのアピールに使ってた。私に対しての理解を私ではなく、私以外のみんなに示す。きっと私を使ったあの子自身にも自分で自分に言い聞かせていたに違いない

 私は誰にでも優しく理解のある、寂しそうで可哀想な子を見ると放っておけない性分なんです

 って。安っぽい漫画のヒロイン気取りで私のことを取り巻きの一人として集団の中に押し込んで、今度はそこに馴染めないでいる私を悪し様に糾弾し協調性の無さをあげつらう。一度、受け入れたと見做されているから馴染めないのは私の身勝手、わがままだという事にされて、何時の間にか「優しくて人気者の悲劇のヒロイン」と「自己チューなオトコオンナ」という構図の一丁上がり。お望み通りの漫画やアニメ、ドラマみたいな学校生活

 だからひとりひとり、殺していったの。心の中で


 黄ばんだ空。どす黒い血の大河。摩天楼も路面舗装も街路樹も信号機も全てが人体の組織で構築された肉色の大地に聳え立つ冷たい銀の十字架。皮膚組織の地面に突き刺され出血の痕跡が痛々しい十字架。広場に咲いた花のように乱雑に並ぶ十字架。傾いてたり、てんでバラバラに立ってたり、不ぞろいな十字架。そこに有刺鉄線で磔にされているのは、かつて自分を蔑ろにした男の子、女の子、先生、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、みんなみんな

 死んじゃえ、って思ってた


 中年男性。メタボリック症候群一歩手前ぐらいのだぶつき始めた顎や腹回りの無駄な肉がその醜悪さを際立たせる。斜視なのか正面を向いて話しても、こちらに向かって言葉が飛ばない。目線を追えば胸元か、太ももの隙間か、短いスカートの暗がりか

 太く短く毛深い、湿った指先が皮膚を這う。片側三車線の一方通行、御堂筋の皮膚の上を這い回る醜い指先。枯れかけの毛穴からしつこく湧き出る酸化した脂が、頬や小鼻の脇を掻きむしった爪の奥に詰まって異臭を放ちながら肉色の摩天楼を縫う様に

 信号機も街路樹も違法駐車の高級セダンも酔っ払った女の子をタクシー乗り場でしつこく引き留めて、如何にも話半分だよって感じでホテルに誘おうとする大学生も踏みつぶして、醜いオッサンの指が夜更けの御堂筋を這い回る。やがて汚れた爪が皮膚を抉って血が出たら、酔ってる時に寄ってる女の子しか口説けない腐れ男子大学生も違法駐車も街路樹も信号機も押し流して、瘡蓋で蓋をして溺死させる。肉にうずもれた無機質が押しつぶされた女の子の顔面や目玉、綺麗な乳房、整えたヘアーにダサいタトゥーの入った背中、ごく浅いリストカットの痕、全部ムダにしてグチャグチャに攪拌し蓋をする

 爪から媒介した悪性の微生物が傷口に噛みついてクチャクチャ喰らう。その糞と分泌物が混じり合って固まったまま毛穴を塞いで芯になる。そこに枯れた脂と酸化した老廃物が折り重なって、最悪で出来た角栓となって異臭を放つ。無数の最悪が臭う醜い中年男性の鼻先が近づいて来る

 やめて。来ないで。近づかないで。首を振るように目の前の景色が左右に激しく振れているけど、斜視の中年男はぬっと手のひらを突き出すと黙って顎の辺りをガッチリ抑えて口付けた。四六時中充血したままアサッテを向いてる目玉も瞼を閉じればフツーの顔だった

 臭い。長年吸い続けたキツイ煙草と砂糖まみれの甘ったるい珈琲で浸け込んだ舌や歯茎の隙間から漂う悪臭に慢性的な胃炎のせいで腸の奥から生臭くて酷い臭いがする

 何もかもが汚くて、何もかもが臭い男が私の弱さに付け込んで舌や歯茎の隙間まで蹂躙する。死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえ!


 死んじゃえ!!


「ポリ子ちゃん!」

「死んじゃえ……死んじゃえ……」

 僕の呼びかけも虚しく、ポリ子ちゃんは虚空を見つめたままずっとブツブツ何か言っていた。それは間違いなく、小声で「死んじゃえ」と言っていた

 2号車のドアだった粘膜肉塊を潜り抜けた途端に、僕たちは猛烈な頭痛と耳鳴りに襲われた。マイクのハウリングやラジオのチューニングを失敗したような

 キイィィィィィィィン……!

 という、骨まで響くような高音が脳の奥で渦巻く心の方を射抜くみたいな鋭い痛み。目をこじ開けて強い光を浴びせ続けられているような、頭蓋骨の中を刺す痛み

「ポリ子ちゃん……!」

「あっ」

「良かった、気が付いた?」

「あっ、あたくしは……」

「君はポリ子ちゃんだよ、可愛いよ」

 目の覚めるような濃いピンクのおかっぱ頭に透き通るような白い素肌、上は夏物のセーラー服で下は濃紺のスクール水着に黒いタイツ。膝まで覆う黒いブーツ。そして両の目玉の代わりに埋め込まれた長方形の黒いアイセンサー。紛れもない、君は僕のサイコーのヒロイン。ポリ子ちゃんさ

「良かった」

 ポリ子ちゃんが心底ホッとしたような顔をして、漸くはにかんだ笑顔を見せた。だけどその引きつった頬には何か言い知れないほど深く暗い傷跡があるような、そんな悲しい笑顔だった


 ゴオォォーッ! と轟音を立てて列車は走り続ける。肉の大地に敷き詰めた靭帯のレールと軟骨の枕木を軋ませて。釘で打ち付けた線路には血がにじんで、錆びついた釘から漏れた酸化鉄で腐りゆく皮膚を呆然と見つめる踏切係の肉塊人にくかいびと

 赤茶けた空と大地に聳え立つ銀の十字架に磔にされた斜視でスケベな中年男

 スカートの中から無数のハエが飛び出して目玉を剥かれ髪を抜かれた頭上をワンワン飛んでる赤いワンピースの女の子

 肥満児の胴体に二つの生首を縫い付けられた三つ首の男の子

 赤いワンピースの女の子は頭髪を一本いっぽん永遠に抜かれ続けている。最後の一本が抜けるまで。抜けた毛穴は溶接されて二度と髪など生えなくしてゆく

 オトコオンナ、オンナオトコ、散々罵ってあたくしの髪を引っ張りまわした挙句に有無を言わさずハサミでジャキンと切り落としてケラケラ笑った、あの女の子

 男の子三人は、みんなで放課後に共謀して襲ってきた。埃くさい床に抑え付けられて体中を弄り回された。何を叫んでも喚いても、男同士だからいいだろ! と言い張って押し通した。自分たちの下卑な欲望を性差や友情で塗りつぶした陳腐な連中。いちばん汗臭くて豚みたいな奴の体に、残り二人もくっ付けた。あとの体は培養して、肉と粘膜の地球になった。その一部として今も何処かで脈打っている

 エコロジーってこういうことでしょ?


 2号車の内装は質素なもので、飛び出した突起も垂れ流す粘液もなく、ただ肉の内壁が蠢いていた。そこを歩きながら、ポリ子ちゃんが少しだけ話してくれた。いま二人の脳裏に浮かんだ、あのグロテスクな幻覚。それも、何か強烈な復讐の意思を感じる形の拷問や虐殺が繰り返される酷い妄想に近いあれは全て彼女の記憶によるものだと……自らの正体も、何故自分が今ココに存在しているのかも、何故自分が今こんな恰好をしているのかも、全ての記憶を失った彼女の手掛かりは……あまりに悲惨で冷酷極まりないものだった

 純真無垢な子供ゆえに、真っ直ぐねじれた心は戻らない


 アギャアアアアアアアアアアアアア!

 ウギャアアアアアアアアアアアアア!

 ゴギャアアアアアアアアアアアアア!

 列車が鉄橋に差し掛かり、轟音と共に絶叫が響き渡る。河川敷には骨付き大根の畑が広がり、地中で逆立ちするように生えた二股の大根がズラっと並んでいる。あれを抜いて泥を洗い流し、じたばた生きたまま皮を剥がし玉桃の甘乳腺から分泌するエキスで煮込んで食べる。骨付き大根の名の通り足首の辺りをポキリと負って、骨を掴んで豪快にかぶり付くと玉桃の分泌液が染み込んで絶妙な苦みと甘みのハーモニーを味わうことが出来るのだ


 シャベル、錆びついたシャベルを引きずりながら小さな子供が畑に向かう。それは巨大な錆びつきのようにも見えるし、誰かの頭をカチ割った時にこびりついたままの返り血にも見える

 自分の体よりも大きなシャベルを引きずる男の子。豪雨の河川敷で、ひたすらに穴を掘る。大根も、木の根ひとつも出てこない。だけど、穴を掘り続けている

 雨だれが容赦なく幼く小さな肩を叩く

 自ら掘り続けて深みを増した穴の中に雨水がどんどん溜まって爪先を、踝を、膝から肩へと満ちてゆく絶望的な土砂降りの雨。その穴は失意、彼は溺れた。そして沈んだ。二度と浮かばない奈落の底でいつまでも穴を掘る夢を見る


 瞬きするたび誰かが悲惨な死を遂げる。まるで精神の心臓を抉るような幻覚の数々。目を閉じても頭を振っても叫んでも散ることのない質量すら持ち得る忌まわしの残像

 そこに満ちていたのは肉や粘膜や臓物ではない、もう一つの内側──記憶が蠢く精神のはらわた。消化されず排泄もされず、毒性の強い化学物質のように其処に留まり続け、記憶の内側を腐らせ溶かして枯らしてゆく麗しの残響

 

 朧げに蘇る記憶に再び蓋をしてしまいたい。過去を殺し、断ち切って生きて来たのに。折角走った道のりをまた元の場所まで引き摺り戻すような真似をしないで

 虐げられて、俯いて、いつも誰かに比べて弱くて非力な、そんなあたくししか認めてくれない。そんなのあたくしが生きる場所じゃない、そんなのあたくしの友達じゃない!

 あたくしが、あたくしになる前、ただ一人だけ愛したアナタも、未だにあたくしを縛り付けていたいのね。自分の思い通りに寝かせて、抱かせて、舐めさせて。あたくしが自由や自意識や自尊心を満たして謳歌するのが、そんなに今でも憎くらしくて!?

 アナタの思い通りにならないあたくしが、そんなに疎ましくって!? それなら、それならいっそその手を放すか、ひと思いにブチ殺しあそばせば良かったじゃない!! 

 

「ポリ子ちゃん!」

「ああ……また」

「どうもここは、僕たちの記憶を具現化する場所らしい」

「惑星ソラリスのようですわね」

「ポリ子ちゃんSF詳しいのね」

「あの、じゃあ、今のも……ご覧になられましたの?」

「ああ。今のも」

「そうですの……ごめんなさい。女の子でもないのに、こんな格好して役にも立たなくて気持ち悪い」

「ポリ子ちゃん」

「あたくし、ずっと自分を騙してたんです。自分のためにやってるんだ、って。でも本当は、みんなに可愛いねって言われたかった。自分をもっと欲しがられたかった。だから体目当てでも物珍しさでも良かった。そんなの、自分で自分を切り売りして傷跡だけが残るだけだって言ってくれる人ほど疎ましくって。甘やかしてくれる人だけが欲しかった」

「ポリ子ちゃん」

「でも、甘やかしてくれる人も、わがまま聞いてくれる人も、どんどん居なくなった。本当に理解してくれる人なんて、その中にいるわけがないのに、自分で自分を安売りして、それなりの答えが返って来たら一丁前に傷ついて。ダメですわね、浅ましいですわね、本当にあたくし気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!」

「ポリ子ちゃん!」

 僕は思わず彼女の肩を掴んでグイと寄せた。華奢で細身だけれどしっかりとした骨の手触りに、ピンクの髪から漂う甘い香り。ああ、確かに君は男の娘だ。骨や肉や素肌は男性のそれかもしれない。だけど、それが何だって言うんだ!

「気持ち悪くない。君は気持ち悪くなんかない。僕がひと言でも、そう言ったかい?」

 骨と靱帯で組まれた窓の向こう側を赤茶けた肉の大地が飛ぶように走ってゆく

「僕は君を一目見てから、ずっと君のことが可愛くてたまらないんだ。誰よりも。今まで出会った誰よりも、だ。それは君が珍しいとか、変わった恰好をしているとか、そんなことじゃない。僕は僕が心の底から可愛いと思える人についさっき出会った、それが君なんだよ!」

 一瞬、窓の外が白く眩しく光った。そしてキラキラと流れる光の粒ひとつひとつがプリズムになって、僕とポリ子ちゃんを真っ黒な影にした。しゅう、と吹いた肉の風が車内を真っすぐ吹き抜け彼女の鮮やかな髪を揺らした

「うそつき」

「噓じゃない、嘘だと思ってるのは僕の方だ。こんなに素敵な人に本当に出会えるなんてね」

「うそつき」

 二度目の嘘つき、には、最初ほどの棘や疑心暗鬼は含まれていなかった。信じてくれたのか、呆れ返ったのか。それはどちらでもいい。キラキラした光の海に浮かんだ小舟のように、僕たちは心地よい沈黙の中を漂っていた。黒く細長い彼女のアイセンサーが心なしか潤んで見える

 瑞々しい唇がそれを予見して微かに先細る。きっと彼女に瞳があれば、今頃そのやわらかな瞼を閉じているだろう

 瞳が無くても、姿形が変わっていても、本当の名前を知らなくても、性別がどっちであっても構わない。僕は僕が素敵だと思った人が好きなだけだ。瞳が無くても僕を見てくれる、姿形に正解なんてない、本当の名前に意味なんてない、性別なんか機能の差でしかない。あとは自分が、どう生きるかだ。僕と一緒に生きて欲しい。僕が一緒に生きてあげたい、僕の一生を見届けて欲しい

「ポリ子ちゃん!」

「ウノさん、うしろ!」

 甘く優しいひと時は一瞬で崩れ去り、また元の赤黒い世界で僕たちは次なる襲撃を受けた。ポリ子ちゃんの悲鳴と同時に僕は彼女を抱いて真っすぐ目の前に向かって飛び込んだ。そこにズン! と音を立てて突き刺さった肉骨突起棘前腕湾曲症候群(にっこつとっきょくぜんわんわんきょくしょうこうぐん)とでも言うべき物体

 1メートル80センチほどの背丈のある、等身大の肉塊がヒトの形をして歩いて来て僕に向かってそいつを振り下ろしたらしい。目も鼻も口もない、皮膚を剥がしたような赤くうねる筋組織が剥き出しの物体。この肉塊人にくかいびとを片づけないと、どうも先には進めないらしい

 わかりやすくて大変結構。生憎こんなところで立ち往生するわけにはいかねえんだよ!


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